説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教2021年11月14日 聖霊降臨後第25主日
スオミ教会
ダニエル書12章1-3節
ヘブライの信徒の手紙10章11-25節
マルコによる福音書13章1-8節
説教題 「最後の審判の恐れを上回る勇気を持てたら
この世もへっちゃらなのだ」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに - 最後の審判に心を向けよう!
キリスト教会のカレンダーは聖霊降臨祭の後は聖霊降臨後第何主日と言って数え、次主日21日が今年の聖霊降臨後の最後の主日になります。28日からは待降節に変わりイエス様の降誕を祝うクリスマスの準備期間となります。
毎年同じことの繰り返しですが、聖霊降臨後の季節も終わりに近づくと聖書の日課は最後の審判とか復活に関係するテーマが多くなります(考えてみたら本スオミ教会の説教は年がら年中そのテーマで話しているかもしれません)。北欧諸国のルター派教会では聖霊降臨後の最終主日は「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」とは、今のこの世が終わる時にイエス様が再び今度は栄光に包まれて天使の軍勢を従えて再臨する時に起こることです。私たちが礼拝の中で唱える使徒信条や二ケア信条にあるように、この再臨する主が「生きている人と死んだ人を裁く」という最後の審判のことです。その時はまた、創造主の神が今ある天と地に代わって全く新しい天と地を創造するという天地の大変動も起きます。さらに死者の復活ということも起きて、審判の結果、神に義と認められた者は復活の体、神の栄光を映し出す朽ちない体を着せられて新しい天地のもとにある神の国に迎え入れらえるということが起こります。じゃ、それまでに死んでいれば最後の審判は関係ないかというとそうではなく、その時既に死んでいた人も眠りから起こされて、その時点で生きている人と一緒に審判を受けるのです。まさに「生きた人と死んだ人とを裁かれる」のです。
最後の審判がいつなのかは、マルコ13章の終わりの方でイエス様が言います。天の父なるみ神以外には誰にも知らされていないと(32節)。それで、主の再臨の日、この世の終わりの日、最後の審判の日、死者の復活の日、新しい天と地が創造される日、それらがいつなのかは誰にもわかりません。イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように準備をしていなさい、目を覚ましていなさい、と教えられるだけです(33-37節)。
教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることは、最後の審判に今一度心を向けて、今自分は復活と永遠の命に至る道を歩んでいるのだろうかと自省する意味があります。これが心の準備をすることであり目を覚ますことです。しかしながら、最後の審判とか裁きとかいうのは、あまり景気のいい話ではありません。はっきり言って恐ろしいです。それででしょうか、「裁きの主日」を定めている肝心の北欧諸国をみても、自省なんかしないでさっさとクリスマスの準備に入ってしまう人が大半ではないかと思います。しかし、忘れてはならない大事なことは、イエス・キリストの福音は、裁きの恐れを上回る勇気を与えてくれるということです。最後の審判は怖くないという勇気を与えられたら、今度は返す刀でこの世で怖いものもなくなります。理不尽な上司も権力者も脅しも祟りも誘惑もみんな空振り三振のバッターのようになります。イエス・キリストの福音とはそういう勇気を与えるものだということがわかるためにこそ、最後の審判に目を向けることは必要なのです。
2.マルコ13章のイエス様の預言について
イエス・キリストの福音は最後の審判の恐れを上回る勇気を与えてくれることを、今日の旧約の日課ダニエル12章と使徒書の日課ヘブライ10章をもとに見ていこうと思います。福音書の日課はどうしましょうか?マルコ13章の初めの部分ですが、福音の勇気を得るためにその部分だけでは少し足りないと思います。私としては13章全部を日課にしてほしかったです。そもそもマルコ13章は「キリストの黙示録」とも呼ばれる、イエス様の預言の言葉です。預言の内容はとても複雑です。一方でイエス様の十字架と復活の後イスラエルの地で起こる直近の出来事の預言、他方ではもっと遠い将来全人類にかかわる出来事の預言、これら二つの異なる預言が入り交ざっています。それらを解きほぐすように読まなければなりません。それは容易ではありません。破茶滅茶な解釈が起きないように、かつ全てを昔の人のファンタジーと片付けてしまわないように熟達したバランス感覚が必要です(同じことは黙示録でも言えます)。
マルコ13章を少しだけ見てみます。冒頭でイエス様は、エルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言されます。これは実際にこの時から約40年後の西暦70年にローマ帝国の大軍によるエルサレム攻撃が起きてその通りになりました。預言が気になった4人の弟子が、それはいつ起こるのか、その時どんな前兆があるのかと聞きます。それに対する答えとしてイエス様の詳しい預言が語られていきます。預言は語られるうちに、エルサレム神殿の破壊の前兆から、イエス様の再臨の日の前兆すなわちこの世の終わりの前兆に移っていきます。
神殿破壊の前兆として、偽キリスト、戦争やその噂、地震、飢饉が起こると預言されます。西暦70年の前にこれらのことが実際に起こったことは歴史を細かく調べれば出てくると思います。一例として、14節の「憎むべき破壊者が立ってはいけない所にたつ」というのを見てみます。これはダニエル書11章や12章の預言に出てくるものです。こういう歴史的事件がありました。イエス様の十字架と復活の出来事から10年程後にローマ皇帝カリギュラがエルサレム神殿に自分の像を建てようとして、ユダヤ人たちが必死の外交努力で撤回させたという事件がありました。しかし、これがきっかけとなってローマ帝国とユダヤ民族の相互不信が一気に高まってしまい、ついには西暦70年のエルサレム攻撃に至ってしまったのです。このように預言されたことは歴史的に突き止めることが可能です。
3章19節で、天地創造以来一度もなかった災いが起こるというあたりから、預言の内容はイエス様の再臨の前兆すなわちこの世の終わりの前兆に移っていきます。どんな災いかは具体的には述べられていませんが、主がその期間を短くしなければ、誰一人として助からないくらいの災いである、と言うから凄まじいものです。しかし、主は選ばれた者たちのために既にその期間を短く設定したと言われます(20節)。「選ばれた者たち」というのは、聖書の観点ではもちろんキリスト教徒ということになります。こう言うと、またキリスト教の独りよがりが始まったと思われてしまうかもしれません。「選ばれた者」などと優越感に浸りやがって、と。ここで、キリスト教徒とはいかなる種族の者か考えてみましょう。まず、キリスト教徒とは洗礼を受けた者です。しかし、せっかく洗礼を受けても最後の審判の恐れを上回る勇気を得ていなかったら、この世で神以外のものを沢山恐れて生きていたことになります。それは、洗礼をただのアクセサリーにしてしまったことになります。アクセサリーでは最後の審判や天地の大変動の前に立ち往生してしまいます。洗礼から吹き付けてくる力をかわしたり逃げたりせず、それを全身全霊で受け止めて力を身につけないといけません。そうするキリスト教徒が「選ばれた者」なのです。詰まるところ、キリスト教徒とは最後の審判が怖くてビビっているから勇気をもらわないとダメな種族なのです。別に優越感になんか浸っていません。
マルコ13章全体の詳しい説き明かしは別の機会に譲り、今日はダニエル12章とヘブライ10章をもとにイエス・キリストの福音が最後の審判の恐れを上回る勇気を与えることを見ていきましょう。
3.ダニエル書12章 - 最後の審判をクリアーする人たち
先週の礼拝の説教で、キリスト信仰では死というのは復活までの眠りにしか過ぎず、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて永遠に神の御許に迎え入れられるということを申しました。まさにキリスト信仰の死生観です。本日のダニエル書の日課はまさにその死生観をはっきり言い表しています。2節で「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める」と、復活とはまさに死からの目覚めであることがはっきり言われています。
2節ではまた、ある人たちは永遠の命に与り、別の人たちは永遠の恥と憎悪の的となると言われます。選別が行われるので最後の審判があることを示唆しています。永遠の恥と憎悪とは、創造主の神から見て恥ずべき者、神の憎悪を永遠に受けてしまう人たちのことです。恐ろしいことです。ひるがえって、永遠の命に与る人たちのことを3節で「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く」と言っています。これらの人々が輝くというのは、使徒パウロが第一コリント15章で述べているように、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられることを意味します。
ここで、「目覚めた人たち」というのは正しい訳ではありません。「理解できる人たち」とか「見ることが出来る人たち」です(動詞שכלの動名詞形)。そう訳すとは、じゃ、理解できる人たちとは誰?ということを考えなければならなくなり話が難しくなります。それで、どうせ復活して目覚めさせられる人たちのことだから、目覚めた人でいいや、とやってしまったのではないかと思います。本当かどうかわかりませんが、もし本当なら情けない訳です。
それでは「理解できる人たち」、「見ることが出来る人たち」は誰のことかわかるのかというと、これはダニエル書がどういう書物か考えればそんなに難しくはありません。ダニエル書というのは、神の秘められた計画を神の使者が人間に明らかにしてくれる事例集です。神の秘められた計画は人間の力では理解できず見えもしません。それで、神が遣わした者が人間に明らかにして理解できるようにしてくれる、見えるようにしてくれるのです。キリスト信仰の観点に立ってみると、理解できる人、見ることが出来る人というのは、イエス様のおかげで神の秘められた計画を理解できるようになった人、見ることが出来るようになった人のことです。その人たちが復活の体を着せられて永遠の命を持って生きることになるのです。最後の審判をクリアーしたのです。
3節にはまた、最後の審判をクリアーする人たちとして「多くの者の救いとなった人々」というのもあります。これも原文を直訳すれば、「多くの人を神のみ前で無罪になるように導いてくれる人々」です。キリスト信仰の観点に立ってみれば、そういう導きをする人はイエス・キリストの福音を周囲に伝える人のことです。そして、福音を伝えられて受け入れた人は最後の審判で無罪扱いになる。これはまさに福音が福音である所以を言い表しているとても大事なことです。だから福音を伝えられて自分のものにすることが出来ると最後の審判の恐れを上回る勇気を得られるのです。このことを見ていきましょう。
4.福音と洗礼で最後の審判の恐れを上回る勇気を得よう!
最後の審判の日、裁き主は一人一人を十戒に照らし合わせてみて、神の目に適う者かどうか判断します。もし殺人姦淫その他行為によって人を傷つけた者は法律上の刑罰を受けたかどうか以上に問われることがあります。それは、神が与える罪の赦しを受け入れたかどうか、受け入れたらそれで神に背を向ける生き方をやめたかどうかが問われます。さらにイエス様は、行為に出さず法律上の問題にならなくても、心の中で兄弟を罵ったり異性をみだらな目で見たりしただけで神の目に適う者になれないと教えられました。そういうふうに心の有り様まで問われたら、誰も神の前で、私は潔癖です、などと言えません。だから最後の審判は恐ろしいのです。
しかしながら、神は人間が完全に神の目に適う者にはなれないことをご存じでした。堕罪の時から全て人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまったので自分の力ではなれないのです。そこで神は、それならば私の力で適う者にしてあげよう、目に適う者になれて私と結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげよう、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせて復活の体を着せて私の許に永遠に迎えてあげよう、そう決めてひとり子をこの世に送られたのです。そして、ひとり子イエス様に人間の全ての罪を負わせて、あたかも彼が全責任者であるかのようにして、十字架の上で神罰を受けさせて死なせました。自分のひとり子に人間の罪の償いを果たせたのです。しかも神はその後、想像を絶する力でイエス様を死から復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開かれました。この出来事の全容を知らせるのが福音です。
あとは人間がこの福音の知らせを聞いて、イエス様の十字架と復活はまさに自分が神と結びつきを持ててこの世と次に到来する世の双方を生きられるようにするためだったんだとわかって、それでその大役を引き受けたイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものにできるのです。洗礼を受けるというのは、イエス様が果たされた罪の償いを全身全霊に吹き付けられて償いに染められてしまうことです。罪を償ってもらったということは、神の目から見て罪を赦された者になったということです。
神から罪を赦された者と見られるとどうなるのか?それは本日のヘブライ11章17節で言われています。それはエレミヤ31章34節の引用です。神はお前の罪を思い出さないと言われます。これが神の罪の赦しの本質です。罪を赦すと言うのは罪を許可することではありません。許可など断じて出来ないが、それで裁いてしまったらお前は永遠の恥と憎悪に投げ込まれてしまう。そうならないために、お前はこの世だけでなく次に到来する世も生きられる新しい命を得なければならない、そのために私はイエスを贈ったのだ。そのイエスをお前は救い主と信じ洗礼を受けて罪の償いを自分のものにしたのだ。だから、お前が犯した罪は、私はもうとやかく言わない。犯した事実は書き換えられないが、さもなかったかのようにする、だからお前は与えられた新しい命に相応しく生きよ。そう神はおっしゃられるのです。これが罪の赦しです。
ところが、このように神の力によって神の目に適う者とされていながら、またそのされた「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながらも、実際にはこの世で生きる限り神の目に相応しくないことがどうしても起きてきてしまいます。行為に出さなくても心の中に現れてきてしまいます。どうしたらよいでしょうか?その時は、すぐその罪を神に認めてイエス様の名に依り頼んで赦しを願います。心に痛みを伴うかもしれませんが、神に背を向けずこのように神の方を向くことを怠らなければ神は約束通りイエス様の犠牲に免じて罪を赦されます。こうして復活と永遠の命に向かう道に留まりそれを歩み続けることが出来ます。このように罪の赦しを心の中に貫かせている人は十戒をもう体の外側に持っていません。心の中に持っています。まさにヘブライ10章16節で引用されているエレミヤ31章33節の御言葉、神は十戒を心に与え刻み付け給う、が実現しているのです。十戒を心の中にではなく外側に持っていたら外面的に守っていることで満足して心の有り様は問わなくなります。最後の審判では心の有り様まで問われるのです。
やがてかの日が訪れ、神のみ前に立つことになる時、キリスト信仰者の申し開きはこうなります。確かに私には至らないことが沢山ありました。しかし、イエス様が果たしてくれた罪の償いにいつもしがみついて生きて参りました、いつもそこに戻るように生きてきました。それ以上のことはできませんでした。そう裁き主に言えばいいのです。神がそれで不十分と言うわけはありません。そんなことを言ったら、ひとり子の犠牲では不十分だったということになるからです。そんなことは絶対にあり得ません。ヘブライ10章14節で言われるように、この方の唯一の犠牲によって罪を不問にしてもって罪から清められた者たちが完全な者、最後の審判をクリアーできる者にされたのです。この方の前にも後にもそのような犠牲はありません。この方のだけです。
兄弟姉妹の皆さん、イエス・キリストの福音とはこのように最後の審判の恐れを上回る勇気を与えてくれる知らせです。洗礼は私たちの人生をその勇気の中で生きる人生にするものです。最後の審判を恐れない心があるならば、この世で何か怖いものがあるでしょうか?理不尽な上司や権力者が怖い、脅しや祟りや誘惑が怖い、それで間違ったことを間違っていると言えなくなることがあります。しかし、よく考えてみて下さい。その怖いと言っているのは神ではないのです。日本語では神でないものを神と呼ぶことが多いので紛らわしいのですが、その恐れる人やものの正体は考えればわかります。その人やものがあなたを造って命と人生を与えたのですか?違うでしょう。その人やものはあなたがこの世から別れた後、あなたを復活させる力がありますか?ないでしょう。その人やものはあなたが言う通りにしないとあなたを地獄に落とすことが出来きますか?できません。その人たちこそ創造主の神の前で崩れ落ちる運命にあるのです。神を差し置いてそんな人たちを恐れるというのは話にならないとわかるでしょう。
最後にもう一言。このように私たちがこの世で怖いものがなくなって間違っていることを間違っていると言えるようになった時、言い方にも注意しなければなりません。ローマ12章でパウロが教えるように、相手を自分より優れた者のように振る舞い、自分はヘリ下って、少なくとも自分の側からは平和を保つように話さなければなりません。パウロもルターも十戒の第4の掟に基づいて父母やこの世の権威には敬意を払わなければいけないと教えています。敬意を払いながら間違いは間違いと言うのです。この点は、熱くなりやすい性格の人は意識して振る舞わないといけないので訓練が必要でしょう。聖書にはそのための手引きが沢山あります。イエス様や使徒たちの教えがそれです。また実例集も豊富にあります。例えばヨセフやダニエルが理不尽な人たちに対してどう振る舞ったかを見るのは大いに参考になります。
そういうわけで皆さん、これからも聖書をたくさん読んでいきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン