主日礼拝説教 2014年1月19日(顕現節第三主日)
スオミ・キリスト教会
アモス書3:1-8
コリントの信徒への第一の手紙1:10-17
マタイによる福音書4:12-17
説教題「悔い改めよ。神の国は近づいた(マタイ4章17節)」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
先週の福音書の箇所は、イエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事でした。その後でイエス様は、荒野で40日間に渡って悪魔から試練を受け、それに打ち克ちます。そのことが先週と今週の福音書の箇所の間にあります(4章1-11節)。そして、本日の箇所は、イエス様がいよいよ神の人間救済計画を実現するための活動を公けに開始したというところです。
荒野での試練の後でイエス様は、洗礼者ヨハネがガリラヤ地方の領主、ヘロデ・アンティパスに捕えられたと聞きました。理由は、ヨハネがアンティパスの不倫問題に口をはさんだためでした。牢獄につながれたヨハネは後で首をはねられてしまいます(14章1-12節)。さて、イエス様は、ヨハネが捕えられたと聞いて、そのガリラヤに乗り込んだのであります(新共同訳の「ガリラヤに退かれた」は正確な訳ではないでしょう)。ただ、育ち故郷であるナザレの町は活動拠点とはせずに、ガリラヤ湖畔の町カペルナウムに落ち着くことにしました。なぜかと言うと、ナザレの人たちが公けに活動を開始したイエス様を拒否したためでした。この辺の事情は、ルカ4章16-30節に記されています。
カペルナウムを拠点として、イエス様のガリラヤ地方での活動が開始されました。そのことがイザヤ書にある預言の成就であったと記されています。「ゼブルンの地とナフタリの地」という文句で始まるところです。イエス様のガリラヤ地方での活動開始が、どうしてイザヤの預言の成就であると言えるのか、それは、この預言の全体を見てみるともっとよくわかります。少し見てみましょう。
時は、紀元前700年代、ダビデの王国が南北に分裂してお互いに反目しあって既に200年近くが経った頃のことです。こともあろうに、北のイスラエル王国が隣国と同盟して、兄弟国である筈の南のユダ王国に攻撃をしかけようとしました。ユダ王国は、王から国民までパニック状態に陥ります。そこで、預言者イザヤが現れて、攻撃は絶対成功しない、それが神の御心である、だから心配するな、と宣べ伝えます。実際、イスラエル北王国とその同盟国は、東の大帝国アッシリアに滅ぼされてしまうので、ユダに対する攻撃計画は実現しませんでした。しかし、神の民であるユダヤ民族の北半分が滅びてしまいました。本日の福音書の箇所に引用されているイザヤの預言の出だしの部分は、このことについて述べています。イザヤ書8章23節に、こう記されています。「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」
ゼブルンの地、ナフタリの地というのは、ヤコブの12士族のうちの2つで、ガリラヤ地方に移住した士族です。場所的には、イスラエル北王国にあたります。それで、同王国が滅びたことが「ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けた」ということを指しています。しかし、ここから先が将来起こることの預言になります。まず、「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける」と言われます。つまり、異民族に蹂躙されてしまったこのガリラヤ地方が神の栄光を受ける場所になるというのです。どういうふうに神の栄光を受けるかということについては、イザヤ書の続く9章1節からの預言に記されています。「闇の中を歩く民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。これが本日の福音書の箇所に引用されています。しかし、イザヤの預言はここで終わらず、まだ続きます。9章5-6節を見ると、次のように記されています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」ここで預言されている人物は、まぎれもなくイエス様です。
イエス様の十字架と復活の出来事を目撃して、神の人間救済計画が実現したとわかった人たちが最初のキリスト信仰者になりました。彼らは、イエス様こそ、人間を闇の中、死の陰の地から導き出す光である、とわかりました。そして、そう言えば、イエス様の公けの活動は確かガリレア地方で始まったんだな、と思い当たった時、ああ、あれは全てイザヤ書8章23節から9章6節までの預言の成就だったのだとわかったのであります。それで、その預言が、短縮された形ではありますが、本日の福音書の箇所に引用されるに至ったのであります。
本日の旧約の日課であるアモス書3章の7節には、「まことに、主なる神はその定められたことを僕なる預言者に示さずには何事もなされない」と述べられていますが、まことにその通りであります。このように、人間救済計画がどのように実現されるかということを前もって預言者に告げ、約束されたことを全て果たされた忠実、誠実な神は永遠に畏れられ、ほめたたえられますように。
2.
さて、前置きが長くなりましたが、本日の福音書の箇所の大事なところをみていきましょう。それは、イエス様が公けに活動をした時に冒頭で述べられた言葉、「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。二つの短い文ですが、大切な事柄が沢山凝縮されています。それを見ていきましょう。
まず、「悔い改めよ」について。「悔い改める」というと、何か「悔いる」とか「後悔する」とか「反省する」というような意味があるように感じられます。「悔い改める」のギリシャ語原文の言葉は、メタノエオ―μετανοεωという動詞で、もともとの意味は、「考えを改める」とか「考え直す」です。ところが、新約聖書の中でメタノエオ―と言ったら、それは「神のもとに立ち返る」という意味を持ちます。どうしてもともとの意味が拡大したのかと言うと、ヘブライ語の旧約聖書の中にシューブשובという、「神のもとに立ち返る」という意味で使われる動詞があります。それに対応するギリシャ語はなんだ、ということで、メタノエオ―μετανοεωが使われるようになったという事情があります。こうして、「考えを改める」、「考え直す」が「神との関係で考えを改める」「神との関係で考え直す」というふうになり、今まで神に対して背を向けていたのを、これからは神に向き直して考える、行動する、生きるということになります。そういうわけで、メタノエオ―μετανοεωは、「神のもとに立ち返る」という意味を持ちます。(もちろん、エピストレフォ―επιστρεφω「立ち返る」も同じ意味を持ちますが、μετανοεωの場合は、語源的にみて「立ち返り」の内面的作用に注目するものと言うことができます。)
それでは、このメタノエオ―μετανοεω、「神のもとに立ち返る」とは、一体どのようなことをすることでしょうか?それがわかるために、まず、人間はどうしたら、この世の人生で自分の造り主である神との結びつきのなかで生きることができるか、そして、この世から死んだ後は、どうしたら永遠に自分の造り主である神のもとに戻ることができるようになるか?このことについて見る必要があります。
人間と神との結びつきの問題に関して、イエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第5戒を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第6戒を破ったことになる、と教えます。つまり、十戒を外面的だけでなく内面的にまで守れないと、神の意思に反することになってしまうのであります。しかし、十戒をそのように完璧に守れる人間、神の意思を完全に体現できる人間は存在しないのであります。マルコ7章の初めにはイエス様と宗教指導者との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものと言えば、それは律法のような戒律や様々な宗教的な儀式でした。しかし、戒律を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現・体現には程遠く、神との結びつきや永遠の命の保証にはなりえないのだとイエス様は教えたのであります。
人間には、神の意思に反しようとする神への不従順や罪が内在している。しかも、それらは人間が自分の力では除去できない。とすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世の人生では神との結びつきがないままで、この世から死んだ後も、自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることはできません。何を「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神の解決策はこうでした。ひとり子をこの世に送り、人間を覆い尽くしている罪の呪いを全部そのひとり子に覆い被せて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものでした。人間は誰でも、ひとり子イエス様を犠牲に用いた神の解決策というものはまさに自分のために行われたのだとわかって、イエス様こそが自分の救い主であると信じ、洗礼を受けることで、この救いを手に受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪を内在させたまま、イエス様の神聖さを頭から被せられます。こうして人間は、自分の造り主である神との結びつきを回復できてこの世の人生を歩み始めることとなり、順境の時にも逆境の時にも常に神から守りと良い導きを得られるようになり、万が一この世から死んだ後も永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのであります。
以上のように、人間は、イエス様の十字架と復活の出来事を経て、神との結びつきや永遠の命を保証するメタノエオ―μετανοεω、「神のもとへ立ち返る」手がかりを得ることができました。それは、戒律を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、そういったものに拠り頼んでも、自分からは罪の汚れは消え去らないと観念して、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けて、イエス様という神聖な純白な衣を頭から被せられること。内在する罪と不従順は必ずや、それを脱ぎ捨てるようにそそのかすけれども、ひたすらそれにしがみつくように着ていること。罪と不従順はきっと純白な衣にそぐわないことをしろとそそのかし、私たちが弱さや油断からそうしてしまうことがあったとしても、その度、「私にはイエス様以外に拠り頼む方はいません!」と言って、罪を認め、聖餐を受けること。そうすれば、神は、イエス様以外に主はいないという心の叫びを本物とみて、私たちのことを純白な衣を着たままで見て下さり、聖餐を受けた私たちがイエス様としっかり結びついていることを確認して下さるのです。この時、罪と不従順は、これでは付け入るすきがない、とおそれいって退却せざるを得ないのであります。このようにして、キリスト信仰者というものは、肉に宿る古い人を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた新しい人を日々育てていくのであります。もちろん父なるみ神は、私たちに罪が内在していることを知っておられます。しかし、私たちがこの内面の戦い、霊的な戦いをイエス様に拠り頼んで戦っている時、神の目には私たちはただイエス様の純白な衣を着た者として映るのです。本当にイエス様は「神のもとへの立ち返り」の手がかりなのであり、それ以外に手がかりはないのであります。
イエス様がガリラヤ地方で公けに活動を開始した当時は、まだ十字架と復活の出来事はありませんでした。そのため、「神のもとへ立ち返れ」と言われても、人々には、何をどうしたらいいのか、戒律や宗教的儀式を積めと言うのならともかく、そうでなければ一体何なんだ、と途方にくれるものであったでしょう。イエス様は、厳しい教えを突きつけて、人々をいったん途方にくれさせて、最後に十字架と復活をもって全てを明らかにしたのでした。
3.
次に本日の福音書の箇所でもうひとつ大事なこと、「天の国は近づいた」を見ていきましょう。「天の国」は、他の福音書で言われている「神の国」と同じものを意味します。マタイは、「神」という言葉を畏れおおくて避ける傾向があり、それで「天の国」と言っているのであります。
実は、洗礼者ヨハネも同じ言葉「悔い改めよ。天/神の国は近づいた」を使っていました(マタイ3章2節)。ただし、イエス様とヨハネの言葉の意味には決定的な違いがありました。イエス様が「天/神の国は近づいた」と宣べて活動をした時、彼の場合はヨハネと違って様々な奇跡の業が伴っていました。皆様も聖書からご存知のように、イエス様は、数多くの難病や不治の病を癒し、悪霊を退治し、群衆の空腹を僅かな食糧で満たしたり、自然の猛威を静めたり、無数の奇跡の業を行いました。これらを通してイエス様は、神の国が自分と一体となって来たということを示したのです。マルコ3章で、イエス様が悪霊を退治した時、反対者たちから「あいつは悪霊の仲間だからそんなことができるのさ」と中傷を受けます。それに対してイエス様は、「悪霊が悪霊を退治したら彼らの国は内紛でとっくに自滅しているではないか」と反論します。つまり、自分が神の国と一体になっているからこそ悪魔が逃げていくのだということであります。このように、イエス様の奇跡の業は、神の国が彼と共に到来したことの印、神の国が実在することの印なのであります。ヨハネの場合、「神の国が近づいた」というのは、それがもうすぐイエス様と共に来る、ということですが、イエス様の場合は、自分と一緒にもう来ている、ということだったのです。
イエス様が行った奇跡の業は神の国がどんなものであるか、その一端を明らかにするものでした。それでは、神の国の全貌はというと、黙示録20章から21章にかけて描かれています。それは、大きな結婚式の祝宴にたとえられ、そこに迎え入れられた人は、目の涙を神からことごとく拭い取ってもらい、もはや死も、悲しみも嘆きも労苦もない、というところです。ここで注意しなければならないことは、この神の国とは、実は今ある天と地が新しい天と地にとってかわるという、今の世が終わる時に現れるものということです。「ヘブライ人への手紙」12章に、今の世が終わりを告げ、全てのものが揺り動かされて取り除かれるとき、ただ一つ揺り動かされないものとして神の国が現れることが預言されています。先ほどの神の国が結婚式の祝宴にたとえられるということも、この世での信仰の戦い人生の労苦が全て労われることを意味しています。さらに、神の国にて涙が全て拭われるというのは、この世の人生で被ったり、解決に至らなかった不正義が最終的に全て償われるということです。そうであるからこそ、キリスト信仰者は、この世の人生では、神の意思に反することに手を染めない、不正や不正義には対抗する、という努力をとにかくする、たとえ実を結ばなくても、最終的には神の国で実を結ぶので、無駄や無意味に終わることはないと知っている者なのであります。
ところで、神の国はまだ今の世の終わりなどとは関係なく、2000年前に一度、イエス様と共にやって来ました。その時、イエス様の奇跡の業を目のあたりにして、将来到来する神の国とはこのようなことが当たり前なところなのだと体でわかったのであります。ところが、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来の神への不従順と罪を受け継いできた人間は、まだ神聖な神の国に入ることはできないのであります。人間は神聖なものとあまりにも対極なところにいる存在だからです。罪と不従順の汚れが消えなければ神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。それを最終的に解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。かつて神がイエス様を用いて私たち人間のために罪の赦しの救いを実現した、これはまさにこの自分のために行われたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、私たちは、この救いの所有者となります。こうして、私たちは神の目に適う者、義なる者とものと見なされて、神の国の立派な一員として迎えられるのであります。
4.
さて、復活されたイエス様が天に上げられて、その再臨を待つ今の時とは、神の国もその時に顕現するのに備えて待機状態にある時と言ってよいでしょう。だからと言って神の国は、私たちと今、無関係にあるというのではなく、キリスト信仰者にあっては、しっかり信仰に留まる限り、そこへの入国許可証を手にしているのであります。「我らの国籍は天にあり」(文誤訳フィリピ3章20節)というのは、まことにその通りであります。キリスト信仰者は、二重国籍者であります。一つはこの地上にある国の一員です。その国籍は、死んでしまえば失われてしまい、また他国へ移住したりすれば意味を失います。しかし、もう一つの天の国籍は、どこにいようが、死のうが生きようが失われず、有効であり続ける国籍であります。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちは天国に永住権を有しているのであります。この永住権の「永」は文字通り永遠です。キリスト信仰者にあっては、たとえ他の全てのものが失われても、これだけは失われないものである、ということを忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン