説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2022年1月9日 顕現後第一主日(主の洗礼)
イザヤ書43章1節-7節
使徒言行録8章14-17節
ルカによる福音書3章15-17、21-22
説教題 「洗礼と聖霊 - 知識から信仰へ」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けるというのは理解しがたいことです。ヨハネの洗礼は、ルカ3章3節で言われているように「罪の赦しに至る悔い改めの洗礼」です。イエス様は神のひとり子なので罪を持たない方です。それで洗礼を受ける必要など本当はありません。マタイ3章を見ると、ヨハネはイエス様が洗礼を受けに来たことに驚き「わたしこそ、あなたから洗礼を受ける必要があるのに、あなたが私のところに来るのですか?」と言います。どうしてイエス様は洗礼を受ける必要があったのでしょうか?
少しヨハネの洗礼について振り返ってみます。それは「罪の赦しに至る悔い改めの洗礼」です。「罪の赦しに至る」というのは微妙な言い方です。ギリシャ語原文がそういう言い方をしているからですが、洗礼を受けて即罪の赦しに至るのか、それとも受けた後しばらくしてから赦しに至るのか、はっきりしません。しかし、後でみるように答えは後者でした。即ではなかったのです。
それでも大勢の人が洗礼を受けにヨハネのもとにやってきました。中にはユダヤ民族を占領下においているローマ帝国の手下となって好き放題している取税人や兵士たちもいます。みな一様に何かに怯えています。なんでしょうか?それは、神の怒りの日が来ることでした。神の怒りの日とは、旧約聖書の預言書のあちこちに出てくる「主の日」のことです。それは神が人間に怒りをぶつける日で、神の意思に反する者を滅ぼし尽くし、大きな災いや天変地異も起こる時です。イザヤ書の終わりの方では、それこそ創造主の神が今ある天と地を終わらせて新しい天と地に創造し直す日が来ることが預言されています。人々はヨハネが「悔い改めよ、神の国が近づいた」と大々的に宣べ伝えるのを聞いて、その日が近いと思ったのです。悔い改めないと神の怒りをもろに受けて、森羅万象の大変動を乗り越えられず滅び去ってしまう、永遠の神の国に迎え入れられなくなってしまうと心配したのです。それでヨハネのもとに来て、自分たちには神の意思に反する罪がありますと告白して、悔い改めに相応しい行いをしますと誓って罪から清められようと洗礼を受けたのです。水を浴びることは清めを象徴しました。
ところがヨハネは、自分は水を使って洗礼をしているが、後に来る方つまりイエス様は聖霊と火をもって洗礼を授けると言います。火を伴うというのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリア13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2―3節)、罪からの浄化を意味します。ヨハネは自分の洗礼にはそういう浄化の力もないし聖霊も伴わない、だから神の怒りが及ばないようにする力はないと認めるのです。そこで先ほどの「罪の赦しに至る」ということについて見てみます。それは、ヨハネの洗礼で即赦しが与えられるのではなく、聖霊と火を伴うイエス様の洗礼で即与えられる、それを受ければ神の怒りが及ばないということだったのです。そういうわけでヨハネの洗礼は人々に罪の自覚を呼び覚まして告白させ、すぐ後に来るメシア救い主が設定する本物の洗礼に備えさせるものでした。人々を罪の自覚にとどめて後に来る罪の赦しに受け渡すためのものでした。罪を告白して水をかけられてこれで清められたぞ!というのではなかったのです。罪を告白したお前は罪の自覚がある、それを聖霊と火の洗礼を受ける時までしっかり持ちなさい、その時お前は罪を赦されて神の子となれる、そうして「主の日」に何も心配することはなくなるのだ。このようにヨハネの洗礼は聖霊を伴う洗礼を授けるメシア救い主をお迎えする準備をさせるものでした。各自がイエス様を大手を拡げてお迎えできるように、心の中の道を真っ直ぐに整えるためのものでした。ヨハネが本物の洗礼を授けるメシア救い主の前では自分は靴紐を解く値打ちもないとへりくだったのは当然のことでした。
2.預言の実現と救いの計画実行開始としての洗礼
ヨハネの洗礼がイエス様をお迎えすることが出来るようにする洗礼だとすると、イエス様がそれを受けるというのは自分で自分をお迎えするみたいでとても変です。これは一体どういうことなのでしょうか?一つの見方としては、イエス様が洗礼を受けたというのは人間に対する連帯の表れという見方があります。しかしながら、以前の説教でも申し上げましたが、人間に対する連帯の表れを言うのならば、天の父なるみ神のもとにいたひとり子が乙女マリアから人間の姿かたちを取って生まれたという受肉の出来事の方が連帯をよく表していると思います。それとイエス様がユダヤ教の伝統に従って割礼を受けた出来事も人間に対する連帯の表れとして重要だと思います。というのは、割礼を受けることで人間と同じように律法の効力の下に身を置かれ、それによってゴルゴタの十字架の上で罪の罰を本当に神罰として本気で受けられるようになったからです。
洗礼には、もちろん人間との連帯の意味も否定できないが、もっと別の意味もあるということで二つのことを申し上げました。一つは、イエス様が洗礼を受けたことでイザヤ書42章の預言が実現したということがあります。もう一つは、イエス様の洗礼に聖霊が伴ったことで私たちが受ける洗礼の先駆けになったということがあります。本説教でこの二つの意味を振り返ってみます。その後でキリスト信仰の洗礼と聖霊は切っても切れない関係にあることを見ていこうと思います。
まず、イザヤ書42章の預言が実現したことについて。イエス様が洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。その時、天から「お前は私の愛する子である。私の心に適う者である」という神の声が轟きました。この出来事はイザヤ書42章1~7で預言されていることの成就でした。実にイエス様の洗礼はこの預言が成就するために必要な手続きだったのです。そこで、この預言の内容を、本日の旧約の日課ではありませんが、見る必要があります。
このイザヤ書の箇所で神は、将来この地上で活動する僕(つまりイエス様のこと)が聖霊を受けて、神から特別な力を与えられて何かを実現していくことが預言されています。何を実現するのでしょうか?私たちの新共同訳を見ると「彼は裁きを導き出す」(1節)、「裁きを導き出して、確かなものする」(3節)、「この地に裁きを置く」(4節)と、「裁き」という言葉が三度も繰り返されて、神の僕が何か裁きに携わることが言われます。しかし、これらはわかりにくい訳です。「裁きを導き出す」とか「裁きを置く」とは一体どんな意味なのでしょうか?そもそも「裁き」とは「置く」ものなのでしょうか?頭のいい人ならこういう奇抜で難解な表現を見ても意味を推測することが出来るかもしれません。しかし、その推測した意味が聖書のもともとの意味と同じであるという保証はどこにもありません。ここはもうヘブライ語の原文に遡ってみないと本当のことはわからないのです。
まず、参考までに各国の聖書の訳はこのイザヤ書42章の言葉をどう言っているか覗いてみると、英語の聖書はjustice、「正しいこと」、「正義」です。「裁き」judgementとは言っていません。ルター訳のドイツ語聖書ではdas Recht、「権利」とも「正しいこと」とも訳せます。スウェーデン語の聖書では「権利」(rätten)、フィンランド語の聖書では「権利」も「正しいこと」も「正義」も意味する単語(oikeus)です。
神の僕が携わることが、どうして日本語では「裁き」になって他の訳ではそうならないのか?それは、ヘブライ語の単語ミシュパートמשפטがいろんな意味を持つ言葉だからです。大元の意味は、「何が正しいかについて決めること」とか「何が正しいかということについての決定」です。その意味から出発して「裁き」とか「判決」というような意味がでてきます。しかし、それだけではありません。大元の意味を出発点として「正当な要求」「正当な主張」という意味もあるし、「正当な権利」とか「正義」という意味にもなります。辞書を見れば他にもあります。
それなのでイザヤ42章の神の僕が携わることは「裁き」ではなく、他の国の訳のように「正しいこと」とか「正義」とか「正当な権利」と理解できます。さらに、「導き出す」とか「置く」とか訳されている動詞(יצא、שים)も、「もたらす」とか「据える、打ち立てる」と訳せます。そういうわけで、神の僕が「国々の裁きを導き出す」というのは、実は「諸国民(גוי、特にユダヤ民族の異邦人をさしますが)に正義(正しいこと、正当な権利)をもたらす」です。「この地に裁きを置く」というのは「この世に正義(正しいこと、正当な権利)を打ち立てる」です。
それでは、神の僕がもたらしたり打ち立てたりする正義(正しいこと、正当な権利)とは何でしょうか?神の御言葉集である聖書の中で正義とか正しいこととか正当な権利とか出てきたら、それは神の目から見ての「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」です。それでは何が神の目から見て「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」でしょうか?それは、人間が自分の造り主である神の意思に反しようとする罪の力から解放されることです。罪から解放されて神との結びつきを持ててこの世を生きられることです。そして、この世を去った後は復活の日に目覚めさせられて永遠に神の御許に迎え入れられることです。これが神の目から見た「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」です。これらは全て、神のひとり子イエス様が十字架の死と死からの復活の業をもってこの世にもたらして打ち立てて下さいました。
イエス様が洗礼を受けた時、天から預言どおり神の声が轟き、聖霊がイエス様に降りました。これでイザヤ書42章の初めに預言されたことが成就しました。この時イエス様に神が定めた人間救済計画を実行に移す力が供えられたのです。もちろんヨハネから洗礼を受ける前の赤ちゃんイエスや子供時代のイエス様も神聖な神のひとり子でした。しかし、洗礼を通して預言通りに聖霊と特別な力を得て、主体的に神の計画を実現させることとなったのです。洗礼を押しとどめようとするヨハネに対してイエス様が言ったマタイ3章15節の言葉、神の義を実現するために洗礼を受けなければならない、というのはその通りだったのです。
3.洗礼と聖霊 - 知識から信仰へ
ヨハネはイエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと言いました。火を伴うとは罪からの浄化を意味します。しかし、人間は洗礼を受けて本当に罪から浄化されるかと言うと、実は洗礼を受けてキリスト信仰者になっても神の意思に反しようとする罪はまだ残ります。それじゃ、浄化されていないじゃないか、イエス様の洗礼には力がないじゃないか、と言われてしまうかもしれません。しかし、洗礼には、受ける前と後で人間に決定的な違いをもたらします。それは、人間を復活に与らせないようにしようとする罪の力、神のもとに迎え入れさせないようにする力が罪から奪われるということです。なぜ罪からその力が奪われるかと言うと洗礼を受けると聖霊がその人に降るからです。
聖霊が洗礼を受ける人に降るということで、イエス様が受けた洗礼はキリスト教会の洗礼を先取りしています。ヨハネの洗礼は受ける人に聖霊が与えられる洗礼ではありませんでした。ヨハネはかなりの数の人に洗礼を施しましたが、誰にも聖霊は降りませんでした。誰にも起こらなかったことがイエス様に起こったのです。それは神がそうすると決めていたからです。イザヤ書の預言が文字通りに成就して神の救いの計画の実行を開始するためにそう決めたのです。
聖霊が人に降るなどと言うと、事情を知らない人は何か霊にとりつかれたみたいに聞こえて不気味に感じるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点は、人間は自分の力ではイエス様を救い主と信じることはできないというものです。第一ヨハネ4章2~3節では神のひとり子が肉を伴ってこの世に来られたと告白する霊は神から来る霊であると言っています。第一コリント12章3節ではずばり、聖霊を持っていなければ誰もイエス様は主であると言うことはできないと言っています。このように人間は聖霊が働かないとイエス様を救い主を信じることはできないというのがキリスト信仰の立場です。それくらい聖霊は信仰のカギになっているのです。
このことは、信仰と知識の違いを見ればよくわかります。イエス・キリストという人物が約2000年前に現在のイスラエルの地で活動して最後は十字架刑に処せられたというのは歴史の本に書いてあったので知っているぞ、と言うのは知識です。信仰ではありません。また、キリスト信仰者は処刑されたイエスが復活したと信じていて、そのイエスのおかげで神と結びつきを持ててこの世を生きられると信じている、そしてこの世から別れた後は自分も復活の日に復活させられて神の御許に迎え入れられると信じている、そういう連中なんだ、そういうふうに言うのも知識です。信仰ではありません。
翻って信仰というのは次のように言うことです。あの方があの時成し遂げた十字架の死と死からの復活は今の時代を生きる私のためにもなされたのだ、それはあの方の身代わりの犠牲のおかげでこの私が天地創造の神と結びつきを持ててこの世を生きられるようになるためだったのだ、この結びつきは私が自分から手放さない限り順境の時も逆境の時も変わることがないので私は常に神から見守られ導いてもらっている、もしこの世から別れなければならない時が来たらその時は復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れてもらえる、そこは懐かしい人たちとの再会の場所なのだ、このように事柄を自分事として自分自身に対しても周囲に対しても言える人、その人は事柄をもう知識で持っていません。信仰に生きています。聖霊が働いたから事柄は知識ではなくなったのです。聖霊が働かないところでは知識どまりとなります。
洗礼を受ける時に聖霊が降る、聖霊を注がれる、その時に知識が信仰になると言うのなら、洗礼を受ける前にイエス様は救い主と信じられるようになった人は聖霊が降っていることになるのではないか、その場合は洗礼はもう必要ないのではないかという疑問が起きるかもしれません。これは次のように考えます。洗礼を受ける前にも神は人間に聖霊を働かせてイエス様が歴史上の人物に留まらず、本当に今を生きる自分の救い主、自分を犠牲にしてまで私と神聖な神を結びつけて下さった方とわかるようにします。そうなれば洗礼を受ける機が熟したことになります。洗礼を受けることで聖霊の働きに完全に服することになります。受けないでいると、せっかく一時イエス様が自分の救い主と見えたのに、すぐ別のもの、例えば別の霊や人間の理性に頼ってしまい、自分の救い主としてのイエス様が見えなくなってしまい、世界史の教科書か何かの小説のイエスに戻ってしまいます。それなので洗礼は聖霊の働きを定着させる出来事と言ってもよいでしょう。聖霊の働きが定着するというのは、神との結びつきがそれこそ順境の時も逆境の時も変わらずにあるということになり、この人生大丈夫、この世と次に到来する世にまたがって生きてやろうという心が起きるということです。
それでは最後に、どうしたら知識上のイエス・キリストが自分と個人的な繋がりのある主になるのか、どうしたらそうなるように聖霊の働きが自分に起こるようになるのかを考えてみます。いろいろあると思いますが、一つカギになるのは、自分と自分の造り主である神との関係はどうなのかを考えてみることです。造り主の神がどのような方で、どんなことを私に望んでいるかについては聖書がよく教えています。この私は神の意思に照らし合わせてみてどんな存在なのか、神のみ前に立たされて果たして大丈夫な存在なのかを考えてみます。どうしてそんなことを考えるかと言うと、神は神聖な方で罪の汚れを持つ人間はその正反対だからです。預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃した時、恐怖の叫び声をあげました。私は滅びてしまう!この目で神を見てしまった、私は汚れた口を持つ者なのだ、汚れた口を持つ国民の一人なのだ!と。イザヤ書6章です。神に選ばれた預言者にしてこうなのです。預言者でもない私たちはなおさらでしょう。
しかし、ここで思い起こします。イエス様はこの私が神聖な神のみ前に立たされても大丈夫でいられる者にして下さったということを。大丈夫な者にするために神は大切なひとり子をこの私に贈って下さり十字架と復活の業を果たさせたということを。それは神が私を愛しているからそうされたのだということを。イエス様も私を愛しているから天の栄光ある地位を捨てて人間としてこの世に降り十字架の道に進まれたのだと。そして、今天の父なるみ神の右の座におられる主は再臨の日まで聖霊を介して私とともに毎日一緒にいてくださるということを。そして、復活の日が来たらこの私をも目覚めさせて御許に迎え入れて下さるということを。
ここまでくれば、私はこの世の人生をイエス様と共に歩もう、もう私には何も不足はない、何も怖くはない、という詩篇23篇を絵に描いたような心意気になります。もうイエス様は遠い過去の人物ではなくなっているのです。このようにイエス様がそばにいる方になると、縁遠く感じた旧約聖書の御言葉も私たちに呼びかけるものに聞こえてきます。試しに本日の旧約の日課イザヤ書43章で見てみましょう。
1節 神はかつてヤコブとイスラエルの民を造り形作ったように私たちを造り形作ったと言います。それがどんなことか後で7節でわかります。「恐れるな、私はお前を贖った」と神は言います。新共同訳では「お前を贖う」ですが、ヘブライ語原文では「お前を贖った」と完了形で言っています。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者のことを言っています。信仰者でない人も信仰者になったら、そう言えることになります。私たちはイエス様のおかげで罪と死のもとから神のもとへ買い戻された、難しい言葉を使えば「贖われた」のです。それで神は私たちを名前で呼ばわる位に私たちの父になり、私たちは神の子となったのです。
2節 お前が水の中を通らねばならないような時も私は一緒にいるからお前は流されない。火の中を通らねばならないような時もお前は焼き尽くされない。なぜなら私は主なる神であり、お前自身の神だからだ。
3節 私はイスラエルつまり神の民の神だ。お前を滅ぼそうとする者から救い出す神なのだ。
4節 お前を贖うためなら、私はエジプトやクーシュやシェバやその他諸国を身代金として差し出してもいいくらいだ。それ位お前は私にとって価値があるのだ。(しかし、実際にはそんな国々など差し出さず、私はひとり子を身代金にした。お前は価値があるということの本当の意味はそれだ。)
5節 だから恐れてはいけない。私がお前と共にいる。
6節 お前が東にいようが西にいようが何処にいようが地の果てにいようがお前を呼び寄せる。誰も邪魔することは出来ない。
7節 お前は私の名で呼ばれるくらいに神の子なのだ。私がお前を造り、贖われた者に形作り、私の子へと完成させたのは、私自身の栄光を増し加えるためにそうしたのだ。
以上です。どうでしょう、旧約のみ言葉が身近になったでしょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン