2011年12月20日火曜日

キリストは、死の陰に座する者を照らして平安に導く光 (吉村博明)

  
説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会(SLEY)宣教師、神学博士)
  
  
主日礼拝説教 2011年12月18日(待降節第四主日)
日本福音ルーテル横須賀教会にて
  
聖書の箇所
ゼファニア書3:14-17
フィリピの信徒への手紙4:2-7
ルカによる福音書1:67-79
  
説教題 キリストは、死の陰に座する者を照らして平安に導く光
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 本日の福音書の箇所は、エルサレムの神殿の祭司であり洗礼者ヨハネの父親となるザカリアの預言です。この預言は、ラテン語でBenedictusと呼ばれていますが、それは預言の初めの部分「イスラエルの神である主は称えられよ」のギリシャ語原文での冒頭の言葉「称えられよ」ευλογητοςをラテン語に訳したものです。ちなみに、ルカ福音書14755節に聖母マリアの賛歌がありますが、これもラテン語でmagnificatと呼ばれており、それは賛歌の初めの部分「私の魂は主を大いに賛美する」のギリシャ語原文の出だしの言葉「大いに賛美する」μεγαλυνειをラテン語に訳したものです。それから、同じルカ2章にシメオンの賛美があります。これもラテン語でNunc dimittisと呼ばれており、賛美の出だし部分「主よ、あなたは今、あなたのお言葉通り、あなたの僕を安らかに去らせて下さいます」のギリシャ語原文での冒頭の言葉「今、去らせて下さいます」νυν απολυειςをラテン語に訳したものです。これらマリアのMagnificat、ザカリアのBenedictus、シメオンのNunc dimittisの三つは、キリスト教会の司式の中で古くから使われてきた祈りの歌です。特に西方教会において、Benedictusは朝の祈り(laudes)の中で、Magnificatは夕べの祈り(vesper)の中、Nunc dimittisは一日の終わりの祈り(kompletorio)の中で用いられてきました。
 
 本日のザカリアの預言には、私たちの信仰にとって大切な事柄がいろいろ含まれています。本説教ではそれらから三つだけを取り上げてみていきたいと思います。
  
1.信仰とは、自分の外的な出来事や事情がいかに変わろうとも、神が自分に与えて下さる恵み・憐れみは相も変わらず同じである、という神への信頼を自分の内に持っていることである。
  
 この最初の大切な教えは、ザカリアの信仰からみることができます。ザカリアの妻エリサベトは、もう出産が望めない高年齢にもかかわらず子供を宿しました。聖書には、高齢の婦人が出産する例として、他にアブラハムの妻サラがあります。この二つの事例には、信仰ということに関して共通することがあります。まず、双方とも、願っている子供が生まれなくても、神に失望したり背を向けたりはしなかったということです。それから、念願が叶ったら叶ったで、今度はその念願成就の結晶である子供を神に捧げたということです。
  
アブラハムの場合は、まさに息子イサクの命を捧げる寸前まで行きました。もちろん、神はイサクの命を望んでいたのではなく、アブラハムがどこまで自分の言葉に従うかを見極めようと試したのであります。創世記221節で「神はアブラハムを試そうと決めた」と言っているのは重要です。神は「試し」、アブラハムは「試された」のです。もし、アブラハムが血も涙もない機械人間で、子供を生け贄に捧げなさいと言われて、何も感ぜず何も考えずにハイと言ってすぐ実行してしまったら、それは「試された」ことには全くなりません。「試された」以上は、凄まじい葛藤の中に投げ込まれたのです。しかし、神は、イサク誕生前に「お前の子孫は夜空の星のように多くなる」という約束をしており、それに忠実であることを示されました。神の御名は誉めたたえられますように。
 
それから、洗礼者ヨハネについて。彼がいつ家を出て荒れ野の生活に入ったかはわかりません。ルカ180節で、「成長し、聖霊にあって強められた。そしてイスラエルの民の前に出現する日まで荒れ野にいた(ギリシャ語原文による)」と言っているので、ある程度成長してからでしょう。いずれにしても、ヨハネの両親は天使ガブリエルから息子が神に用いられる者となる旨を告げられて(ルカ11317節)知っていたので、彼が祭司の家系を捨てて荒れ野に出て行くのをそのままにしたのであります。
 
それから、これは高齢出産ではないのですが、サムエル記上で、エルカナの妻ハンナは、不妊で苦しんでいた時、神に祈り、もし男子を授けてくれればそれを神の用に役立つよう捧げると誓いました。そして、サムエルが誕生すると、ハンナはその通りにして、祭司エリに男の子を引き渡しました。
 
もう子供を得ることは無理だろうとわかっても、神は願いを聞いてくれないひどい方だ、と文句を言ったり、失望するわけでもない。アブラハムはイサクが産まれる前も、生まれた後も同じように神に忠実でした。ザカリアとエリサベトの二人は子供はなくとも、「神の前に正しく、主の全ての掟と定めに従って非の打ちどころなく生きて」(ルカ16節)いました。つまり、願いが叶わなくても、神を信じ、信頼し、神の意志に聞き従って生きるということには何ら変更はないのです。もし不可能な願いが叶えられれば、それは奇跡ですが、その時は神への賛美と感謝に身も心も満たされましょう。しかし、それでも神を信じ、信頼し、神の意志に聞き従って生きるということは、アブラハムにしても、ザカリアにしても、奇跡が起きようが起きまいが同じなのであります。
 
この奇跡が起きようが起きまいが「同じ」ということがなければ、どうなるでしょうか?その場合、神を信じ、信頼し、神の意志に聞き従うということが、願いの成就・不成就に左右されてしまいます。願いが叶わなければ、そんな神は神として認めてやるもんか、と別の何かを探し求めることになります。反対に、願いが叶えられれば叶えられたで、それは神に属するものであるとか、神の用に役立てられるものとか、神に捧げられるべきものであるという発想は起こらないでしょう。
 
願いが叶うにしろ叶わないにしろ、そういう外的な条件がどうであるかにかかわりなく、いつも全く同じように神を信じ、信頼し、神の意志に聞き従おうとできるのは、どのようにしてできるでしょうか?それは、まず、神の方で、人間の外的条件により価値が増えたり減ったりしないもの、いつも全ての場合に高い価値のままである何かを用意され、そして、それを人間が持てる時にできます。キリスト教では、そうした不変不滅の高い価値のものは、イエス様の十字架での贖いの業と彼の死からの復活がそれです。
 
イエス様の十字架の死と死からの復活に結びついている人は、不妊であろうが病気であろうが金がなかろうが、外的な条件が悪くても、神が自分に与えて下さる恵み・憐れみそのものは、外的条件が良い時と全く同じであると知っています。それで神を信じ、信頼し、神の意志に聞き従うことに何の変更も起きないのであります。そこで、もし、そのような信仰を持つ不妊の人が子供を産んだり、不治の病の人が健康になったり、金のない人が金を得たりしたら、その得たもの、子供、健康、金を、神の用に役立てようという考えになります。自分の用に役立てるとか、自分の欲のために消費するとかいうことには執着しないのであります。もともと子供のいる人、健康の人、お金のある人も、こうしたことが自分にはどうあてはまるのだろうかと考えてみることは大事だと思います。
   
 
2.神は、全ての時代の全ての国民・民族を射程において、人間救済計画をたてて実施したが、計画と実施自体は特定の時代の特定の民族を通して行った。
  
 次にザカリアの預言の本体をみてみましょう。この預言は、来るべき救世主について預言しているにもかかわらず、内容も言葉づかいもとてもユダヤ民族の利害と観点が強く出ています。69節で「神は私たちのために救いの角をその僕であるダビデの家から起こされた」と言いますが、その「救い」とは、71節で「私たちの敵からの救い、私たちを憎む全ての者の手からの救い」であると言っています。つまり、ユダヤ民族に敵対する諸民族の脅威から自由になることが「救い」を意味しているのです。そうして、敵対民族の手から救われたあかつきには、7475節にあるように、「私たちの全ての日々において、神の御前にて、神聖さと義にあって、おそれを抱くことなく、神に仕える」ことができるようになるのであります。このようにメシアの役割は、イスラエルを完全な民族自決国家として再興させて、あらゆる敵対民族を撃退してそれらの汚れを遠ざけて、神聖さのうちに完全な礼拝を実現させるというふうに考えられています。そのようなメシアの登場は、太古からの預言者の預言(70節)や神のアブラハムへの約束(73節)の中に言われていたというのであります。さて、67節で、ザカリアは「聖霊に満たされて」預言したと言っていますが、それでは聖霊を送った神は、来るべきメシアを全世界に及ぶものでなく民族的なメシアだと考えていたのでしょうか?
 
 実は、神はメシアを全世界的なものと考えていました。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥ったために罪が人間の命に入り込むという堕罪が起きてしまいますが、その直後、創世記315節に神の人間救済計画が早くも預言されています。神はそこで、蛇の姿をとる悪魔に対し、「将来、人間から生まれてくる一人の者がお前の頭を叩き割る。ただし、お前も彼の踵を打ち砕くことになるが」と宣言されます。自己を犠牲にして悪魔を打ち滅ぼす者が現れるというのであります。それが、イエス・キリストでした。創世記123節で、神はやがてアブラハムという名前にかわるアブラムに対し、彼が受ける祝福は世界の全ての民族にとって祝福になる、と約束します。このように神の考えられる救いは、全世界の人間に及ぶものなのです。それでは、なぜザカリアの預言では、救いがユダヤ民族中心のものになってしまったのでしょうか?
 
 それは、神が全世界の人間の救いを考えて、御自分の意志を人間に伝える時、意志を伝えられた側の人間の方は特定の具体的な歴史状況の中に生きていたという事情があります。それで、全世界的観点と一民族的観点のギャップが生まれる原因になったと言えます。神は、悪魔の頭を叩き割る救世主がユダヤ民族の中から生まれてくると定められました。そうなると、救世主が登場するまでは神の目はユダヤ民族を中心に向けられ、ユダヤ民族の歴史とともに歩むことになります。そこで、御自分の意志を告げられる時はいつも、将来実現する全世界の人間の救いが根底にはあるものの、その意志はいつもユダヤ民族のその時その時の具体的歴史状況に関係するものにもなります。例として、イザヤ書53章に、人間の罪を背負って自ら苦しみを受けることで人間を罪から贖う神の僕についての預言があります。キリスト教の観点では、これはイエス・キリストを指す預言だとわかります。しかし、この預言は、バビロン捕囚が終わる頃の歴史的状況にあるユダヤ人にとっては、捕囚に陥った自分たちが民族の犯した罪の罰を受けることで民族は赦しを受けて再出発できるという、そういう理解になります。
 
神が特定の民族の特定の歴史と関係を持ちながら、人間救済計画を立案し実施したという事実は、特に旧約聖書を読むときに注意する必要があります。そこには、全世界の人間の救いを実現しようとする神の意志が働いているにもかかわらず、神から啓示を受けた人たちやそれを書き留めた人たちは皆、特定の歴史状況の中で生きていた人たちでした。そうした状況に基づく利害や観点が表面に出るのは当然です。現代において、旧約聖書を読む人の中には、神の人間救済計画などという超歴史は一切見ないで、純粋にその場限りの歴史を語る歴史的な書物として扱い、それぞれの歴史状況とそれに基づく利害や観点や思想を知ろうとして繙く人もいます。もし、キリスト教徒が旧約聖書を信仰の書物として読もうとするのならば、歴史的な利害や観点を常に超える神の人間救済計画を念頭に置いて読まなければなりません。ルターも、キリストを見出さない旧約聖書の読み方には意味がないと言っています。それに、天と地と人間を造った旧約の神と救い主イエス・キリストを送られた神は同じ神であるというのがキリスト教なのですから。
 
ここで話が横道に逸れますが、ザカリアのメシア預言にユダヤ民族の利害・観点が強く出ていることは、同預言の歴史的信ぴょう性を高めるものとして注目に値します。研究者の中には、福音書に書かれてあることの多くは、イエスを神の子と信じたキリスト教徒たちが自分たちの利害・観点に基づいて後から創り出したものだと主張する人が多くいます。ザカリアの預言が、もし初代キリスト教徒の手によって創られたものならば、どうしてメシアをもっと全世界的なものに描かなかったのかという疑問がおきます。ザカリアのメシア預言は、イエスの十字架と復活の出来事がまだ起きていない歴史的段階から出てきたことは明らかです。しかも預言の中で、将来洗礼者ヨハネになる人物に言及され、それを息子と呼んでいるので、預言の出所はヨハネの父親であるとするのが妥当でしょう。
 
3.キリストは、ユダヤ民族のみならず、死の陰に座する全世界の全ての人々を照らして、平安に導く光である。

 ザカリアの預言には、メシアとその役割の理解についてユダヤ民族の利害・観点が強くでていると申しましたが、預言の終わりの方になると、ユダヤ民族中心のメシアなのか、全世界の人間の救いを担当するメシアなのか、はっきりしなくなる部分がでてきます。まさに、個々の歴史状況の利害と観点に覆い隠されてはっきり見えなかった人間救済計画が頭をもたげてくる部分です。
 
 まず、76節に入って預言は、ザカリアの息子洗礼者ヨハネについて述べます。ヨハネがメシアに先立ってその道を整えるという、先週、先々週の主日の福音書の箇所に出てきたイザヤ書403章の預言の実現であることが示唆されます。そして、77節で、ヨハネはユダヤ民族に「救いの知識を与える」と言われますが、その救いは先に述べたような敵対民族からの解放ではありません。ここでは、救いは、「罪の赦しに結びつくもの」と言われています。さらに78節に入って、その罪の赦しに結びつく救いは、「神の憐れみ深い心によるもの」と言われ、その神の憐れみ深い心があることで、「いと高きところから朝日のような光が地上の私たちのところにやってくる」。79節に入って、その光がやってくる目的が明らかにされます。「暗闇と死の陰に座する者たちに顕現するためであり、彼らの足取りを平和の道に向けるようにするためである」と。
 
「天から到来する光が、死の陰に座する者たちの目の前に輝き現れて、彼らの足取りを平和の道に向けるようにする」というのは、まさにユダヤ民族を超えた全世界の全ての人にかかわる救いを意味します。先にも述べましたように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になったことが原因で、人間の命に罪が入り込み、人間は死する存在になってしまいました。人間は、代々死んできたように、不従順と罪を代々受け継いできました。「死の陰に座する」というのは、まさに、人間が不従順と罪からくる裁きと呪いの下におかれて死に定められている状態を指します。しかし、イエス・キリストが、全ての人間の、私のも皆さんのも、不従順と罪の裁き・呪いを全部自分で引き受けて、十字架の上で死なれた。このイエス様の贖いの業が「私のためになされた」とわかって、洗礼を受ける時、私たちは不従順と罪の裁きと呪いから解放されます。さらに、洗礼によって、死から復活させられたイエス様にも結びつけられるので、解放された後の私たちは今度は永遠の命、復活の命に至る道を歩み始めることになります。
 
これからもわかるように、「足取りが平和の道に向けられる」という「平和」とは、敵対民族との戦争状態がユダヤ民族の勝利で終わって平和がもたらされるということではありません。ここでいう「平和」とは神との平和であります。神聖な存在である神は罪や不従順の汚れを憎み、滅ぼしたいと思う方です。そのため、堕罪以来、人間と神の間には戦争状態が存在していました。ところが、神は、憎しみの原因であった罪と不従順の汚れを人間から取り除いて、十字架上のイエス様に張り付けたのです。イエス様の贖いの業のおかげで、神の憎しみの原因が人間から除去されました。まさに、神のひとり子が私たちにかわって呪われた者にされて罰を受けたおかげで(ガラテア313節)、神と人間の間の戦争状態が終わることができたのです(エフェソ21617節)。私たちは、洗礼を受けることで、この神との平和を永遠に享受することになります。「永遠に」というのは、洗礼を受けた時点から、この世の人生の歩みにおいてずっと、それから死を超えて永遠の命、復活の命を持って生きるようになるまでずっと、ということです。
 
だから、この世の人生の歩みにおいて、なにか外的に不利な条件を被ることが起きても、それは、私たちが神から与えられている恵み・憐れみが減ったということではありません。人によっては、不治の病にかかったり、経済的な困難に陥ったりすると、神に見捨てられたとか、神の怒りに触れたとかいうような捉え方をする人もありますが、キリスト教においてはそれはありえません。洗礼を受けた以上、不従順と罪の裁きと呪いから解放されて永遠の命、復活の命に至る道を歩んでいるということは、病気になろうが貧乏になろうが、そのままだからです。神との平和を享受しているということはそのままです。このことを人生の土台にして、あとはその人生に入り込んだ不利な条件にどう対処していくかです。不利な条件が大きすぎたり重大なものだったりして、人生がひっくり返るくらいのものに感じられる時があるかもしれません。しかし、イエス・キリストの十字架の贖いの業と死からの復活という人生の土台は微動だにしません。そうした土台の上に立つ人生もひっくり返ることはありません。
    
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン