2011年12月1日木曜日

最後の審判で神は何を裁くのか (吉村博明)

  
説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士) 
  
  
主日礼拝説教 2011年11月20日(聖霊降臨後最終主日)
日本福音ルーテル横須賀教会にて

「エゼキエル書」34章11-16、23-24節、
「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章1-11節、
「マタイによる福音書」25章31-46節


説教題 最後の審判で神は何を裁くのか




私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

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 本日は、聖霊降臨後最終主日です。教会の暦の一年は今週で終わり、教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。この教会の暦の最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では、「裁きの主日」と呼ばれます。一年の最後に、将来やってくる主の再臨の日、それは最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもありますが、その日に心を向け、いま自分は永遠の命、復活の命に至る道を歩んでいるかどうか、自分の信仰を自省する日です。本日の福音書の箇所であるマタイ253146節は、フィンランドでも「裁きの主日」の日課の一つに定められています。
 
この箇所は、また、キリスト教徒が社会的弱者や病気その他の苦しみにある人たちを助ける行動へと促す聖句としても知られています。この箇所に出てくる王というのは、31節で終わりの日に到来する人の子であると言っているので、再臨するイエス様を指します。そのイエス様がこう言われます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」これを読んで、多くのキリスト教徒が、弱者や困窮した者、特に子供たちに主の面影を見て、支援や救援に乗り出して行くのであります。
 
しかしながら、本日の箇所をこのように理解すると、神学的に大きな問題にぶつかります。というのは、人間が最後の審判の日に神の国に入れるか、永遠の火に投げ込まれるかの基準は、弱者や困窮者を助けたか否かということが中心となってしまい、それでは、信仰義認を掲げて、救いを善い業にではなく信仰のみに基づかせるルター派の信仰と相いれなくなります。私がフィンランドに住んでいた時、隣の市の教会の主任牧師の選挙があり、ちょうど時期が「裁きの日」の頃でした。新聞に三人の候補者をいろいろテストする特集記事があり、本日の箇所であるマタイ253146節と信仰義認の関係をどう考えるかという質問がぶつけられていました(主任牧師の選挙が一般紙の記事になるというのは、ルター派の国教会がいかにフィンランド社会に根差しているということのあらわれでしょう。ただし、根差していると言っても、いい意味も悪い意味もありますが)。三人ともとても歯切れが悪かったのを覚えています。一人の候補者は、「私はルター派でありたいが、この箇所は善い業による救いを教えている」などと答えていました。
 
問題は、ルター派だけに限られません。善い業を行えば救われると言えば、もうイエス様を主と信じる信仰も洗礼もいらなくなります。J・エレミアスという世界的に著名な新約釈義学者などは、この箇所の歴史的イエスの意図は、まさにそこにあったと言っているほどです。そんなことを言ったら、仏教徒だって、イスラム教徒だって、果てはヒューマニズム人間中心主義を追及する無神論者だって、みんな弱者や困窮者を助けることの大切さはキリスト教徒に劣らないくらい知っているので、みんなこぞって神の国に入れることになります。しかし、それは、ヨハネ146節におけるイエス様の「わたしは道であり、真理であり、命である(注 どれも定冠詞つき)。わたしを介さなければ誰も天の父のもとに到達することはできない」という言葉と全く相いれません。唯一の道であり、真理であり、命であるイエス様を介さなければ、いくら善い業を積んでも、誰も神の国に入ることはできないのです。イエス様は矛盾することを言っているのでしょうか?
 
この問いに対する私の答えは、イエス様は矛盾することは何も言っていないというものです。はっきり言うならば、本日の箇所は、善い業による救いというものは教えていません。目をしっかり見開いて見れば、本日の箇所も、信仰による救いをはっきりと教えていることがわかります。これから、そのことを明らかにしてまいりましょう。ひょっとしたら、本説教は途中まで聞くと、この箇所を拠りどころとしてさまざまな支援活動に携わるキリスト教徒を不安に陥れたり、また憤慨させてしまうかもしれません。しかし、最後まで聞けば、本説教は、支援活動に水を差すものでは全くなく、活動に新しい土台を据えるものであることがわかると思います。
 
2.

 最後の審判の日、天使たちと共に栄光に包まれて主イエス様が再臨する。裁きの王座につくと、全ての諸国民を御前に集め、羊飼いが羊と山羊をわけるように、人々の群れを二つのグループにより分け、羊に相当する者たちは右側に、山羊に相当する者たちは左側に置く。そして、それぞれのグループに対して、判決とその根拠を言い渡す。そこで、普通見落とされていることですが、実は、この最後の審判の場には、人々のグループは二つではなく、三つあります。40節で再臨の主は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」と言いますが、これがその三つ目のグループであります。つまり、主の兄弟グループも同じ場にいるのです。日本語で「この最も小さい者」の「この」と言っているのは、ギリシャ語原文では複数形なので「これらの」という意味です。全文を原文に忠実に訳すと、「これらの取るに足らないわたしの兄弟たちの一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」となります。つまり、主は、羊と山羊の二グループに対し、「ほら、みなさい」と、兄弟グループを指し示しているのであります。
 
それでは、この主の兄弟グループは誰のことを言うのか?日本語訳では「最も小さい者」となっているので、何か身体的に小さい者、無垢な子供たちのイメージがわきます。しかし、ギリシャ語のελαχιστοςという言葉は、物理的身体的な小ささを意味するより、「取るに足らない」というような抽象的な意味です。何をもって主の兄弟たちが取るに足らないかは、本日の箇所を見れば明らかです。衣食住にも苦労し、牢獄にも入れられるような存在です。社会の基準からみて価値なしとみなされる存在です。従って、主の兄弟たちは子供には限られません。むしろ、大人を中心に考えた方が正しいと思います。
 
では、この主の兄弟グループは、もっと具体的に誰であるか特定できるでしょうか?できます。同じような表現が既にマタイ10章にあります。そこから答えがすぐに得られます。10章で、イエス様は一番近い弟子12人を使徒として選び、宣教に派遣します。その際、使徒たちに宣教旅行の規定を与え、迫害に直面しても神は決して見捨てはしないと励まします。そして、使徒たちを受け入れる者は使徒たちを派遣した当のイエス様を受け入れることになる(1040節)、預言者を預言者であるがゆえに受け入れる者は預言者の受ける報いを受けられる(41節)、義人を義人であるがゆえに受け入れる者は義人の受ける報いを受けられる(42節)と述べて、次のように言います。「弟子であるがゆえに、これらの小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、その報いを失うことは決してない」(42節)。「これらの小さい者の一人」の「小さい」μικροςは、身体的に小さかったり、年齢的に若かったりすることも意味しますが、社会的に小さい、取るに足らないことも意味します。10章ではずっと使徒たちのことについて述べているので、この「小さい者」は、子供は指しません。使徒たちです。使徒とは、イエス様が、御自分の教えられることをしっかり聞きとめるようにと、また御自分がなさる業をしっかり見届けるようにと、選んだ弟子たち。そして、やがてイエス様の教えと業、十字架の死と復活の目撃者、生き証人となって、この神の人類救済計画実現の福音を命を賭してでも宣べ伝えるようにと、選んだ弟子たちであります。本日の箇所の「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」も全く同じです。10章で、使徒を受け入れて、渇きに苦しむ使徒に水一杯を与える者は、報いを受けられると言っていますが、本日の箇所でも同じことを言っています。使徒を受け入れて、衣食住の支援をしてやり、病床や牢獄に面会・見舞いに行ったりした者は、神の国に入るという報いを受けると言うのであります。
 
3.

 以上から、「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」が使徒を指すことが明らかになりました。そうなると、これを社会的弱者・困窮者一般を意味すると解して、その支援のために世界中に飛び立つキリスト教徒たちは、どうなってしまうでしょうか?キリスト者とは人を助けてこそキリスト者たりうると考えている人は、支援対象が福音を宣べ伝える使徒に限られていると聞いたら、なんと視野の狭い解釈だと怒ってしまうでしょう。しかし、これは解釈ではなく、書かれてあることに忠実な理解なのであります。それでは、この箇所は支援対象を使徒や使徒の働きを受け継ぐ人たちに限っているので、もう弱者・困窮者一般の支援は考える必要はないということになるでしょうか?いいえ、そういうことにはなりません。イエス様は、善いサマリア人のたとえで隣人愛は民族間の境界を超えるものであることを教えています。弱者・困窮者一般の支援もキリスト教信仰にとって重要な課題です。問題は、何を土台にして隣人愛を実践するかということにあります。土台を間違えていれば、弱者支援はキリスト信仰と何も関係ないものになり、別にキリスト教徒でなくてもできるものになります。先ほども申し上げましたが、人を助けることの大切さをわかり、それを実践するのは別にキリスト教徒でなくても、仏教徒でも、イスラム教徒でも、人間中心主義的な無神論者でも、無宗教の人も、みなわかるし、実践しています。では、キリスト教徒が人を助ける時、何が土台になっていなければならないのか。そのことを、本日の箇所をもとにして見てまいりましょう。
 
使徒というのは、先ほども申し上げましたように、イエス様が、御自分の教えをしっかり聞きとめるようにと、また御自分の業をしっかり見届けるようにと、選んだ者たちです。そして、やがてイエス様の教えと業、十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、この神の人類救済計画の福音を宣べ伝えるようにと選んだ者たちです。この福音の宣べ伝えは、人々の間で二つの異なる反応を引き起こしました。一方では、使徒たちを受け入れて、困窮状態にある彼らをいろいろな仕方で支援してあげる人たちが出る。他方では、彼らを受け入れることもせず、困窮状態にある彼らを気にも留めず意にも介さない、全く無視する人たちも出る。ところで、支援する人たちは、支援をすることで、逆に使徒と同じ仲間だとレッテルを張られたり、危険な目にあう可能性を顧みないで支援したということを思い起こす必要があります。その意味で、支援した者たちというのは、使徒たちがみすぼらしくしているから可哀そうに思って助けてあげたのではなく、使徒たちが携えてきた福音を信じたから、彼らを受け入れ、支援するのが当然となってそうしたのであります。つまり、支援した者たちは、イエス様を救い主と信じる信仰を持つに至った者たちであります。使徒たちに背を向け、無視した人たちは信仰を持たなかった人たちであります。つまるところ、信仰を持つに至ったか、至らなかったかということが、神の国に入れるか、永遠の火に投げ込まれるかを決める基準なのであります。そういうわけで、本日の箇所は、善行義認なんかではなく、文字通り信仰義認を教えているのであります。
 
ここで一つ疑問が起きます。支援した者たちが信仰を持つに至った者たちであると言っても、洗礼を受けた者たちであるとは一言も言っていないではないかという疑問です。信仰を持つに至った者たちとは言っても、やはり彼らが支援してあげたことが救いを得る条件になっているではないか、救いは結局のところ善い業の実践にかかっているのではないか、という疑問です。この疑問に答えていきましょう。
 
まず、本日の箇所で洗礼が言及されていないことについて。本日の箇所は、イエス様が十字架にかけられる数日前にエルサレム郊外のオリーブ山で弟子たちに語った教えです。イエス様が、信仰と洗礼を一組として救いの要件として教えられるのは、復活後のことです(マルコ1616節、マタイ281920節)。そういうわけで、復活以前にイエス様が信仰について教えられた時、洗礼が救いの要件であるということはまだ特に明らかには述べられませんでした。しかし、洗礼が要件であることはイエス様の意図であることが復活後に明らかになった以上、復活以前の教えもそのことを踏まえてみなければならなくなります。そうすることで、復活以前の教えがはっきりわかるようになるのです。つまり、使徒たちを支援する者が使徒たちを「受け入れる」と言うのは、使徒たちが携えてきた福音を信じ、イエス・キリストを救い主と信じて、そして洗礼を受けるくらいにまで「受け入れる」ということであります。従って、神の国に入れることは、信仰と洗礼が出発点になっていなければならないのです。善い業は、出発点ではなく、出発した後にでてくるものなのです。それでは、信仰と洗礼を出発点にして善い業がどのようにして出てくるのか、次にみてみましょう。
 
実は、このことは、本年2月最後の主日に本横須賀教会の説教で教えたことであります。復習の意味で振り返ってみます。ルター派では善い業を実践して神に義とされようという考えをとらないということは、先にも述べた通りです。私たちが義とされるのは、イエス様を救い主と信じる信仰によるからで、私たちが善い業を行ってその報酬として義とされるのではないのです。私たちにとって、善い業とは、救われたことの結果とし生じてくる実のようなものでなければならないのです。救われて、そんなに簡単に善い業が生まれてくるのかと疑う向きは、救われたことがどんなに大きな意味を持つか、一度立ち返って吟味する必要があります。
 
 最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥り罪を犯したことが原因で人間は死する存在になってしまう。そして人間は代々死んできたように、不従順と罪を代々受け継いできた。それに対して神は、人間が再び永遠の命を得て神のもとに戻れるようにしてあげようと計画をたて、それを実現するためにひとり子イエスをこの世に送られた。この神の子は、本来人間が受けるべき不従順と罪の裁きをかわりに全部引き受けて十字架の上で死なれた。しかし、それだけで終わらず、死から復活させられることで、死を超えた永遠の命、復活の命への扉を人間のために開かれた。このようにして神はひとり子イエスを用いて人間の救いを全部実現してしまったのであります。救いを得るために人間の側ですることと言えば、こうしたこと全てが自分のためになされたとわかって、イエス様を救い主として信じて洗礼を受けて、神の実現された救いの所有者になることです。これらは全て驚くべきことです。詩編4989節に、死する存在の人間は、命を買い戻す身代金を払うことはできない、なぜならそれらはあまりにも高額だから、と書かれています。それなのに救いを所有するキリスト教徒は、死を超えた復活の命、永遠の命に至る道を歩んでいるのです。一体誰がこの高額な身代金を払って下さったのでしょうか。それは神ご自身でした。支払われた代価は、御子の流した尊い血だったのであります。
 
 神はイエス様を用いてこのようなとてつもなく大きなことを私たちに成し遂げて下さったということがわかれば、私たちは神を全身全霊で愛することが当然であると思うようになり、その神がそうしなさいと言われる隣人愛、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということもそうするのが当然となります。神の愛と恵みのなんたるやを知った時、私たちの心に愛が点火されるのです。これが、キリスト教徒の隣人愛の土台であり、出発点であります。ここで、キリスト教徒の隣人愛で注意しなければならないことは、神の意志には順序があるということです。神を全身全霊で愛するということと、隣人を自分を愛するが如く愛するということは、どちらか一方が欠けても神の意志が成立しないくらい、双方が同時になければならないものですが、それでも神への愛が先に来ることがポイントです。つまり、隣人愛の内容は、神への愛に規定されるということです。人間は皆、キリスト教徒であるなしにかかわらず、天地を造られイエス・キリストをこの世に送られた神に造られたものであります。それゆえ隣人を助けるということには、まさに、その人を造られ、その人を贖われた神へと、その人の心を向けさせることが伴っていなければなりません。それがない隣人愛は、もはや神を全身全霊で愛する隣人愛ではなく、別にキリスト教徒でなくても行える善い業の実践になります。
 
ところで、神の愛と恵みのなんたるやを知って、私たちの心に神への愛と隣人への愛が点火されたと言っても、現実はそう甘くはありません。隣人を自分を愛するが如くと言っても、いつも壁にぶつかるし、ましてや神を全身全霊で愛していると言えるかどうか。この自分のあるがままの姿を見ることができる時こそ、心の貧しい(霊的に貧しい)時であり、幸いなのであります(マタイ53節)。その時こそ、私たちは、洗礼の時に立ち返って、神の一方的な恵み憐れみによって義なるものとしていただいたことを思い起こし、私たちの萎えがちな愛にまた火をつけてもらいましょう。ルターは、キリスト教徒のこの世の人生は、洗礼の時に植えつけられた霊に結びつく新しい人と以前からある肉に結びついた古い人との間の内的な戦いであると教えます。古い人を日々死に引き渡し、新しい人を日々育てていく戦いであると。復活の日にキリスト教徒は古い人を最終的に捨て去って、完全なキリスト教徒になると言っています。この戦いは、本当に一進一退の戦いですが、聖書にある神の御言葉と聖礼典にしっかり結びついていれば、イエス様が必ず勝利に導いて下さいます。キリスト教徒とは、いわば、救いを受けたことで身も心も新たにされ、それを土台に一進一退を繰り返しながらも育っていく人です。嵐や日照りに遭遇しても、根は「神の実現された救い」という移し替えられない土壌にすでに張ってあり、聖書の御言葉と聖餐からは「神の恵み憐れみ」という栄養を日々摂取して育っていくのであります。
 
4.

 最後に、本日の箇所の中でもう一つ大事なことがあることについて、注意を喚起したく思います。それは、34節で、再臨の主が、使徒を受け入れてキリスト信仰を持つに至った人たちに次のように言います。「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」仮に、この私が神の国に入れる者とすると - 神様、そう信じることをお許しください - 神の国はこの私のために天地創造の時から用意されていたというのです。私が神の国に入れることは、もう天地創造の時から神はもうご存じなのです。これは驚くべきことです。つまり、神は救われる者が誰かは既にご存じなのです。これは、私たちを大きな不安に陥れます。この自分はその一人なのであろうか。それから、私の愛するあの人はその一人なのであろうか。でも、これを知ることは神の専権事項で、私たち人間が立ち入られることではありません。ある人が、ある日突然、イエス様を自分の救い主と信じるようになって洗礼を受けた時、私たちは、ああ、この人も救いに与っていた人だったんだな、私たちは今それをわかったが神様はもうずっと前から知っていたんだな、と事後的にわかるだけです。救いに与っているかどうかという問題について、私たちが出来ることは、神が実現して下さった救いにしっかりとどまり、聖書の御言葉と聖礼典にしっかり繋がって、神の恵み憐れみにしがみついていることだけです。そのような者を神は決して見放したりはしません。また、イエス・キリストを知らない隣人はどうしたらいいかという問題については、機会が来れば勇気をもって証ができるようにと、また、機会が来なければ来るようにと神に祈ることです。
 
神の国が天地創造の時から決まった人に用意されているのに対して、永遠の火も用意されています。ただし、神の国の用意と大きな違いがあります。神の国は、決まった救われる人たちに用意されていますが、永遠の火が用意されているのは「悪魔とその手下ども(ギリシャ語では「その御使いども」)」です(2541節)。人間にではありません。これからも明らかなように、永遠の火は本来は悪魔とその霊的な手下どもが投げ入れられる場所でした。それが、ある人たちも一緒に投げ込まれてしまう場所になってしまったのです。ある人たちとは、本説教でも明らかにしたように、使徒たちの携えてきた福音を受け入れず、神の意志に背を向けたりあしらったりする人たちです。本来、悪魔に用意された永遠の火に人が陥らないように、隣人の心を創造の主、贖いの主である神に向けられるようにすることは、私たちキリスト教徒の困難ではあるが、避けられない責務であると強調して、本説教を終わりにしたく思います。 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン