説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2016年9月18日(聖霊降臨後第十八主日)スオミ教会
コヘレトの言葉8章10-17節
テモテへの第一の手紙2章1-7節
ルカによる福音書16章1-13節
説教題 創造者である神を畏れることは知恵のはじめ
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日の旧約聖書の日課コヘレト8章10-17節と福音書の日課ルカ16章1-13節はとても難しいところです。まずコヘレトを見ると、12-13節で、罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が長生きしているという現実があるにもかかわらず、本当は神を畏れる人が幸福になり、悪人は神を畏れないから長生きできず幸福になれない、と確信をもって言う。ところが、続く14節で、善人でありながら悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がある、これまた空しい、と言う。さっきの確信はどうしてしまったのか?さらに15節をみると、快楽をたたえる、などと言う。人間には飲み食いして楽しむ以外の幸福はない、快楽は神が人間に与えた人生の日々の労苦に添えられたものだ、などと。まるで、神を畏れて正しく生きようとしても結局いいことはなく、悪を行っても罰せられずに逆にいいことが起こるのだから、快楽に身をまかせてしまった方が意味がある、とさえ受け取られます。なぜこんな書物が聖書の中に収められることができたのでしょうか?
実を言うと「コヘレトの言葉」は、そういう、神を畏れて生きるのは意味がない、だから快楽主義でいいんだ、と言っている書物ではありません。本当は全く逆なのです。この書物のすぐ前にソロモン王の「箴言」という有名な書物があります。その1章7節に「主を畏れることは知恵の初め」と言われます。実は、「コレヘトの言葉」もこれと全く同じ土台に立っているのです。それでは、なぜそう見えないのか?「コレヘトの言葉」も「主を畏れることは知恵の初め」という土台に立っていることは、この書物が書かれた背景をしっかりみればわかってきます。そういうわけで本日は、この「コレヘトの言葉」の日課を正しく理解することに努め、それを通して、私たちが生きる人生の方向性を明らかにしたいと思います。
とは言いつつも、ルカ福音書の箇所もとてもやっかいなところです。イエス様が不正を働いた管理人をほめて、不正にまみれた富で友達を作れ、などとは一体どういうことなのか?この難しい教えについて、いろいろな解釈がなされてきました。そのひとつとして、イエス様は人生の危機の打開のために早急な決断を下すことが大事だと教えている、そう理解する人もいます。しかしながら、素早い決断が危機打開の決め手、優柔不断では危機は乗り越えられない、というのは、なにも神のひとり子がわざわざ天から降ってまでして教えなくても、人間の知恵で十分わかります。イエス様は、人間の知恵をなぞり書きしたりお墨付きを与えるために天の父なるみ神のもとからこの世に送られたのではありません。人間の知恵をはるかに上回る神の知恵を知らしめ、場合によっては、人間の知恵を粉砕して、私たちを神の知恵に服させるために来たのです。
実は、この福音書の箇所は、3年前、本スオミ教会の説教で解き明しをしておりまして、今回それを読み返してみたら、修正する必要がないとわかりました。それで、本説教にてそれをそのまま読み上げてもよいかなと思ったのですが、やはりコヘレトの箇所を今回も放っておくわけにはいかないと思いました。どうしたらよいかと思ったのですが、ルカ福音書の方は、3年前お聞きにならなかった方もいらっしゃるので、短く要点だけをお話ししようと思います。その後でコヘレトの箇所を解き明かしてみたく思います。
2.
ルカ16章1-13節を理解できるために、この箇所で一番大事なポイントを見つけてそこから全体を見渡してみることをしてみます。大事なポイントは最後の13節にあります。神と富の双方に仕えることはできない、ということです。イエス様の教えの主眼は、神こそ仕えるべき主人である、富を主人にしてはいけない、逆に富に対しては主人になりなさい、富を奴隷にしなさい、ということです。人が富に対して主人になるというのは、富を神の御心に沿うように自由に使うということです。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛する、これに沿うように使いなさい、ということです。
イエス様がこのことを教えなければならなった背景には、人が富の主人になれずに、逆に富の奴隷になってそれに仕えてしまって神に仕えられないという状況が一方にありました。他方では、弟子たちの中に、イエス様に付き従うためには富を一切捨てなければならないという考えがありました。しかし、捨てることが出来れば、自分は大決断をしたので神から見返りを与えられて当然だ、という考え方になってしまいました。人間が自分の業で神に指図することになってしまいます。そこで、イエス様は、たとえ富を持っていても、それに対して主人のように振る舞えれば問題ない、その富を神の意思に沿うように用いれば、富を持っていながら神を主人とすることができる、という第三の道を示したのです。
「不正な」富という時の「不正な」という言葉は、元にあるギリシャ語の言葉アディキアαδικιαの使い方を見ると、「神を神とも思わない」とか「神からかけ離れた」という意味を持つことがわかります。富と言うのは本質上、人の心を神から引き離す力を持っている、その意味で富は「不正な」ものですが、それに対して主人として振る舞い、神に対しては仕える者として生きれば、永遠の命に与ることに何も問題はないのです。不正な管理人という、おそらく実際に起きた出来事を題材にして教えることで、そのことが強調されます。
そこで、神に仕えつつも富に対して主人として振る舞うことが本当にできるかどうかということについてですが、十字架と復活が起きる前の段階では不可能に思えたでしょう。しかし、十字架と復活の出来事の後、神はひとり子イエス様を犠牲にして人間を罪の奴隷状態から買い戻した、自由な身にして下さった、そのことがわかってイエス様を救い主と信じる信仰に入った者からすれば、富は色あせたものになり、主人になることができる道が開かれたのです。
3.
それでは、コヘレト8章10-17節の解き明しに入ります。まず「コヘレト」、ヘブライ語でコーヘレトゥקהלתとは誰か?これは人の名前ではありません。1章1節に「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」とあって、ダビデの子供にそんな名前の者がいたかと思われてしまいます。これはヘブライ語の「集める、召集する」を意味する動詞カーハールקהלを名詞化した形と考えられています。ただ、それが具体的に何を意味するかは研究者の間で一致がありません。そこで、旧約聖書のギリシャ語の翻訳をみると、コーヘレトゥは「伝道者」「説教者」を意味するエクレーシアステースεκκλησιαστηςという言葉に訳されています。それで、この書物のタイトルはラテン語でEcclesiastesとなって、英語訳NIVの聖書でも同じタイトルを用いています。スウェーデン語やフィンランド語の聖書でも、これがもとになって「伝道者」、「説教者」を意味する言葉をタイトルにしています。日本語の聖書はヘブライ語の言葉をカタカナにしただけなので、以上の事情が分からないと、ダビデにそんな名前の子がいたと勘違いしてしまいます。
それでは、ダビデの子でエルサレムの王になった「コヘレト」とは誰かというと、これは紛れもなくソロモン王であります。それでなぜ、そうはっきり言わなかったのか?すぐ前の書物「箴言」ではソロモン王の名が冠せられているのに。この書物を読むとたいていの方は、とても悲観的なことが書いてあるという印象を持ちます。本日の箇所をみても、神を畏れる生き方をしても悪い報いが起き、悪を働いても罰も受けずに長生きしているのが現実だ、全ては空しく、だから快楽に身を任せていいのだ、と言っているように見えます。とても「箴言」を著した同じ人物の書物には思えません。人によっては、ギリシャ哲学のいろんな潮流の影響をみる向きもありますが、そうなるとこの書物はソロモン王のずっと後の時代に成立したことになります。
このように、この書物の趣旨を悲観主義とみなすと、ソロモン王と関係ない書物になってしまうのですが、実は関係があるのです。フィンランドのA.ラートという旧約聖書学の教授は、「コヘレトの言葉」のような書物がなぜ旧約聖書の中に収められたかということについて次のように述べております。この書物はユダヤ教の伝統の中で古くからずっと権威ある地位を持っていた。その伝統の中で同書は、晩年のソロモン王が自分の犯した過ちを振り返ってそれを悔い、神への畏れに基づく真の知恵に再び戻った、そういう内容の書物である、そう理解されてきた。それでこの書物はユダヤ教の伝統の中で紛れもなく聖書の一つとなりうる、権威ある書物と見なされてきたのである。
ソロモン王が犯した過ちとは何か?ソロモン王と言えば、たいていの方は、ダビデ王の後を継ぎイスラエル国家の全盛期を築いた人物、エルサレムの大神殿を完成させ、彼が神の御前で祈った祈りは、聖書の神を信じる者にとって祈りの模範と見られています。王はまた、神から知恵を授けられ、それに基づいて国民を指導し、周辺諸国の王たちもソロモン王に聞き従い、貢物を携えて王のもとに出入りした。エルサレムは、諸国がもたらした財宝で溢れかえった。まことに神から大きな祝福を受けた王でした。
ところが、この後で何が起こったでしょうか?列王記上11章を見ると、状況が一変します。ソロモン王は、諸国から女性を招いて妻にしたり愛人にします。11章3節をみると、王妃が700人、側室が300人、合計1,000人いました。これは文字通りハーレムです。実は、この1,000人の女性のことは、コヘレト7章28節に言及されています。いったい、「汝、姦淫するなかれ」という十戒の第六の掟はどうなってしまったのか?女性が未婚者であれば不倫にあたらないと思ったのでしょうか?それとも、相手の女性たちはイスラエルの民に属さないので、十戒は関係ないと考えたのでしょうか?状況を一層悪くしたのは、まさに相手の女性たちが異教の神々を崇拝する他民族出身だったことでした。ソロモン王は、関係を持った女性たちの神々を崇拝し出します。このように、「ソロモンの心は迷い、イスラエルの神、主から離れたので、主は彼に対してお怒りになった」(11章9節)。
そのような経歴を辿ってしまったソロモン王が晩年に過去を振り返り、自分がいつの間にか神の知恵から離れ、自分の知恵、人間的な知恵に頼って生きるようになったことに気づく。真の知恵は神を畏れることから与えられるのに、人間的な知恵に頼ろうとしたのは神を畏れなくなってしまったからだと気づく。そこで、「コヘレトの言葉」の最後に結論として次のように言われます。
「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。」(12章13-14節)
これが、この書物の一番大事なポイントなのです。神を畏れることを止めて、人間的な知恵に頼るようになり、出口のないトンネルに入ったようになって、悩みに悩んで悲観的なことを言って、最後にたどりついたのがこれだったのです。以上のような背景を意識して読むと、本日の箇所も正しく理解できます。
まず、8章10節。これは、とてもやっかいな節です。原文のヘブライ語の文ですが、一番権威ある写本の文が難しく、意味の通る文にしようとして、翻訳によっては違う写本を用いるものもあります。日本語の新共同訳は権威ある写本を用いていますが、この訳でも不十分な気がします。詳しいことはここでは立ち入りません。英語やフィンランド語の訳は違う写本に基づいているので、文の内容自体が日本語と違うものになっています。これも果たして良い解決法かどうか、疑問ありです。スウェーデン語訳の聖書などは、この節は(....)となっていて、もうお手上げです、とさじを投げています。そんな中で、日本語訳は頑張っていると思うので、大体このような意味のことを言っているのだな、という受け止め方でいきましょう。
次に11節から13節までですが、日本語訳では大体こうでした。悪事に対して何も対策が取られなければ人は大胆に悪事を働き、罪を犯し百度も悪事を働いている者が長生きしている、そういう現実がある。それにもかかわらず、私は次の真理を知っている。つまり、神を畏れる人は畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから長生きできないし幸福にもなれない。ところが次の14節では、そういう真理を知っていても、やはり善人でありながら悪人の業の報いを受ける者がいたり、悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がいる、と現実には真理が覆される状況がある、と言っている。これを「空しい」ことと言っています。まるで、神を畏れて神の意思に従って善を行っても、悪人が受けるような報いを受けてしまう、だから神を畏れたり善を行うことは空しいのだ、と言っているようにみえます。ところが、前に述べた背景を考えながら読むとそうでないことがわかります。
(11節から13節までをヘブライ語に即してみると、「にもかかわらず」の前後の文を訳と逆にするのが正確だと思います。つまり、私は、神を畏れる人は畏れるから幸福になり、悪人は畏れないから長生きできないし幸福になれないという真理を知っていたにもかかわらず、対策が取られないので人は悪事を大胆に働き、彼らは長生きしている、そういう現実がある。この不条理な現実の描写が14節でも続き、善人でありながら悪人の業の報いを受ける者がいたり、悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がいる、ということになります。このほうが訳のように行きつ戻りつせずに、すっきりするのではないかと思います。)
「空しい」こととはどういうことか?神を畏れても、善を行っても、あるべき結果と正反対のことが起こるので「空しい」ということなのでしょうか?そうではありません。「空しい」とは「空虚」とか「無意味」ということですが、コヘレトの他の箇所で何度も「空しい」と「風を追うこと」が一緒に使われていることに注意しましょう(2章17節、26節)。「風を追うこと」とは、風をつかまえようとすること、手に入れようとすることです。それは不可能で、やっても意味のないこと、それで空しいことです。そこで、神を畏れる者や善を行う者に相応しい結果が現れないことが空しいというのは、どういうことかと言うと、それは、そういう不条理なことがどうして起きるのか、それを解明したり説明しようとすることが「風を追う」ようなことであり、空しいということなのです。神を畏れることや善を行うことが、空しいとか風を追うことと言っているのではなくて、この世で起きてしまう、不条理な出来事を理解できると思って捉えようとすることが空しいのです。「空しい」のもとにあるヘブライ語の言葉ハ-ベルהבלですが、英語NIVでは「無意味」、フィンランド語では「無駄なこと」と訳されています(スウェーデン語では「空っぽ」、「空虚」)。
そこで、もし、不条理なことを人知で解明できると思ってそれをしようとすると、神は全知全能で愛と恵みに満ちた方という考えと衝突することになります。神はやはり全知全能ではなく力に限界があったのだ、とか、神は首尾一貫性がなくて気まぐれなのだ、とか、そういう神の本質を疑う考えが出てきてしまう。人間の理性や知恵で答えを出そうとすると、神がそれらで捉えられる存在に貶められて、神を人間と同じレベルで考えてしまうのです。場合によっては、神など存在しないのだ、という無神論の考えも出て来るでしょう。または天地創造の神ではだめだ、別の神がいいんだという考えも出るかもしれません。ソロモン王がどうして異教の神々を崇拝するようになったかを考える時、好きになった女性たちが崇拝しているので、情欲と一緒に目が曇らされて流されてしまったということかもしれない。または、自分は知恵に満ちた者だ、解明できないことは何もない、と驕りだして、そこで神を畏れても不条理なことが起きるという問題を人間的な知恵で解明しようとして行き詰り、天地創造の神に疑いを持つようになった。その隙を、女性たちが崇拝する異教の神々にうまく突かれてしまったのか。いろんな推測ができます。
いずれにしてもソロモン王は、人間の知恵と能力で神のなさることの全て、特に人間の目では理に適わないと思えることを解明しようとすることは、空しい、風を追うようなことだということがわかったのです。16-17節で王は、神のすべての業を観察したが、太陽の下に起こるすべてのことを人間は解明できない、どんなに労苦し追及しても出来ない、賢者が自分はわかったと言っても本当は解明できていない、と断言しますが、これが空しいこと、風を追うことなのです。神を畏れ神の意思に従って善を行うことが空しいのではありません。
15節をみると、空しいから快楽をたたえる、などと言っていますが、そんな訳だと悲観主義の刹那主義になります。そうではありません。まず「快楽」と訳されているヘブライ語の言葉シムハーשמחהは、そんな強い意味はなく、ただの「喜び」です。人生の日々の労苦の中で食べたり飲んだりできるという喜びを讃える、ということです。神を畏れ神の意思に沿って善を行っても良いことがかえってくるとは限らず、正反対なことさえ起きる。それは人間の能力では解明できない。風を追うようなことだ。そんな中で良いことが確実にあるとすれば、それは飲んだり食べたり、また他の具体的な喜びがそれで、それらは人生の日々の労苦の中にあっても人について来るものである。神が人間に人生を与える以上、そうした喜びも神から与えられるものである。そういうわけで、こうした喜びを味わうというのは神に感謝して行う、そういう謙虚な慎ましい喜びです。神に背を向けて大胆に快楽に走ることではありません。9章9節に「太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい」というのも同じことです。ここで「妻」とは単数形で一人の妻です。ソロモン王が正気に返ったことがわかります。
4.
解明不可能な不条理なことばかりで労苦を強いられるこの世にあっては、神を畏れることが全てだ、というのが「コヘレトの言葉」の結論でした。それでは、神を畏れたら、こうした難しい問題の解決になるのか?そもそも、神を畏れるとはどういうことか?
人間の知恵で不条理なことを解明しようとすると神を人間のレベルに引き下げることになる、と先ほど申し上げました。そのようなことをすると、神を畏れることを止めることになります。神を畏れるとは、大体次のような心意気になることです。
神は全てを知っている。私そのものについても、私の身に起こることについても全て、私以上に知っている。なぜなら、神は私を造り私に命と人生を与えた永遠の創造者だからだ。しかし私は造られた者で限りある存在だから、そうした神が知っていることをまさに神が知るように知ることはできない。私が出来ることと言えば、自分に起こる全てのことは神が知っているのだから、知ることは神に任せて、自分は神の意思に沿うように生きるだけだということだ。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するだけだ。知ることを神に任せてもいいと言うくらいに神を信頼しきれるのは、神がひとり子のイエス様を私の救いのために送って下さったことによる。最後の審判の時、「裁きの座で善だけでなく悪をも一切の業を、隠れたことも全て引き出される」とき、私が永遠の死の滅びに陥らないように、私の至らない部分、罪をイエス様に全部負わせて十字架の上まで運ばせて、イエス様がそこで私の罪の罰を代わりに受けて下さるようにしたのが、私の造り主である神であった。それで、私はこの世にあっては絶えず、順境であろうが逆境であろうが、神の守りと導きを受けられるようになった。万が一この世から死んでもすぐに神の御許に引き上げられ、復活の日に永遠に造り主のもとに戻れるようになった。知ることを神に任せて、あとは神の意思に沿うように生きれば、不条理なことの結末と全容は後で必ず目の前に明らかにされる。神がよかれと思われる時に。もし、この世の段階で明らかにされない場合は、遅くとも最終的には復活の日、「全ての目から涙が拭われる」(黙示録21章4節)日に全て明らかにされる。死からの復活があることも、神がイエス様を復活させられたことではっきり示された。もし、知ることを神に任せず、神の意思に沿うように生きなければ、不条理なことは結末を迎えることなく、不条理なままで終わってしまう。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、この世というところは解明できないことだらけですが、このような心意気を持って歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン