説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2020年7月12日(聖霊降臨後第六主日)スオミ教会
イザヤ書55章10-13節
ローマの信徒への手紙8章1-11節
マタイによる福音書13章1-1、18-23節
説教題 「聖書の理解の仕方」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書の個所はイエス様の「種まき人」のたとえの教えです。イエス様のたとえの教えの中で有名なものの一つです。同じたとえは、本日のマタイ13章の他にマルコ4章、ルカ8章にも記載されています。3つの記載にはみなイエス様のたとえの説明もついています。大体次のような内容です。神の御言葉を種のように撒くと4つの異なる地面に落ちた。まず、道端に落ちた種はすぐ鳥が来て食べて行ってしまった。これは、悪魔が御言葉を取り去ってしまうことを意味する。次は岩の上に落ちた種で、種は芽を出すが、太陽に焼かれて干からびてしまう。これは、御言葉を聞いて喜んで受け入れても、迫害とか信仰が原因で困難に陥ったら躓いて信仰を捨ててしまうことを意味する。その次は茨の茂みの中に落ちた種で、芽を出し育っていくが、勢いのある茨の方が覆いかぶさってしまい、実を結ぶことはできなかった。そして最後は良い土地に落ちた種で、これは沢山の実を結ぶ。これは、御言葉を聞いて「悟る」人だと言う。この「悟る」について後で見ていきます。
「種まき人」のたとえは、キリスト信仰者が自分はどのタイプになるのかと自問して反省する材料に用いられます。その意味ではこのたとえの教えはそう難しくはありません。しかしながら実は、これは一筋縄でいかない、とても底が深い教えなのです。ニコラス・トーマス・ライトというイギリスの有名な聖書学者が1996年に出した研究書の中で言っているのですが、このたとえの本当の意味について研究者の間で統一した見解がないというのです(後注1)。信じられないことですが、それを示すこととして聖書のいろんな解説書を見ると、このたとえに付されるタイトルがバラバラであることに気づきます。「種まき人」が多いですが、「撒かれた種の運命」とか「4つの土壌」とか、解説者がこれがたとえの主眼だと考えたものがタイトルになります。果たしてこのたとえの主人公は種を撒く人なのか、種なのか、土壌なのか?私事で恐縮ですが、2010年に私がまとめた博士論文の中でこのたとえについても調べる必要があったので調べました。その当時でも決定的な解釈はまだ出ていなかったと思います。それから10年経ちました。その間、学会の動向をフォローしませんでしたが、このたとえの本当の意味はこれだ!と言って世界中の学会もそれに間違いないと太鼓判を押すような解釈は果たして出たでしょうか?
このたとえの難しさを示すものとして、撒かれる種が何を意味するのかはっきりしないことがあります。マルコに記載されたイエス様の説明を見ると、撒かれるものは神の御言葉であると冒頭ではっきり言います(マルコ4章14節)。ところが、イエス様の説明をよく見ると、撒かれるのは人間であると何度も言われます。撒かれる種とは、果たして神の御言葉なのか人間なのか?人間が撒かれるとはどういうことなのか?(人間が撒かれるものになっているのは、日本語や英語その他の現代語の聖書訳でも確認できますが、原文のギリシャ語はもっとはっきりしています。この説教のテキストの後ろにギリシャ語がわからない人でも一目見てわかるような注を載せますので、興味ある方はホームページに掲載されるテキストをご覧下さい。後注2)
他方、ルカを見ると、「種とは神の御言葉である」と冒頭で言って(ルカ8章11節)、あとは徹頭徹尾、種イコール御言葉で通していきます。マルコのような二重の意味はありません。ところが、本日のマタイの個所では、ルカやマルコみたいに撒かれるものは御言葉であると言わず、人間が撒かれるものになっています。一度だけ、心の中に御言葉が撒かれると言いますが(13章18節)、あとは人間が撒かれるものとして何度も出てきます。
さあ、大変なことになりました。マルコは撒かれるものは御言葉と人間であると言い、ルカは御言葉だと言い、マタイは人間だと言うのです。このように福音書というのは、イエス様の教えや業について同じ出来事を扱っても記者の観点で強調点や焦点の当て方が異なってくることがしょっちゅうです。それなので福音書を読む時は、全ての観点を網羅すると全体像が得られるんだという気持ちで読むことが大事です。
本説教では、マタイ版の「種まき人」とマタイの観点を見ていきます。人間が種のように撒かれて4つの違いが出てくるという時、何が実を結ぶ、結ばないの決め手になるのか、そして実を結ぶとはどういうことなのかを明らかにしようと思います。その際、本日の旧約の日課イザヤ書55章と使徒書の日課ローマ8章も手掛かりになると思いますので、それもあわせて見ていきます。
2.実を結ぶ、結ばないの決め手は御言葉を「理解する」こと
「種まき人」のたとえについてイエス様が弟子たちに説明したことを見てみます。マタイ13章18~23節です。先ほど述べましたように19節に一度だけ「心の中に撒かれたものを奪い取る」と言って、撒かれたものが御言葉であると言っていますが、そこだけです。あとは、「道端に撒かれたものとは、こういう人である」、「岩に撒かれたものとは(…..)すぐにつまずいてしまう人である」、「茨の中に撒かれたものとは(…..)実らない人である」、「良い土地に撒かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人」であると言います。
ここで「悟る」という言葉についてひと言。ギリシャ語の動詞συνιημιの意味は辞書では「バラバラなものを一つにまとめる」が基本的な意味で、そこから派生して「理解する」、「把握する」という意味で用いられます。「悟る」だと何か鋭い洞察力や直観で「見抜く」ような感じがあります。また、観念してあきらめるような時に「運命を悟った」などという言い方をします。それから仏教用語で「悟りを開く」というのがあります。それは何か心に迷いがなくなった状態で、それはキリスト信仰の平安と違います。キリスト信仰で言う平安とは、神と人間の間に平和な関係が得られていることが土台にあります。神と人間の間の平和な関係は、神のひとり子イエス様が人間の罪を全部ゴルゴタの丘の十字架で人間に代わって神に対して償った、それで人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとその償いを自分のものにすることが出来る、それで神から罪を赦された者として見てもらえるようになった、ということに基づいています。イエス様の償いの業と彼を救い主と信じる信仰で、罪による神との敵対関係がなくなり、人間は神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになりました。人間は神にとことんより頼む者になり、神にあらゆる事を打ち明けて祈り願い求め、神はそれを全部聞き遂げて、自分の良かれと思う時と仕方で答え導いて下さるという関係になったのです。このようにキリスト信仰では、ゴルゴタの十字架という歴史上の出来事のゆえに、神に対して強い深い信頼を寄せていて、その信頼と表裏一体のものとして平安があります。人間が何か修行や勤行をして何かの境地に達して心に迷いがなくなったというのとは違います。
そういうわけで、たとえの説明の中にある「悟る」も、本説教では「理解する」にします。他の国の聖書訳を見ても、英語NIVはunderstandで「理解する」、ドイツ語のルター訳も共同訳もverstehen、スウェーデン語はförstå、フィンランド語もymmärtääとみんな「理解する」です。なぜ、日本語訳は「理解する」ではダメだったのでしょうか?宗教的なニュアンスを持たせるために「悟る」にしたのでしょうか?もちろん、「理解する」と言うと、何か頭で理解するという頭でっかちな感じがして、ここで言おうとしていることを言い表せていないのではという心配もあります。ただ、理解は理解でもどんな理解が問題になっているのかがわかればいいのです。少しややこしくなってきましたが、どんな理解の仕方が問題になっているのかをわかるようにしましょう。
道端に撒かれた人は御言葉を聞いたが理解しなかった、それで悪魔に御言葉を心から奪い取られてしまった人でした。岩の上に撒かれた人は、御言葉を聞いてすぐ喜んで受け入れたが根をおろしていなかったので迫害や困難が起きると躓いてしまった。茨の中に撒かれた人は御言葉を聞いたが、思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいでしまった。そして、良い土地に撒かれた人は御言葉を聞いて「理解した」人で実を結ぶに至った、と言います。これを見ると、全てのケースで御言葉を聞いているのがわかります。ある場合は喜んで受け入れたとさえ言っています。ところが「理解する」ことがなかったために、みんな途中でダメになってしまった。御言葉を聞いて喜んで受け入れるだけではだめなのです。「理解する」ことがなければならないのです。逆に言うとこの「理解する」ことがあれば、悪魔が来ても奪い取られない、迫害や苦難が起きても躓かない、思い煩いや富の誘惑に覆いふさがれないで実を実らせることができるのです。
そうすると、御言葉を聞いて「理解した」という良い土地に撒かれた人は、御言葉を奪い取る者から守ることができ、迫害にも屈せず、思い煩いや富の誘惑にも覆いふさがれずに実を実らせるところまで到達した人になります。良い土地に撒かれたと聞くと、何も問題なく苦労も悩みもなくすくすく育った印象を受けますが、そうではありません。奪い取る者から御言葉を守り、迫害にも屈せず、思い煩いや富の誘惑にも覆いふさがれずに実を実らせることが出来たということです。そういうことをくぐり抜けて実を実らせるに至った、そういう強さを持っていたということです。そのような強さを持てたのは御言葉を「理解する」ことがあったからです。そういうわけで、この「理解する」というのは、頭で理解するというよりは、それがあるおかげで悪魔から御言葉を奪い取られないですむ、迫害や困難に遭遇しても躓かないですむ、思い煩いや富の誘惑に覆いかぶさられないで実を結ぶところまでいける、そういう力を意味します。御言葉を頭で理解することも大事ですが、ここで言う理解とはそういう力を生み出す理解です。
ところで、ルカ版のたとえでは、撒かれる種はあくまで神の御言葉で、人間は土壌です。実を結ぶのは神の御言葉です。そうすると、たとえをルカ版で読んだり聞いたりした人は自分はどのタイプの土壌だろうか、道端だろうか、岩だろうか、茨の茂みだろうか、良い土地だろうかと自問することになります。マタイ版のたとえを読んだり聞いたりした人は、自分は実を実らせるに至るような理解をしているだろうかと自問することになります。
それでは、いろんな妨害や障害を乗り越えて実を結ぶに至る力をもたらす理解とはどんな理解なのか、それを本日の旧約の日課イザヤ書55章の個所を手掛かりにして見ていきましょう。
3.御言葉を「理解して」「実を結ぶ」ということ
本日のイザヤ書の個所で神が言われたことはこうでした。神の口から発せられる言葉は一度発せられたら、空しく神のもとに戻らない。それは、雨や雪がひとたび天から降れば天に戻らないで大地を潤し、芽を出させ生い茂らせ、種まく人に種を与え、食べる人に糧を与えるのと同じである。神の言葉が一度発せられたら、神の望むことを成し遂げ、言葉が発せられた目的を成功裏に果たす。それくらい神の言われることは必ず結果を生み出す、実を結ぶのだと言います。それでは、生み出される結果、結ぶ実とは何を意味するでしょうか?
12~13節を見ると「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く」とあります。実はイザヤ書の40章から55章までというのは、イスラエルの民が捕囚の地バビロンから解放されて祖国に帰還できるという預言が多く宣べられます。その帰還は実際に紀元前538年に実現します。それで12節と13節もバビロンからの帰還を意味すると考えられて、神の言葉はむなしく発せられないと言うのは、預言は実現するのだということを言っていると考えられます。
そうすると、それは過去の歴史的な出来事について言っているだけということになります。しかしながら、神の言葉は空しく発せられないというのは歴史を超えて今を生きる私たちにもあてはまる真理であることに気づかなければいけません。神は、自分は将来とてつもない大きな事を起こすし、それを起こす力もあるということを、歴史の中で大きな出来事を起こすことで前もって示したのです。どういうことかと言うと、大帝国に完膚なきまで滅ぼされて異国に連行された小さな民族が祖国に帰還できて復興を遂げられるという、普通では起こり得ないことを神は起こしたのです。これを前もって預言者に預言させ、それを紀元前6世紀終わりに実現させたのです。後世の者たちよ、こんなのは序の口なのだ、私はもっと大きなことを成し遂げる計画とそれを実現する力を持っているのだ、私が預言者たちに言わせたことの主眼はこれなのだ、そのことを忘れるな、ということです。
それでは、神は後世にどんなことを実現して、それがどう現代を生きる私たちに関わっているのでしょうか?神の発する言葉は雨雪が大地に実りをもたらすのと同じように私たち人間にも恵みを与えるというのは、何だかありがたい言葉に聞こえます。喜んで飛びつきたくなります。しかし、それで迫害や思い煩いや富の誘惑が来ても、その聖句は本当だと言って手放さないでいられる理解が生まれるでしょうか?耳に聞こえのよい言葉は自分に都合の良い解釈になって、都合悪くなったら捨ててしまうことにならないでしょうか?
実はイザヤ書55章10~13節は、そこだけ見ても理解できません。神の御言葉は空しく戻らず、必ず当初の目的を果たすということの本当の意味を理解できるためには、6節から見なければなりません。本日の個所は10~13節で区切られていますが、本当に理解しようとすれば6節~13節をひとまとまりで見る必要があります。
6節と7節で預言者は、主を見出せる時に主に立ち返れ、主が近くにおられる時に主を呼び求めよ、神に逆らう者はその道を捨て、悪を行う者はその考えを捨てよ、と呼びかけます。この呼びかけは、バビロン捕囚という神罰を受けたユダヤ民族だけでなく、時代を超えた全ての人間に対して向けられています。神に立ち返るならば、神は罪を赦して下さる。しかも、途切れることなく絶えず赦して下さると預言者は言います。なぜ、罪を赦すことが絶えずあるのかと言うと、ルターも言っていますが、人間は誰もこの世での人生の間に罪の赦しが必要なくなる段階に達することが出来ないからです。
8節から後は、神が言われることを預言者が取り次いで述べていきます。立ち返れば神は必ず罪を赦して下さることがどれだけ本当のことであるかを神自身が述べていきます。神の考えは人間の考えと同じではない。神の道は人間の道と同じではない。天が地を高く超えているように神の道は人間の道を高く超えている。神の考えは人間の考えを高く超えている。このように神の考えは人間離れしているということを8節と9節で言って、その後に本日の個所が来ます。天から降る雨や雪が大地を潤し実りをもたらすように、天の神から発せられる御言葉は目的を果たす。このように本日の個所は、罪の赦しが確実に与えられるということが主眼なのです。
それでは、神が発した御言葉が目的を果たして罪の赦しが与えられたというのは一体どういうことか?それはまさしくイエス様が果たした人間の罪の償いでした。神が遣わす僕が将来人間の罪を償う犠牲になることがイザヤ書53章で預言されていました。神が発した預言の言葉です。それが歴史上、本当に実現し神の目的が果たされたのでした。またヨハネ福音書の冒頭を見るとイエス様のことを神の言葉が肉となった方であると言われています。まさに神の御言葉そのものであるイエス様が神の目的を十字架と復活の業で果たされたのでした。ひとり子を犠牲に供して人間と神との間に平和を打ち立てるというのは、まことに人間離れした、まさに全知全能の神ならではの仕方でした。まさに神の考え、神の道は人間の考え、道を高く超えているということでした。
ここで、神の御言葉が実を実らせるというのはどういうことか見てみます。キリスト信仰者は神との結びつきを持ってこの世を生きます。そしてイエス様のおかげで父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられる日が来るという希望を持って生きます。まさにその時、信仰者の生き方はどんな生き方になるかということを見れば、実とはどんな実かわかります。
先々週から使徒書の日課はローマでした。使徒パウロは6章で、洗礼を受けた者はイエス様の死と復活に結びつけられる、それで罪に対して死に神に対して生きるようになると説いていました。罪に対して死ぬと、罪が支配しようとしても出来ない位こっちは死んでしまっている。だから、罪に服従することはない。代わりに神に服従するようになった。しかしながら、自分はまだ肉の体を纏っており、それは罪が肉の思いをたきつける格好の道具である。そのためパウロは、キリスト信仰者は洗礼を受けた自分の立ち位置をよく自覚して体を罪のための道具とせず、意識して神の意思のための道具とせよと説きます。ところが、信仰者にとって一つ辛いことは、律法の掟が罪を罪として包み隠さず鏡のように自分の前に現れてくることです。キリスト信仰者は何が神の意志かわかっているのだが、その通りに行えない、語れない、思えないということばかりの自分に気づかされてしまう。そのことをパウロは7章25節で、自分を例にして信仰者というのは意識や理解の面では神の命じることに従っているが、肉の面では罪の命じることに従っていると言います。
しかしながら、8章1節ではっきり言います。洗礼を通してイエス様と結ばれている者には神の裁きはない、と。つまり、意識や理解の面で神の命じることに従っていることが大事なのです。肉の面でも従えれば完全ですが、それは復活の日に復活の体を着せられる日まで待たなければなりません。今の肉の体の時は、意識や理解の面で神の意志に従うということが楔のように肉に打ち込まれているのです。まさに肉に対して聖霊の楔が打ち込まれているので、パウロは11節で次のように言うのです。キリスト信仰者には洗礼の時に注がれた聖霊が宿っており、神はその聖霊を通して信仰者の滅びの体を永遠に生きる体すなわち復活の体に変えて下さるのだ、と。キリスト信仰者にとってこの約束は絶対です。
さて、肉の体を纏っていながらも、このような難攻不落の要塞を築いてもらった以上は、それこそ体を神の意志の武器にして戦わなければなりません。パウロはローマ12章で、キリスト信仰者は体を神聖な生贄として神に捧げよと言います。3節からあとは、そのために具体的に何をするかが言われます。自分を過大評価するな、悪を憎み、善から離れるな、兄弟愛を持って互いに愛せよ、互いに尊敬を持って相手を優れた者と思え、迫害する者のために祝福を祈れ、呪ってはいけない、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け、高ぶらないで身分の低い人と交われ、自分を賢い者とうぬぼれるな、悪に悪を返すな、全ての人の前で善を行え、他の人と平和に暮らせるかどうかがあなたがた次第ということであれば迷わずそうせよ、自分で復讐するな、神の怒りに任せよ、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませよ等々、そうそうたるものです。
以上が、キリスト信仰者が自分の体を生贄として捧げる生き方です。これができる、これが当然という心になれるのは、イエス様のおかげで罪の赦しがあることを信じる信仰があるからです。ここで注意しなければならないのは、こうしたことは、神に認めてもらうためにするとか、罪を赦してもらうためにするとか、そういうご褒美を頂くためにするものではありません。イエス様の十字架と復活の業でまず神から一方的に赦しを頂いて認めてもらった、それでそういう救われた結果の実として現れてくるものです。これが神の御言葉を聞いて「理解した」者が結ぶ実です。「理解する」とはまさに、御言葉がこの私に、罪の赦しが果たされたこと、それで神との間に平和な関係が打ち立てられ神との結びつきを持ってこの世を生きられること、そして、この世を去った後は造り主の神のもとに永遠に迎え入れられること、これらのことを言っているのだとわかる理解です。この理解がないと試練や苦難に遭遇したら御言葉を保ち続けることは難しく、実を結ぶことも出来なくなるので注意しましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注1)N.T. Wright “Jesus and the Victory of God. Christian origins and the question of God”, Vol. Twoの230ページです。
(後注2)マルコ4章14~20節の「種まき人」のたとえの説明の中で、
撒かれたものが人間である部分はアンダーラインで、
撒かれたものが御言葉である部分は太字イタリックで示しました。
14節 ο σπειρων τον λογον σπειρει.
15節 ουτοι δε εισιν οι παρα την οδον οπου σπειρειται ο λογος και οταν ακουσωσιν, ευθυς ερχεται ο σατανας και αιρει τον λογον τον εσπαρμενον εις αυτοις.
16節 και ουτοι εισιν οι επι τα πετρωδη σπειρομενοι, οι οταν ακουσωσιν τον λογον ευθυς μετα χαρας λαμβανουσιν αυτον,
18節 και αλλοι εισιν οι εις τας ακανθας σπειρομενοι ουτοι εισιν οι τον λογον ακοθσαντες,
20節 και εκεινοι εισιν οι επι την γην τεν καλην σπαρεντες, οιτινες ακουουσιν τον λογον και παραδεχονται και καρποφορουσιν εν τριακοντα και εν εξηκοντα και εν εκατον.