説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2019年9月15日(聖霊降臨後第14主日)スオミ教会
出エジプト記32章7-14節
テモテへの第一の手紙1章12-17節
ルカによる福音書15章1-10節
説教題 「心の耳を澄ましてごらん。天上の歓声が聞こえてくるから。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書の個所は、イエス様の二つのたとえの教え、「見失った一匹の子羊」と「無くした一枚の銀貨」の話です。子羊のたとえでは、100匹の羊のうち1匹がはぐれてしまって、持ち主が探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びで帰り、友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話です。肩に担いだとありますから、羊は衰弱していたかケガをしていたでしょう。見つかって本当に良かったと思わせる情景です。銀貨の方は、持ち主の女性が10枚のうち1枚を無くして、探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びし、これも友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話でした。
二つの話は、状況は異なりますが、主題は同じです。見失ったもの無くなったものを、一方は広い野原を果てしなく、他方は狭い家の中を隅々まで必死に探して見つけ、その喜びはとても大きいので多くの人と分かち合いたい、それくらい大きな喜びであると。そこで大事なことは、この二つのたとえは何についてのたとえなのかをわかることです。二つのたとえの終わりに同じ結論で結ばれていることに注目しましょう。一人でも罪びとが悔い改めたら、天の御国では大きな喜びが沸き起こる。「罪びと」というのは、天地創造の神の目に相応しくない者をいいます。「悔い改め」というのは、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の意思に沿うように生きようとすることです。イエス様がこの二つのたとえで伝えようとしているのは次のことです。罪びとがそういう方向転換をして神の許に立ち返る生き方をし始めた時、神のおられる天上では大きな喜びが沸き起こる。天使たちも歓声をあげる。罪びとというのは、たとえの羊や銀貨のように見失われてしまったもの無くなってしまったものと同じなのだ。しかし、方向転換をしたら神に見つけてもらった者となって、その時天上では大きな喜びの歓声が沸き起こるということです。
実は、この二つのたとえはその次に来る、有名な「放蕩息子」のたとえの伏線して語られます。つまり、イエス様は「放蕩息子」のたとえが理解できるためにこの二つのたとえを先に話したのです。従って、「放蕩息子」のたとえが正確に理解できるためには最初の二つのたとえと一緒にみなければなりません。一般的に言って、イエス様の教えを正確に理解しようとしたら、その教えが言われているテキスト上のコンテクストと歴史的時代的コンテクストの両方を見なければなりません。教えをそれらのコンテクストから切り離して、いろんな人間的な分析を加えて解釈しようとすることも行われますが、そうやって出てきた解釈は、人間的には感動を与えるものでも、本当にイエス様が伝えたかったものと同じかどうか判断、評価できないといけません。ひょっとしたら全然関係ないものになっているかもしれません。もちろん、教えをコンテクストから切り離したら、絶対イエス様と無関係な理解になるとは申しません。関係あるかどうか判断、評価できるため、まずイエス様が本当に伝えたかったことをコンテクストに基づいて理解することから始めなければならないでしょう。
2.コンテクストに密着してイエス様の教えをみる
それでは、羊、銀貨、放蕩息子の3つのたとえが一緒に語られたコンテクストはどんなものだったかを見てみましょう。ファリサイ派と律法学者という、当時のユダヤ教社会の宗教エリートがイエス様の行動をみて度肝を抜かれました。あの、預言者の再来のように言われ、群衆から支持されている男が何をしているか見ろ、神の意思に反する生き方をする罪びとどもと交流し一緒に食事までしているではないか!当時は、一緒の食事というのは親密な関係にあることを示すものでした。エリートたちの批判を聞いたイエス様は、それに対する反論として3つのたとえを話します。つまり、羊、銀貨、放蕩息子の話は自分の行動を正当化するために話されたのです。これが、テキスト上のコンテクスト、出来事上のコンテクストです。
さらに時代的歴史的コンテクストに踏み込んでいきましょう。一つの手がかりとして、E.P.サンダースという歴史聖書学者が1986年に出した「Jesus and Judaism」という有名な研究書があります。タイトルを日本語に訳したら「イエスと第二神殿期ユダヤ教社会」ということでしょうか。何がこの書物を有名にしたかというと、ナザレのイエスの思想と行動を当時のユダヤ教社会のコンテクストにどっぷりつけて分析したからです。それまでは、とかくイエス様をユダヤ教から切り離す仕方で理解することが主流でしたから、この書物は歴史的イエス研究の方向を大きく変えるのに一石を投じました。
ただし、画期的な書物ではありますが、問題もいろいろあります。外国の有名な影響力ある本だからと言って、なんでもハイハイと言って無批判そのまま受け売りする必要はありません。本日の個所に即してみますと、イエス様が罪びとと交流したことが宗教エリートの反感を買って、それが後の十字架刑の一因になったなどと言っています。サンダースの主旨はこうです。イエス様が悔い改めも何もしない、罪びとをそのまんま受け入れて一緒に飲めや歌えやの大騒ぎをしていた。つまり、イエス様というのは、反体制の姿勢を示すやり方としてわざとエリートに嫌悪感を引き起こすようなことをしたということです。
ほんとうにそうでしょうか?悔い改めも方向転換もしない、罪びとのままの者たちをイエス様はそのまま受け入れて交流したのでしょうか?羊と銀貨のたとえの結論を見て下さい。一人の罪びとが悔い改めれば、天上では大きな喜びが沸き起こる、と言っています。つまり、イエス様が罪びとたちと食事を共にしているのは、実にこの天上の喜びを体現するお祝いとして行っていたのです。つまり、イエス様のまわりの席についている罪びとは、悔い改めて方向転換した「元罪びと」なのです。
イエス様が神の意思に反する罪を認めないということは福音書の各箇所で明らかです。罪びとを方向転換なしで受け入れたということはありません。ヨハネ8章でイエス様は、姦淫の罪のために石打ちの刑に晒された女性を助け出しました。その時、イエス様は何と言いましたか?これからは、もう罪を犯してはならない、と言っています。罪は犯してはいけないのです。神の意思に反することはいけないのです。姦淫くらいいいんだよ、などと罪を許可したのではありません。そうではなくて犯した罪については不問に付してこれから方向転換して生きる可能性を与えたのです。
それでは、イエス様の周りに集まったのが元罪びとならば、なぜ宗教エリートたちは彼らの方向転換を一緒に喜んであげられなかったのでしょうか?そういう疑問が起きると思います。そこで、神の目に相応しくあるということについて、イエス様とエリートたちの考えには180度の違いがあったことに気づく必要があります。エリートたちからすれば、律法の掟をしっかり守って、その守っていることを行為行動でしっかり示さないと神の目に相応しくない。この点に関して、イエス様の教えと行動には私たちの理解と常識を超えたものがありました。まず、十戒の掟は外面的な行為行動で守ってもだめだ、心の中でも守れていなければならないと言います。女性をみだらな目で見たら、もう第七の掟「汝、姦淫するなかれ」を破ったことになると言うのです。全ての掟についてそうならば、神の意思に沿える者など誰もいなくなるでしょう。。神の許に立ち返るなんて無理だと誰もが思うでしょう。人によっては馬鹿馬鹿しいと思うかもしれません。でも、そんなこと言ったら、#MeToo運動はいつまでたってもなくなりません。人間には方向転換が必要なのです。でも、どうやってそれは可能でしょうか?
そこで、イエス様が罪びとを受け入れると、罪びとに方向転換が生まれる、そんな受け入れ方をイエス様はされたことに気づきましょう。ルカ19章のザアカイの話を覚えていますか?イエス様が受け入れるや否や、ザアカイは不正で蓄えた富を捨てる決心をしました。イエス様が罪びとを受け入れて食事を共にしたのは、彼らの神の意思に反する生き方をよしとしたのではありません。また、気高く留まったエリートたちの鼻を明かす乱暴なパフォーマンスでもありません。罪びとに方向転換を生み出す行動であり、一緒の食事は方向転換が生まれたことを喜び合うお祝いだったのです。
3.イエス様の受け入れが持つ力
イエス様が受け入れると方向転換が生まれる、そんな受け入れ方をイエス様はされたのだということは、三つ目のたとえの放蕩息子の話にも暗示されています。放蕩息子は、異国の地で飢え死にしそうになり、故国の父親のもとに帰る決心をする。そこには食べ物が豊富にあるというのが帰る動機になっています。もちろん父親に迷惑をかけた以上は、以前のようにたらふく食べさせてもらうというのは虫が良すぎる。そこで自分の愚行は神に対する罪であったと告白して、雇い人にしてもらうことを条件に愚行を赦してもらおう。そんなふうに父親の前で言うべき言葉を考えて帰国の途につきます。ところが帰ってみると、父親は怒りもせずお仕置きもせず、ただただ息子の帰郷を心から喜び彼を両手で抱きしめて受け入れます。息子は考えていた言葉を、罪の告白まで言ったところで遮られます。父親はその後はもう言わなくてもいいと言わんばかりに召使いたちに祝宴の準備を命じます。その言葉とは、雇い人にして下さいという条件でした。息子は条件付きで受け入れられることを期待していましたが、父親は無条件で受け入れると言ったのです。息子が帰国を決めた時、またたらふく食べられたらいいがそれでは虫が良さすぎる、だから条件を示そう、そういうふうに後悔と方向転換の心にはいろんな動機や打算が混じっていました。ところが、父親に無条件で受け入れられた瞬間、後悔と方向転換から余計な混ざり物が削ぎ落されて、後悔と方向転換は純粋なものに変えられたのです。受け入れることにそのような力があったのです。
もちろん、イエス様に無条件で受け入れられることがそのような力の発揮に結びつくためには、受け入れられる側でも何かがなければなりません。それは何か?ザアカイの場合は、一目イエス様を見なければならないという思いがありました。なぜそんな思いがあったかは記されていませんが、不正に貯えた富が関係していたことは間違いないでしょう。というのは、イエス様に受け入れられてそれを捨てる決心をしたからです。放蕩息子の場合は、お腹が空いた、自分は愚かだった、雇い人にしてもらうことで家に入れてもらおう、と純粋ではなかったかもしれないが後悔と方向転換の心がありました。それが、無条件で受け入れられて、後悔と方向転換から不純物が取り除かれました。イエス様の周りに集まった元罪びとたちも同じだったでしょう。自分は神の意思に沿う生き方ができないでいる、宗教エリートの言うやり方で外面的な行為行動で神の目に適う者になれる力はない、なぜなら心に弱さと汚れがあるからそんな力は生まれてこない。そういう思いがあった。まさにそんな時に「あなたの罪は赦される」と教えるイエス様が登場した。それは一体なんなのか、それが今の自分を変えられるのか、わけもわからずとにかくイエス様のところに行く。そしてイエス様に受け入れられると、純粋な方向転換が生まれたのです。
放蕩息子の帰郷を祝う祝宴は、まさに純粋な方向転換が生まれたことをお祝いするものでした。このお祝いに対して異議を唱えたのが兄でした。彼は、弟の方向転換を不十分としたのです。無条件の受け入れには純粋な方向転換を生む力なんかないという立場です。これはまさに、宗教エリートたちがイエス様の無条件の受け入れを意味なしと見なしたことに対応します。彼らは、イエス様と一緒に食事していた者たちを元罪びとと見なさず現役の罪びととみなしたのです。実に、このたとえを聞いたエリートたちは自分たちを映しだす鏡を示されたのでした。この時、彼らのうち誰がこれに気がついたでしょうか?
4.イエス様に受け入れられた者は天上の歓声を聞く
このように当時の人たちは、自分の状態を変える力があると期待してイエス様のもとに行き、イエス様に受け入れられて、本当に神の方を向いて生きる生き方に方向転換することが起こりました。それでは今を生きる私たちは、自分の内に同じような方向転換が生まれて神の意思に沿うような者になっていくことができるでしょうか?そういう受け入れをする肝心のイエス様が身近にいないので無理ではないか?だから、自分を変えるためには何か別の手段方法を考えて、それを実行しなければならないのか、それとも変える必要なんてない、このままの生き方でいいということになるのか?
実は、全ての人間はもう少しでイエス様に受け入れられるところに来ているのです。ただ受け入れが完結していないので、方向転換が生まれていないのです。どういうことかと言うと、イエス様は神の意思に従いゴルゴタの丘で十字架にかけられるにまかせて死なれました。これによって、人間の罪が神に対して償われました。本当は人間が受けなければならない神罰を、イエス様は全部自分に吸収されるように受けられたのです。イエス様は罪の重荷を私たちに代わって担われ、自分を犠牲にして本当は受ける必要のない神罰を受けられたのです。全ては、人間が神に背を向けた生き方を方向転換をして神の意思に沿うように生きようと、そういう心を生み出すためになされたのでした。
どういうことかと言うと、償いのために私たちは何もしていないのに、まるで先を越されたように償いが歴史の中で果たされました。あとは私たち人間が、あのゴルゴタでの償いは本当に起こったのだ、自分の罪の償いもそこで果たされたのだ、と観念して、イエス様こそ自分の救い主と信じたら、イエス様が受け入れるよと言って両手を差し出している中に飛び込むことになります。ただし、飛び込んでもイエス様の両腕の中にしっかり留まることが出来なければなりません。この世には、こっちの腕は甘いぞ、と言って誘いをかけてくるものが沢山あります。洗礼が大事なのはこのためです。洗礼は、イエス様に受け入れられたことを神の目に焼き付けます。そうなると神は、洗礼を受けた者が道を踏み外さないように常時見守り、支えて助けて下さらないではいられません。このように、イエス様の十字架の業は、来なさい、お前たちを受け入れるよ、という掛け声のようなもので、信じて洗礼を受けるというのは、その声に応えてイエス様の受け入れに飛び込んでそこに居を構えることです。このようにイエス様の受け入れが完結した人は、あの女性のように、罪を不問にされてこれからは神の意思に沿うように生きなければと志向して生き始めます。一過性ではない大規模な方向転換が起きるのです。この時、天上で喜びの歓声が上がります。
ただ、洗礼を受けたと言っても、この世にはイエス様の受け入れから引き離してやろうという力が沢山働いていますから、信仰者は苦しい戦いを強いられます。神は常時見守り支え助けてくれるなどと言いながら、全然そう感じられないということが起きてきます。しかし、そのような時は心の目をいつもゴルゴタの十字架に向けます。そこには罪の償いが果たされたので自分の罪は確実に赦されているということが微動だにせずしっかりあります。それを確認できたら、神と自分の間には何も問題はない、だから、神は今のこの時も見守って下さっているとわかります。詩篇23篇で言われるように、「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、災いを恐れじ、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」という心境でトンネルの出口を信じて進んでいきます。
キリスト信仰者のこのような歩みにとって聖餐式は重要です。というのは、聖餐式には霊的に弱い私たちを強める栄養があるからです。神の意思に沿うように生きねばと思っても自分の力ではダメだと思い知らされる。十字架に目を向けてもなんだかかすんでしまう。どうか私に力を与えて下さい、澄んだ目を与えて下さい、と唱えて聖餐式に臨むと、主は「よく来たね。しっかり食べて行きなさい」と言って与えて下さいます。聖餐は力と澄んだ目を与えてくれるものと信じて受ける時、その者に本当に与えるものになって受けた者は力と目を与えられます。その時、天上では歓声が沸き起こります。
そのようにしてキリスト信仰者は、罪を償ってもらい赦してもらいながらも、弱さのゆえに何度も立ち止まりくじけそうになりながらこの世の道を神に守られ支えられて進んでいきます。洗礼の時に大きな方向転換をしたのですが、道を踏み外しそうになって軌道修正をしなければならないことも沢山あります。ただこれらは最初の方向転換を上回るものではありません。最初に比べたら小さな方向転換です。このように、大きな方向転換が打ち立てられても、小さなものが繰り返されるというのは、まだ罪が残っていて、それと戦わなければならないからです。キリスト信仰者は「罪びとにして義人」ですから仕方ありません。しかし、打ち立てられた大きな方向転換は自分から捨てない限り、なくなることはありません。心の目を常にゴルゴタの十字架に見据えている限り、方角を誤らないように神が手を取って導いて下さいます(後注)。
5.そして、天の御国に歓呼の声で迎えられて凱旋する!
やがて、この世を去り、眠りから目覚めさせられる復活の日が来ると、どうでしょう、この世では心の耳をすまして遠くから響いてきたあの天上の歓声が、今まさに目の前で天使たちが手を振って歓呼の声をあげているではありませんか!その情景がイザヤ書35章で次のように描かれています。
「主に贖われた人々は帰って来る。
とこしえの喜びを先頭に立てて
喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを迎え
嘆きと悲しみは逃げ去る。」
兄弟姉妹の皆さん、私たちはまるで凱旋する者のように天の御国に迎え入れられるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注)羊と銀貨のたとえの結論のところで、悔い改める(=方向転換する)罪びとに関して天上では大きな喜びがある、という時、「悔い改める(方向転換する)」の原文ギリシャ語はμετανοουντιで分詞の現在形です。つまり、方向転換がなにか一回限りで、これからはしないで済むというような完璧なものではなく、日々繰り返されるものであることを示しています。そうすると、そういう方向転換を日々繰り返すような生き方に入ることを「大きな方向転換」と言っていいと思います。