2013年2月12日火曜日

これは我が選びたる子なり、汝らこれに聴け (吉村博明)


 
説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2013年2月10日変容主日 
日本福音ルーテル横浜教会にて

申命記34:1-12、
コリントの信徒への第二の手紙4:1-6、
ルカによる福音書9:28-36

 
説教題 「これは我が選びたる子なり、汝らこれに聴け」
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン
 
 
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
1.      はじめに

本日は、教会の暦では1月に始まった顕現節が終わって、来週からイースターへと向かう四旬節が始まる節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという出来事についてですが、この同じ出来事はマタイ17章、マルコ9章にも記されています。マタイ172節とマルコ92節では、イエス様の姿が変わったことが「変容した(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本主日は変容主日とも呼ばれます。三つの福音書に同じ出来事が記されていますが、よく読んでみると記述がそれぞれ若干異なっていることに気づかされます。しかしながら、さらに読み込んでいくと、そうした違いは本質的なものではなく、むしろ、お互いを補い合っていて、三つをちゃんと読むと同じ出来事の全体像がよりよくわかってくることに気づかされます。全体像がわかるための違いであると言ってよいと思います。
 
イエス様は、12弟子のうちからペテロと、ヤコブ・ヨハネの二兄弟を選んで、山に登ります。なぜ、この3人なのか、その理由は定かではありません。イエス様は別の時にも、例えば、ユダヤ教会堂長ヤイロの娘が死んだと宣された直後に娘を起き上がらせますが、その時家の中まで同行を許したのはこの三人だけでした(マルコ537節)。それから、イエス様が十字架に架けられる前夜、エルサレムの町の外側のゲツセマネで祈りを捧げた時、近くまで同行するのを許したのもこの同じ三人でした(同1433節)。そもそも、イエス様が12弟子を選んだ目的は、弟子として絶えず寝食行動を共にいることで(同314節参照)、主が語る教え、行う業、そして主に起こる出来事をつぶさに目撃させて記憶にとどめさせ、後に世界に向かって証言させるためでした。そうした直近の目撃者の証言が土台となって福音書や使徒言行録が出来上がっていきます。それにしても、こうした非常に特殊な場面 - 死んだと宣された娘を起き上がらせた時、モーセとエリアが姿を現して神の声が轟いた山の頂上、主が苦渋に満ちた祈りを神に捧げた深夜の祈りの場所 - になると、なぜかイエス様は限られた者のみ、それもいつも同じ三人を連れて行ったのであります。どうしてでしょうか?
 
考えられることは、こうした特殊な場所は本来なら、神の子イエスと神の二者だけがいることが許される場所であり、人間がそばにいる筋合いはない場所なのですが、それでも将来証言をしてもらうのに最低限の目撃者が必要だった、ということです。それでは、なぜいつもペトロとヤコブ・ヨハネ二兄弟の三人に絞ったのでしょうか?他の弟子たちに比べ、彼らが優れた弟子だったので、主は選んだのでしょうか?しかし、この三人の弟子としての経歴をみると、どうもそうとも言えない。ヤコブ・ヨハネの二兄弟などは、母親と一緒にイエス様のもとにすり寄って、神の国が来たら王様イエスの左大臣と右大臣にして下さいなどと抜け駆けを試みたりします。しかし、主からは「お前たちは自分で何を願っているのかわかっていない」とお叱りをうけてしまいます(マルコ1038節)。ペトロに至っては、自分は死ぬことになろうとも主を見捨てはしない、と誓ったのに、いざイエス様が逮捕され自分にも嫌疑が及びそうになると、あんな男は知らないなどと公言してしまいます。しかし、こうした人間的な弱さを持つ弟子たちが、イエス様の十字架と復活の後で全く別人になったことも事実です。イエスの名を広めたら命はないぞと脅されてもペトロはもう怯まなくなりました。ヤコブはヘロデ・アグリッパ1世の迫害にあって命を落としました(使徒言行録122節)。主は、彼らが人間的な弱さを持っていたことを十分承知の上で彼らを選んだのであります。それは、主ご自身が後で彼らを強めることになると知っていたので、最初の弱さは主にとって別に問題ではなかったのです。むしろ、弱さを大っぴらにするようなタイプの方が、主としては強くするし甲斐があったのでしょう。以上をもって、なぜいつもあの三人か、という質問の答えは十分ではないかと思います。願わくば、主が、弱さを持つ私たちをも同じように強めて下さいますように。
 
それから少し余計な補足になりますが、本日の箇所に出てくる「山」について、マタイやマルコの記述では「高い」山と形容されています。マルコ827節をみると、イエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それから山の上の出来事までは大きな地理的な移動は述べられていません。もし一行がまだ同じ地方に滞在していたとすれば、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートル北にそびえる標高2700メートルのヘルモン山と考えられます。この山の頂上は森林限界を超えたところにあり、夏でも雪田を残しているそうです。これを聞くと、登山を趣味にしている人なら、日本アルプスの景色を思い浮かべるでしょう。孤高であれば、同じ標高を持つ白山のイメージになるかもしれません。こういう高い山の常として、頂上からは雲海を見下ろすことが出来ます。雲海が乱れて雲が頂上を覆うと、頂上は濃い霧のただ中になります。本日の箇所の記述を注意して読むと(3334節)、雲の出現はとても速いスピードであったことが窺えます。高い山の山頂が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではありません。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲でそれを神が利用したと考えられますし、または、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったということも考えられます。どっちだったかはもはや判断できなません。この件は、判断しないままにしても、本日の箇所の解き明しには何の支障もありません。
 
 
2.

山の上でのイエス様の変容について、ルカ福音書では、「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と記述されています。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語原文のπροσωπονプロソーポンという単語が下地にあります。実は、この単語は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容は、イエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」ということであります。マルコ福音書9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。この変容の場面で、イエス様は、罪や不従順の汚れに全く染まっていない神聖な神の子としての存在をあらわにしたのであります。
 
罪や不従順の汚れに全く染まっていないイエス様がこのような神聖な白さを持っていることを示されることで、逆に私たち人間がどれだけそのような白さから遠ざかった存在であるかが明らかにされます。神聖な神の目から見て、人間の真の姿というのは、最初の人間の堕罪以来、神への不従順と罪を代々遺伝的に受け継いでしまう存在でした。もちろん、世界には悪い人だけでなく、良い人も沢山います。しかし、創世記23章や「ローマの信徒への手紙」5章に記されているように、最初の人間が不従順に陥って罪を犯したことが原因で人間は死する存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」623節で、死とは罪から受ける報酬である、と教えていますが、人間が死ぬということが人間には罪があることの現れなのです。人間は良い人も悪い人も関係なく代々死んできたように、代々罪と不従順の汚れを受け継いできたのであります。マルコ福音書7章でイエス様は、人間が罪と不従順の汚れを持つのは人間の内部に汚れが組み込まれているからだ、と教えます。
 
人間はこの汚れが除去されない限り、人間の造り主である神と切り離された状態で生きることとなり、この世から死んだ後、造り主のもとに戻ることができません。しかし、人間がこの汚れを除去できるというのは、神の意志を100%体現した神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能なことであります。パウロが「ローマの信徒への手紙」7章で明らかにしていますが、神の意志を示す律法というものがあり、それは人間が救いを得るために満たしていくものというより、人間が神の意志からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものであります。詩篇のなかで、ダビデ王は神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(514節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げます。これからも明らかなように人間の罪と不従順の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。
 
そこで神は人間にかわって人間を罪と不従順の汚れから洗い清めることにしました。神は、それを、人間の罪と不従順を「赦す」ことで成し遂げました。「赦す」というのは、罪と不従順をしてもいいとか許可するという意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪の汚れを忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまうことも辞さない方です。しかし人間も一緒に焼き尽くすことは望まれなかった。それでは、「赦す」ことが、いかにして人間の洗い清めになったのでしょうか?
 
神は、ひとり子イエスをこの世に送り、本来人間が背負うべき罪と不従順の罰を全部彼に負わせて、十字架の上で死なせました。イエス様が身代わりとなったことで、人間が罪と不従順の罰から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて、私たち人間の罪と不従順を赦す、不問にするとおっしゃるのです。それだけではありません。神は、イエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命への扉を私たちに開いて下さいました。人間は、これらのことが自分のためになされたとわかり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、この神が整えた「罪の赦しの救い」を自分のものとして受け取ることができるのです。パウロは、「ガラテアの信徒への手紙」327節で、洗礼を受けた者はキリストを着せられたのだ、と教えます。洗礼を受けることで私たちは、実にイエス様の神聖な白い衣を頭から被せられるのです。こうしてキリスト信仰者は、この世の人生の歩みにおいて、造り主である神聖な神のもとに立ち返る道を歩み始め(第一コリント86節)、順境の時も逆境の時も絶えず神の守りと導きを得ることができ、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻ることができるのであります。
 
イエス様の神聖な白い衣を着せられたと言っても、被せられただけですので、私たちの内側にはまだ罪と不従順に結びついた「古い人」が留まっています。しかし、神は、信仰を持って生きる者に被さっているイエス様の白い衣をみて、その人の中に育ち始めた「新しい人」の方を見て下さるのです。キリスト信仰者は、言わば、「古い人」と「新しい人」の相克の中で生きる者であります。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼の恵みに踏みとどまる限り、「古い人」は決定的な力を既に失っていて、長期的には衰退していくだけでしかありません。翻って「新しい人」は確実に成長していくという希望は必ず叶えられると保証する、と御言葉は教えています。この相克と希望について、ルターは詩篇519節の解き明しの中で、次のように教えています。同箇所は、罪の告白をするダビデ王が神に対して、自分を雪より白いものにかえて下さいと嘆願しているところです。
 
「どのようにして人間は、雪よりも白くなることができるであろうか?これに対する答えは以下の通りである。まず、人間の中には霊と肉があるが、聖パウロの言葉を借りれば、人間には霊と肉の汚染状態が残り続ける。霊が汚染された状態とは、神の罪の赦しの恵みを疑うこと、信仰が弱いこと、神に対して文句を言うこと、絶え間ない苛立ち、そして神の意志を知ろうともしないし理解しようともしないことがそうである。肉が汚染された状態とは、悪い欲望、殺意、盗み、憎悪、嫉妬、その他これらに類するものがそうである。
 
もし君がキリスト教徒を正しく判定しようとするなら、キリスト教徒が性質上どんな人物であるかを観察してはならない。なぜなら、性質上という時、キリスト教徒の中に清さが全くないということに気づかされるからだ。そうではなくて、聖霊によって新しく誕生させられた者としてキリスト教徒はどんな人物かを見なければならない。この新しい霊的な誕生は、人間は実現することができない。それを実現できるのは、ただ神のみである。
 
この新しく霊的に誕生する時に人は雪よりも白くなり、汚れを伴った最初の肉体的な誕生はもはやその人に害を及ぼす力はない。もちろん、人に罪と不従順の汚れは残り続けるが、主が目に止められるものは、洗礼の時に被せられた純白の服と新しく霊的に誕生した人の信仰、それに父なる神の愛する御子の清く神聖な血である。御子の清く神聖な血は、純白な服と同じように、新しく霊的に誕生する人に着せられる装飾品のようなものである。このように、キリスト教徒とは、性質上はまだ汚れが残っている者であるが、洗礼と聖霊がもたらした新しい霊的な誕生を通して、また信仰においてキリストを身に纏っているので、雪よりも白いのである。」

 
3.

本日の福音書の箇所でひとつわかりにくいこととして、山の上でイエス様の変容を目撃したペテロが、イエス様とモーセとエリアの三人それぞれに仮小屋を建てると言ったことがあります。これは何を意味するのでしょうか?本説教の終わりとして、そのことを見てみましょう。ペテロは、恐怖のあまり気が動転して、自分でもわけのわからないことを口走ったのでしょうか?いいえ、そうではありません。ペテロの言ったことにはそれなりの意味があったのです。ただ、その言ったことが、神の目から見て完全に筋違い、的外れだったということであります。それでは、ペテロの言ったことにはどんな意味があって、どうしてそれが筋違いなことだったのか、みてみましょう。
 
ペトロが建てると提案した「仮小屋」というのは、原文のギリシャ語でスケーネーσκηνηと言います。スケーネーは、「ヘブライ人への手紙」の8章や9章に出てきますが、神に礼拝を捧げる場所である「幕屋」を意味します。ペトロが建てると提案したスケーネーというのは、まさにイエス様とモーセとエリアに礼拝を捧げる場所のことであります。では、なぜこれが筋違いな的外れなことなのかというと、まず、イエス様をモーセとエリアと同等にみなすことになるからです。確かに、モーセは、神の意志を表す律法を直接神から授かりそれを人間に受け渡した神の人であります。エリアは、預言者の代表格です。しかし、イエス様は神の子であり、また律法の実現を体現された方、つまり神の意思を100%体現された方、そして預言者たちが預言したことの成就そのものであります。まさに律法や預言の実現・成就そのものであり、それらを受け渡した人や宣べ伝えた人とは同等には扱えない存在なのであります。それに加えて、モーセやエリアにも幕屋を建てるというのは、彼らを神同様に礼拝を捧げる対象にしてしまうことです。こうしたペテロの意味を成すが筋違い的外れな提案は、天の一声に一蹴されてしまいます。「これは我が選びたる子なり、汝らこれに聴け。」小さなことですが、新共同訳では「これはわたしの子、選ばれた者」と、「わたしの子」と「選ばれた者」を分けていますが、昔の文語訳では一つにまとまっていて「我が選びたる子」となっています。こっちの方がギリシャ語原文により近いと思い、本説教の題に選んだ次第です。今まさにモーセとエリアが雲の中に吸い込まれるように消えていこうとする場面で、イエス様は彼らと一緒に行かず、目の前に立ち続けておられる。まさにそういう場面で、「これは我が選びたる子なり、汝らこれに聴け」という声が響き渡ったのです。「ここにいるのは神の子である。律法の受け渡し人、預言の宣べ伝え人ではない。彼にこそ聞け」ということであります。
 
それでは、イエス様に聞くとはどういうことでしょうか?新約聖書中の4つの福音書の中には、イエス様はこう言った、こう教えた、という記録が沢山あります。イエス様に聞く、というのは、イエス様の言葉や教えだけを読んで、それだけを大事に考えるということなのでしょうか?もちろん、イエス様をこの世に送られた父なる神の言葉や教えもイエス様の教えと同じくらい大事なことは明らかです。そうすると聖書を手にする私たちは、神がこう言った、イエス様がこう言った、というところを中心にみて、あとは神やイエス様が言ったのではないから重要視しなくてもよい、ということになるのでしょうか?
 
 いいえ、そうではありません。使徒たちの教えも、実は神とイエス様の教えと同じくらい重要なのです。もちろん、使徒たちは人間で、神でも神の御子でもありません。しかし、同じくらい重要なのです。なぜでしょうか?それは、彼らの教えが、自分たちが直に見聞きしたイエス様の教えと行い、そして十字架と復活の出来事に由来しているからです。それ以外に由来してはならない、と聖霊のコントロールを受けているからです。このように、使徒たちの教えは、聖霊の力で、自分たちが直に見聞きしたイエス様自身と直接結びつくようにされ、単なる人間の教え、人間的な知恵ないしは人間の空想の産物にならないようにされています。イエス様の啓示を受けたパウロはイエス様の直の目撃者ではありませんでしたが、使徒たちと同じ聖霊のコントロールを受け、真理の中にとどまっています。加えて、私たちがイエス様の教えや行いを知りうるのは、4つの福音書からですが、4福音書に収められたイエス様情報は全て目撃者である使徒たちに源を発します。つまり、イエス様に関わる情報はみな、使徒由来、使徒経由なのであります。それで、使徒は人間だから、その教えは重要でないと言ったら、使徒由来、使徒経由のイエス様情報も重要でなくなり、福音書自体も重要でなくなってしまいます。使徒が言ったことであろうが、預言者が言ったことであろうが、聖書に収められている教えや言葉は全て神の御言葉であると言われる所以であります。私たちが信仰告白で告白するイエス様と出会えるのは、この聖書だけからであって、他からではありません。イエス様に聞くことができるのも、この聖書からだけであります。聖書と信仰告白を大事にしていきましょう。
  
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン