説教者 吉村博明 (フィンランド・ルター派福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2014年4月14日復活後第二主日
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会にて
使徒言行録9:1-20、
ヨハネの黙示録5:11-14、
ルカによる福音書24:36-43
説教題 キリストは死から復活し、我々の将来の復活の初穂となられた
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
この度、日本福音ルーテル教会総会議長・牧師立山忠浩先生より正式に辞令を受けて、本スオミ教会に赴任することになりました吉村博明です。改めてご挨拶申し上げます。宜しくお願い致します。さて、私を派遣しているフィンランドのミッション団体は、「フィンランド・ルター派福音協会Suomen Luterilainen Evankeliumiyhdistys」、略してSLEYと言います。これは、フィンランドのルター派国教会の公認ミッション団体です。SLEYはもともとリバイバル運動として出発しました。リバイバルというと、日本のキリスト教徒たちはどんなイメージを描くでしょうか?フィンランドやスウェーデンのルター派教会に限ってみると、リバイバル運動(フィンランド語ではherätysliike、スウェーデン語ではväckelserörelse、文字通り「目覚め」です)とは、ルターに帰れ、ルターを通して聖書に帰れ、というルター派のキリスト信仰を強調する運動を意味します。国教会の歴史の中で、人々の聖書離れや教会離れが進む時とか、また教会に留まっても伝統的なキリスト信仰から外れる風潮が高まる時は、いつもこのようなリバイバル運動が起こりました。SLEYは1873年に組織として設立され、国内だけでなく国外にも伝道しようと決め、最初の宣教師派遣先として日本を選び、1900年から宣教師を送り始めて現在に至っています。日本福音ルーテル教会内にも、もともとはSLEYが建てたり、また設立に深く関わった教会がいくつもあります。そういうわけで、日本のルター派キリスト教徒の中には、親子代々にわたって、フィンランド人宣教師と交流を続けた方が多くいらっしゃいます。
SLEYが日本に伝道を開始してから100年たった西暦2000年、SLEYが毎年行う全国大会は、文字通り日本伝道100年記念一色に染まりました。その時、一つの大きな催し物として、オーケストラやコーラスを動員した大がかりなミュージカルの公演が行われました。その題は、「日本へ、さあ日本へ(Jaappaniin, oi Jaappaniin)」というもので、明治・大正時代の宣教師たちの福音伝道の奮闘記を描く歴史ミュージカルでした。
そのミュージカルの中でこんな場面がありました。長野県の山村の中にある宣教師館で、女性宣教師を先生として英語の聖書研究会が開かれている。そこには旧制高校風の出で立ちの男の子たちが何人か通っている。ある日、授業が終わった後で、先生が一人の学生に尋ねました。「Mr. Mizoguchi、溝口さん、イエス様とは誰のことですか?Who is
Jesus?」尋ねられた学生は、はつらつとした声で「He is a good
teacher! 彼は良い先生です」と言って、会釈をするなり素早く玄関から出て行きました。家路につく学生の背を目で追いながら、宣教師は呟きます。最後は絶句するように。「そう、確かにイエス様は良い先生だわ。でも本当は、それだけではないの。イエス様は、本当はもっとすごい方なの(Oikeastaan hän on paljon enemmän)。ああ、このことをどうやったら日本人にわかってもらえるのかしら!」
イエス・キリストを偉大な先生とか卓越した思想家として見なすことは、よくあります。キリスト教徒でなくても、イエス・キリストをこのように評価する人は大勢います。このスオミ教会から少し歩いて行ったところに、哲学堂公園という緑豊かな素敵な公園があります。そこの妙法寺川沿いのところに、世界の著名な哲学者たちの銅像が立っていると聞いたので、見に行ってみました。なるほど、ソクラテスやプラトン、孔子孟子など居並ぶ哲学者の中にイエス・キリストの銅像も立っておりました。イエス・キリストとは、人種民族を超えた普遍的な隣人愛や非暴力主義に基づく倫理道徳を説き、その教えは現代まで人間の思想に影響をもたらしてきた者 ― イエス様をその様に捉えれば、彼もまた一人の卓越した思想家・哲学者に数えられるでしょう。しかし、それは本当のイエス・キリストではないのです。本当のイエス・キリストとは、神の子であり、私たち人間の救い主なのであります。この本当のイエス・キリストを知ることが、人がキリスト信仰者になるかならないかの分水嶺になるのです。
イエス・キリストを神の子、人間の救い主として知ること、これはもう、人間の思想・哲学、理性を超えた、信仰の次元の話になります。まさにこの時にイエス・キリストは、信仰上の崇拝の対象となります。人によっては、イエスの教えが他の思想家・哲学者より優れていると結論して、それに従って生きることをモットーにする人もいます。そのような人はキリスト信奉者にはなれますが、それはキリスト信仰とは別のものです。それでは、イエス・キリストを神の子、人間の救い主として信じるキリスト信仰とは、一体何なのでしょうか?
日本では、偉業を成し遂げた人間は、死んだ後、神社に祀られて、お参りに来る人たちが人生の繁栄や健康を祈願する対象となることがよくあります。そのような崇拝の対象は大抵神様と呼ばれます。イエス様が神の子と呼ばれて崇拝されるのは、これとは全く似ても似つかぬものです。キリスト信仰における神、すなわちイエス様をこの世に送られた父なる神とは、天と地とその中に存在するすべてのもの、なかんずく人間を造られた創造の神です。その独り子であるイエス様は、実はこの世に送られる以前に既に父のもとにいて、天地創造の場面にもいあわせていたことが、ヨハネ福音書1章等に証しされています。日光東照宮に祀られている徳川家康は天下統一の事業は果たしましたが、生前の家康や死んで崇拝の対象となっている家康が天と地と人間を造り、人間に命を与えたなどとは誰も考えつかないでしょう。キリスト教会の礼拝で唱えられる信仰告白の一つに二ケア信条がありますが、その中でも言われるように、主イエスは天と地と人間を造られた父なる神と同質な方なのであります。
イエス様が、神の子ということに加えて、人間の救い主であるということについてもみていきましょう。救い主、救い主とよく言われますが、一体何から救うことなのか?受験シーズンになると、菅原道真を祀る神社は若者でごった返します。きっと誰も、崇拝の対象になっている道真が天と地と人間を造ったとか、人間に命を与えたなどとは、思わないでしょう。それでも、皆、合格祈願の祈りを捧げると、きっと崇拝の対象になっているものが力を及ぼして自分の努力に報いてくれる、と信じているのでしょう。イエス様が人間を救うと言う時、それは人に幸運をもたらし、不運や不幸から守ってくれることが救いということではありません。それでは、イエス様は何から人間を救うのでしょうか?
そのことがわかるためには、神が人間を造られたということ、人間は神から命を授かったということ、つまり人間には造り主がいるということ、これを思い起こさなければなりません。そして、その造り主である神と造られた人間がどんな関係にあるか、ということを考えてみなければなりません。まさにこの創造主と被造物の関係について聖書は明らかにしているのです。
旧約聖書の創世記の初めに記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神の意思に反して、神に不従順になり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、造り主である神と造られた人間との間に深い断絶が生じてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持って造り主のもとに戻れるようにしようと計画を立て、それに従って、ひとり子をこの世に送り、これを用いて計画を実現されました。それは、人間の罪と不従順の罰を全てこのひとり子イエスに負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、彼の身代わりの死に免じて、人間の罪と不従順を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命、復活の命への扉を私たち人間に開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神の整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は神との関係が修復された者となり、この世の人生において永遠の命、復活の命に至る道を歩み始め、順境の時にも逆境の時にも絶えず神の守りと導きを受け、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。人間にこのような恩恵を施して下さった神は他に存在するでしょうか?また、私たち人間にこれほどまでのことをして下さった神に、私たちはこれ以上何を求める必要があるでしょうか?
2.
以上、イエス・キリストとは、良い先生とか偉大な思想家・哲学者を超えた、もっとすごい方であること、実に神の子、人間の救い主そのものであることを、ミュージカルの宣教師にかわってお教えしました。そこで、本日の福音書の箇所に目を向けてまいりましょう。本日の箇所は、先週に引き続き、死から復活したイエス様が弟子たちに現れたことを伝える内容です。復活した主の目撃録は、私たちキリスト信仰者にとって、永遠の命、復活の命とはどんなものであるかを知る上で重要なものです。永遠の命、復活の命がどんなものであるかわかると、今度は、それに至る以前の今のこの世での私たちの生き方はいかにあるべきか、ということもわかってきます。
ところで、キリスト信仰者ではないキリスト信奉者にとっては、イエス様が十字架上で死んだ後の復活とか、また生前行っていた奇跡の業などはどうでもいいことでしょう。なぜなら、信奉者にとって、重要なのは思想であり哲学であり、またそれらに基づく倫理道徳だからです。彼らに言わせれば、奇跡や復活などというのは文明の未発達時代の人間の妄想か作り話で、そんなものは人間の理性を混乱させ、倫理と道徳の進歩の妨げになる、ということでしょう。しかし、信仰者にとって、理性や倫理や道徳というものは、人間の知恵ではなく神の知恵と愛に従う時に正しいものになります。それでは、神の知恵と愛とは何か。それは、先に述べましたように、一度断ち切れてしまった人間との関係をもう一度再興すべく人間救済計画を編み出したのが神の知恵であり、それを実行に移したのが神の愛であります。そういうわけで、キリスト信仰者にとって、奇跡や復活は、今のこの世の人生をどう生きるべきかを知りうる上で、なくてはならないものなのであります。
死から復活したイエス様が弟子たちの前に現れます。弟子たちの驚きようから察するに、本当に突然彼らの間に立っていたのであります。ヨハネ20章ではさらに詳しく、扉には鍵がかかっていたのに、いつの間にかイエス様が弟子たちの間に立っていた、とあります。弟子たちが、幽霊だと言って驚き恐れ慌てふためいたのは当然です。しかし、イエス様は、自分は幽霊ではない、と自ら否定し、その証拠に手と足を見て触ってみよ、幽霊には肉と骨はないが、自分にはちゃんとあることを確認せよ、と命じます。このようにイエス様には、肉体という実体があります。幽霊のように透き通ったような肉体があるのかないのか不確かな存在ではありません。また、食べ物はないか、などと聞いて、みんなの見ている前で食事もする。ここまでくると、イエス様は、復活したとは言っても、私たちと同じ肉体の欲求を持つ存在です。しかし、復活したイエス様は、私たちとは異なり、今ある天と地の中で働いている重力Gのような自然法則に支配されず、移動は全く自由です。
使徒パウロは、「コリントの信徒への第一の手紙」の15章において、体には今のこの世での体と将来の復活の体の二つがあること、そして、それらがどう違っているのかについて詳しく教えています。復活の日が来ると、「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」(52-53節)。また、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」(42-43節)。44節にも言われていますが、私たちがこの世で持っている体はこの世的な体であり、復活の時に持つことになる体は霊的な体ということになります。イエス様は、マルコ12章25節において、死者の中から復活する者は天使のようになるのだ、と簡潔に言っています。
さらに、イエス様は十字架刑の時に被った手と足の傷を見せます。これは復活後のイエス様は、死ぬ前のイエス様と同一人物であることを如実に示すものです。イエス様は、体の有り様はこの世的なものから霊的な体へと全く異なるものにはなったけれども、復活後もイエスとしての自我を持ち、死ぬ前の出来事を過去のものとして、今はその延長線上に立って新しい現実に生きる者となっている。このように、神から復活させられる者は、死ぬ前と同じ人格を持ち、復活後も自我を持ち、そして、体は全く新しい復活の体を持つ、そういう存在になるのであります。
このことは、日本の仏教の間でごく一般に抱かれている死生観と大きく異なるところです。そこでは、人は死ぬと、成仏に至る何十年かの修行の道への歩みを始めるとされます。その道を歩む者として、僧侶から戒名という新しい名をもらいます。もし、名前というものを、単なる名札のような表面的なものに考えず、それこそ一つの人格に結びつく名称と考えれば、名前の変更は人格そのものの変更になります。名前というものをそのように深く考えると、戒名をつけた時点で、死ぬ前の人と修行の道に歩み出す者の間の人格上の結びつきは、もはやなくなってしまうのではないでしょうか。加えて、修行の途上にある者はどのように自我を有しているのでしょうか。こういう疑問を抱くのは、キリスト信仰の観点に立って生と死を考えるからだと言われてしまうかもしれません。仏教の観点に立てば、特段こだわる必要はないのかもしれません。しかしながら、キリスト信仰では、死からの復活とは新しい体を持った復活であり、死ぬ前と復活後の人格は同一で、復活後も自我を持つ、ということははっきりしています。そのようにして復活した者が自分の造り主、自分に命を与えた神のもとに永遠に戻ることになる。これがキリスト信仰者の死生観であります。
イエス様の復活は、キリスト信仰者の私たちにも関わってきます。なぜなら、私たちも復活する時は、復活のイエス様と同じように、生前と同じ人格を持ち、また自我も持ちつつも、朽ちない、死なない、弱くない、霊的な体を持つことになるからです。使徒パウロが「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」(第一コリント15章20節)と述べている通りです。(「初穂」と訳されているギリシャ語の単語のもともとの意味は「第一子」です。「初穂」とはなかなか詩的な訳だと思いました。)しかしながら、2000年前のイエス様の復活と将来の私たちの復活の間には、大きな違いがあります。イエス様の復活は、今あるこの世の中で起きました。つまり、私たちが今生きている天と地の中で起きました。私たちの将来の復活は、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる時(イザヤ65章17節、66章22節)、そして、造られたものは全て揺り動かされて取り除かれ、揺り動かされない神の国だけが現れる時(ヘブライ12章26-28節)に起こります。その時がいつであるかは、神以外に知ることは許されていません(マルコ13章32節)。その時、イエス様は天使の軍勢を携えて再臨し、この世の人生で彼を救い主と信じる信仰にしっかり留まった者を神の国に迎え入れます。その時、既に死んでいて眠りについていた人たちは復活させられてから、御国に迎え入れられます。たとえ眠りについていた時間が何百年たっていても、眠りについた本人にしてみればほんの一瞬のことにしか意識されない、とルターは教えます。こうして、復活の体と命を得た者たちが一堂に会する神の国は、大がかりな結婚式の祝宴にもたとえられます(黙示録19章7、9節)。それは、この世の人生に起きたあらゆることについての完全かつ最終的なねぎらいを受ける時であり場所であります。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙示録21章4節)。
3.
以上からみるに、キリスト信仰者にとって人生は二部構成と言えます。まず、今のこの世の人生、そして復活後に自分の造り主のもとで生きることになる人生。信仰者にとって人生とはこの二つをあわせたもので、今のこの世の人生はその第一部です。イエス・キリストを救い主と信じ、洗礼を通して造り主の神との関係が再興された後は、この世の人生の歩みは第二部の人生に向かっていくものとなります。
こういう、復活だとか永遠の命とか次に来る世とか、そんなことを考えていたら、今の人生を軽んじることになってしまうのではないか、現実逃避になってしまうのではないか、と訝しがる人もいるでしょう。しかし、事実は全く逆です。それは、ルターの教えからも明らかです。ルターは、キリスト信仰者の人生とは、肉に宿る罪と結びつく古い人と洗礼を通して与えられた聖霊に結びつく新しい人、この二つが相克するものである、そして、キリスト信仰者は肉を纏って生きる以上はこの世の人生の段階では完全なキリスト者にはなれず、それは死んで肉が滅んだ後のことである、と教えます。肉に宿る罪を罪としてわかることができるのは、この世の人生をしっかり生きる他ありません。家庭、職場、学校、そのほか他人との関係で生きるあらゆる場所で人間関係に揉まれる時、人は神の御言葉を通して自分が罪深く、神に不従順な存在であることがわかります。堕罪の時起きた神との断絶を引きずった存在であることを思い知らされます。しかし、その同じ神の御言葉は、まさにそのような者のために神が犠牲を払って、私たちに新しい命を与えて下さった、それで神との関係はしっかり保たれているから安心しなさい、と慰め励まして下さっているのであります。そして、聖餐式のパンとぶどう酒を通していただく主の血と肉がその関係を一層強めて下さるのであります。そのようにして、キリスト信仰者は、ルターの言葉を借りるならば、罪に結びつく古い人間を日々死に引き渡し、霊に結びつく新しい人を日々育てていく人生を歩むのであります。
親愛なるスオミ教会の兄弟姉妹の皆様、この多難ではあるかもしれないが、実は限りない祝福に満ちた信仰の人生の歩みを共に歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン