2013年12月27日金曜日

天上の喜びの歌 (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

降誕祭前夜礼拝説教 2013年12月24日
スオミ・キリスト教会

イザヤ書9章1-6節
ルカによる福音書2章1-20節

説教題 「天上の喜びの歌」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                               アーメン

1.

本日1224日は「降誕祭前夜」、日本では英語の言葉をカタカナにした「クリスマス・イブ」と一般に言われる日です。「降誕祭」すなわち「クリスマス」は明日の1225日なので、イエス様は1224日から25日の夜にかけて誕生したということが、キリスト教会の伝統として受け継がれてきました。

実は、イエス様がこの世に誕生した年月日というのは、歴史資料に限りがあるため、100パーセント正確に歴史学的に確定はできません。しかし、それでも、手掛かりはいろいろあります。例えば、先ほど朗読されたルカ伝福音書2章の初めに、ローマ皇帝アウグストゥスの勅令による住民登録があります。当時ユダヤ人にはヘロデ王という王様はいましたが、独立国としての地位は失っていて、それはローマ帝国の統治下に置かれる属国でありました。ローマ帝国は、大体14年毎に徴税のための住民登録を行っていました。それで、ユダヤ人も帝国の住民登録の対象になったのであります。ヘロデ王の国はローマ帝国シリア州の管轄下にあり、その総督であったキリニウスは西暦6年に住民登録を実施したという記録が残っています。しかし、それ以前のものについてはありません。それでも、ヘロデ王が紀元前4年まで王位にあったことや、ローマ帝国は定期的に住民登録を行っていたことから逆算すると、イエス様のこの世の誕生は紀元前67年という数字が有望になるのであります。

イエス様が誕生した日にちについては、西暦400年代にキリスト教会が1225日に降誕祭をお祝いし始めたことに由来します。他方で、もっと以前の西暦100年代には16日が顕現日に定められて、今日に至っています。顕現日というのは、当初は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記念する日、それにイエス様の誕生も祝う日でありました。西暦100年代と言えば、まだイエス様の出来事の目撃者の次の世代が生きていた時代です。目撃者の証言は、まだ昨日の出来事のように語られていたでしょう。降誕祭に採用されたのが、なぜ16日でなくて1225日になったのかは明らかではありませんが、いずれにしても、イエス様の誕生が真冬の季節だったことは、初期のキリスト教会の中では当たり前のことだったと言えます。

2.

ところで、降誕祭、クリスマスというのは、一見すると過去の出来事を記念する日のように見えます。しかし、キリスト信仰にあっては、そこには未来に結びつく意味もあります。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからであります。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあるのです。その意味で、降誕祭という日は、主の第一回目の降臨を思い起こして、イエス様という神の人間に対する大いなる贈り物に感謝しながら、実は未来の再臨にも心を向ける日なのであります。救い主の誕生記念にあやかって、今年もおいしいものをたくさん食べた、贈り物もたくさんもらった、めでたし、めでたし、と満足で終わってしまうのではなく、毎年、再臨の日は一歩一歩近づいていくのだから、私たちは身も心もそれに備えるようにしようと心を正す日でもあるのです。

イエス様の再臨の日とは、聖書に従えば、この世の終わりの日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。イエス様は、そのような再臨の日がいつであるかは、父なる神以外には誰にも知らされていない、と言われました。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことであると教えられました。「目を覚ましている」とは、私たちが日々の人生をしっかり生き、各自が持つ課題とか、世話をしなければならない人とか、そういったものは神が私たちに与えたものだから、しっかり取り組んだり、世話したりする。そのように日々の人生をしっかり生き、同時に心のある部分は将来の主の再臨にも向けられていて、身も心もしっかり再臨に備えるようにする。これが、「目を覚ましている」ということです。イエス様の再臨が起きるのは、私たちが死んだ後になるかもしれません。経験から見て、その可能性が大きいように思われます。しかし、その場合でも、再臨の日が来れば、すでに死んだ者も復活させられるのですから、それで、この世の人生でしっかり生きること、しっかり「目を覚ましていること」は無意味でも無駄でもなんでもないのであります。

イエス様は、御自分が再臨する日について、神の栄光に包まれて、天使の軍勢を従えて、この世に到来すると約束されました。天使の軍勢とは、先ほど朗読されたルカ伝2章に登場した天使の軍勢を指します。この天使たちは声に出して「天には栄光、神に」と謳いました。まさにこの栄光に包まれて、イエス様は天使の軍勢を従えて再臨されるのであります。イエス様の第一回目の降臨には、再臨の基本的な準備は既に出来ているのであります。

3.

ところが、イエス様の第一回目の降臨は、再臨の時のような壮大かつ威厳と畏怖に満ちたものではありませんでした。全く正反対に、惨めで貧しく憐れなものでした。神の栄光と天使の軍勢を伴ってしかるべき方が、家畜小屋で出産され、家畜の餌を入れる桶に寝かせられるのであります。家畜小屋がどういうところか、皆さんは想像がつくでしょうか?私は、妻の実家が酪農業を営んでいるので、休暇でそこに行くと子供と一緒に牛を見に行きます。牛舎は、栄養や水分補給がコンピューター化された近代的なものですが、糞尿の臭いだけは現代技術をもってしてもどうにもならない。10分位いるだけで、臭いは服にしみつき、後で周りの人にも、牛舎に行ってきたなとすぐ気づかれるほどです。

神のひとり子であり人間の救い主である方が、なぜこのような形で地上に誕生しなければならなかったのでしょうか?ここで、神が人間として誕生したということに目を向けてみましょう。聖書に従えば、神とは、天と地と人間を造り、人間に命と人生を与える造り主です。この造り主とそのひとり子、そして神の霊である聖霊の三つを除いた全ての万物は、神に造られたもの、被造物であります。この造られたものには、私たちの目に見えるものも、また目に見えない霊的なものも全て含まれます。天使たちも被造物なのであります。

人間に命と人生を与える造り主が、なぜ、自ら被造物の姿となって誕生しなければならなかったのか?もし、このことが起きなかったならば、神はずっと天上にふんぞり返っているだけの存在です。しかし、それでは神と人間の間を支配していた敵対関係を終わらせることはできません。神は、人間が再び神と平和な関係を持てて、神との結びつきのなかで生きられるようにしようとしました。そのためにひとり子をこの世に送り、敵対関係を終わらせるための犠牲の生け贄になってもらった。これがゴルガタの十字架の出来事です。さらに、神は、一度死んだイエス様を蘇らせることで、復活が実在することも示されました。これらのことを全て実現するためには、被造物の力はあまりにも無力でした。本物の犠牲が必要でした。それがイエス様だったのです。イエス様が本物の犠牲になれたのは、彼が通常の男女の性関係から生まれてくる全くの被造物でなかったからでした。聖霊の力が処女マリアに作用して受胎・妊娠が起きて生まれた。そのようにして、イエス様は、神としての性質は保ちながら、人間の肉体と魂を得たのでした。イエス様が犠牲の生け贄になったというのは、まさに神自身が、人間との間に和解をもたらすために、自ら人間に歩み寄って自らを犠牲にしたということなのであります。

4.

それでは、神の御子イエス様が人間として生まれる時、なぜ家畜小屋での出産というような惨めな形をとらなければならなかったのか?聖書を読んでいくと気づかされることですが、永遠の存在者である神は、限りある私たち人間に影響力を及ぼす時、人間界にある諸条件の中でそうしようとする傾向が強いと言えます。人間界の諸条件の枠をつき破るように影響力を及ぼそうとすると、奇跡が起きるのであります。人間界の諸条件の中で影響力を及ぼすというのはどういうことかと言いますと、イエス様の誕生に即していうと次のようになります。紀元前6年頃、現在パレスチナと呼ばれる地域にて、かつてのダビデ王の家系の末裔だったヨセフはナザレ町出身のマリアと婚約していた。そのマリアは神の奇跡のために妊娠していた。その時、彼らユダヤ人を支配していた異国の皇帝が支配強化のために住民登録を命じた。近々世帯主になるヨセフはマリアを連れて自分の本籍地であるベツレヘムに旅立った。そこでマリアは出産日を迎えた。以上をもって、救い主がダビデ王の家系から生まれ、その場所はベツレヘムである、という旧約聖書の預言が成就されたのであります。

出産場所が家畜小屋だったということも、直接の原因は、その夜ベツレヘムの宿屋はどこも満員でヨセフたちが泊まれる場所がなかったためでした。ところが、天使は羊飼いたちに、生まれたばかりの救い主は飼い葉桶にいる、それが赤子が救い主であることの印であると知らせました。このヒントのおかげで、羊飼いたちは、家畜小屋を探せばよい、とわかったのであります。もし、救い主が生まれたとだけ告げられたら、どこを探せばよいのか途方に暮れたでしょう。仮に誰かの赤子は見つけられたとしても、その子が天使の言った救世主であるとどうやって確かめられるのか、雲を掴むような話になったでしょう。

こうなると、家畜小屋での出産というのは、神が最初から仕組んだことのようにさえ見えます。最初から仕組んだとは言えなくとも、まず、ヨセフとマリアの動向をしばらく状況の荒波に委ねて、その結果、家畜小屋になってしまった。そこで神は、このことを天使を通して羊飼いたちに告げさせて、羊飼いたちにイエス様を探し当てさせた。そして、町の人たちやヨセフとマリアに、天使が言ったことを伝えさせた。人々は天使など見ていませんから、反応はただ驚くだけで、半信半疑だったでしょう。ところがマリアは、天使ガブリエルから何が起きるかを既に知らされていたので、羊飼いたちの言うことは心に留めたのであります。羊飼いたちがやってきたことで、ヨセフとマリアは、家畜小屋においやられてしまったという不運は実は不運でもなんでもなかった、惨めな出産と夜明かしだったけれども、神は絶えず目を注いでいて下さっている、ということがはっきりしたのであります。

このように、神は、仮に私たちの人生の歩みをすっかり状況の荒波の中に委ねてしまって、何も助けてくれない、状況の改善のために何もしてくれないように見えても、実は私たちの手綱をしっかり握っていて離すことはないのであります。必ず、神の意思に沿うようなことが後で起きるのであります。

5.

 最後に、羊飼いたちの心の有り様の変化を見ていきたいと思います。天使が目の前に現れた時、羊飼いたちは大きな恐怖に襲われました。この天使の後に、今度は大勢の天使たちからなる天の軍勢が現れました。一人の天使の出現でさえ恐怖だったのに、天使の大軍勢はそうならなかったのであります。どうしてでしょうか?ひとつには、天使が生まれたばかりの救世主について教え、かつそれを見つけに行くように促したことがあります。羊飼いたちの目は、目前の光輝く天使から、生まれたばかりでまだ見たことのない赤子へと方向転換したのであります。

それから、天使の大軍勢が神への賛美として口にした文句も一役買っています。これは、不思議な文句です。原語のギリシャ語のテキストを見ると、名詞と前置詞と接続詞から成る文句です。動詞が全くないので、正確な文ではなく、何か詩のような形です。もともとは羊飼いたちが理解できる言葉だったので、天使の大軍勢はアラム語で賛美したのでしょう。あるいは、天上の言葉を使い、それを羊飼いが心で理解して、アラム語で周りに伝えたのかもしれません。いずれにしても、イエス様に関する記録は全て、最初アラム語で口伝えにされたり書き記されたりしましたが、キリスト教が地中海世界に広がっていった時にことごとくギリシャ語に翻訳されてしまい、私たちの手元に残っているのはギリシャ語のテキストだけです。これを手掛かりにしてみていくしかありません。

この天使の大軍勢の文句は、2つの部分からなります。最初の部分は、神の栄光について。次の部分は平和についてです。私たちの日本語訳の聖書「いと高きところには栄光、神にあれ」の「いと高きところ」とは、神がおられる天上そのものを指します。「神にあれ」ですが、そもそも天上の栄光というものは、天使たちが「あれ」と願わなくても、もともと神に属するものなので、「あれ」と訳すより、「ある」とすべきです。従って、ここは、「天上の栄光は、神のものである」というのが正確でしょう。

「地には平和、御心に適う人にあれ。」地上の平和は、天使たちが「あれ」と願ってもいいのかもしれません。「御心に適う人」と言うのは、まさに「神の御心に適う人」であります。「平和」は、普通、戦争がないとか、社会が平穏であるとか、そういう外的な平和を思い浮かべます。しかし、ここでは、先ほども述べましたように、神と人間の関係が和解した、神と人間の間の平和を指します。この平和は、イエス様が十字架で御自身を犠牲の生け贄として捧げた時に実現します。そして、イエス様を救い主として受け入れた者たちが、この平和を持つことができます。この者たちが「神の御心に適う人たち」なのであります。この平和は、たとえ外的な平和が失われた時でも、また人生の歩みの中で困難や苦難に遭遇しても、イエス様を救い主と信じる限り、失われることのない平和であります。そういうわけで、天使の軍勢の賛美の詩は、次のようになります。「天上の栄光は神のもの。地上では平和は神の御心に適う人たちに。」

天使の大軍勢は、この賛美の詩をどのように唱えたのでしょうか?詩を朗読するように訥々と唱えたのでしょうか?それとも大規模なコーラスのように歌い上げたのでしょうか?確認の術はありません。少なくとも、人間ではない者たちの大軍勢であったにもかかわらず、羊飼いたちの恐れを吹き飛ばすものであったことは否定できません。ところで、日本では年末になるとベートーベンの第九が各地で響き渡ります。第九は、どんなに気持ちが沈んでいても、それを吹き飛ばして気持ちを喜びに満たす力がある曲だということは、誰しもが認めるでしょう。地上の一天才が生み出した音楽がそのような力があるならば、天上の創造主が天使の大軍勢に唱えさせた賛美の詩は、それを幾重にも上回る力があると言ってよいでしょう。皆様も、第九を聴いて深い感動と喜びに満たされたら、それは神が与えて下さる喜びのさわりの部分のようなものなのだと言い聞かせてみて、神の喜びのとてつもなさを予感してみて下さい。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン