2011年12月9日金曜日

ホサナ - 人の心をはるかに超える神の計画  (吉村博明)

  
説教者 吉村博明 {フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士}
  
主日礼拝説教 2011年11月27日(待降節第一主日)
日本福音ルーテル横浜教会にて
  
聖書箇所
イザヤ書63:15-64:7、
コリントの信徒への第一の手紙1:3-9、
マルコによる福音書11:1-11

  
説教題 ホサナ - 人の心をはるかに超える神の計画
  
  
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
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 本日は待降節第一主日です。教会の暦では今日が新年です。これからまた、クリスマス、顕現主日、イースター、聖霊降臨主日等の大きな節目をひとつひとつ迎えていく一年が幕を開けました。横浜教会と教会に繋がる皆様一人ひとりが父なる神からの恵み憐れみのうちにとどまり、皆様の日々の歩みに豊かな祝福と良い導きがありますように。
 
 本日の福音書の箇所は、イエス様が子ロバに乗って、エルサレムに「入城」する場面です。ここで少しノスタルジーになってしまいますが、フィンランドやスウェーデンのルター派教会での待降節第一主日の礼拝はどのようなものか少し触れることから本題に入っていこうと思います。
 
 両国の待降節第一主日の礼拝の流れは毎年同じで、福音書の日課は、本日と同じマルコ11111節か、またはマタイ21111節ないしルカ192840節です。朗読が群衆の歓呼のところまでくると、いったん止まって、パイプオルガンが前奏を弾き始め、讃美歌第一番の歌「ホシアンナ、ダビデの子よ」をみんなで歌います。そのようにして、聖句の群衆の歓呼の部分をみんなで歌うことに置き換えます。教会の新しい一年を元気よく始められる雰囲気で教会は満ち溢れます。
 
 ところで、フィンランドとスウェーデンの讃美歌第一番ですが、日本語訳の聖書にあるホサナという言葉ではなくて、ホシアンナという言葉を使います。両国のルター派の聖書の本日の箇所も、ホサナではなく、ホシアンナになっています。何が違うのでしょうか?このホサナないしホシアンナというのは、もともとは詩篇11825節にある言葉から来たものです。「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」と神に助けを求める歌です。原語のヘブライ語に忠実に訳すと「主よ、どうか救って下さい。どうか、栄えさせてください」となりますが、この「どうか救って下さい」がהושיעה נא  ホシアンナになります。そこで、本日の箇所の群衆の歓呼がある910節はこの詩篇1182526節の引用がもとになっています。それで、ホサナと言わずにホシアンナと言った方が、引用元の詩篇の聖句に忠実なわけです。では、どうして日本語の聖書ではホシアンナと言わずにホサナと言うのでしょうか。ホサナהישע־נא  というのは、実はヘブライ語のホシアンナをアラム語に訳したものです。イエス様の時代の現在のパレスチナの地域では、ヘブライ語は旧約聖書を初めとするユダヤ教社会の書物の言葉としては残っていましたが、人々が日常に話す言葉はアラム語という言葉でした。会堂シナゴーグで礼拝が行われる時も、ヘブライ語の旧約聖書の朗読にはアラム語の訳がつけられていました。イエス様の十字架と復活の出来事の後、目撃者であった弟子たちが生き証人となって、イエス・キリストこそ神の子であり、救い主であると宣べ伝え始めます。最初は口伝えの伝承と断片的に書きとめられた記録が宣べ伝えの媒体でしたが、それらの言葉はアラム語でした。宣べ伝えがローマ帝国の東側に広がりだすと、そこはギリシャ語が公用語の世界でしたので、アラム語の伝承と記録はどんどんギリシャ語に訳されていき、それで新約聖書は最終的にギリシャ語で出来上がったのでした。しかしながら、伝承と記録全てがギリシャ語に訳されたわけではありません。このホサナのようにアラム語の言葉が、ギリシャ語に訳されずにそのまま残ったものもあります。つまり、フィンランド語とスウェーデン語訳の聖書は、群衆が声に出したアラム語の言葉を引用元のヘブライ語に戻したというわけです。ドイツ語の訳(ルター1912年版)もそうです。そうすると、日本語の訳は、当時の群衆の肉声がそのまま伝わるようになっていると言えます。英語の訳(NIV)はホサンナとなっていて、どうやらホサナとホシアンナの中間をとったようです。
 
 以上のことは、私たちの信仰の成長という課題から見たら、瑣末なことですが、知っていれば、いればで、聖書を読んでいて、当時その場面にいあわせた人々の生の声にそのまま接することができます。聖書に書いてある出来事が何か空想から生まれたおとぎ話という淡い夢を打ち破り、本当にあったのだというリアリティーを与えます。このホサナの他にも新約聖書には、イエス様自身が述べた言葉や文がアラム語の発音のまま記されて、日本語訳ではカタカナで表記されて、その意味が付け足されている箇所がいくつかあります。ちなみに、このホサナないしホシアンナは、もともとは、神に救いをお願いする意味でしたが、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時に歓呼の言葉として使われていました。従って、本日の福音書の箇所で群衆は、子ロバに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたのであります。しかし、これは奇妙な光景であります。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、子ロバに乗ってやってくるのです。この光景、出来事は一体何なのでしょうか?
 
 さらに、イエス様は弟子たちに子ロバを連れてくるように命じますが、まだ誰もまたがっていないものを持ってくるようにと言いました。まだ誰にも乗られていない、つまりイエス様が乗るという目的に捧げられるという意味であり、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのであります。具体的な行為をもって神の意志を実現するというのであります。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、ひとり子ロバに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?
 
2.

 このイエス様の神聖な行為は、旧約聖書の預言書の一つであるゼカリヤ書にある預言の成就を意味しました。ゼカリヤ書9910節には、来るべきメシアの到来についての預言があります。
 「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ロバの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」
 
 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」となります。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者です(私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってそのような義なる者とされます)。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した10節から明らかなように、神の力を受けて、世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者であります。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことを実現する者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と登場するのではなく、子ロバに乗ってやってくるというのであります。イエス様が弟子たちに子ロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。
 
 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が「へりくだった者」であるにもかかわらず、最終的には全世界を神の意志に従わせる、そういう世界をもたらすという預言はイザヤ書の11110節にも記されています。 
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」
 
このように危害とか害悪というものが全く存在せず、全てが神の守りの下に置かれている世界はもうこの世のものではありません。この世が終わった後に到来する新しい世です。その新しい世を導く「エッサイの根」とは何者かというと、エッサイはダビデの父親の名前なので、ダビデ王の家系に属する者であります。つまり、イエス・キリストを指します。やがては今の世にかわって、このような神の神聖で善い意志に服する新しい世が到来する。その時に主導的な役割を果たすのがイエス・キリストということであります。今の世が新しい世にとってかわるという預言書に預言された大事業は、イエス様が担うことになりました。子ロバにのってエルサレムに入城するというのは、まさにその預言書にのっとった手順だったのです。それでは、今の世が新しい世にとってかわるという大事業は、イエス様によってどのように展開されていったのでしょうか?
 
3.

 この大事業は、当時のイスラエルの人たちの目から見て、まったく思いもよらない予想外の方向に展開しました。というのは、彼らにとって、ダビデ王の末裔が来て新しい国を打ち立てるというのは、ローマ帝国の支配を打ち砕いてイスラエル王国を再興することを意味していました。人によっては通常の地上の王国を考えていた者もいれば、この世が終わって天と地が新しくされたり死者の復活が起きるという次の世に(イザヤ書6622節、ゼカリヤ書147節、ヨエル書34節、ダニエル書1213節)現れる超越的な国を考えていた者もありました。この世的な王国であれ、超越的なものであれ、いずれにしても、当時の人々は、ユダヤ民族の国が再興されるという形で新しいダビデの王国を考えていました。イザヤ書2章やゼカリヤ書14章に、諸国の軍事力が無力化されて、諸国民は神の力を思い知り、神を崇拝するようになってエルサレムに登ってくるという預言があります。それだけを見れば、再興したユダヤ民族の国家が勝利者として全世界に号令をかけるという理解が生まれます。しかし、それはまだ一面的すぎる理解でありました。イエス様の大事業には、旧約聖書の預言のもっと別の面も含まれていたのであります。どんなことか、以下にみてまいりましょう。
 
 エルサレムに入城したイエス様は、ユダヤ教社会の宗教指導層と激しい論争を繰り広げます。宗教指導層がもうイエスを生かしてはおけないと憎悪を燃やした理由は三つありました。一つには、神殿から商人を追い出すという、神殿崇拝のあり方に真っ向から挑戦したということがあります。実は、このイエス様の行動は、ゼカリヤ書1421節「万軍の主の神殿に商人はいなくなる」という預言とイザヤ書567節「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という預言の成就を意味しました。二つ目には、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者ローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせ、せっかく一応の安逸を得ているところに軍事介入を招いてしまう危険があること。三つ目には、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章にある終末の日に到来するメシア「人の子」であると公言していること。つまり自分を神に並ぶ者としていること。さらにもっと直接に自分を神の子と見なしていること。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けます。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。しかしこれは、旧約聖書の預言を部分的にしか見ていなかったことによる理解不足でした。まさにイエス様が十字架にかけられた後、旧約の預言を全部みて全てが理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。
 
 イエス様が死から復活されたことで、死を超えた永遠の命、復活の命への扉が開かれたことが明らかになりました。最初の人間アダムとエヴァの堕罪以来、人間が死する存在となってから閉ざされていた扉が開かれたのであります。イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けることで、人間は死を超えた永遠の命につながることが出来るようになったのです。ここで、人間が死を超えられない存在になった原因である神への不従順と罪が赦されたことが明らかになりました。どこでどうやって赦されたのでしょうか。イエス様が十字架の上で人間の不従順と罪の裁きを全部引き受けて下さったことによります。その時、イエス様の言葉「人の子は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」(マルコ1045節)の意味が明らかになりました。人間は罪と不従順の奴隷の身だったのが、イエス様が自分の命を身代金として支払って解放して下さったのです。あわせて旧約聖書の預言も次々に明らかになりました。イザヤ書53章に預言されている神の僕とはまさにイエス様のことでした。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼がになったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(36節)
「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをなしたのはこの人であった。」(1112節) 
 
 実にイエス様の十字架の死と死からの復活は、ユダヤ人であるかないかにかかわらず、わたしたち人間すべてに救いをもたらしたのです。イエス様の神聖なエルサレム入場は、この救いの成就が目的だったのです。この世が終わって次に来る世の王国の出現はまだ先のことだったのです。まず、神がイエス様を用いて実現された救いに出来るだけ多くの人が与れるようにしなければならない。しかし、それはいろいろな反対者、時には迫害者をも生み出す。この軋轢と対立の中で人間の歴史は進み、最終的にはこの世の終わりが来て、天と地が新しくされるような大変動が生じ今見えるものは全て崩れ落ちて、神の国だけが見える形で現れ、新しい世が始まることになります(ヘブライ122629節)。このように神の国の構成員となるのは、もはやユダヤ民族というより、イエスを救い主と信じて洗礼を受けた人たちということになります。諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムに登ってくるというのは、もはや地理上のエルサレムをささず、ヨハネの黙示録21章にある天上のエルサレムを意味します。以上から、旧約聖書の預言は、ユダヤ民族という一つの民族の思いを超えた、全人類にかかわるものだったのです。それが神の意図でした。これを明らかにしたのが、イエス・キリストでした。神の送られた御子であるがゆえに、神の意図を明らかにすることができたのであります。
 
 
4.

以上から、神の意志と計画を実現する大事業の第一弾として、イエス様が子ロバにまたがってエルサレムに入城したことが明らかになりました。そしてその大事業は、当時のユダヤ人たちの一面的な旧約理解を超えた形で展開しました。しかし、旧約をもっと全体的に理解すれば、イエス様の十字架と復活こそ、大事業が計画通りに進んでいることを示す出来事であったとわかるのです。十字架と復活の後に続く時代、つまり私たちが今生きている時代は、イエス様が再臨する時に終わりを告げ、新しい世にとってかわります。この間の時代は、人間が、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて神の実現された救いを所有するようになった者とそうでない者の二つがわかれる時代でもあります。救いは全ての人間のために実現したものである以上、できるだけ多くの人がその所有者になってほしいというのが神の意志です。それゆえ、わたしたちキリスト教徒は、隣人愛を実践する際には、隣人の心を造り主、贖い主である神に向けさせるようにしなければなりません。難しいことですが、だからと言って放棄すれば、それは神の意志に反することになります。
 
最後に、イエス様の教えと業はいかに旧約聖書に基づいているかを強調して終わろうと思います。一般に、旧約聖書とは神とユダヤ民族との契約についての書物であり、新約聖書とはユダヤ民族を超えてイエス・キリストを救い主と信じる人たちと神との新しい契約についての書物と言われます。そのせいか、古い契約は新しい契約に取って代わられたとみなされ、新約の立場からすれば旧約は廃れたものとか、果てはイエス様は旧約を覆した英雄のようなイメージがもたれることがあります。しかし、それは間違いです。イエス様は旧約の教えに反対していません。反対したのは、旧約の教えを間違って理解した宗教指導層であり、その間違った理解でした。イエス様自身は、旧約の正しい理解を示して神の意志を明らかにしようとしたのであります。本説教においても、イエス様はいかに御自分の教えと業が旧約の預言に基づいているかを示したことが明らかになりました。イエス様は、驚くほど旧約の教えに忠実なのであります。
 
マタイ51718節でイエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」とおっしゃられました。もしイエス様が旧約のある教えを超えるようなことを教えることがあっても、それは旧約の別のところに根拠がみつかります。例として、マタイ53839節で「歯には歯をと言われているが悪に反抗してはならない。右の頬を打たれたら左を出せ」と教えられます。これは出エジプト記2124節(申命記1921節も)にある「歯には歯を」の規定を覆しているように見えますが、実は箴言2429節にある仕返しを考えてはならないと教えが背景にあります。哀歌330節は、打つ者に頬を差し出せとも言っているので、イエス様が何か全くユニークな教えを出したということではないのです。ルカ10章には有名な「善きサマリア人」のたとえがあります。そこでイエス様は、隣人愛は民族の壁を超えるものであると教え、隣人愛をユダヤ民族内部にとどめるよう考えるレビ記185節を覆しているのだと言われます。これも注意して読めば、イエス様のもともとの狙いは、ユダヤ人、特に宗教指導層がどれだけ同胞に対してさえ隣人愛を行っていないかを思い知らせるために語ったものだったということがわかります。つまり傷ついたユダヤ人を助けたのは結局異民族のサマリア人だったくらいに、レビ記185節がユダヤ民族内でほごにされている現実を暴露したのであります。これらの例からもわかるように、旧約を超越するような教えはありません。そもそもイエス様を送られた神は、旧約で天地を創造し人を造られた神と同じ神ですので、その神を超えるようなことはイエス様は教えないのです。
 
もちろんモーセ5書にある神殿にて神に捧げるおびただしい生け贄の規定は、実行する必要はありません。なぜなら、生け贄を捧げる神殿は存在しないし、それにそもそもイエス様が自らを犠牲にして私たち人間を罪から贖って下さったので、贖いのために捧げる生け贄はもう一切不要だからです。人間はいつの世でも罪と不従順を抱えているので、救われるためにはそれらから贖われることが必要です。そのため贖いの必要性を示す生け贄規定は消去できません。同時に、イエス様は、罪と不従順からの贖いはこれ一回で十分というくらいの徹底的な贖いを御自分の命を犠牲にして実現しました。そのイエス様を救い主と信じていれば、神から罪を赦してもらおうと生け贄規定を守る必要はありません。まさに、イエス様は律法や預言書を廃止したのではなく、完成したのであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン