説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2014年10月12日 聖霊降臨後第18主日
イザヤ書55章6-9節
フィリピの信徒への手紙1章12-13章30節
マタイによる福音書20章1-6節
説教題 「神は良い方」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日の福音書の箇所は、イエス様のたとえ「ブドウ園の労働者」です。朝早くから12時間以上、猛暑の中を汗水流して働いた者が、1時間くらいしか働かなった者と同額の賃金しか得られず、当然のことながら不平を言う。雇用者であるブドウ園の持ち主は、自分はそうしたいんだから、それを受け入れろ、と言う。イエス様は、神の国の秩序はこの持ち主の考えに沿っていると教えられます。たとえの中でブドウ園の所有者は天地創造の神を指していますから、神がこれを受け入れよと言ったら、人間の目から見て理に適っていないものでも、有無を言わずに受け入れなければならない。そういう徹底して神の意思を中心に据える秩序が浮かび上がるのであります。それにしても、労働時間の長短にかかわらず賃金は一律同じという教えの意味は何なのでしょうか?そんなことをしたら、誰も長時間働こうとしなくなるでしょう。長く働こうが短く働こうが、給料は同じなのですから。
結論から言うと、イエス様がここで教えようとしていることは、人間の救いは信徒として生きて働いた信徒歴の長短には左右されない、ということです。そこで、次のような信徒を思い描いてみましょう。赤ちゃんの時に洗礼を受け、子供の時から日曜学校に通い、聖書に親しみ、主日礼拝に毎週通い、聖書研究会にも毎回出席し、青年会や壮年会、婦人会などの教会の活動や行事に一生懸命取り組み、日曜学校でも教師を務めたり、さらには教会の役員や代議員も務めたりする。また福音伝道のために牧師の手足となって働く。まさに模範的なベテラン信徒です。そのような信徒と並んで、教会には、洗礼を受けてまだ日が浅いという新参の信徒もいます。信徒歴も教会での活動歴も、また聖書の知識や神の御言葉を使いこなす力もまだとてもベテランには及びません。それでは、救いはベテラン信徒の方に確実にあって、新参信徒は救いを確実にするためにはまだまだ修行を積まなければならないということでしょうか?いいえ、そういうことでは決してありません。キリスト信仰では、イエス様を自分の唯一の救い主、唯一の見守り者だと信じて洗礼を受け、かつそう信じて聖餐式に臨む者は、信徒歴が長かろうが短かろうが全く関係なく、皆救いが確実になっている者なのです。
こうしたことはベテラン信徒にとっては当たり前で、誰も、新参信徒はまだ救いに不十分にしか与っていない、などと思ったりしません。どうしてかと言うと、キリスト信仰では、人間の救いとは、人間が自分の力や能力で達成したり築き上げるものではなくて、天地創造の神が人間の救いのために成し遂げて下さったことをただただ受け身に徹して受け取る、これに尽きるからであります。ここで、キリスト信仰における人間の救いということについて、少しおさらいをしましょう。
2.
まず、人間はもともと自分の造り主である天地創造の神としっかり結びついて生きる存在でありました。それが、悪魔の誘惑に引っかかり、神に対して不従順になって罪を犯したがために、神との結びつきが崩れてしまい、同時に死ぬ存在となってしまった。この辺の事情は創世記3章に記されています。そうして人間は代々死んできたことに示されるように、代々罪と不従順を受け継いできました。神との結びつきが途絶えた状態にいたのです。
これに対して神は人間を見捨てるようなことはせず、逆に、人間が再び神との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死んでもその時は自分の許に永遠に戻れるようにしてあげよう、と考え、それでひとり子のイエス様をこの世に送られたのでした。人間が神との結びつきを回復できるために、どうしてひとり子を送らなければならなかったか?それは、人間と神との結びつきを壊している張本人の罪の問題を解決しなければならない。しかし、人間から罪の汚れを除去することは不可能です。なぜなら、人間は誰も神の神聖な意思を100%実現できる人はいないからです。しかし、人間に張り付いている罪をなんとかしなければ、神との結びつきは回復できません。
そこで、神が行ったことは、御子イエス様に人間の罪を全部に負わせて、人間の罪の罰を全部イエス様に受けさせて、ゴルゴタの十字架の上でイエス様を死なせました。神は、このイエス様の身代わりの犠牲の死に免じて私たち人間の罪を赦すという道を採ったのです。しかもそれだけで終わらず、一度死んだイエス様を神は復活させて、死を超えた永遠の命の扉を人間に開かれました。こうして、罪を赦された人間は、罪をまだ持っているにもかかわらず、それを赦されたので、神との結びつきを阻むものがなくなりました。罪を持っているにもかかわらず、神との結びつきの中で生きるということは、そのような人においては、罪が生み出す死の力は完全に無力化されていて、その人は罪の呪いから解放されているということであります。
このようにして、神は人間の救いを、イエス様を用いて全部整えて下さいました。あと、人間の方ですることは何かと言えば、それは、神が「私が整えたから受け取りなさい」と差し出しくれている救いをそっくりそのまま受け取ることだけです。どうやってそっくりそのまま受け取れるかと言うと、この十字架にかかって死なれ三日後に死から復活されたイエス様こそが自分の唯一の救い主、唯一の見守り者だと信じて洗礼を受けることです。そのようにして神の整えた救いを受け取った者は、罪の赦しが効力を持ち始め、罪が生み出す死の力が無力にされます。こうしてその人は、罪と死の支配下から神からの罪の赦しの影響下に移されます。その時まさに神との結びつきが回復した者として、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。神との結びつきを持って生きる以上、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神の御手によって御許に引き上げられて、永遠に自分の造り主の許に戻れるようになります。以上が、キリスト信仰で言う人間の救いです。
教会とは、こうした神がイエス様を用いて整えた救いを受け取った人たちから形成される共同体です。教会の仕事として2つ大事なものが考えられます。一つは、救いを受け取った人が、その救いをしっかり携えてこの世の人生の道を歩めるように助け支えるということです。この世には、いろいろな力が働いており、一度受け取った救いを手放させようとしたり、永遠の命に至る道を踏み外させようとしています。それらが具体的に何であるかは、皆さんが個人個人で自分の問題としてお考えになってみてください。
教会のもう一つの大事な仕事は、まだ救いを受け取っていない人たちが、それを受け取ることが出来るようにしていくことです。先ほども申しましたように、神はイエス様を用いて整えた救いを、人類全体に向かって、どうぞ受け取りなさい、と言って提供しているのです。それを受け取った人がキリスト信仰者ということになります。しかし、受け取っていない人たちがまだまだ世界には大勢います。どうしたらこうした人たちが救いを受け取ることができるようになるかを考えて行動に移すことはなかなか簡単なことではありません。宣べ伝え方を間違えると、拒否されてしまうかもしれないという恐れもあります。いずれにしても、受け取っていない人たちのために、お祈りすることから始めなければなりません。あとは、祈りを必ず聞き遂げて下さる神が、私たちに勇気や力を与えてくれ、道筋を示してくれます。
以上のように、教会には、まず、救いを既に受け取った信仰者を助け支えるという仕事があり、それから、まだ救いを受け取っていない人たちが受け取ることが出来るようにする仕事があります。信徒歴が長い人というのは、こうした仕事に関わっていた期間が長いということですが、こうした人たちが信徒歴の短い人たちをとやかく言うことはありません。なぜなら、信徒歴が長い人は、短い人たちも全く同じ救いを受け取っているとわかっているからです。そういうわけで、イエス様のたとえに出てくる文句を言う長時間の労働者は、仕事した時間が長ければ長いほど、より良いより確実な救いが得られると期待したようなもので、それはナンセンスです。救いを受け取るのが早かろうが遅かろうが、受け取った救いは同じものです。受け取りが早ければ、教会の仕事にも早くから携わっていたことになり、受け取りが遅ければ、遅く仕事に取り取り掛かった、というだけの話です。
3.
以上のように、本日の福音書のイエス様のたとえは、「信徒歴の長短に左右されない救い」について教えていると理解すると、ひとつわかりにくいことがでてきます。それは、たとえの終わりでイエス様が「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(20章16節)と言っているところです。そうなると、信徒歴の短い者に救いの優先順位が与えられ、信徒歴の長い者は救いに関して後回しにされるように聞こえます。先ほど述べた理解では、信徒歴の長い者も短い者も救いの実現においては全く同じ地位にいなければなりません。つまり、イエス様としては、「後にいる者は先にいる者と同じになる」と言った方が正確だったのではないか、先にいる者が後回しにされるというのはどういうことでしょうか?
この疑問を解くためには、本日の箇所の前にある19章16節から30節までを本日の箇所と一緒にしてみる必要があります。
まず19章16-22節で、一人の若者がイエス様のもとに駆け寄り、永遠の命を得るために何をすべきか、と尋ね、イエス様と若者の対話が始まります。イエス様は十戒の中の掟を述べて、それらを守れと言われる。若者はそんなものはもう守った、何がまだ足りないか、と聞く。イエス様は、足りないものがある、全財産を売り払って貧しい人に分け与え、そして私に従いなさい、と命じる。若者は実は大金持ちだったため、悲痛な思いで立ち去って行った、というところです。
若者が立ち去った後で、イエス様と弟子たちの間で今起きた出来事を総括する対話が始まります。23-26節で、イエス様は、駱駝が針の穴を潜り抜ける方が金持ちが神の国に入ることより簡単だと言う。「神の国に入る」というのは、「救われて永遠の命を持つ」ということです。金持ちが救われるのはそれくらい困難が伴うのだ、と。これを聞いた弟子たちは度胆を抜かれてしまう。なぜなら、金持ちが神の国に入るのが駱駝の針の穴潜り抜けより難しかったら、貧乏人の場合はどうなるのか。仮に、貧乏人が神の国に入るのは駱駝の針の穴潜り抜けより簡単だと言われても、駱駝の潜り抜け自体は依然不可能なことなので、そう言われても何の励ましにもなりません。弟子たちが「それでは誰が救われるのだろうか」と不安に陥るのは当然です。そこでペトロがイエス様に尋ねます。自分たちはあの若者と違って全てを捨てて従ってきた。自分たちは金持ちなんかではない。自分たちは救いに与れるのか。糸が針の穴を通れるように神の国に入れるのだろうか。イエス様の答えは明快で、私の名のために親兄弟家財その他一切合財を捨てた者は、永遠の命を得て、天の国で大きな報いを得ると教えます。ペトロの質問とイエス様の答えが27-30節を成し、この後に本日の箇所である「ブドウ園の労働者」のたとえが続きます。つまり、このたとえは、イエス様と若者の出来事を総括する対話の続きなのです。それゆえ、たとえを理解するためには、イエス様と若者の出来事に遡ってみる必要があるのです。
19章16節から22節までのイエス様と若者の対話で、若者の質問を詳しくみると、「永遠の命を得るためには、どんな良いことをしなければならないか」と尋ねます。「どんなことをしなければならないか」ではなく、「どんな良いことを」と「良い」という言葉がついています。イエス様はそれに目を留められ、すかさず聞き返します。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのか。良い方はおひとりである。」良い方はお一人というとき、その良い方とは神を指しています。ところが、話が良い「こと」から良い「方」へ、事柄から人格へ注意を向けさせます。若者は「良い」ことは人間がすること、出来ることと考えて質問したのに対して、イエス様は、「良い」ということは神だけに結びついている、「良い」ということを体現しているのは神しかいないと、反駁するのです。それで、良い方は神おひとりであり、「良い」ということを体現していない人間が永遠の命を得るために「良い」ことを行うという質問は、出だしから的外れというのであります。「良い」ということについて考えたり口にしたりする場合、神が出発点になっていなければならないのに、若者の質問は人間が出発点になっているのであります。神のもとだけに「良い」ということがある、神だけが「良い」という性質を持っている、体現している。このことを忘れると、人間は救いの実現を、自分の意志や能力に基づかせようとします。でもそれはいつか必ず限界にぶつかります。イエス様の命じられたことは、まさに若者の意志と能力の限界を明らかにするものでした。救いは、人間の意志や能力にではなく、ただただ神が「良い」ということに基づかせなければ実現しないのです。
イエス様と若者の対話から、神が「良い」ということが救いの大前提であることが明らかになりました。そして、この神が「良い」ということが、本日のたとえの中でまた出てくるのです。それはどこでしょうか?
長時間働いた労働者がブドウ園の所有者に不平を言った後、所有者が回答します。20章15節です。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさをねたむのか。」日本語では「気前のよさ」と訳されていますが、ギリシャ語では、若者との対話で出てきた「良い」と同じ言葉アガトスαγαθοςがちゃんと使われています。日本語訳では、同じ言葉が異なる訳をされてしまったので、若者の対話とイエス様のたとえのつながりがみえなくなってしまうのですが、原文をみれば、対話で神が「良い」方であると言ったことが本日のたとえの伏線になっていることがみえてきます。そこで、問題の15節を原文に忠実に訳すと次のようになります。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私が良い者であるために、お前の目は邪悪なのか。」少し訳し込むと、「私が良い者であることがはっきりしすぎて、耐えられない位にお前の目は邪悪なのか」となるでしょう。先ほど申し上げたように、ブドウ園の所有者は神を指しますが、若者との対話でイエス様は神を良い方と言い、「ブドウ園の労働者」のたとえでも神は良い方と言われるのです。
こうして、本日のたとえと若者との対話の間に共通のテーマがあることが明らかになりました。若者との対話で、イエス様は、救いの実現を人間の意志や能力に基づかせようとする考えを打ち砕き、それを神は「良い」方ということだけに基づかせようとしました。「ブドウ園の労働者」のたとえでは、理に適っておらず受け入れがたいことでもそれが神の意志ならば受け入れなければならない。私の意志はたとえそれが理に適っていても取り下げて神の意志を優先させなければならない。そうするのが当然であるという根拠は、まさに神は「良い」方であるということによるのだ。このように対話とたとえが言わんとしていることは、神は「良い」方であるということに基づいていないと、人間は自分の力で救いを得ようとしだし、被造物の分際で創造者である神の意志よりも自分の意志を優先させようとする、そういう本末転倒が起きると教えているのであります。それでは、神が「良い」ゆえに人間は救いを全て神に委ねなければならない、神が「良い」ゆえに自分の意志を後回しにして神の意志を優先させねばならないというとき、ではその神の「良い」とは何か?それほどまでに「良い」という神の「良さ」は何か?それは、もう先ほどに述べました。神がひとり子イエス様を用いて私たち人間の救いを整えて下さったということです。罪の赦しを与えることを通して、私たちと神との結びつきを回復させたということです。
若者が立ち去った後、出来事の総括をイエス様と弟子たちが始めます。救いの困難性を駱駝の針の穴通り抜けと比べられて、弟子たちは唖然としている。それでは一体誰が救われるのだろう、と。イエス様は答えられます。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる。」つまり、救いは完全に神の業であるというのです。救いの実現に人間のなしえるものは何もないというのであります。これは、イエス様の十字架の死と死からの復活によって、全くその通りになりました。
以上から、イエス様の言葉「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」の意味が明らかになります。後回しにされてしまう「先にいる者」とは、信徒歴が長くて教会の大事な仕事を長年一生懸命してきた人ではありません。そうではなくて、救いを得るために自分の意志と能力により頼み、自分が獲得したものや持っているものを捨てられない者を指します。本日のたとえに出てくる長時間働いた労働者は救いをそのように考える人です。そのような人は、信徒歴が短い人が同じ救いに与っているとは考えたくはないのです。そのような人は、復活の日、イエス様の再臨の日には後回しにされてします。これとは対照的に、神は「良い」方ということにしっかり基づいていて、救いを得るためにただただ神の意志と力にしかより頼まない者がいます。これが「後にいる者」です。本日のたとえに出てくる短時間働いた労働者は、まさにブドウ園の所有者に見つけられて来なさいと言われなかったら、ブドウ園に行くことはありえなかったのです。このように神の意志と力に従う人なので、たとえ全てを捨てることになっても救い主のイエス様を選ぶことが出来ます。そのような人は、神の国が到来する日には真っ先に迎え入れられます。神の「良さ」にしっかり基づいていれば、人間はたとえ理に適っていなくても神の意志を優先させてそれに従うことができるが、それに基づいていないと、従うのは難しいでしょう。
ところで、いくら神の「良さ」を強調しても、理に適わないことに服するのは納得いかないと思われるかもしれません。ここで先ほど述べました神の「良さ」についてもう一度思い起こして下さい。神は御子イエスを用いて救いを全部実現して下さった。その救いの所有者にしてもらった私たちは、死を超えた永遠の命に至る道を今歩むことができている。たとえ死の影の谷を歩むとも何も恐れるものはないのです。永遠の命に与るための途方もない代価を神御自身がひとり子の流した尊い血を代価にして支払って下さったのです。まさに、ご自分の御子を犠牲にすることで。こうした神の「良さ」を思う時、どうして神の意志を後回しにして自分の意志を優先させることができるでしょうか?神は「良い」方ということにしっかり基づいていれば、神が与えられるものは何でも喜んで受けることができるようになるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン