説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2020年8月2日(聖霊降臨後第九主日)スオミ教会
イザヤ書55章1-5節
ローマの信徒への手紙9章1-5節
マタイによる福音書14章13-21節
説教題 「神の国に向かって進む者には奇跡は本当のことになる」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書の日課の個所は、イエス様の有名な奇跡の業についてです。お腹をすかせた5千人以上の群衆にわずか五切れのパンと二匹の魚でみんなをお腹いっぱいにしたという奇跡です。これと同じ出来事についての記述が今日のマタイ13章の他にマルコ6章、ルカ9章、ヨハネ6章にもあります。他にも大勢の群衆をわずかな食糧で満たした出来事が、マタイ15章に4千人以上を相手にして七切れのパンと少しの魚で行ったことが記されています。これと同じ出来事はマルコ8章にもあります。人数は5千人から若干少なくなり元手のパンも5切れから少し増えますが、それでも想像を超える話には変わりありません。言われる人数も、女子供は除いてということですから、実際は5千人、4千人よりもずっと多かったでしょう。
一体この出来事は何なのでしょう?自然の摂理に反しすぎています。目の前にいるのは5千人以上の群衆。手元にあるのは5切れのパンと2匹の魚。5人に分け与えてもお腹いっぱいになんかならないでしょう。これを読んだ人は誰だって、こんなこと起こりっこない、大昔の人のファンタジーだと言うでしょう。ただ、話は聖書という宗教の本に載っていることなので本当かどうかは大事ではない、宗教の教祖というのは不思議な力を持って慈悲深い者であると描くのは古今東西どこにでもある、ここもそれなのだと言って、ありえないと騒ぎ立てることもしない、そういうのが普通の受け止め方ではないでしょうか?
しかしながら、この話が群衆の空腹の満たしで終わらず、残ったパン屑を集めたら籠12個分が一杯になったというのを聞くと、あっけに取られてしまいます。これじゃ、最初の5切れよりも増えてしまったじゃないか?これは一体何なんだ?命と体のために必要なものを消費する。ところが、消費したはずのものは無くならないで、逆に消費すればするほど増えてしまう。ここまでくると、教祖の慈悲深さを超えて、自然の法則を足蹴にして鼻で笑っているような感じさえします。
私も含めてキリスト信仰者の多くは、全員ではないかもしれませんが、そういう信じられない出来事が実際に起こったのだと言います。それは、私たちが科学的に無知でイエス・キリストの慈悲深さにすがりたいあまり、現実世界に目をつぶっているということではないと思います。もちろん、このようなことは普通はあり得ないとわかっているので科学的に無知ではありません。ただ、この場合は普通あり得ないことが起こったのだ、と言うだけです。そういう例外を認めることが無知ということになるのであれば無知でもいいです。また、イエス・キリストの慈悲深さにすがりたいあまり、あり得ないことを起きたことにしているのでもないと思います。イエス様が慈悲深いというのはその通りと思いますが、人間が病気や食べ物がないから可哀そうだから助けてあげるという人道主義を超えたことがあると考えています。というのは、もしイエス様のこの世での活動が人道主義で説明できるのなら、30そこそこの年齢で活動を打ち切ってさっさと十字架刑にかけられる道には進んだのはどうしてでしょうか?せっかく超能力に溢れているのだから、もっと長生きして世界各地に赴いて人道支援を続けた方が理に適っていると思います。なぜイエス様はあの時点で打ち切って受難が待ち受けるエルサレムにわざわざ向かって行ったのでしょうか?
全てのことは、イエス様の活動の主眼が「神の国」にあったということで説明がつくと思います。そういうわけで本日の説教では、イエス様の教えや業が「神の国」に結びついていることを明らかにしていこうと思います。
2.「悔い改めよ、神の国は近づいた」
イエス様がこの地上で活動した時の主眼は人々に「神の国」について知らせ、人々の目と心をそれに向けさせることにありました。
活動を開始した時、イエス様は「悔い改めよ、神の国は近づいた」と宣べていました。どんな意味でしょうか?「悔い改める」と言うと、悔恨の念を持って一人で暗くねちねち反省しまくっているようなイメージがわきます。何か、日本の職場や学校で反省文を書かされるようなイメージと結びつけられてしまうかもしれません。しかし、ギリシャ語のメタノエオーという動詞の基本的な意味は「考えを改める」です。そして、その動詞の背景にあるヘブライ語のシューブは、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるということです。ねちねちなんかしていられません。神の意思に反する生き方をしてしまった、それは罪なのだ、だからこれからはそれをやめて神の意思に沿うように生きなければ、と言って、エイ、ヤーと方向転換するのです。
ただし、ことはそう単純ではないことも事実です。方向転換とは言っても、神の意志に反していたことはどうなるのか?神は、そんなこともういいよ、と気安く言ってくれるのか?神がそんなに手軽で手ごろな方だったら、誰がもう罪を犯さないように生きようなどと思うでしょうか?逆に、もし神が罪を簡単には赦さない方ならば、どうしたらいいのか?何か償いをしなければならないのか?神が、お前の償いは完璧だから赦してやることにする、と言ってくれても、その後の人生でいいことがなければ、そんな神に方向転換したことを後悔するでしょう。逆に、いいことがあって、それで神の方を向き続けることが出来たとしたら、それでは足元はおぼつかないでしょう。
実は、イエス様は人間が神に向かう方向転換がおぼつかないものではない、完璧なものにしてくれたのです。そのことを後で見ていきます。悔い改めなさい、方向転換しなさい、と言うのは、これからそれが出来るようにしてあげよう、だから、私のところに来て私の教えることを聞きなさい、私の行うことを見なさい、ということです。
3.イエス様と共にあった「神の国」
イエス様は併せて、「神の国は近づいた」と宣べました。これは驚くべきことです。神の国というのは本来は、終末の時、天と地が新しく創造し直されて、今の世が新しい世に生まれ変わった時に現れるものだからです。
「神の国」に終末論が関係することについて少し触れておきましょう。ここ数週間の説教でもお教えしてきたことですが、聖書には終末論の観点があります。今のこの世が終わり新しい天と地が創造され、新しい世が始まるということです。終末論とは言いますが、正確には終わりだけでなく始まりも考えられます。新しい世では「神の国」が唯一現れる国となり、再臨するイエス様が最後の審判を行い、誰が「神の国」に迎え入れられ誰が入れられないかを決めます。その時、死者の復活が起こり、迎え入れられる者たちはこの世で纏っていた朽ち果てる肉の体にかわる神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられます。
「神の国」がどんな国かを考える時、黙示録21章4節で言われていること、つまり神が迎え入れられた者たちの目から全ての涙を拭われた国であり、死も悲しみも嘆きも労苦もない国であることに着目すべきと先週申し上げました。死も悲しみも嘆きも労苦もないので、安心安逸な天国そのものです。それに加えて、神が拭われる涙はギリシャ語原文で「全ての涙」なので、痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。この世で中途半端や不完全に終わってしまっていた正義が最後の審判の時に完結させられ完全なものにされるということです。神の正義が完全と言うのは、人間は他人のことのみならず自分のことさえも知り尽くすことはできません。それなので人間が下す判断はいつも偏って不完全です。人間のことを知り尽くしているのは、人間を造られて一人ひとりの髪の毛の数まで知っておられる創造主の神だけです。その神が下す判断が偏らず完全で、それが隅々まで行き渡っている国が神の国です。
イエス様はその「神の国」が近づいたと言ったのですが、それじゃ、もうその時は終末だったのか?しかし、あの時から今日まで天と地は全然変わっていないじゃないか?そういう疑問が起きます。イエス様は何を意味したのか?
それは、「神の国」がイエス様と共にあった、というか、イエス様の背後に控えるようにしてあった、ということです。どういうことかと言うと、イエス様の行った奇跡の業を思い出しましょう。無数の病人の癒し、悪魔の追い出し、自然の猛威の静め、そして今日の個所のように、わずかな食糧で大勢の人たちを満たすことがありました。健康、安心、安全、魂の守り、全て神の国に当たり前のようにあるものです。イエス様の奇跡の業と言うのは、「神の国」がどういう国であるかを人々に垣間見せた、味わわせたという意味を持ちます。もちろん、イエス様が慈悲深い方で困っている人を助けないではいられなかったと言うことも否定はしません。しかし、それならば、もっと大勢の人たちを助けるためにもっと地上にいてもっと多くの国々を回った方がよかったではないかということになります。イエス様は、まず当時の人々に「神の国」で当たり前にあることに与らせることをして、人々の目と心を神の国に向けさせました。後世の人は、それらの証言や記録に触れることで目と心を向けることが出来るようになりました。
イエス様は人々の目と心を神の国に向けさせただけに留まりませんでした。人々がそこに迎え入れられる手はずも整えたのです。イエス様の十字架と復活の出来事がその手はずでした。
人間に神の意思に反する罪が備わっていることは、世界や自分の周りに起きている痛々しい出来事を見ればわかります。自分自身を振り返ってみてもわかります。また自分は周囲に対して何も迷惑をかけていないと、優等生のつもりでいても、十戒の掟を鏡として自分を見れば、神の意志に沿うものでないことがわかります。人間はそのままの状態では、神の目から見て相応しい者ではないのです。神とイスラエルの民との間の旧い契約に基づけば、人間は神から与えられた掟を守れば、神の目から見て相応しい者になれるということでした。ところが、神が求めているのは外面的な行いだけでなく心の中の清さもそうなので、それは人間には不可能なことが明らかになりました。
そこで神が採った策は、誰かに人間の罪を全て償ってもらい、人間の罪を帳消しにした状況を創り出して、人間をその中に入れて人間を神の目に相応しい者に変えていこうというものでした。それでは、誰が人間の罪を償う役割を果たすのか?それが神のひとり子のイエス様だったのです。神聖な神の神聖なひとり子です。これ以上の身代わりはないという犠牲でした。これがイエス様のゴルゴタの丘の十字架の死の出来事の真相だったのです。人間は、この神の策による罪の償いが自分に対しても行われたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪を赦された者として見られるようになり、それからは神との結びつきを持ってこの世を歩むようになります。神の目に相応しくなろうとして自分で何かを成し遂げたのではなく、神のひとり子にそうしてもらったのです。畏れ多いことです。自分がしたことと言えば受け取るだけで、他は何もしなかったのに、天地創造の神が毎日、私の傍にいて祈りや願いを聞いてくれる神になったのです。
それからは、神のこの深い恵みに背くような生き方は出来なくなります。 もちろん、キリスト信仰者になっても弱さはあるし、隙をつかれることもあります。しかし、たとえ神の意思に反することがあってどうすればいいのか、ということになっても、一度打ち立てられた十字架の贖いの力は消えません。罪の赦しがそこにあるのだと確認できれば、また前に進んでいくことができます。その時の方向転換は本物です。進んでいく先とは「神の国」です。そして、この世を去った後、復活の日に目覚めさせらる時、神は、このように絶えず十字架に戻りながら前に進んでいたことを覚えていて下さるのです。
4.神の国を知らしめる教え
イエス様が奇跡の業を行ったのは「神の国」を垣間見せた、味わわせた、ということであり、それは人々を、当時の人も後世の人も皆、「神の国」に導くためでした。しかも、イエス様は、十字架と復活の業を通して、その導きを具体的なもの、現実のものにして下さったのです。ただ単に超能力を行使していたということではなかったのです。もしそれだったら、人々の目は「神の国」になど向かず、イエス様を教祖として拝むだけでしょう。
イエス様は、奇跡の業で私たちの目を「神の国」に向けさせるだけではありませんでした。教えを通しても、神の国がどのような国であるかを知らせました。先々週と先週のたとえの教えは、まさに「神の国」とそこに迎え入れられる者はどういう者かについて教えるものでした。「からし種」と「パン種」のたとえでは、朽ち果てる肉の体を纏った、取るに足らない私たち人間が、イエス様を救い主と信じる信仰に入ることで、最後には神の栄光を映し出す復活の体を纏う者に変わるということが教えられていました。「畑の宝石」と「真珠」のたとえでは、人間は神のひとり子の血を代償として神のもとに買い戻されるという位、神に高価なものと見なされて、神の国が現れる日までずっと守られているということが教えられていました。「良い麦と毒麦」と「魚を捕る網」のたとえでは、終末の時、神の国に迎え入れられる者と入れられない者の選別があるということが言われ、特に、最初迎え入れの候補者だった者も除外される可能性があるということ、だから、まさに今これからイエス様が果たした償いを受け入れて、十字架に戻りながら前に進むことを始めるかどうかにかかっているということが教えられていました。
イエス様の「神の国」を教えるたとえには、神の正義について教えるものもあります。マタイ20章にあるブドウ園の所有者と労働者のたとえでは、朝から晩まで一日中働いた者と夕方に来てちょっと働いた者の賃金が同じになることがあります。これは、神の国への迎え入れということについて、子供の時からキリスト信仰者として信仰ゆえにいろいろ苦労があった人も、晩年にイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてそういう苦労がほとんどなかった人も、神の招きに応じたのだから神の目から見て同じくらい相応しいということを意味します。神の国への迎え入れに関しては、神がイエス様を用いて用意したことを受け取るかどうかが本命になります。そこには人間社会の正義の尺度からはみ出すものがあるのです。
4.神の国の奇跡と聖餐式
以上から、本日の日課の5,000人以上の空腹を満たす奇跡の出来事も、他の奇跡も全て、イエス様を救い主と信じて「神の国」に向かって進む者にとっては起きて当然のものになることがわかって頂けるのではないかと思います。「神の国」に向かって進んでいない人にとっては、あり得ない話に留まるでしょう。
本説教の最後の部分です。本日の旧約の日課はイザヤ書55章の個所でした。一見すると、お金がなくても神が食べ物と飲み物を与えてくれるような内容です。4節と5節を見ると、諸国民に対する証人、諸国民の指導者、統治者とあるので、イエス様のことを指しているとわかります。そうすると、この個所は5,000人の奇跡を暗に意味していると考えることが出来ます。そこで、5,000人の奇跡が単なる空腹の満たしの超能力ではなく、「神の国」を知らせ迎え入れに導く奇跡であれば、このイザヤ書の個所も同じです。
1節で「穀物を求めて、食べよ、来て、銀を払うことなく穀物を求め」の「求め」はヘブライ語原文では「買う」です。お金がないのに「買う」というのは変なので「求め」に訳したのではないかと思われますが、要は「タダで手に入れる」ことです。私たちは罪の償いと神の国への迎え入れを神からタダで頂きました。2節で「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」というのは、せっかく神が無償で与えてくれる救いがあるのに、人間は違うものに救いがあると思って、それに自分の持っているものや労力を費やそうとしている。そこで、神は、私に聞けと命じます。「聞け」が何度も繰り返されます。
2節の中ほどに「わたしに聞き従えば」とありますが、ここはヘブライ語原文は命令形です。それもとても強調された言い方の命令です。それで、「しっかり聞くんだ!」としておきます。実はここのところをヘブライ語で読んでいくと、シムアー・シャーモーアと読みますが、いきなりイザヤ書6章9節に引き込まれます。というのは、そこにも同じ言い方があるからです。ただし、使われ方は180度正反対です。6章9節は、神の意思に反する生き方をするイスラエルの民に神が罰を下すところです。「しっかり聞け!しかし、お前たちは理解するな」と命じるのです。神との旧い契約が破綻したことを示しています。
それとは対照的に55章2節の「しっかり聞け!」は、「そうすればお前たちは良い物を食することが出来、魂に命を吹き込むことが出来る」と続きます。続く3節では新しい契約について言われます。新しい契約とは何か?それは、律法を守ることで神の目に相応しくなろうとするのではなく、神のひとり子が果たしてくれた罪の償いを受け入れることで神の目に相応しくなることです。神の目に相応しいものにされた以上は、これからは神の意思に沿うようにと自分を方向づけていきます。そこでは神に聞くことが重要になります。
神に聞くこととは、聖書を繙くこと、説教で御言葉の説きあかしを聞くことです。聖餐式のパンと葡萄酒は、神の国に向かって進んでいく時に起きてくる霊的な空腹を満たすものです。神が無償で与えて下さる糧です。消費すればするほど満たされ、消費してもなくなることもありません。まさに聖餐式は、全てが満たされている神の国を先取りするものです。聖餐式で私たちは神の国を味わい垣間見ることになるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン