説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
主日礼拝説教 2013年3月24日(枝の主日)
日本福音ルーテル横浜教会にて
ゼカリア書9:9-10、
フィリピの信徒への手紙2:6-11、
ルカによる福音書19:28-48
説教題 イエス様とエルサレム
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
今年の四旬節も、もう枝の主日となりました。復活祭の前の主日が「枝の主日」と呼ばれるのは、イエス様がこれから受難を受けることになるエルサレムにろばに乗って入城する際に、群衆が自分の服と木の枝を道に敷きつめたことに由来します。本日用いておりますルカ福音書では、群衆が道に敷いたのは衣服だけですが、マタイ福音書では衣服と木の枝(21章8節)、マルコ福音書では衣服と葉の付いた枝(11章8節)、ヨハネ福音書では、道に敷かれたとは言及されていませんが、群衆が持ってきたのはなつめやしの枝という具合に詳しくなっています(12章13節)。いずれにしても、私たちは、今日から始まり聖金曜日を経て復活祭に至る1週間の間、今から約2000年前のエルサレムで起きた人類の救い主の受難の出来事について、聖書の御言葉をもとにして思い起こし、彼の辿った受難の道を、私たち自身、心の中で再訪しなければなりません。
ルカ以外の三つの福音書を見ると、ろばに乗ったイエス様がエルサレムに入城する時、群衆は「ホサナ」という歓呼の言葉を叫びます。これは、もともとはヘブライ語のホシアンナという言葉のアラム語訳ですが、双方とも神に「救って下さい」と救いをお願いする意味を持っていました。それに加えて、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時に歓呼の言葉としても使われていました。従って、群衆は、子ろばに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたのであります。しかし、これは奇妙な光景であります。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったでしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、子ろばに乗ってやってくるのです。この光景、出来事は一体何なのでしょうか?
さらに、イエス様は弟子たちに子ろばを連れてくるように命じた時、まだ誰もまたがっていないのを持ってくるようにと言いました。まだ誰にも乗られていない、つまりイエス様が乗るという目的に捧げられるという意味であり、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ろばに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なもの、神の意思を実現するものと見なしたのであります。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、一人子ろばに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?
2.
このイエス様の神聖な行為は、本日の旧約の日課であるゼカリヤ書中にある預言の成就を意味しました。ゼカリヤ書9章9-10節には、来るべきメシア、救世主の到来について次のように預言していました。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ロバの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」
「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」となります。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現できる者です。(私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって、神から義を与えられて、義なる者とされます。)「勝利に満ちた者」というのは、今引用した箇所から明らかなように、神の力を受けて世界から軍事力を無力化し、神の御心に適う平和な世界を打ち立てる者であります。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことを実現する者が、大軍隊の元帥のように威風堂々とやってくるのではなく、子ろばに乗ってやってくるということであります。イエス様が弟子たちに子ろばを連れてくるように命じたのは、このゼカリア書の壮大な預言を実現する第一弾だったのです。
「神の神聖な意志を体現した義なる者」が「へりくだった者」であるにもかかわらず、最終的には全世界を神の意志に従わせる、そういう世界をもたらずという預言はイザヤ書の11章1-10節にも記されています。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」
「狼は小羊と宿り」というところから始まる文は、危害とか害悪というものが全く存在せず、全てのものが神の守りの中にある世界が来ることを預言しています。これはもう今のこの世ではありません。今の世が終わった後に到来する新しい世です。その新しい世を導くのが「エッサイの根」なのですが、これは何者かというと、エッサイはダビデの父親の名前なので、ダビデ王の家系に属する者であります。つまり、イエス・キリストを指します。今の世にかわり、全てのものが神の神聖で善い意志に従う新しい世が到来する。その時に主導的な役割を果たすのがイエス・キリストということであります。今の世が新しい世にとってかわるという預言された大事業は、イエス様が担うことになりました。子ろばにのってエルサレムに入城するというのは、まさにその預言にのっとった手順だったのです。それでは、今の世が新しい世にとってかわるという大事業は、イエス様によってどのように展開されていったのでしょうか?
3.
この大事業は、当時のイスラエルの人たちの目から見て、まったく思いもよらない予想外の方向に展開しました。というのは、彼らにとって、ダビデ王の末裔が来て新しい国を打ち立てるというのは、なによりもローマ帝国の支配を打ち砕いてイスラエル王国を再興することを意味していました。こうした期待には、今の世が新しい世にとってかわるということは必ずしも視野に入っていません。再興される王国は、今の世にあるからです。
そうした一方で、イザヤ書65章17-20節や66章22節とかダニエル書12章1-3節にある預言(他にゼカリア14章7節、ヨエル3章4節など) - やがて、今のこの世が終わって天と地が新しくされて、死者の復活が起きる新しい世が来るという預言 - に注目した人たちもいました。そこでは、ダビデ王の末裔が君臨する王国とは、この世のものではなく、この世を超越した新しい世の王国である、と理解されました。今のこの世に樹立される王国であれ、新しい世の超越的な国であれ、当時の人々は、いずれにしても、ユダヤ民族の国が再興されるという形で新しいダビデの王国を考えていました。先ほど見たゼカリア書9章の他に、ゼカリア書14章やイザヤ書2章に、世界の国々の軍事力が無力化されて、諸国民は神の力を思い知り、神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言があります。それだけを見ると、再興したユダヤ民族の国家が勝利者として全世界に大号令をかけるという理解が生まれます。しかしながら、これはまだ預言の一面的すぎる理解でありました。イエス様の行った大事業には、旧約聖書の預言のもっと別な面も含まれていたのであります。どんなことか、以下にみてまいりましょう。
4.
エルサレムに入城したイエス様は、ユダヤ教社会の宗教指導層と真っ向から対立します。この対立がエスカレートして、イエス様は逮捕され、迫害され、十字架刑に処せられます。そもそも、宗教指導層があの男を生かしてはおけないと憎悪を燃やした理由は以下のようなものでした。まず、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に出てくる終末の救世主「人の子」であると公言していることがあります。つまり自分を神に並ぶ者とし、さらにはもっと直接に自分を神の子と言っている。これは、宗教指導層にとっては神に対する冒涜以外の何ものでもありません。しかし、イエス様は、本当に神のひとり子でした。
もう一つの理由として、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王として立ち振る舞っていることも問題視されました。そんなことをすれば、ユダヤの地を占領しているローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせることになってしまいます。宗教指導層としては、ユダヤの地は占領されてはいるが安逸を得られ、エルサレムの神殿を中心とする神崇拝システムも機能している。それなのに、イエスに好き勝手をさせたら、ローマ帝国軍の軍事介入を招いてしまう、と危惧されたのであります。本日の福音書の箇所で、イエス様がエルサレムを中心とするユダヤ民族が誤った平和に浸っていること、そしてそれがやがて打ち砕かれる日が来るのに誰も気づくことができないことを嘆き悲しむ場面があります。実際、エルサレムの町と神殿は、イエス様の時代から一世代後の西暦70年にローマの大軍によって完全に破壊されて灰燼に帰したのであります。
そして宗教指導層の憎悪の火に油を注いだのが、本日の福音書の箇所にもある神殿からの商人たちの追い出しでした。宗教指導層は、現行の神殿が旧約に記された神の意思を実現していると考えていました。商人たちも、神殿での礼拝をスムーズにするために生け贄用の鳩を売ったり、各国から来る参拝者のために両替をしていました。しかし、神のひとり子であるイエス様からみれば、現行の神殿は神の意思の実現からはほど遠いものでした。イザヤ書56章7節の預言「私の家(神殿)は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」からほど遠いとわかっていました。イエス様が商人たちを叩き出した時、それは、ゼカリヤ書14章21節の預言「万軍の主の神殿に商人はいなくなる」を実現するものだったのです。いずれにしても、商人たちの追い出しは、現行の神殿システムに対するあからさまな挑戦と受け取られました。
そういうわけで、イエス様は、神のひとり子として、律法や預言書にある神の意思をよく知りうる者としてこの世に送られて来ました。それにもかかわらず、それらを知らないのに知っているつもりの宗教指導層が彼を迫害し殺すために占領者の官憲に引き渡してしまったのです。そればかりか、それまでイエス様のことを全人類の救い主とは知らないで、ただ自分たちの民族のスーパーヒーローだと祀り上げていた人々も、いざ彼が逮捕されると、直近の弟子たちは逃げ去り、群衆は背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルの王国を再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。しかしこれは、律法と預言書を部分的、一面的にしか見ていなかったことによる理解不足でした。実は、まさにイエス様が十字架にかけられた後に、律法と預言書の意味が事後的に理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。
イエス様が死から復活させられたことで、死を超えた永遠の命、復活の命が存在すること、そしてその扉が人間に開かれたことが明らかになりました。神に造られた最初の人間アダムとエヴァが造り主に対して不従順に陥って罪を犯したために、人間は死する存在となってしまいました。しかし、人間の堕罪のために閉ざされてしまっていた永遠の命への扉が開かれたのです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、人間は死に打ち勝ち超える永遠の命に入れることが出来るようになったのです。まさにここで、人間が死を超えられない存在になってしまったもともとの原因である神への不従順と罪が赦されたことが明らかになりました。どこでどうやって赦されたのでしょうか?それは、イエス様が十字架の上で人間の不従順と罪の罰を人間にかわって全部引き受けて下さったことによります。まさにその時、マルコ10章45節にあるイエス様の言葉「人の子は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」ということが本当のことになったのです。罪と不従順の力に服してその奴隷になっていた人間が、イエス様の流した尊い血を代償として、神のもとに買い戻され、その後は神との関係が修復された者として、この世の人生を歩むことができるようになったのです。神との関係が修復されたというのは、順境の時も、またたとえ逆境の時も、絶えず神から見守りと助けを得て人生の道を歩むことができるようになり、この世から死んだ後は永遠に自分の造り主である神のもとに戻ることができるようになったということです。
イエス様の十字架の死と死からの復活が起きたことで、律法と預言書の意味が次々と明らかになりました。例として、イザヤ53章に預言されている神の僕とはまさにイエス様のことを指していることが明らかになりました。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼がになったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(3-6節)
「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをなしたのはこの人であった。」(11-12節)
実に、イエス様の十字架の死と死からの復活は、ユダヤ民族であるかないかにかかわらず、わたしたち人間すべてに救いをもたらしたのです。イエス様の神聖なエルサレム入城は、この人間救済という大事業の第一弾でした。今のこの世が終わって次に来る世の王国の出現はまだまだ先のことだったのです。歓呼の声をあげて付き従った人々もエルサレムで対立することになる人も、誰もこのことを理解していませんでした。まず、神がイエス様を用いて救いを実現し、その次に、出来るだけ多くの人をその実現された救いに与れるようにしていく。これが神の意思です。しかし、この神の意思は、多くの反対者、無理解者、時には迫害者をも生み出しました。イエス様のときも然り、イエス様に続くキリスト信仰者においても然りです。この軋轢と対立の中で人間の歴史は進むこととなりました。この歴史も、やがては、「ヘブライ人への手紙」12章26-29節に預言されているように、この世の終わりが来て、天と地が新しくされるような大変動が起き、今見えるものは全て崩れ落ちて、神の国だけが見える形で現れて、新しい世が始まります。この神の国に迎え入れられるのは、もはや特定の民族に所属する者ではなく、イエス様を救い主と信じて神の整えた救いを受け取った人たちです。さらに、諸国民が天地・人間を創造した神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという旧約の預言も、それは、もはや地理上のエルサレムをささず、黙示録21章にある天上のエルサレムを意味します。つまり、神の国であります。
このように、旧約の律法や預言書は、ユダヤ民族という一つの民族の思いを超えた、全人類にかかわるものでした。それが神の意思でした。このことを明らかにしたのが、神のひとり子であるイエス様だったのです。神の送られた御子であるがゆえに、神の意思を人間なんかよりご存知でした。そして、この神のひとり子は、神の意思を明らかにしただけではなく、それを身をもって実現したのです。
5.
以上から、イエス様が子ろばにのってエルサレムに入城したというのは、実は、人間救済計画という神の意志を実現する大事業の第一弾であったことが明らかになりました。そしてこの大事業は、当時のユダヤ人たちの一面的な旧約理解を超えた形で展開しました。本当は、旧約聖書をもっと全体的に理解すれば、イエス様の十字架と復活こそ、大事業が計画通りに進んでいることを示す出来事だとわかるのです。私たちは、十字架と復活の出来事の後の時代を生きていますが、これはイエス様が再臨する時に終わりを告げ、新しい世にとってかわります。この二つの大きな出来事の間の時代は、また、人間が、イエス様を救い主と信じて神が整えた救いを受け取った者とそうでない者の二つがわかれる時代でもあります。救いは全ての人間のために整えられた以上、できるだけ多くの人がその受取人になってほしいというのが神の意志です。それゆえ、わたしたちキリスト信仰者は、隣人愛を実践する際にも、どうすれば隣人の心を人間の造り主、贖い主である神に向けさせ、救いの受取人になれるようにしていくことが出来るか、ということにも注意を払わなければなりません。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン