2017年3月13日月曜日

アブラハムの信仰と私たちの時代 (吉村博明)

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2017年3月12日 四旬節第二主日

創世記12章1-8節
ローマの信徒への手紙4章1-12節
マタイによる福音書20章17-28節

説教題 「アブラハムの信仰と私たちの時代」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.      はじめに

本日の旧約聖書と使徒書の日課はアブラハムについて述べています。アブラハムはいつの時代の人かと言うと、これはイエス様の時代と比べて歴史的な確定が困難です。イエス様の時代は、福音書の中に名前が出て来るローマ帝国の皇帝や総督、また当時のパレスチナの地の為政者などから、今から2000年くらい前のこととわかります。ところがアブラハムの場合は、エジプトの国王が登場しますが(12章後半)名前が記されておらず、歴史的に照らし合わせられる手がかりが少なく、正確な時代の確定は困難です。イエス様の時代からさらに約2000年位さかのぼった頃という説が一般的です。つまり、私たちの時代から4000年くらい昔の人ということになります。本日の旧約の日課は、アブラハムが神の召命を受けて、ハランという所からカナンの地に移住する出来事についてです。ハランは、地図でみると、現在のトルコとシリアの国境沿いのトルコ側にあります。カナンの地とは現在のイスラエルあたり、神がアブラハムの子孫に与えると約束した地です(127節)。

さて、アブラハムが神から召命を受けてハランを旅立ったのは75歳の時でした。彼は175歳で死ぬので(2578節)、100年間天地創造の神との関わりの中で生きることになります。皆さんは、アブラハムの100年にわたる信仰の生涯について、どんなことを思い出しますか?創世記の11章から25章に彼の信仰の生涯について記されています。沢山の出来事があります。恐らく聖書の読者の多くがよく覚えている出来事として一番のものは、高齢にしてやっと授かった、愛する息子のイサクを生け贄として捧げよ、と天地創造の神から命じられてしまったことではないでしょうか?神が与えた賜物と賜物を与えた神のどちらを重んじているのか示してみよ、と試されてしまったのです。アブラハムが陥った窮地は、私たちの想像を超える仕方で解決が与えられます。これ以外にも、神との結びつきの中で生きるアブラハムにいろんな事が起こったことが記されています。ハランを出発して、まさに波乱に満ちた人生に歩み出したと言えます。しかし、それは神からの祝福に満ちた人生でした。

アブラハムに関することで、二つほど、その後の世界の歴史にとって重要な意味を持つことがあります。一つは、創世記17章にありますが、天地創造の神と同盟関係を結ぶ時、割礼という儀式を行うことが条件になりました。割礼を施されて、天地創造の神と同盟関係に入る、これでユダヤ民族という一つの民族が誕生することになりました。もう一つの重要な意味を持つことは、本日の使徒書の日課で言われるように、使徒パウロがアブラハムの信仰の中にまさに信仰の真髄を発見したことがあります。この発見がもとで、キリスト信仰がユダヤ教のみならず、他の宗教と比べても違いが際立つ宗教になったと言っても過言ではありません。本日の説教では、このことを見ていこうと思います。

その前に、今の時代を生きている私たちにとってアブラハムの信仰がどんな意味を持つのか、少しでもわかるために、今のこの時代がどんな時代であるかを少し考えてみたく思います。最近では、真実とか事実というものは、本当に真実か事実かが問題ではなく、多くの人に受け入れられたり、支持されれば真実、事実になる、という風潮があります。何かの目的の達成のために役立つことを真実、事実にするという風潮があります。アフター・トゥルースとかオールタナティヴ・ファクトなどと言う言葉はそうした風潮を反映しているのでしょう。本当に何を信じたらいいのか途方にくれてしまう、わけのわからない時代になってしまったと思います。時代がわけのわからないものであればあるほど、少なくとも自分自身に関してはわけのわかるようにしよう、それをしてから、わけのわからない時代に立ち向かっていこう、そう考える人にとっては、やはり聖書は繙くに値する書物ではないかと思います。こういう時代だからこそ、聖書やキリスト信仰には一層意味があるのではないかと思います。

 そういうと、世界には多くの宗教があるのに、なぜキリスト教だけなのか、キリスト教は唯一の真理を代表すると気取っていると言われてしまうかもしれません。でも、聖書という書物は、イエス様の十字架と復活の出来事の後に成立した新約聖書の部分が出来てから2000年近く経ちますが、その間ずっと、それぞれの時代の中で生きた人間に時代に向き合う手がかりを与えてきたことは否定できません。聖書ですので、もちろん唯一の創造主という、私たち一人一人を造って私たちに命と人生を与えた神が中心にあります。そしてその神と自分との関係はどうなっているのかということを考えさせます。つまり、この私を造られ、私について何かを期待し、何かを計画している、そういう方がおられる。同時に、今のこの時代を生きている私は、いろんな問いを持っている。そうした問いにキリスト信仰は、すっきりと答えを与えるかもしれません。しかし、どちらかというと、人間を現実と理想の狭間において、悩ませることの方が多いかもしれません。でも、狭間に置かれることで、かえってそれまで見えなかったいろんなものが見えてくるということになるのではないでしょうか?

 もちろん、創造主と自分との関係など持ち出さないで、純粋に哲学的に無神論的に、自分とは何か、自分が向き合っている世界や時代は何か、考えることも可能です。ただ、哲学の場合は、思考はこの世止まりで、この世の範囲内で考え、答えを見出そうとします。キリスト信仰の場合は、この世の次に来る世があって、その2つの世を合わせた全体から今の世を見下ろして答えを見出そうとします。さらに、キリスト信仰の立場で言わせてもらえれば、旧約聖書に新約聖書が加えられた時から数えて2000年位の蓄積があって、それをもとに時代に立ち向かっていけば、その蓄積は吟味されて、さらに深く、豊かにされていきます。キリスト信仰をもって時代に立ち向かうというのは、この、蓄積を吟味し、それをさらに深く豊かにするという、そういうプロセスに参加することだと言えるでしょう。このプロセスに参加することを通して、自分自身を深く豊かにすることになると思います。

以上、今の時代にあって、キリスト信仰を持って生きることにはどんな意味があるかについて序論的なことを述べてみました。本日は、そのキリスト信仰にとって大きな意味を持つ、アブラハムの信仰について見てみます。アブラハムの信仰は、キリスト信仰の蓄積の中の大きな部分を占めるものです。ただし、本日は創世記の11章から25章まで全部は見れないので、アブラハムの信仰の序説くらいに考えてお聞き下さればと思います。

2.神は信じない者を呼びだして信じるようにする

本日の旧約の日課の創世記12章初めは、当時アブラムという名前のアブラハムが、神の命を受けて、ハランからカナンの地に移住するところです。名前がアブラムからアブラハムに変わったのは、17章のところで神が、お前を多くの国民の父にするので、これからはアブラハムと名乗りなさい、と言ったことによります(5節)。アブラハムとは、ヘブライ語の単語の合成で「国民の多いことの父」という意味を表わします。まさに「多くの国民の父」です。

さて、アブラハムはハランからカナンの地へ移住しましたが、実は、アブラハムはハランの出身ではありません。創世記11章をみると、もともとアブラハムは父のテラと兄弟たちとともにカルデアのウルに住んでいました。カルデアとはバビロンのことです。つまり、アブラハムとテラたちは、今のイラクであるバビロンからユーフラテス川沿いに遡って、今のトルコ・シリア国境付近のハランに移り、そこで「私が示す地に行きなさい」という神の命令に従って、妻サライ(後のサラ)、甥のロト、ハランで得た従者や財産を携えて、カナンの地に移住をしたのでした。

 ここで、ひとつ、あまり知られていないかもしれませんが、アブラハムの経歴の中で驚くべきことがあります。それは、ヨシュア記2423節の中でヨシュアが民に神の言葉を伝えている場面がありますが、そこで次のような神の言葉があります。「あなたたちの先祖は、アブラハムとナホルの父テラを含めて、昔ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいた。しかし、わたしはあなたたちの先祖アブラハムを川向うから連れ出してカナン全土を歩かせ、その子孫を増し加えた。」

つまり、アブラハムは神の命令を受けるまでは、バビロンの地、ハランの地で他の神々を拝んでいたのです。それが、神の命令を受けて、神に従う人生を始め、死ぬまで神に聞き従う者として生き抜いて、イスラエルの民の元祖になったのです。そんなアブラハムが神の命令を受ける前は異教の神々を拝んでいたというのは驚きです。

 「他の神々」というものがいつ頃から出て来るようになったのか、ということをちょっと考えてみました。ノアの時代の大洪水の後で、人間はまた増えだし、諸民族に分かれていき、世界中に広がって行きました。ただ、当時人間はまだ共通の言語を持っていました。そこで人々は、バビロンの地に集まって来て、そこに町と天にとどく塔を作り始めました。神は人間が自分と張り合おうとする性向を良しとせず、この建設をやめさせるために、人間が神に張り合おうと共謀できないようにしてしまおうと、神は人間の言葉を「混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないように」しました(117節)。つまり、人間の言葉を共通のものでなくする、言語をバラバラにするということです。ひょっとしたら、言語がバラバラになって、人間が各地に散らされて、それぞれの場所でそれぞれの言葉を使って生活するようになったことが、いろいろな神々の崇拝を生み出すことになったのではないかと考えることができます。ノアの子孫であるアブラハムの家系も、散らされた場所で、天地創造の神とは違う神々を崇拝するようになっていったのでしょう。

 しかし、聖書の立場に立てば、人間はみな天地創造の神に創造された者です。世界各地に散らされて、自分たちの言語を使って生活しているとは言っても、人間には創造主の神について何か遠い追憶のようなものがあることになります。「コヘレトの手紙」311節には次のような言葉があります。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」。つまり、人間は造り主の神から「永遠を思う心を与えられている」のです。(実は、昨年の新年礼拝で私はこの聖句をもとに説教をしたのですが、ヘブライ語の原語の正確な意味は、「神は永遠というものを人の心に与えられた。それなしでは、人は神のなさる業を発見すること不可能である。しかし、与えられたので可能なのだ」ではないかと申し上げました。まだ専門家に聞いて確認していません。)

使徒パウロは、アテネの丘の上の大集会場にて居並ぶギリシャの知識人を前にしてキリスト信仰を証しした時、人間には神を捜し求めようとする心があって、それぞれの民族は「手探りするように」(ψηλαφαςω)神を捜していると述べています(使徒言行録1727節のギリシャ語の関係する文の訳は「もし手探りして見いだすことができるのであればいいのだが」という意味になると思います)。さらにパウロはローマ2章の中で、ユダヤ民族と異なって十戒をはじめとする律法を持たない異邦人も、律法の命じることを自然に行えるということを述べています。例えば、十戒を持っていなくても、盗む、殺す、姦淫する、偽証する等のことは、悪い事だとわかり、それをしないようにしたり、また犯した者を罰したりする、それは異邦人の心の中に律法の要求することが心に記されているからだ、と述べています。人間を造られた神は十戒を与えた方ですので、どんなに離れたところにいる民族でも善悪の基準はお互いそうかけ離れたものではないのではないでしょうか?

しかしながら、同じ天地創造の神に造られた人間はみな、言葉や文化の違いから現実にはいろんな神々を崇拝しているにしても、心の奥底にはみんな同じ希望を持っている、などといくら言っても、そこには魂の救いはありません。パウロがローマ3章で述べるように、全ての人間は十戒や律法を手に渡されていようが、心にそれらしきものを記されていようが、全ての人間は十戒や律法に盛られた神の意思を完全に実現できないということで、みな神に背を向けてしまっている存在なのだ、神の御心に反抗し、神聖な神に対して罪の汚れを持つ存在、それで神の裁きの下に置かれている存在なのだ、これが人間の真実なのだ、と教えます。人間の真実について、きれいごと、まやかしはいわない。これが聖書の立場です。それでは、人間は神の目に適う者になれないのでしょうか?神の裁きの下に置かれたままなのでしょうか?

この問題を解決するために神はひとり子イエス様をこの世に送ったわけですが、そのことを見る前に、アブラハムはどのようにして異教の神々から天地創造の神に聞き従えたのか、ということについて私が考えたことを述べておこうと思います。もちろんアブラハムにも、天地創造の神への追憶はあったでしょう。しかし、その神を知る手がかりがありません。そこへ、神自らが声をかけて呼び出したのです。呼び出した神が異教の神々よりも信じるに値すると思った要因ですが、異教の神々が単なる偶像であれば、これはもう明白なことです。イザヤ書47章に、偶像というのは人間に背負ってもらって据えつけられて立つことはできるが、そこからは自分で動くことは出来ない、助けを求めて叫んでも答えてくれない、悩みから救ってもくれない、と言われています。それまで拝んできた神々が無口だったのに対して、突然、語りかける神が近づいてきたのです。その神は、天と地と人間を造られ、人間一人一人に人生と命を与え、さらに堕罪の時に失われた自分と人間との結びつきをいつか取り戻してあげようと決めておられた神だったのです。

3.人間は神の力で義とされると信じて義とされる

アブラハムの信仰で、キリスト信仰にとってとても大事なことが、本日の使徒書の日課ローマ43節に述べられています。パウロが創世記156節を引用して述べているところです。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」。いわゆる、信仰によって神から義と認められる、ということです。このことについて見ていきます。

この創世記156節は、その前後を合わせて見るともっとよくわかります。それは、「アブラハムは、高齢であるにもかかわらず自分と妻のサラの間に子供が授けられて、多くの子孫を得ることになるという神が約束したことを信じた。その信じたことが、彼の義として認められた」ということです。不可能と思える状況の中、理性で考えて起こりえないことを、神はすると約束した、神が約束したことだからと疑わずに信じた。それがもとで、アブラハムは義を有すると神に認められたということです。

 そこで義というのは、これは、神の意思が完全に実現された状態を意味します。まず、神は義そのものの方です。人間はと言うと、これは神聖な神と正反対な、罪を持つ、神の意思に反する存在です。義がない存在です。どうしてそうなってしまったかと言うと、堕罪の時に神に対して不従順になって罪が人間の内に入り込んでしまったからです。その結果、人間は死ぬ存在となってしまいました。死ぬということが、人間は罪を内に持っていることの証拠なのです。そこで、もし人間が義を持てるようになれば、人間は神の目に相応しい者となって、堕罪の時に失ってしまった神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この世を天地創造の神との結びつきを持って生きられるというのは、順境の時も逆境の時も絶えず神から見守られて、良い導きと助けを得られるということです。万が一この世から死ぬことになっても、神との結びつきがあれば、神が御手を差し出して、御許に導いて下さいます。そして、永遠に自分の造り主の御許に戻ることができるようになります。

そのように人間が義を持てるためには、自分の内にある罪を取り除かなければなりません。神は人間に十戒をはじめとする律法を与えましたが、人間はそこに示される神の意思に沿うようにしっかり生きなければなりません。ところが、それは思うようにうまくいきません。なぜなら、パウロが教えるように、律法というのは本質的に実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないものだからです。なぜなら律法によっては、罪の自覚しか生じないからです(ローマ320節)。このように、律法や十戒を守って神の目に相応しい者になろうという義の取得の仕方は、破たんしているのです。これが人間の現実である、というのが聖書の立場です。

 では、どうしたら良いのか?そこで神は人間に代わって解決を図って下さいました。ひとり子イエス様をこの世に送って、彼に人間の全ての罪の罰を請け負わせて、十字架の上で死なせて、この犠牲の死に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。本日の福音書の箇所でイエス様は、自分は多くの人たちの身代金としてきた、と述べていますが、それはまさに、自分は人間を罪の呪縛から解放するための身代金になる、自分の命を代価にする、ということでした。先ほども述べたように、人間は、死ぬということが罪の支配下にあることを示しています。詩篇49篇に「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」(89節)と言われます。この贖い、買い戻しをしてくれたのがイエス様でした。その代価は、神のひとり子が十字架で流した血だったのです。イエス様の犠牲とは、まさに人間に代わってなされた罪の償いでした。これで人間の罪が赦される道が開かれました。加えて、イエス様の犠牲によって、人間は罪の支配下から神のもとに買い戻されて、罪の支配から解放されたのです。

 罪が赦されるというのは、神が不問にする、なかったことにする、それで、もうお前を裁きのもとに置かない、だからお前は神のひとり子の犠牲のおかげで裁きを免れた者として、新しくやり直しなさい、ということです。不問にする、なかったことにする、というのは、罪が消え去らないで残ることですが、それでも裁きはないと言われているので、罪は消え去ったのと同じ状態にあります。そこで、人間の方が、ああ、あの2000年前の十字架の出来事は今を生きる自分のためにもなされたんだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、以上のような神からの罪の赦しがその人に効力を持ち、神は過去の罪を不問にするとおっしゃって下さり、その人は、神に対する感謝の気持ちから、これからは罪を犯さないようにしよう、罪の思いを持たないようにしよう、という心を持って生き始めます。

そうではなくて、もし、まず神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そう、それをもって神から義と認めてもらおう、というのは、律法を守って義を得ようとすることになって、それは不可能です。キリスト信仰は逆です。イエス様を救い主と信じる信仰によって神に義と認められます。最初に義としてもらって、そのことに感謝して、神を全身全霊で愛そう、隣人を自分を愛するが如く愛そう、というふうになっていきます。

4.アブラハムの信仰と私たち

以上みてきましたように、アブラハムが、理性では不可能と思える中で、神の約束の言葉を信じたことが、彼の義として認められました。信じたことで義として認められるということは、キリスト信仰にあてはまります。それでは、アブラハムが自分で聞いた神の言葉と同じ言葉を私たちも聞くことができるでしょうか?それを聞いて信じて、義とされるような言葉は私たちにあるでしょうか?それがあるのです。私たちにとって神の言葉は、聖書のみ言葉です。神は、罪に陥った人間をいつか、神聖な自分の前に立たせても大丈夫な清いものに治してあげようと、それを実現するためにひとり子をこの世に送られた。人間全ての罪を神のひとり子の一回限りの犠牲の死で帳消しにするという、それ位、神聖で重々しい犠牲を彼に強いて、彼はそれを受けて立った。さらに、一度死んだイエス様を復活させることで、神は死を超える永遠の命があることを示し、その扉を人間のために開かれました。これら全ての、理性では受け入れられない、収まりきれない、神の愛と恵みを信じること。これらのことは書いてある通りに起こったのだし、それは自分のために起こったのだ、神は自分のひとり子を犠牲にするくらいに自分のことを愛してくれている、そうわかって、神はまことにイエス様を人としてこの世に送られた、そのイエス様は私の救い主です、と信じれば、もう義と認められるのです。神の目に相応しいものとされるのです。神の目に相応しい者としてもらったからには、神の意思に沿うように生きることが当然のことになります。うまくいかない時があっても、その時は神の御前に出て、イエス様を救い主と信じます、と赦しを願えば、神は、わかった、わが子イエスの犠牲の死に免じてお前を赦す。もう罪を犯さないように、と言ってもらえるのです。キリスト信仰者とは、いつの時代にもどんな状況に置かれても、これを繰り返しながら人生を歩む者です。

 兄弟姉妹の皆さん、このように私たちは信じることで神から義と認めてもらえます。それで私たちもアブラハムと全く同じ祝福を受けられるのです。アブラハムは75歳からこの世を去るまで100年間、天地創造の神を信じて歩みました。その信仰の人生は波乱に富んでいましたが、いつも神からの祝福に満ちた人生でした。私たちの場合は100年はないかもしれませんが、それでも神に祝福された人生を歩めるということに変わりはありません。そのことを忘れないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン