2011年12月12日月曜日

主の道を整えるということ(吉村博明)

 
説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
  
 
主日礼拝説教 2011年12月11(待降節第三主日)
 
日本福音ルーテル日吉教会にて
  
「イザヤ書」61:1-4:7、
「テサロニケの信徒への第一の手紙」5:16-24、
「ヨハネによる福音書」1:19-28

説教題 主の道を整えるということ


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
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 本日のヨハネ福音書の箇所は、先週のマルコ福音書1章同様、洗礼者ヨハネが来るべきメシアのために道を整える役割を果たしたと伝えるところです。イザヤ書40章の預言と洗礼者ヨハネを結びつける教えは、とても内容が深いものです。まず、イザヤ書がイエス様の時代に、どのように理解されていたかということをみなければなりません。それから、本日の箇所でユダヤ教社会の宗教指導層が洗礼者ヨハネのことを終末の日に来る預言者エリアかどうか聞きます。これもマラキ書3章の預言がもとにあり、イエス様の時代に終末の日とはどのように考えられていたかという問題も重要です。そういった歴史的背景を踏まえて洗礼者ヨハネの宣教活動を理解するという作業は大事です。ただ、本日は、礼拝後すぐに音楽伝道集会を控えておりますので、そういった歴史的なことには立ち入らないで、本日の箇所が私たちの信仰の成長にどんな大切なことを教えているか、それだけに焦点をあてていこうと思います。
 
 「主の道を平らにせよ」とは、主が遠い所から私たちのところにやってくるので、私たちのところに来やすいように障害物を取り除きなさいということです。バリアフリーにしなさいということです。ここで注意しなければならないのは、神も神が送られるメシア・救い主も、もし本気で私たちのところに来ようと思えば、障害物などものともせずに到達できます。もし到達できないとすれば、それは神・救い主に障害物を超えられない弱さがあるからではありません。私たちが自分で障害物をおくか、または取り除かないままにして、ここから先は来ないで下さいと決めてかかるので、神の方でそのままほっておかれるのです。
 
 私たちの内にある神・救い主の近づきを妨げる障害物とは何でしょうか?それを、私たちはどうやったら取り除くことができるでしょうか?そもそも、神・救い主が私たちに近づくというのは、どういうことなのでしょうか?その近づきがよいものであるとわからなければ、私たちは、何が障害になっているのかとか、それをいかに取り除くことができるかということは考えようとはしないでしょう。そういうわけで、最初に、神・救い主が私たちに近づくということはどういうことなのか、それについて考えてみます。
 
2.

 「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。神はなぜ離れたところにいるのか。実は、神はもともとは離れたところにはおられませんでした。創世記の初めが明らかにしているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいる存在だったのです。それが、どうして神から離れた存在になってしまったのか。最初の人間アダムとエヴァが、悪魔の言うことに耳を傾けたことがきっかけで、神の言葉を疑い、神が取ってはならないと言われた実を食べたことが原因でした。この神への不従順が原因で人間に罪が入り込み、人間は死する存在になってしまいました。神が人間から離れていったのではなく、人間が自分で離別を生み出してしまったのです。
 
 これに対して、神はどう思ったでしょうか?身から出た錆だ、勝手にするがいい、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありません。神は、人間が再び永遠に神のもとにいることができるようにと人間救済の計画をたてて、それを実現するために、ひとり子イエスをこの世に送られたのです。神の人間救済計画は、旧約聖書を通して、その都度その都度預言されていきますが、実はすでに堕罪事件の直後、創世記315節にもう預言されています。神はそこで、蛇の姿をとる悪魔に対し、「将来、人間から生まれてくる一人の者がお前の頭を叩き割る。だだし、お前も彼の踵を打ち砕くことになるが」と宣言されます。自己を犠牲にして悪魔を打ち滅ぼす者が現れるというのであります。それが、イエス・キリストでした。
  
 神は、全ての人間の不従順と罪からくる裁きと呪いを全部ひとり子イエスに負わせて、十字架の上で死なせました。私たち人間が負わなくてもよいようにそうしたのです。それだけではありません。神はイエス様を死から復活させることで、永遠の命、復活の命への扉を私たち人間に開かれたのです。イエス様を用いて、死を打ち滅ぼし、死を超えた命への道を開かれたのです。
 
 このように、遠いところにおられた神は、ひとり子イエスを送ることで、そしてそのイエス様を通して、私たちに近づかれたのであります。それは、私たち人間が神の子となって再び永遠の命に与る者になれるためでした。このことは、ヨハネ福音書316節にイエス様の言葉として凝縮されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 
3.
 
それでは、神がこのように私たちに近づかれた時、私たちの方で神の近づきを妨げるものは何でしょうか?それは、どうやって取り除くことが出来るのでしょうか?
 
 まず、逆に、どうやったら神の近づきを受け入れることができるのかを見てみましょう。私たちは、十字架に架けられたイエス様が全ての人間の不従順と罪からくる裁きと呪いを全部引き受けられたと聞きました。その時、まさに自分の不従順と罪が他の人たちの分と一緒にイエス様の肩にのしかかっていると気づくことができるでしょうか?それが決め手になります。ああ、あそこに、血まみれになって苦しみあえいでいるイエス様の肩に、頭に、私の罪と不従順がはりつけられている、と直視することができるか、どうか。それができた時、それまで歴史の教科書か何かの本で言われていたこと、2000年前の今のパレスチナと呼ばれる地域で起きたある歴史上の人物が処刑されたという遠い国の遠い昔の出来事が、突然、現代のこの日本の地に生きる自分のためになされたのだということが明らかになります。しかもそれは天と地と人間を造った神の計らいだったのだと。あのおぼろげだった歴史上の人物が、明確に私の救い主として立ち現われてくるのです。
 
 立ち現われから始まって、実際にイエス様が私の救い主となり、私も救われた者になることは、洗礼を受けることで完結します。洗礼を通して私たちは、ご自身を犠牲にしてまで罪と不従順の裁きと呪いを帳消しにしたイエス様と結び付けられ、裁きと呪いから解放されます。さらに、死から復活されたイエス様とも結び付けられて、死を超えた永遠の命、復活の命に至る道を歩み始めます。洗礼を受けた者に、神は御自分の霊、聖霊をお与えになります。この聖霊は、私たちがこの世の人生の歩みの中で、ややもするとイエス様が救い主であることを忘れたり、自分が救われた者であることを忘れてしまう時、いつもイエス様のもとに連れ戻す働きをします。イエス様の十字架と復活のゆえに罪と死は力を失ったのですが、あたかもまだ勢力を持っているように見せかけて私たちを惑わそうとします。また、人生の中で直面する様々な苦難や困難も、私たちに救い主がついておられることを忘れさせようとします。そのような困難の真っただ中にあっても、イエス様が私の救い主であることになんら変更はない、私が救われていることも洗礼の時からそのままである、と答えられるのは、聖霊が働いている証拠です。使徒パウロも同じ聖霊の働きを受けて次のように述べました。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」(ローマ83839節)
 
4.
 
 それでは、人間が神と救い主イエスの近づきを受け入れない理由は何なのでしょうか?ひとつには、宗教的な理由があります。世界のいろいろな宗教はそれぞれ、救いの意味や内容について自分たち独自の定義を持ち、救われ方もそうした定義に基づいているので、神とイエス様の近づきは当然相容れないものになります。宗教によっては、現世の問題解決に役立つことを強調して人を惹きつけるものもあります。そうした人たちから見たら、先のパウロのように、苦難・困難の真っただ中にあっても、イエス様を救い主と信じる限り、神の愛は苦難・困難がない時と同じくらいに注がれている、という確信は、きっとナンセンスでしょう。しかし、私たちにとって、それは真理なのであります。
 
神と救い主イエスの近づきを受け入れないのは、宗教的でない理由もあります。その一つとして次のような考え方があります。「なぜ、ことさら罪とか不従順とかを強調するのか、そんなのは神の裁きから救われる必要性を持ち出す便法だ、誰も完全な人間など存在せず、ひとりひとりが弱さと強さ、良い点と欠点を持っているのだから、人間をそういうものとして認めて受け入れるのが本当の愛だ」というものです。実は、神も、人間を弱さや欠点を持っている者として認めて受け入れているのです。それだからこそ、罪と不従順からくる裁きと呪いを全部イエス様に負わせたのです。人間には背負いきれないと知っていたからです。人間に、「罪と不従順を即刻捨てよ、さもないとお前は永遠の火に焼かれる」とはおっしゃりませんでした。「私は、お前の罪と不従順をお前から取り除いて、私の独り子に張り付けたのだ、それを忘れるな」とおっしゃっているのです。私たちが優等生だから褒美としてイエス様を送られたのではなく、どうしようもない存在だから送られたのです。
 
そういうわけで、キリスト教で人間をそれとして認めるというのは、創造者を抜きにした被造物同士の認め合いではありません。自分を造った神が自分を認めてくれたということが出発点になっています。そうした神の愛への深い驚きと感謝の念がその後の人生のバックボーンを形作ります。神の御心と意志に沿う生き方をしようと志します。しかし、それはいつも限界にぶつかり、挫折もします。それゆえ、主日礼拝で罪の告白を相も変らず唱え続けなければなりません。告白に続く罪の赦しとは、「洗礼でお前に与えられたものは何も失われていないから安心して行きなさい」と確証を得ることです。主の道を整えるとは、このように、洗礼の前だけでなく、洗礼の後も続きます。ルターは、人が完全なキリスト教徒になるのは、死ぬ時に朽ち果てる肉体を脱ぎ去り、復活の日に朽ちない体をまとう時になってからだと教えます。その日までは、神の意志に反することが自分の周囲のみならず自分のうちにも現れて、神の愛から私たちを切り離そうとし、それを相手に苦しい戦いを強いられることも多くあるでしょう。でも、神の意志に反することを体現しているものは、恐るべきものではありません。本当に恐れるべきものは、人間を造り、一人一人の髪の毛の数まで数えておられ、肉体だけでなく魂も滅ぼすことが出来る神であります。その神が愛を示して私たちにイエス様を送って下さいました。イエス様は、罪と死と悪魔が私たちを服従させようとする力を無にして下さいました。そのイエス様が共におられます。なにをか恐れじです。
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン