2012年2月13日月曜日

イエス様の二正面作戦 (吉村博明)

 
説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会(SLEY)宣教師、神学博士)

 
  
主日礼拝説教 2012年2月12日 顕現節第六主日 
日本福音ルーテル日吉教会にて

ミカ書7:14-20、
コリントの信徒への第一の手紙9:24-27、
マルコによる福音書2:1-12

説教題 イエス様の二正面作戦
 
  
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
  
 
1.      はじめに

 「二正面作戦」などと言うと、今年1月初めにアメリカのオバマ大統領が今後の米国の軍事戦略を発表したニュースを思い出します。なんでも、二つの大規模な戦争を同時に遂行できるという、従来の「二正面作戦」をやめて、今後は世界各地の紛争に機動的に対応できるようにするということだそうです。ニュース解説などでは、米国の国力の相対的低下などが背景にあるなどと言われておりました。本説教は「イエス様の二正面作戦」などと物騒な題ですが、もちろんイエス様が大規模な軍事行動に関わったという意味ではありません。本日の福音書の箇所で、イエス様は二つの大きな敵に前方と後方の両面で遭遇しながらも、瞬く間に双方とも打ち倒したという意味です。ここで言うイエス様の二つの敵とは、国際政治や国の安全保障問題を論じる者からすれば、馬鹿げたものでしょうが、一人一人の人間の心や命を論じる者からみれば、それこそ人間の安全保障にかかわる問題だと理解できるものです。世界の超大国は二正面作戦を取り下げざるを得なくなりましたが、イエス様は堂々と立ち向かい、敵を打ち倒したのであります。
  
それでは、イエス様が遭遇した二つの敵とは何でしょうか?本日の福音書の箇所を少し前後をひろげて、その中においてみるとそれが見えてきす。そういうわけで、まずはマルコ福音書に沿って出来事の流れをみていきましょう。
  
 
2.      マルコ2112節 ― イエス様の宣教の転換点

ヨルダン川で洗礼を受けたイエス様は、ユダの荒れ地で悪魔の試練に打ち勝った後で、洗礼者ヨハネがガリレアの領主ヘロデ・アンティパスに捕らわれたとの報に接し、そのガリレアに乗り込みます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、良い知らせを信ぜよ」と宣し、いよいよイエス様の宣教活動が始まりました。シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人の漁師を最初の弟子に召し出します。以上は、マルコ120節までの出来事です。本日の箇所の理解のためには、ここから後の流れをよく注意してみる必要があります。
 
マルコ121節で、イエス様はガリラヤ湖畔の都市カファルナウムに入ります。そこでは、出来事に満ちた長い一日が待っていました。イエス様は、まず会堂の安息日の集会で会衆に教えます。会衆は、その教えが律法学者とは異なった権威を持つ教えであると気づき、驚嘆します(22節)。会堂には汚れた霊にとりつかれた男がいましたが、イエス様は霊を男から追い出します。会衆は一層驚嘆し、イエス様の教えは「力を伴った新しい教え」だと口々に言います(27節)。この出来事がもとでイエス様の評判は、たちまちガリラヤ地方の全域に広まります(28節)。
 
会堂から出たイエス様は、4人の弟子たちとすぐシモンとアンドレの家に行きます。そこで、シモンの病気のしゅうとめを癒します(2931節)。ところが、日が沈むころまでには、大勢の人々が病人や悪霊にとりつかれた人を大量に連れてくるようになり、さながら家の入口にカファルナウムの全住民が押し掛けたような状態になりました。それでも、イエス様は彼らを癒され、悪霊を追い払いました(3234節)。ここで初めてイエス様の大量癒しが始まったのです。
 
 35節によると、イエス様は朝とても早い時間に家を出て、祈るために人気のない所に抜け出しました。イエス様の癒しの行いはほぼ徹夜で続けられたのでしょう。後を追ってきた4弟子がイエス様に言います。群衆があなたを探しています、と。なぜ群衆がイエス様を探しているかというと、それは明らかに癒しを受けるためであります。そのことはイエス様の次の言葉にもうかがえます。「別のところへ行こう。宣べ伝えができるように近隣の町や村に行こう。そのために私は来たのだから(38節)。」つまり、イエス様としては、教えを宣べ伝えることを主眼としているのに、人々は癒しを受けることを主眼にしている。もちろんイエス様は、一貫して癒しの活動を続けますが、彼としては、教えあっての癒しでなければならない。それなのに、どうも人々の方はなんでもいいから癒しを先に、という状況があったことが見えてきます。
 
 39節によると、イエス様はガリラヤ全域の会堂を回って、教えを宣べ伝え、悪霊の追い払いを行ったとあります。その時の出来事として、らい病患者の癒しが起きます。「宣べ伝え第一主義」のイエス様でしたが、患者のあまりにも切ない、へりくだった嘆願に心を動かされて彼を癒します(4041節)。イエス様は男に、誰にも何も言うな、黙ってモーセ律法に従って(レビ記1349節、1424節)祭司に体を見せて清めの儀式を執り行いなさい、と命じます(4344節)。イエス様が、自分が癒したと誰にも言うなと命じたのは、「宣べ伝え第一主義」の方針に立っていた彼としては、癒しを目的に群衆が押し寄せる事態を避けたかったのでしょう。[1] しかし、癒しを受けた人は、イエス様の命令を聞かず、出来事をおおっぴらに広めてしまいます。その結果、町の中にいても外に退避してもどこにいても、一層大勢の人がイエス様のもとに集まるようになってしまい、結局はカファルナウムに戻ってきてしまいます。そこで本日の福音書の箇所である2112節が始まるという次第です。
 
イエス様は、ある家に入られますが、家の中も、周りも全て人、人、人でぎっしり埋めつくされてしまう。それでも、人々を前にイエス様は教えを宣べます。集まった人たちの中には、癒しの必要がなくて教えを聞くために来た人もいたでしょうが、今までの流れからみて、大半は癒しを必要とする人たちや彼らを運んできた人たちであったことは明らかでしょう。彼らは黙って教えを聞いていますが、いつ癒しが行われるかを今か今かと待っています。ちょうどその時、4人の男が全身麻痺状態の病人を寝床ごと運んできました。しかし、大勢の人に遮られてイエス様に近づくことができない。そこで、なりふり構わず、家の屋根に穴をあけて、そこからイエス様のもとに寝床ごと吊り下ろすという挙にでたのです。イエス様は教えるのを中断されましたが、5人の男たちがイエス様なら必ず治せると信じきっていて、それを一寸も疑っていないことを目のあたりにしました。まだ十字架と復活の出来事が起きる前のことですが、イエス様は男たちの盲目的ともいえる絶大な信頼に、あるべき信仰のかたちを見出したのであります。教えを中断したイエス様は、吊り下ろされた男と向き合いました。
 
そこでイエス様の口から出た言葉は、意外にも癒しの言葉ではありませんでした。それは、「お前の罪は赦される」という罪の赦しの宣言でした。この時点では、男はまだ寝床に横たわったままです。これは一体どういうことか。今まで大勢の人を癒してきたのに、何も起きないではないか、自分たちは癒しを受けるために、ここに来たのに。まさに人々がそう反応するかしないかという時に、意外な展開が始まりました。モーセ律法を始めとするイスラエルの聖典を研究したり解説したりする任にあたる律法学者が、難癖をつけ始めたのです。罪を赦すことができるのは神以外にいないのに、この男は自分を神と同等の地位に置いた、神を侮辱するものである、と。
 
その後の展開は、本日の福音書の箇所に記されている通りです。結果的に男は癒されます。しかし、大事なことは、イエス様は、それまで会堂での悪霊追い払いや、シモンのしゅうとめやらい病患者の癒しの時のように、即座に癒しを与えなかったということです。これまで見てきたように、イエス様は教えを宣べ伝えることを第一に考えていました。ところが、評判が広まれば広まるほど、人々は癒しを受けることを第一にして集まってきました。その繰り返しが、本日の箇所で一段落します。注目すべきは、本日の箇所の前は、「イエス様は教えられた」と書かれていても、教えの内容には全く触れられていませんでした。マルコの記述の中心は、イエス様は教えかつ癒したが、人々は癒しを求めては集まり、その度にイエス様は場所を変えて教え癒し、そしてまた人々が集まってくるという繰り返しでした。それが、本日の箇所の後は、教えの内容が詳しく記されるようになるのです。本日の箇所の直後に、イエス様はなぜ罪びとと会食するのかという議論があり(21517節)、それに続いて断食の是非についての論争(1822節)、安息日の意味についての論争(23節から36節)、その後も、ベルゼブル論争、イエス様の真の家族についての教え、「種まき人」をはじめとするたとえを用いた教え、というふうにイエス様の教えの内容を前面に出すような記述が続いて行きます。
 
本日の箇所の前でイエス様の教えの内容が記されていないというのは、実際に人々が教えよりも癒しを求めたという当時の雰囲気を表していると言えます。それが、本日の箇所の後から教えの内容が詳しく記述され始めるというのは、本日の箇所の出来事をきっかけとして、人々の間でイエス様の教えそのものが注意して聞かれるようになったことを反映していると言えるでしょう。
 
そのようにしてみていくと、本日の福音書の箇所は、イエス様が単に病気を治してくれるありがたいお方という程度のスケールを超えた方であるということに人々の目を向けさせる転換点になっていると言うことができます。それでは、このマルコ福音書の最初の大きな転換点をなす本日の箇所の出来事で何が起こったのか。イエス様が二つの敵を相手にそれを打ち負かしたというのはどういうことか。そうしたことを以下にみていこうと思います。
  
 
3.      第一の敵 人間の自己中心的な信仰

 イエス様が遭遇した敵として、まず、人間の自己中心的な信仰がありました。イエス様は、これを神を中心とする信仰に置き換えようとしました。このことを以下にみていきます。
 
医療が高度に発達した現代でも、まだ難病や不治の病は多く残っています。そこで、そういう病気を抱えた人や身内の人が、病気の原因解明や癒しを超自然的な力に求めるということが現代においても見られます。科学技術でもだめなら、それしか頼れないということなのでしょう。そういう時に、宗教が利用されたり、また宗教の方がそういう人の弱みを利用するということが起きてきます。宗教が利用されたり利用したりするというのは、信仰がまだ人間の自己中心的なものにとどまっていることによると考えます。
 
 ところで、イエス様の時代のユダヤ教社会では、人間の罪が病気の原因になると考えられていました。ヨハネ9章で、弟子たちがイエス様に、生まれつき目が見えない人を指さして、あれは本人が罪を犯したから見えないのか、それとも先祖が犯したからなのか、と尋ねたことからも窺えます。こうした考え方が問題なのは、それでは今健康な人は罪がないということになってしまい、健康な人が自分を創造した神との関係を真剣に考える機会を失わせてしまいます。それから、病気の人に罪の赦しを宣言しても、病気が治らなかったら、罪の赦しは本当ではなかったということになってしまいます。本日の箇所のイエス様は、まさにそのような状況に置かれたわけです。「お前の罪は赦される」と宣されました。しかし、男はまだ横たわっています。もし律法学者が騒ぎ立てなかったならば、周りの人々が騒ぎ立て始めたでしょう。これも、信仰が人間の自己中心的なものになっていると言うことが出来ます。
 
 信仰が人間の自己中心的なものになっているというのはどういうことかと言うと、人間の側からすれば、まず病からの癒しが最初に起きなければならない、それを目で見ないとまだ本当には信じない、ということが普通です。ところが、イエス様はまったく逆の順番を考えていました。まず罪が赦されるという信仰が先になければならない。健康であろうが病気であろうが、それが先に来なければならない。罪が赦されるという信仰を持ってはじめて、病気その他の外的条件の改善を神に願うという順番です。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」とイエス様が教えられた通りです(マタイ633節)。さて、それでは神はどんな解決を与えて下さるのか。願ったものと異なるものだったらどうなるのか。それに対しては、「罪を赦して下さった神が与えて下さる解決であれば、なんでも受け入れるに値するに違いない。自分にとって一番いいものを知っているのは自分ではなく神なのだから」という神を中心とした信仰を持って生きることです。こうなると、外的な条件が自分の希望する形で改善しなくても、人生は終わったとか無意味だとか、そんな思いには至りません。罪が赦されるという信仰が、自己中心的な信仰を、神を中心とする信仰にするのであります。
 
 なぜイエス様は、罪や神への不従順の赦しを第一に考えたのでしょうか?それは、罪や不従順が人間にとっての最大の病だからであります。最大の病というのは、これらからの癒しがない限り、人間は永遠の滅びに陥ってしまう呪われた状態にとどまります。永遠の滅びとは、死んだ後、神から永遠に見捨てられる状態に陥るということです。反対に、罪と不従順が赦されるという信仰を持って生きるというのは、死んだ後に、復活の命を与えられて、万物の創造の神のもとで永遠に生きるようになるということです。
 
人間は、罪と不従順という最大の病からの癒しを自分で実現することはできません。人間は神の意志を成就することが出来ないからであります。使徒パウロも教えるように、神の律法は人間がどれだけ神の意志から離れた存在であるかを明らかにするものです(「ローマの信徒への手紙7章」)。このため、人間の罪と不従順の呪いからの癒しは、それらが赦されるという形で起こることになったのです。天と地と人間を創造された神がそう決められました。そこで神は、ひとり子イエスをこの世に送り、人間が背負わなければならない罪と不従順の帰結を全部彼に負わせて、まさに彼を呪われた者にして(ガラテア313節、第二コリント521節)、十字架の上で死なせました。そして、イエス様を死から復活させることで、私たちのために永遠の命への扉を開いて下さいました。私たち人間は、こうしたこと全てが自分のためになされたとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、神が整えた赦しを受け取ることが出来、人類最大の病から癒されるのであります。
 
イエス様が全身麻痺の男に「お前の罪は赦される」と宣言したことは、お前は全身麻痺の状態であっても人類最大の病から癒されるということを意味したのであります。それは、人間の自己中心の信仰を神中心の信仰に置き換える出来事でした。確かに、イエス様なら必ず癒して下さると一途に信じるのも、信仰ですが、それは、もし癒しが起きなければ大きな壁にぶち当たってしまうものです。しかし、外的条件の改善が自分の願った通りに実現するかしないかに関係なく、罪と不従順が赦されるという信仰は、神を中心とする信仰です。イエス様は、ここで、彼の助けを求めて集まってくる人たちの信仰を、神を中心とする信仰に転換させようとしているのです。しかし、罪の赦しの宣言を受けた男はまだ横たわったままです。目に見えた効果がありません。イエス様の言葉には力がないのか、ただの口先だけの宣言だったのか、群衆は一瞬沈黙状態になります。その時、律法学者が割り込んできました。人間の自己中心的な信仰に続いて、イエス様の神の子としての地位を否定する不信仰が立ち現われます。これが第二の敵です。
  
 
4.      第二の敵 不信仰
  
 イスラエルの聖典に照らし合わせれば、病気からの癒しの奇跡もあるし、神の意志を宣べ伝える預言者もいるので、イエス様の奇跡の業や教え自体が反イスラエルということにはなりません。律法学者にすれば、評判の奇跡の業をこの目で確かめたいでしょうし、イエス様の教えがこれまでの律法理解とどう違うのか、違うとすれば何を根拠にそう主張するのか、職務上、しっかりみなければならなかったでしょう。ところが、罪の赦しを宣言して、自分を神と同じ地位に置いたというのは、もう行き過ぎ以外の何ものでもありません。イエス様の神の子としての地位を否定する彼らの不信仰に対して、イエス様の反撃が始まります。イエス様は、律法学者に向かって尋ねます。この横たわっている男に、「お前の罪は赦される」と言うのと、「起きて、床をかついで歩いてみよ」と言うのとでは、どちらが簡単か?これは、答えるのが困難な質問であります。「罪を赦す」というのは、人類最大の病を癒すということですから、立てない者を立てるようにする癒しとは比べられない大治療です。簡単にできる治療ではありません。その意味では、こっちの方が難しいのは明らかです。しかし、罪の赦しは全身麻痺が治るというのとは勝手が違って、目に見えた形では見えてきません。ただ口先で言って済んでしまうことも可能なわけです。誰も目で確認できないのですから。その意味では、罪の赦しを言うこと自体は、簡単なことであります。問題は、罪の赦しの言葉が実体を伴ったものか、それとも空虚な言葉にすぎないのかを判別できないことにあります。立てない者に、「立て」と言うのは、言葉が実体を伴ったものか、空虚なものかすぐ判別できます。もし立てなかったら、言葉は空虚だったとわかり、まやかしだと笑い者になります。それで、常識的には、こっちの方が言うのが難しいということになります。しかし、本当に解決すべき問題としては、罪の赦しの方がはるかに難しい問題です。こうして、焦点は、言葉が実体を伴っているか、空虚なものか、それをどう判別できるかということに絞られていきます。ところが、その決め手がないので答えようがありません。そこでイエス様は、親切にもその決め手を提供するのであります。自分の発する言葉はいつも必ず実体を伴っていることを示すために、全身麻痺の男の癒しはちょうど良い機会となりました。イエス様は、まず律法学者の方を向いて「お前たちが、人の子はこの世で罪を赦す権威を持っていることをわかるように」と言って、今度は横たわる男に向かって「起きて、床をかつぎ、家にとんで帰りなさい」と命じます。そしてその通りのことが起きたのであります。
 
 このようにして、イエス様は、御自分の発する言葉は、目には効果が見えない場合でもいつも必ず実体を伴っていることを示しました。つまり、罪の赦しを行う権威を持つことを目に見える形で示されたのです。これによって、イエス様の神の子の地位を否定する不信仰は一挙に根拠を失いました。また、罪と不従順の赦しが、人間の命と生きることに根本的なことであることも明らかなりました。それで、人間の自己中心的な信仰が神を中心とする信仰に取って代わられることが始まったのであります。
  
 
5.      おわりに
  
 以上、イエス様が本日の箇所の出来事において、人間の自己中心的な信仰と彼の神の子としての地位を否定する不信仰を一挙に打ち倒したことが明らかになりました。最後に、人間の自己中心的な信仰を、神を中心とする信仰に転換するということについてのルターの教えをひとつ引用して、本説教を終わりにしたく思います。実は、似たような教えを、昨年10月、本日吉教会での説教(「神の意志 vs. 人の意志」)でも披露しました。どちらも、ルターならではのとても苦味が効いている教えです。キリスト信仰を持つ人でも、強すぎると感じられるかもしれません。ましてや、キリスト信仰に無縁な人には残酷に聞こえる内容かもしれません。しかし、それでも信仰を持つ大方の人は、ああ、キリスト信仰とはそういうものなんだな、と心の奥底で認めるのでないかと思います。
  
「神は我々に何を望んでおられるのか?それは、神が我々に苦しみや困難が起こるのを許した際に、我々が右往左往したり慌てふためくことなく、むしろそのような時こそ一層神のもとに留まり神に繋がろうとすることである。その時、安易に苦しみや困難からの脱出を望んではならない。そんなことをしたら、神の意志が我々を通して実現するのを妨げてしまい、それは我々の利益ではないからだ。我々は、そのような神の意志に最後まで付き合うことができる強さを身に着けなければならない。なぜなら、人間は誰一人として強めてもらわない限り、怖れを抱かずに苦しみや困難に立ち向かうことはできないのだし、また神が定めの時を示した時に怖れを抱かずに死に立ち向かうこともできないからだ。一切の被造物は、この「強める」ことができない。むしろ、全ての被造物とりわけ人間というものは、そこから力づけを得ようとしても、逆に我々をますます無力にし一体感を失わせ軟弱にするだけである。それ故、罪の赦しを保証する神の御言葉以外に、我々を強めるものは存在しないのである。これこそが、我々が祈り求める「日ごとの糧」である。
マタイ福音書11章で主は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われる。このような、神の御言葉を糧にして、神の意志の中に踏みとどまり、神に強めてもらうという教えは、聖書に満ちている、満ちている、満ちている。」
  
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
   
  


[1] 聖書学や新約釈義学を専門とされる方への釈明として、本説教者は、W. WredeMessiasgeheimnis説を否定する立場に立つ者です。この辺の事情については、2010年に出版された博士論文 Did Jesus Cite Isa 6:9-10? Jesus’ Saying in Mark 4:11-12 and the Isaianic Idea of Hardening and Remnant (Åbo Akademi Univ’ press 2010) 258261ページの中で論じた次第です。