2012年12月17日月曜日

神がそうなると言われることは必ずそうなる (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 2012年12月9日待降節第三主日 
日本福音ルーテル横須賀教会にて
 
サムエル記下7:8-16、
ローマの信徒への手紙16:25-27、
ルカによる福音書1:26-38
 
説教題 「神がそうなると言われることは必ずそうなる」
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
1.

今年の待降節ももう第三主日を迎えるに至りました。待降節の期間、私たちの心は、2千年以上の昔にパレスチナの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた神に感謝と賛美の心を持って、降臨した主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。
 
 待降節は、ややもすると、過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、私たちキリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。先週、日吉教会の説教でも強調したことですが、待降節が未来に結びつく意味があるというのは、イエス様が、御自分で約束されたように再び降臨する、再臨するからであります。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、主の第一回目の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待つ心を活性化させるよい期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、「今年もこれで終わり、めでたし、めでたし」ですますのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を強めて、身も心もそれに備えるようにしていかなければなりません。主の再臨の日とは、またこの世の終わりの日、今の天と地が新しい天と地にとってかわられる日、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもありますが、その日がいつであるかについて、イエス様は、父なる神以外は誰も知ることができない、と言いました。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、と教えました。主の再臨を待ち望む心を強め、身も心もそれに備えるようにする、というのが、この「目を覚ましている」ということであります。
 
それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのか?「待ち望む」と言うと、何か座して待っているような受け身のイメージがわきますが、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命は造り主の神から与えられたものとの自覚に立っています。それで、各自、自分が置かれた立場、境遇、直面する課題というものも、実は、取り組むために神が与えたものという認識があります。神由来ならばこそ、キリスト信仰者は、世話したり守るべきものは忠実に誠実にそうし、改善が必要なものはそうし、また解決が必要な問題はしっかり解決にあたる。そうした世話、改善、解決をする際に、いつも判断の基準にあるのが、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているか、また隣人を自分を愛するが如く愛しながらそうしているか、ということであります。このようにキリスト信仰者は、現実世界としっかり向き合いながら、心の中では主の再臨を待ち望むのであります。ただ座して待っている受け身な存在ではありません。
 
さて、主を待ち望む者が心得ておくべきことがあります。先週の福音書の箇所は、洗礼者ヨハネが宣べ伝えた「神のもとに立ち返るための洗礼」について述べていました。その箇所が私たちに教えていることは、キリスト信仰者といえども、自分には神への不従順と罪が宿っていることから目をそらさず、人生の歩みの中でたえず神のもとに立ち返る生き方をしなさい、ということでした。たえず神のもとに立ち返るとは、洗礼を受けた時の自分に何度も戻り、そこから何度も再出発することであります。本日の箇所は、天使ガブリエルがマリアに救い主の母となることを告げる出来事ですが、この箇所が教えていることは、神がそうなると言われたことは必ずそうなる、それを信じなさい、ということです。たとえ、自分の思いや考えと合わなかったり、あまりにもかけ離れていてまともに受け入れられないものでも、神がそう言われる以上は、そうなるのだ、だから、それを受け入れて優先させなさい、ということです。人間にとって、たとえ神のためとは言え、自分の意思を脇に置きやるというのは抵抗があるものです。ましてや、そうすることでいらぬ困難や試練を招いてしまってはなおさらです。しかし、神は、まさにそのような者と共に一緒におられるのです。そうしたことを本日の福音書の箇所をもとにみていきましょう。
 
 
2.

神から遣わされた天使ガブリエルがマリアのもとにやってきて、神が計画していることを告げます。ガブリエルという名の天使は、旧約聖書のダニエル書にも登場し(8章と9章)、神に敵対する者が跋扈する時代の到来とその終焉についてダニエルに告げます。ガブリエルはまた、マリアのもとに来る6か月前にエルサレムの神殿の祭司であるザカリアにも現れ、高齢の妻エリザベトが男の子を産むと告げます。この子が将来の洗礼者ヨハネです。 
 
ガブリエルがマリアに告げたことは、マリアがまだ婚約者のヨセフと正式に結婚する前に、神の霊の働きで男の子を身ごもる、ということでした。さらに、その子は神の子であり、神はその子にダビデの王座を与え、その国は永遠に続く、ということも告げられました。そして、その子の名前は、「主が救って下さる」ということを意味するイエスと名づけよ、と命じました。
 
ダビデの家系の王が君臨する王国が永遠に続くという思想は、本日の旧約の日課であるサムエル記下7章のところで、預言者ナタンがダビデ王に伝えた神の言葉の中に見られます。歴史上は、ダビデ家系の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時に潰えてしまいます。捕囚が終わってイスラエルの民がユダの地に帰還した後は、もうダビデ家系の王国は実現しませんでした。そのため、ユダヤ人の間では、いつかダビデの家系に属する者が王となって国を再興するという期待がいつも残っていたのであります。しかしながら、神が計画した永遠に続く王国とは、地上に建国される国家ではなく、天の御国でありました。今の世が終わりを告げて、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる時に、唯一揺るぎないものとして立ち現われる神の国です(ヘブライ122628節)。私たちキリスト信仰者が主の祈りを祈る時に、「御国を来たらせたまえ」と唱える、あの永遠の御国のことであります。そこで王として君臨するのはイエス・キリスト、死からの復活の後に天に上げられて、今は父なる神の右に座して、この世の終わりの日に再臨する主なのであります。イエス様は、人間としてみてどこの家系に属するかをみれば、ダビデの子孫であるヨセフを育ての父親として持ちましたので、ダビデの末裔ということができます。しかし、イエス様の本当の父親は、被造物に属する人間ではありませんでした。
 
マリアが処女のまま妊娠するということが、どうして起きたのか、それは私たちの理解と想像を超えることであります。本日の福音書の箇所で、天使ガブリエルは、聖霊がマリアの上に降り、神の力が彼女を覆う、と言いますが(35節)、それでは身ごもるに至った生物学的な過程は全くわかりません。マタイ120節で天使はヨセフに、マリアの中で受胎したものは聖霊に由来する、とだけ述べます。このように聖書の記述には、処女受胎の科学的説明に資する手がかりは何もないので、それがどのようにして起きたかは理解することができません。しかし、「どのようにして起きたか」ではなくて、「なぜ起きたか」については、聖書をもとにして理解することができます。聖書の中に記される神の人間救済計画が理解のカギです。
 
創世記3章にあるように、最初の人間が造り主である神に対して不従順に陥り罪を犯したために、人間は死する存在となってしまい、神聖な神から切り離されて生きなければならなくなってしまいました。使徒パウロが、罪の報酬は死である、と述べている通りです(ローマ623節)。人間は罪と不従順がもたらす死の力の下に従属する存在となってしまいました。詩篇49篇に言われるように、人間はどんなに大金をつんでも死の力から自分を買い戻すことはできません。そこで、父なる神は、人間が再び造り主である御自分のもとに戻れるようにと計画をたてられ、それを実行しました。これが神の人間救済計画です。
 
人間が神聖な神のもとに戻れるようにするためには、なによりも人間を罪の奴隷状態と死の力から解放しなければなりません。しかし、肉をまとい肉の思うままに生きる人間には、自身に宿る罪と不従順を取り除くことは不可能です。そこで神は、御自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪と不従順からくる罰を全て負わせて死なせ、その身代わりの死に免じて人間を赦すことにしました。この神のひとり子が十字架の上で血みどろになって流した血が、私たちを罪の奴隷状態から解放する身代金となったのであります(マルコ1045節、エフェソ17節、1テモテ26節、1ペテロ11819節)。さらに、神は、一度死んだイエス様を復活させることで、死を超えた復活の命、永遠の命が存在することを示されました。人間は、この神が御子を用いて実現した赦しの救いを受け入れることで、救いに与ることができます。つまり、救われるのです。赦しの救いを受け入れることとは、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。こうして、人間は、この世の人生の段階で、復活の命、永遠の命に至る道を歩み始めることができるようになります。順境の時にも逆境の時にも常に神の御手に守られて生きるようになり、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになります。
 
それでは、なぜ、聖霊による受胎が必要だったのか?なぜ、神と同質である御子がこのようにしてまで人間として生まれてこなければならなかったのか?赦しの救いを実現するためには、誰かが犠牲にならなければなりませんでした。それを神が自ら引き受けたのでした。神の人間に対する愛が、自己犠牲の愛であると言われる所以です。しかしながら、神が犠牲を引き受けるというとき、天の御国にいたままでは、それは行えません。なぜなら、人間の罪と不従順の罰を全て受ける以上は、罰を罰として受けられなければなりません。そのためには、律法の効力の下にいる存在とならなければなりません。律法とは神の意思を表す掟です。それは、神がいかに神聖で、人間はいかにその正反対であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は、当然、律法の上にたつ存在です。しかし、それでは、罰を罰として受けられません。犠牲を引き受けることは出来ません。罰を罰として受けられるために、律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければなりません。まさに、このために神の子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのであります。そうすることで、使徒パウロが言うように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったのです(ガラテア313節)。「フィリピの信徒への手紙」268節には、次のように謳われています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。このように、私たちの救いのためにひとり子をも惜しまなかった父なる神と、その救いの計画の実現のために御自身を捧げられた御子、そして、私たちが信仰を持って生きられるよう支えて下さる聖霊は、とこしえにほめたたえられますように。
 
 
3.

天使ガブリエルから神の計画を告知されたマリアは、最初はそれを信じられませんでした。しかし、ガブリエルは、天と地に存在する真理の中で最も真理なことを述べます。「神にできないことは何一つない」(37節)。これは少々味気ない訳です。ギリシャ語原文の趣旨を活かした訳は、実は、本説教題に掲げたように、「神がそうなると言われることは(ρημα)、必ずそうなる」ということであります。(もちろん、「神にとって不可能なことは何もない」と訳すことも可能ですが、すぐ後のルカ145節との関係をみれば、説教題の訳が適当と考えます。)それに対するマリアの答えは、(これはなかなか良い訳でして)「わたしは主のはしためです。お言葉(ρημα)通り、この身に成りますように」でした(37節)。これは、神の意思を受け入れるということであります。この受け入れは、神の子の母親になれるという意味では大変名誉なことでありますが、別の面ではマリアのその後の人生に深刻な影響をもたらすものであります。というのは、ユダヤ教社会では、婚約中の女性が婚約者以外の男性の子供を身ごもるという事態は、申命記22章にある掟に鑑みて、場合によっては死罪に処せられるほどの罪でした。そのため、マリアの妊娠に気づいたヨセフは離縁を考えたのでした(マタイ119節)。しかし、ヨセフも天使から事の真相を教えられ、神の計画の実現のために言われた通りにすることに決めました。神の人間救済計画の実現のために、特別な役割を与えられるというのは、最高な栄誉である反面、人間の目からすれば、最悪な恥となることもあるという一例になったのであります。イエス様の出産後、マリアとヨセフはヘロデ大王の迫害のため、赤ちゃんイエスを連れて大王が死ぬまでエジプトに逃れなければなりませんでした。その後で、三人はナザレの町に戻りますが、そこで人々にどのような目で見られたかは知る由はありません。仮に、「この子は神の子です、天使がそう告げたんです」と弁明したところで、人々は真に受けないでしょうから、一層立場を悪くしないためにも、何も言わずにいた方が賢明、ということになったのではないでしょうか。いずれにしても、社会的に大変微妙な、辛い立場に置かれるわけです。このように、天使から「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられる」(28節)と言われて、本当に神から恵みを受けて神が一緒にいてくださることになっても、それが必ずしも、人間的におめでたいことにはならないことがあるのです。しかし、そのようなおめでたくない場合にも、神は共におられるのです。神がそうなると言われたことは、必ずそうなる、と信じて、それに従う時、人間的には辛い状況が生じても、実は、そういう状況そのものが、神が共におられることを示すのです。マリアは、それを受け入れました。この受け入れは、順境の時にも逆境の時にも常に神が共にいる、という生き方をすることを意味しました。たとえ神が共にいても逆境になるのは嫌、神が一緒にいなくても順境でいられるなら、そっちの方がいい、という生き方は選びませんでした。たとえ逆境が伴うことになっても、神が常に共にいる生き方を選びました。ここに、私たちの信仰人生にとって、学ぶべきことがあります。
 
本説教の初めに、キリスト信仰者というのは、世話したり守るべきものは忠実に誠実にそうする、改善が必要なものはそうし、解決が必要な問題はしっかり解決にあたる者である、これら全てのことをする際の判断基準として、神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかという唯一神への愛、また隣人を自分を愛するが如く愛しながらそうしているかという隣人愛の二つがある、と申し上げました。こういうキリスト信仰者の生き方は、ある場合には、利他的な隣人愛のゆえに評価されたり賞賛されたりするでしょう。しかし、いつもほめられっぱなしではないと思います。隣人愛の基礎にある、唯一神への愛のために、偏狭なやつだと遠ざけられたり、忌み嫌われたり、ひどい場合は憎悪の対象になることもあると思います。キリスト信仰者の信仰人生とは、実は、この相反する反応にたえずぶつかっていなければならないものではないかと考える者です。もちろん、これらは人間が示す反応なので、いちいち振り回される必要はないのですが、それでも、もし、耳に入ってくるのが評価や賞賛など聞き心地のよいものだけになってしまったら、その時は、唯一神への愛がどうなっているか、立ち止まって考えてみるよい機会だと思います。
 
最後に、神が常に共におられるという生き方をする者が、そのために、困難や試練に直面した時、試練をまさに神由来のものとしてしっかり受け止めることについて、ルターは次のように教えています。それを引用して、本説教の締めにしたいと思います。
 
「信仰は、試練や困難を全て軽微なものに、はては甘美なものにさえする。そのことは殉教者の生き方に見られる。信仰がなければ、たとえ全世界の安楽を手中に収めたところで、全てのことは重荷になり、苦々しい気持ちを掻き立てるだけとなる。そのことは、無数の金持ちたちの惨めな人生が示している。
 
こんなことを言う者がいる。『現在の困難な状況は、自分の愚かさや悪魔のために陥ったのではなく、神がこうなさったからだ、と誰かが納得させてくれれば、この状況を受け入れてやってもいいのだが。』そういう者に対し我々はこう答える。『なんという愚かな考えだ。信仰の欠如以外の何ものでもない。』キリスト自身がおっしゃったではないか。『父なる神の意思が働かなければ、鳩さえも空から落ちることはない。私たちの髪の毛は一本残らず数えられている』、と。
 
 もし君が、それ自体は罪と無関係な困難な状況に陥ったとしよう。もちろん、同じ困難な状況は、罪や愚かさが原因となっても陥ることはあるのだが、ここでは、罪とは無関係にそういう状況に陥ったとしよう。実は、そのような状況に陥るというのは、神の御心に適うことなのである。神にとって、罪以外のものならばなんでも御心に適うのである。君が何か困難な問題に取り組んでいるとしよう。その問題が罪と無関係ならば、君が取り組むことになったのは、神がそれをお許しになったからなのである。君は、ただ正しく考え行動することに注意して、その問題に取り組みなさい。さらに、取り組む際に、どうしても気が進まなかったり、なぜ自分がこんなことを、などと思う時、そう思うこと自体がまさに神の御心に適うことに取り組んでいることの表れなのである。まさにその時、神は、君の信仰が揺らぐかどうか、信仰にしっかり立つかどうか、それを見るために、悪魔が君を試すのを許可しているのである。神は、君が信仰にとどまって戦い、成長する機会を与えて下さっているのである。」

 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン