説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2013年1月27日顕現節第四主日 横浜教会
エレミア書1:9-12、
コリントの信徒への第一の手紙12:12-26、
ルカによる福音書5:1-11
説教題 「罪の自覚」
私たちの父なる神とイエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
舟も沈まんばかりの大量の魚。それを見たペトロは、イエス様に「私から離れて下さい!私は罪びとなのですから!」と叫んでしまう。なぜペトロはこの時、自分は罪びとであると罪の告白をしたのでしょうか?9節をみると、夥しい大量の魚をみて恐れおののいていることが、そう告白するようになった原因のように書かれています(θαμβος
γαρ περιεσχεν αυτον [.......] επι των ιχθυων [.....])。ペトロは大量の魚を見て何を恐れたのでしょうか?そして、恐れることがどうして罪の告白になったのでしょうか?本説教では、そうしたことを中心にみていきたいと思います。
1.
イエス様はガリラヤ湖の岸辺で群衆に教えを宣べています。教えの内容については触れられていませんが、4つの福音書の記述から、次のような内容であったことは十分に推察できます。つまり、神の国が近づいたこと、人間は罪の赦しを受けて神の国の一員となれるが、その罪の赦しが間もなくメシアの働きで実現すること、そして人間が罪の赦しを得られるためには、神が人間に望んでおられることは何かをしっかり学び、そこから人間は悔い改めて神のもとに立ち返る心を持つ必要があること、これらのことが考えられます。
岸辺には大勢の人が集まってイエス様の教えを間近で聞こうと、どんどん迫ってきます。イエス様のすぐ後ろは湖です。その時、イエス様は岸辺に漁師の舟が二そうとまっているのを目にします。ちょうど漁師が舟から降りて、向こうで網を洗っているところでした。イエス様は、ペトロの所有する舟に乗って、彼に命じて岸から少し離れたところまで漕がせて、今度は舟から岸辺の群衆に向かって教え続けました。ひと通り教えた後で、今度はペトロに命じてもう少し沖合まで漕いで、魚を捕るべく網を投げるよう命じます。
ところがペトロは、夜通し頑張ったが何も捕れなかった、と応じます。夜の暗い時というのは、魚捕りに最適な時なので、それでも何も捕れないのであれば、日中明るい時はなおさら捕れないではないか。ペテロの応答にはイエス様の命令に対する懐疑が窺われます。しかし、すぐそれをかき消すように、あなたのお言葉ですから網を投げ入れてみましょう、と言って言う通りにします。この時ペトロはイエス様のことを、何か上に立つ者、指導的立場にある者を意味する言葉エピスタテースεπιστατηςで呼んでいます。新共同訳では「先生」となっていますが、「先生」を意味する言葉ディダスカロスδιδασκαλοςは使われていません。ペテロはイエス様のことを単に教える人というより、何か上に立って指導的な立場にある人とのイメージがあったのでしょう。それで、職業漁師の自分としては無駄だとは思うが、そのような立場の方がおっしゃるならその通りにいたしましょう、と聞き従うことにしたのであります。イエス様は、既にガリラヤ全土で権威ある教えと奇跡の業によって名声を博しています。ペテロもその噂は耳にしていたでしょう。夜通しやってみて収穫ゼロだったけれども、この方は奇跡も行われる方なので、この期待薄の日中に何らかの収穫があれば、それでも立派な奇跡ではないか、そんな考えがあったのではないかなどと想像したりします。
ところが、結果は何らかの収穫どころではありませんでした。網も破れんばかりの夥しい魚の量。もう一隻の舟が応援にかけつけるも、このままでは二隻とも沈んでしまう位の量の魚で舟は溢れかえります。全く予期もしなかった出来事が目の前に現れました。恐れを抱いたペトロは叫びます。「私から離れて下さい!なぜなら私は罪びとだからです!」その時ペトロは、イエス様のことを先ほどまでの「上に立つ者」を意味する言葉で呼ばず、今度は神を言い表す言葉キュリオスκυριος「主」と呼びます。ペテロの罪の告白は、神に対する告白となったのです。
それでは、ペトロは何に恐れを抱き、そしてどうしてその恐れから神に対する罪の告白をするようになったのでしょうか?ペトロが恐れたのは舟が沈みかけたことではありません。ペトロが金槌でないことは、ヨハネ21章で、復活したイエス様に真っ先に会おうと上着を着けたまま水に飛び込んで岸まで泳ぐ場面があったことに明らかです。ペトロが恐れたのは、いま目の前に起きている信じられない光景の中に神の力が働いたことをみたからです。神の力が働いたのをみたということは、神が自分の間近にいた、ということです。神を間近に見たりすることが人間に大きな恐れを抱かせることは、イザヤ書6章に端的に表されています。ユダ王国が国王国民こぞって神の意思に背くような道を歩んでいた頃、預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃してしまいます。その時、イザヤは「私などは呪われてしまえ。私は滅びに定められてしまったのだから。汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ民の真っただ中に住んでいる者なのに、私の目は万軍の主であり王である神を見てしまったのだから」と悲痛に叫びます。ここには、神聖な神と汚れた人間の間の絶望的な隔たりが一気に明らかになります。神の神聖さには、あらゆる汚れを焼き尽くしてしまう強力な炎のような力が満ちています。イザヤは、神殿の祭壇にあった燃え盛る炭火を唇にあてられ、「お前は悪と罪から贖われた」と宣言されます。イザヤが火傷一つ負わなかったというのは、炭火がイザヤを霊的に清めたことを意味します。人間が真の神を間近に見てしまった場合、その神聖さと全くの対象にある自分の汚れを一気に思い知ることになります。そうなると、神は罪と悪を断じて許さず、焼き尽くすことも辞さない方ですので、そこには当然強い恐れが生じるのです。
2.
人間が神聖な神と全く対照的な存在であると言う時、何が人間をそのような存在にしているのかについて見ていきましょう。創世記3章に人間が罪に陥る堕罪の出来事が記されています。神に造られた最初の人間アダムとエヴァが、悪魔の蛇にそそのかされて、食べてはならない実を食べ、良いことだけでなく悪いこともわかり行えるようになってしまいます。これは、それ自体大きな出来事のようには見えません。単に何か木の実を取って食べたの、食べなかっただのというだけの話のようにみえます。しかし、まさにこの出来事がその後の人間の歴史に重大な影響を及ぼすことになったのです。まず、神がしてはならない、したらこうなってしまうと警告されていたことをあえてしてしまった結果、人間は造り主の神のもとで永遠に平穏無事に生きられる地位を失います。悪魔の蛇の誘惑で、「神のようになれるぞ」と言われ、神に対する驕りと虚栄心が呼び覚まされてしまいました。また、「神は本当はそんなことは言っていないぞ」と言われて、神への懐疑心も呼び覚まされてしまいました。こうして神と人間の関係が崩れてしまったのです。こういうふうに神と張り合ってやろうとか、神について聖書に書かれていることを疑い、ひいては聖書の神の存在さえも疑うというのは、人間の歴史の中でずっと続くことになりました。
人間は神の意思に背くような存在になると、神の意思に背くような行為をしたり、言葉を発したり、考えを持ったりするというような罪を犯す存在になりました。しかしながら、人間の罪というのは、こうした行為とか言葉とか考えとか、具体的な形になって現われるものに限りません。マルコ福音書7章の初めに、イエス様と律法学者・ファリサイ派の人たちとの有名な論争があります。そこでイエス様は、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚して神聖な神から切り離しているのは人間自身に宿っている諸々の性向なのだから、と教えます。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに背反する汚れに満ちている、というのであります。人間に根底的に汚れがあって、それが基となって神の意思に反する悪い行為、言葉、考えの形をとって表に現われてくる、そういう根底的な汚れがあるのであります。
この人間が内在的に有している、神の意思に背こうとする根底的な汚れは、最初の人間から代々受け継がれてきたものであります。フィンランドやスウェーデンのルター派教会では、罪というものをはっきり二つに分類して言い表す言葉があります。ひとつは、「継承する罪」ないし「遺伝する罪」罪です(フィンランド語perisynti、スウェーデン語arvsynd)。もうひとつは「行為に現れる罪」です(「フ」語tekosynti、「ス」語verksynd)。日本語では罪をこのようにはっきり分けて言い表す言葉はあるでしょうか?日本語では「原罪」という言葉があります。アダムとエヴァのもともとの罪である「原罪」は彼ら以後の人間たちも引きずっているので、その意味では「継承」、「遺伝」する罪なのですが、「原罪」という漢字の言葉だけでは、もともとという意味合いが強く出て、「継承する」とか「遺伝する」という意味は見えにくいのではないでしょうか?
いずれにしても、罪には、具体的に現れる形をとらなくても、人間存在の根底にあって、あたかも遺伝子的に人間を罪びとならしめている罪があるのです。このことは、人間は死ぬ存在である、ということにも現れています。食べたら死んでしまうぞと神に警告されていた実を最初の人間は食べてしまいました。人間は、罪と不従順に陥って神から切り離された存在になってしまっただけではなく、死に定められた存在にもなってしまいました。そういうわけで、人間が死ぬということが実は、人間には根底的な罪がある、ということの現れになっているのです。表に具体的に現れないで、人間に根底的にあって遺伝される罪がある。それがために生まれたばかりの赤ちゃんも罪びとなのです。生まれたばかりで、スヤスヤ可愛く眠っている赤ちゃんをみていると、この子が何を悪いことをしたって言うのだろう、罪を犯すなどとは想像もつかない、というのが大方の反応でしょう。しかし、たとえ具体的に形をとって表に現す罪は犯せなくとも、赤ちゃんも存在としてはやはり遺伝継承する罪を背負っているのであります。それゆえ、赤ちゃんと言えども、洗礼は必要なのであります。
使徒パウロは、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死は全ての人に及んだ」と教えます(ローマ5章12節)。まさに罪は、具体的に形をとって現れる罪だけではなく、全ての人間に受け継がれてその根底に横たわり人間の存在を規定している罪がある。そしてすべての具体的な罪というのは、その根底的な罪が生み出しているのであります。イザヤは神殿で神を見てしまう出来事以前に、すでに神に選ばれて預言者になっていました。預言者として神に選ばれた以上、私たちとは別格な人物だったのです。それにもかかわらず、神を目にした時、自分は呪われよ、と言って、罪の告白をするのです(イザヤ書6章5節)。つまり預言者イザヤも、遺伝継承する罪をしっかり自覚していたのであります。本日の福音書の箇所のペトロも、「私から離れて下さい!私は罪びとなのですから!」と叫んだのは、何か具体的に犯した罪の行為が心に引っかかって言ったというより、イザヤのように神聖な神が間近にいる事態に直面して、そのために、神聖な神と全く対象な自分、遺伝継承する罪を持つ自分の自覚が一気に呼び覚まされたのであります。
3.
それでは、神との関係が崩れて、永遠に造り主のもとに戻れなくなってしまった人間を、神はどう思ったでしょうか?このままではいけない、人間との関係を回復しなければならない、と神は考えました。神との関係回復のためには、人間から罪の汚れを取り除かなければなりません。しかし、人間は自分の力でそれを取り除くことができません。神は存在上、罪を看過したり罰せずにおくことは出来ません。ただし、人間は罪の汚れを取り除くことはできなくても、神からそれを赦されることはできます。神から罪を赦された者として、常に神の方を向いて、神のもとに立ち返る道を歩む、そのようにして神との関係を回復して生きることは出来ます。それが、状況打開の突破口になりました。
まさに、この状況打開の実現のために、神は独り子イエス様をこの世に送り、人間の全ての罪と不従順からくる罰を彼に全部負わせて、十字架の上で人間の身代わりとして死なせました。神は、御自分の独り子の身代わりに免じて人間を赦すことにしたのです。さらに、それだけでなく、一度死んだイエス様を復活させることで、死を超えた永遠の命、復活の命が存在することも示されました。人間は、この神の御子の犠牲の死が本当に自分のために行われたとわかって、イエス様こそが自分の救い主であると信じて洗礼を受ける時、神の罪の赦しはその人に対して本当のことになります。なぜなら、その人は、神がイエス様を用いて整えた救いを信じることで受け取ったからです。神の罪の赦しの救いは、それを受け取った人に対して本当のことになるのです。
こうして、神の赦しの救いを受け取った人は、この世にあってはその救いの中で生きることができるようになります。まさに神との関係を回復した者として、順境の時も逆境の時も常に神の守りを得られ、この世から死んだ後は、永遠に神のもとに戻ることが出来るのであります。その人にとって、この世の人生とは、造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでいるということになります。実に私たち人間は、最初の人間アダムのために失われてしまったものを、イエス様のおかげで取り戻すことができたのであります。このことについて、使徒パウロは次のように教えています。「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪びととされたように、一人の人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」(ローマ5章18-19節)。
4.
さて、造り主である神のもとに永遠に戻る道を歩むキリスト信仰者ではありますが、罪の汚れが完全に消滅したわけではありません。この世において肉をまとって生きる以上は、他の人たち同様に罪の汚れを宿しています。しかし、神が整えた赦しの救いを受け取っているキリスト信仰者にあっては、罪というものはもはや私たちを神から引き離す力を失っているのです。私たちがこの世から死ぬ時は、イエス様がすぐさま手を伸ばして私たちを神の御許に引き上げて下さいます。このように、罪の赦しの救いとは、人間が遺伝子のごとく代々継承して死の力に服従してしまう原因だった罪に、とどめの一撃を与えたものだったのです。使徒パウロは、いかなるものも信仰にとどまる私たちを神の愛から引き離すことは不可能である、ということを強く教えています。
「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8章31-38節)。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン