2016年4月18日月曜日

汚れた衣を小羊の血で白くされて (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2016年4月17日 復活後第三主日

使徒言行録13章26節-39節
ヨハネの黙示録7章9節-17節
ヨハネによる福音書10章22-30節

説教題 「汚れた衣を小羊の血で白くされて」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の聖書の日課の一つは黙示録の7章です。黙示録は、今のこの世が新しい世にとってかわる終末の時、そして死者の復活が起こって今ある天と地が消え去り新しい天と地が創造される時に何が起きるかについて記された預言書です。本日の箇所は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に」立つという場面です。玉座というのは、天地創造の神が座しているところ、小羊というのは神のひとり子、つまり復活の主イエス・キリストのことです。場所は明らかに天の御国です。そこに集う白い衣を身に着けた大群衆とは誰のことでしょうか?いろんな国民や民族の中から集まった、というのでとても国際的な集団です。彼らが誰であるか、天の長老がヨハネに教えます。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。

「小羊の血」とは、言うまでもなくイエス様がゴルゴタの丘の十字架の上で流された血のことです。イエス様が流された血で衣が洗われて白くされた、というのはどういうことでしょうか?衣服を血なんかで洗ったら白くなるどころか、赤くなってしまい、ちょっとまともなことを言っているようには聞こえません。

イエス様が流された血で衣が白くされる、というのはどういうことかと言うと、次のことです。イエス様は、人間が神から罪の罰を受けないで済むようにとご自分が身代わりの犠牲の生け贄となって血を流して死なれた。だから私たちは、彼こそ救い主なのだ、と信じて洗礼を受けると、私たちは神から罪の赦しを頂いて罪の汚れを洗い落とされる、ということです。

汚れた衣が人間の罪を表わすという比喩は旧約聖書の中にも出て来ます。ゼカリア3章に、天使が大祭司ヨシュアから汚れた衣を脱がせる場面があります。天使はそれでヨシュアから罪を取り去った、と言います(イザヤ118節も参照のこと)。生け贄の血が清めの役割を果たすことについては、モーセがイスラエルの民を率いてエジプトから脱出してシナイ半島の荒れ野にて神と契約を結ぶ時、神聖な神の面前に出ても大丈夫なように雄牛の血を民に振りかけたという出来事があります(出エジプト248節)。エルサレムに神殿が建設されてから後は、ユダヤ人が個人的な罪や国民的な罪の償いのために動物の生け贄の血を捧げるということは普通に行われていました(レビ記1711節)。

しかしながら、動物の生け贄の血で本当に罪が償われるのか、本当に神の面前でやましいところがない、潔癖な者になれるのかどうかについて意外な事実が隠されていました。生け贄の血にせよ、その他の罪の償いや清めの掟にせよ、それらは神が命じたものであるにもかかわらず、実は本当の罪の償い、清めの予行演習のようなものにすぎなかったのです。まだ償いや清めの本番ではなかったのです。先週の聖書研究会のテーマは「ヘブライ人への手紙」9章でしたが、そこで、エルサレムの神殿やそこで行われている礼拝や儀式は「まことのものの写しにすぎない」(23節)と言われていました。「まことのもの」が来たら無用になるものだったのです。つまり神殿では、罪の償いのために生け贄を捧げることを繰り返し、繰り返し行わなければなりませんでした。ところが、一回限りの犠牲で全ての人間の罪を未来永劫にわたって償えるという、とてつもない生け贄が捧げられたのです。それが、神の神聖なひとり子、イエス様の十字架の死だったのです。私や皆さんの罪も含めて全ての人間の罪がイエス様の犠牲によって償われて帳消しにされた、それでイエス様は私にとって救い主なのだと信じて洗礼を受けると誰でも神から罪の赦しを受けられる。こうして神から罪の赦しを受けた人は、神の裁きや罰を受けなくて済むようになるので、本当に罪の支配から脱した新しい命を生きられるようになります。

こうしてイエス様の犠牲のゆえに神から罪の赦しをいただいた人は、いつか神聖な神の面前に立つことになっても、私はイエス様を救い主と信じています、神聖なあなたのみ前でこの至らない私が頼れるのはイエス様しかいません、イエス様をこんな私のためにお与え下さったことを感謝します、そう言えば、神はその人にやましいところはない、と認めて下さるのです。人間が神聖な神の面前に立っても大丈夫でいられるようになるのは、神の目に相応しい者として扱ってもらっているからです。ただし、それは私たちが自分の力で相応しい者になれたということではありません。イエス様が成し遂げた業のおかげで、そしてそれを本当のことと信じて受け入れる信仰のおかげで、相応しい者にしてもらったということです。第一ペトロ12節に、キリスト信仰者はイエス様の血をかけてもらうために選ばれた者、と言われています。ヘブライ9章では、動物の生け贄の血では人間の良心までは清められない、せいぜい外面的な部分での清めにすぎない、イエス様の血が人間の良心を死んだ業から清めた、と言われています(91014節)。ガラテア327節では、洗礼を受けてキリストに結ばれた者はみな、キリストを着ている、と言われ、ローマ1314節では、罪と戦うためにキリストをしっかり身に纏うことが大事だと言われています。

このようにキリスト信仰者とは、イエス様の血によって罪の汚れを洗い落とされて、イエス様という神聖な衣を頭から被せられて、それで神の目に相応しいとされている者です。 

そうすると、先ほどの黙示録7章の白い衣を着た群衆というのはキリスト信仰者ということになります。キリスト信仰者は、いろんな国民、民族、言語集団の中にいるのであります。彼らは、「大きな苦難を通って来た者」とも言われています(14節)。「大きな苦難」とは、黙示録全体と黙示録が書かれた頃の歴史的背景をあわせて考えると、一義的にはキリスト信仰者に対する迫害を指すと考えられます。しかし私は、迫害以外にも「大きな苦難」を考えてもよいのではないかと思います。いずれにしても、ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、殉教にしろ、何か他の苦難のために命を落としたにしろ、天の御国の神のみ前に行けるのは、自分が流した血のおかげではないということです。彼らの衣が白いのはイエス様の流した血のおかげです。そうなると、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は誰でも同じように白い衣を纏えるので、自分でそれを手放さない限りはみな同じように神のみ前に立つことができるのです。

2.

さて、天の長老はヨハネに群衆の正体を教え、「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と言いました。私たちが用いる新共同訳では「彼らは大きな苦難を通って来た者」、「通って来た」と過去の形になっています。ギリシャ語の原文をみるとなぜか「苦難の中から来る者」、「来る」と現在形になっています。はて、群衆は苦難を通って来た後で今、天のみ神のみ前に立っているのだから、今は過去を振り返って「通って来た」と言った方が正確ではないのか?(13節の長老の質問では、これらの者は「どこから来たのか?」と過去の形になっていることに注意。ギリシャ語原文もそうです。)なぜ、神のみ前というゴールに到達した今でも、「苦難の中から来る者」と現在の形で言うのか?

これは、天の長老とヨハネの視点が天の御国から今のこの世に移動して、今この世で苦難を通っている者を指しているからです。最終的には天のみ神のみ前に到達するのだが、この世の今のところは苦難を通っている者を指しているのです。もちろん、ヨハネが目の前で見せられている終末の時は遠い将来のことで、その時から振り返って見れば「苦難を通って来た者」と言えます。ところが「苦難の中から来る者」と現在形で言うと、ヨハネの同時代の時に苦難を通っている人を指すことができます。さらに、ヨハネの後の時代に黙示録を手にする人みんなにとって自分の同時代の苦難を通っている人を指すことができます。このように、この箇所を読んだり聞いたりする人は、自分が今通っている苦難の現実のすぐ反対側には神のみ前に立つゴールが用意されていて、そっちの現実とこっちの現実が繋がっていることに気づくのです。

「衣を小羊の血で洗って白くした」というのは、過去の形です(ギリシャ語原文もそう)。つまり、ゴールに到着する前のこの世の人生の段階で一度、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神から罪の赦しを頂いて、衣を小羊の血で洗って白くしたということです。そういうわけで、天のみ神のみ前というゴールに到着するというのは、衣を最後まで肌身離さずしっかり纏い続けたということになります。この世というところは、この着せて頂いた白い衣を罪の汚れで汚そうとしたり、さらには衣自体を脱ぎ捨てさせようとする力がたくさん働くところです。そうした力に抗して衣を白く保ち、しっかり纏い続けることが苦難をもたらします。迫害の形をとることもあるし、それ以外にもいろいろあります。そこで、次に、この衣を白く保ち、しっかり纏い続けるにはどうしたらよいかということについて考えて見たく思います。

3.

 何が白い衣を汚そうとするのか、それを脱がそうとするのか、それには二つのことが考えられます。一つは、罪を犯してしまうということがあります。もう一つは、自分の罪が原因ではないのに苦難や困難に陥ってしまうということがあります。

まず、白い衣を汚そうとしたり脱がそうとさせる力として罪の問題を考えてみます。私たちは、イエス様の成し遂げた業と彼を救い主と信じる信仰によって、罪を洗い落され、罪の支配から救い出されたにもかかわらず、神の意思に反するような思いや考えを神や隣人に対して抱いてしまうことがあります。また言葉に出してしまうこともあります。最悪の場合は行いに出してしまうこともあります。

これは、イエス様の白い衣を頭から被せられても、内側にはまだ罪が残っていることによります。神は私たちが纏っている白い衣をみて、よしとされるのですが、私たちに残っている罪はその衣を汚したり捨てさせることに活路を見いだそうとします。本当は罪は、十字架の上でイエス様と一緒に神罰を下されて人間を支配する力を失っているのですが、それでもまだ力があるかのように思わせようと信仰者を惑わします。どうしたら惑わされないですむか、それはもう、罪を罪として認め、本気で忌み嫌い、それを遠ざけよう避けようとするしかありません。その時、心の目をゴルゴタの十字架に向けて、罪はあそこで力を失ったのだ、と思い出します。その時、私たちは白い衣をしっかりつかんで引き剥がされないようにしています。神は私たちが衣をしっかり離さないようにしているのを見て、よしとされます。その時、汚れがついてしまったと思っていた衣は前と変わらぬ白さを持って輝いていることに気がつくでしょう。

そもそも、イエス様の白い衣は汚れなど付着することは不可能なもので、罪が私たちの目を惑わして汚れが付着しているように見せかけて、纏っていても意味がない、と私たちをあきらめさせて脱がせようとさせているのです。

イエス様が成し遂げた贖いの業と被せて下さった白い衣は、私たちが罪に堕ちようがどうなろうが、全く無関係に同じ力強さ、同じ輝きを保っています。それゆえ、その力強さと輝きから一度離れてしまった私たちがまたそこに戻れるかどうかが、問題の核心となります。罪に陥った時、私たちに出来ること、またしなければならないことは、先ほども申しましたように、神に罪を罪として認めて、イエス様を救い主として信じますから赦して下さいと願い求めることです。そうすれば神は、我が子イエスの犠牲の死に免じて赦そう、もう罪を犯さないようにしなさい、と言って赦して下さるのです。その時、イエス様の十字架と復活に現れた神の恵みと愛は、私たちが洗礼を受けた時と全くかわらない力と輝きを持って、私たちを包み込みます。このように洗礼を受けた者は、いつも立ち返って、やり直しを始める原点があります。

もう一つ、白い衣を汚し脱ぎ捨てさせようとするものに、私たちが自分自身の罪が原因ではないのに苦難や逆境に陥ることがあります。この問題はどう解決を見いだしたらよいか、とても難しいのですが、一つ言えることは、そのような時でも、イエス様の成し遂げた贖いの業と被せてくれた衣に力がなくて、自分が苦難と困難に陥るのを阻止できなかったということではありません。

「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」ではじまる詩篇23篇の4節に「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あながた共にいてくださる」と謳われます。主がいつも共にいてくださるような人でも、死の陰の谷のような暗い時期を通り抜けねばならないことがある、災いが降りかかる時がある、と言うのです。主がともにいれば苦難も困難もないとは言っていません。そうではなくて、苦難や困難が来ても、主は見放さずに、しっかり共にいて共に苦難の時期を一緒に最後まで通り抜けて下さる、だから私は恐れない、と言うのです。実に、洗礼の時に築かれた神との結びつきは、私たちが自分で捨てない限り、いかなる状況にあってもしっかり保たれているのです。それから、聖餐式でパンとぶどう酒を通して受ける主の血と肉は、私たちと神との結びつきを一層強めるものです。イエス様の血は罪の汚れを洗い落とすもの、と先ほど申し上げました。イエス様を救い主と信じる信仰にしっかりとどまって聖餐式を受ければ受けるほど、内側に潜んでいる罪に重圧をかけて押し潰していくことになります。

パンとぶどう酒を受けて、天地創造の神との結びつきが強められるなどと言われても、そう見えないし感じることはできません。洗礼の水をかけられて神との結びつきが築かれたなどと言われても、そう見えないし感じられもしません。しかし、神の目から見れば、結びつきは築かれ強められているのです。人間は限られた存在ですから、神との結びつきを信じられるために、どうしても見えるものに頼ってしまいます。例えば、病気が治るとか、何か欲しいものが手に入るとか、自分だけは苦難や困難に陥らないとか、陥りそうになっても見事にかわせるとか。しかし、たとえ人間が五感と理性を使って見ることも感じることもできなくても、神が、これで築かれた、強められた、と言えば、そうとしか言えないのです。信仰とは、つまるところ、私たちの限りある目から見てどうなんだ、ということではなく、神の目から見てどうなんだ、ということです。その神の目で見ることができる事柄というのは、聖書を通してでなければ知ることができません。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、日々聖書を繙いて、自分自身でまたは信仰の兄弟姉妹たちと一緒に御言葉に触れる時を持つことは大事です。もちろん、礼拝の説教を通して触れることも大事であることは言うまでもありません。

最後に、ルターが罪の汚れを持つ人間が清くされるということはどういうことかについて教えているので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。ルターが解き明かそうとしている聖句は、詩篇519節でダビデ王が神に「私を洗い清めて下さい。雪よりも白くなれるように」と嘆願しているところです。

 「罪を持つ人間はどのようにして雪よりも白くなれるだろうか?答えは以下の通りである。人間には霊的な部分と肉的な部分がある。聖パウロが教えたように、人間には肉的な汚れと霊的な汚れがとどまり続ける。霊的な汚れとは何か?それは、罪の赦しを与えて下さる神の恵み深さを疑うこと、信仰の弱さ、神に対して不平不満を抱き、苦々しい思いに自分から留まってしまうこと、以上まとめて言えば、神が我々にどれだけ良くしようとしてくれているかという御心を知ろうともせず理解しようともしないということ、これが霊的な汚れである。肉的な汚れとは、悪い欲望、敵意殺意、盗もうとする心、憎む心、妬みや羨望の眼差し、その他同類のもの全てがそうである。
 キリスト信仰者とはどんな者かを正しく評価する際には、信仰者が自然の状態ではどんな者かを見てはならない。なぜなら、その場合、信仰者の中に何も清いものは見いだせないからだ。そうではなくて、キリスト信仰者というのは、聖霊の力で新しく誕生した者として観察しなければならない。この新しい誕生は、人間の力では成しえないものである。それを成し遂げて下さるのは、神をおいて他にはいない。
 この新しい誕生が起きる時、人間は雪よりも白くなるのであり、その時、罪を受け継いでしまった最初の誕生はもはやキリスト信仰者を損なうことはない。たとえ信仰者にはまだ汚れが残っているにしても、損なうことはない。主なる神はただ、洗礼の時に信仰者に着せられた白い衣にしか目を留められないのである。白い衣とは、新しく誕生した者の信仰であり、その者を清く飾りつけるために流された神の愛するひとり子の清く神聖な血である。このようにして洗礼の時に着せられる衣は雪よりも白いのである。
そういうわけで、キリスト信仰者とは、自然の状態ではまだ汚れを持つものであるが、洗礼と聖霊がもたらした新しい誕生を経て、イエス様を救い主と信じる信仰にあって、まさに主を衣のように着せられた、雪よりも白い者なのである。」

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン