説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教2021年2月23日 四旬節第二主日
創世記17章1‐7、15‐16節
ローマの信徒への手紙4章13‐25節
マルコによる福音書8章31-38節
説教題 「一般常識からキリスト信仰の常識に駆けあがれ!」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書は、聖書を読まれる方ならおそらく誰でも知っている有名なイエス様の教えです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために失う者は、それを救うのである。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか(マルコ8章34-37節)。」
これを読んだ人はたいてい、ああ、イエス様は命の大切さ、かけがえのなさを教えているんだな、と理解するでしょう。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得にもならない。それくらい命は価値あるものなのだ、まさに命は地球より重いということを教えているんだな、と。誰にでもわかる一般常識をイエス様は教えているのだと。そうするとこれは同じ個所で言っていること、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」とどう結びつくでしょうか?「自分の命を救いたいと思う者はそれを失う」とは、人間、どうせいつか死ぬので、自分の命を救いたい、救いたいと思うこと自体が無駄だということなのか?
それと、「わたしのため、福音のために命を失う者は、それを救う」とはどういうことか?大方の方は、ああ、迫害を受けて殉教した者は天国に入れることを言っているんだなと理解するのではないでしょうか。そうすると、最初に言っていること、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というのは、殉教の道を進めと言っているように聞こえてきます。そうなると一方で、命は地球より重いのだ、などと言っておきながら、他方で、殉教で命を落とすのOKというのは矛盾しているのではないかと思えてきます。どうでしょうか?
実はイエス様は矛盾したことは何も言っていません。では、どうしてそう聞こえるかと言うと、「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」この部分を先ほど見た一般常識、「命は地球より重い」で理解してしまうからです。この部分を新約聖書が書かれたギリシャ語原文に遡って、かつルター派の視点で見ていくと、そこは一般常識とは違うことを言っていることが見えてきます。ここには一般常識ではなくてキリスト信仰の常識があるのであり、それで見ていくとイエス様が言っていることは矛盾なく筋の通ったものになります。そういうわけで本日の説教では皆さんを一般常識からキリスト信仰の常識に駆けのぼっていけるようにしていこうと思います。
2.福音書の転換点
まず、本日の福音書の日課ですが、ここは一括りになっている8章27~38節の中の中盤から終わりの部分です。8章27~38節という個所はマルコ福音書全体の中で大きな転換点にあります。これまでイエス様はガリラヤ地方とその周辺地域で活動していましたが、ここでガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで8章27~38節の出来事があり、その後でその地方の「高い山」に登って姿が変わったところを弟子たちに目撃させます。山から下った後はただただエルサレムに向かって南下していきます。そういうわけで、8章27~38節はまもなくエルサレムで起こる十字架の死と死からの復活の出来事に向かい出す出発点です。まさにそれに相応しく、本日の箇所でイエス様は初めて自分の受難と復活について預言します。
そこで、8章27~33節を見ると、まずイエス様が人々は自分のことを何者と言っているかと質問をします。弟子たちの答えから、人々は彼のことを過去の預言者がよみがえって現われたと考えていることが明らかになります。それに対してペトロがイエス様をそうした預言者ではなく、「メシア」と信じていることを明らかにします。そこでイエス様は自分の受難と死からの復活について預言します。それを聞いたペトロは敬愛するイエス様が殺されることなどあってはならないと思って否定します。それに対してイエス様はペトロのことをサタン、悪魔と言って叱責します。「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」大抵の人はイエス様の強い語調に驚くでしょう。しかし、神による人間救済を全世界の人々に及ぼすべくこれから十字架の死を通って死からの復活を実現しなければならない。そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのはまさしく神の計画を邪魔することになります。神の計画を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、計画を認めないというのは悪魔に加担することと同じになってしまいます。それでイエス様は強く叱責したのです。ペトロが思わない「神のこと」とは、まさしく神の人間救済のことです。
3.神による人間救済
それでは神の人間救済の計画とは何か?毎回説教でお教えしていることですが、それがわかると本日の日課でイエス様が言われていることを一般常識を超えてキリスト信仰の常識で理解することが出来まるようになります。それなので少しおさらいをしておきましょう。
キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られたものであるということが大前提になっています。この大前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまったという大問題が立ちはだかります。どうして壊れてしまったかと言うと、創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順になって神の意思に反する性向、それを聖書では罪と言いますが、それを持つようになってしまったからでした。人間は神聖な神のもとにいられなくなって死ぬ存在となりました。使徒パウロがローマ6章23節で言うように、死ぬというのはまさに罪の報酬なのです。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできてしまったのです。
これに対して神は、人間がそうなってしまったのは自業自得だと冷たく突き放すことはしませんでした。人間が再び自分との結びつきを持ててその結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死ぬことになっても復活の日に目覚めさせて復活の体と永遠の命を付与して造り主である自分のところに永遠に戻れるようにしてあげようと決めました。これが神の救いの計画です。この計画はどのように実現したでしょうか?罪が人間の内に入り込んで神との結びつきが失われてしまったのだから、それを人間から除去しなければならない。しかしそれは、イエス様がマルコ7章で当時の宗教指導者たちと論争した時に明らかにしたように人間の力では不可能です。人間が自分の力で罪を除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世で神と結びつきを持って生きることも神のもとに戻ることもできません。
この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送って、人間の罪を全て彼に背負わせてゴルゴタの十字架の上まで運び上げさせ、そこで罪の神罰を受けさせて死なせたのです。つまり、ひとり子イエス様に私たち人間の罪の償いを果たさせたのです。そこで私たち人間がこのことは歴史上、本当に起こったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったので、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦されたから、その人は神との結びつきを回復できて、この世を順境だろうが逆境だろうがいつも変わらない神との結びつきの中で歩むことができるようになりました。
イエス様が果たしたことは罪の償いだけではありませんでした。十字架の死から3日後、神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たちのために開いて下さいました。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてその道を進んでいるのです。神との結びつきを持ちながら進んでいくのです。
ところで、神から罪を赦されたと見なされるようになったとは言っても、私たちの内にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。確かに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた以上は注意深くなって罪を行為や言葉で表に出してしまうことはなくなるかもしれませんが、心の中で持ってしまいます。イエス様は、神は心の中まで潔白さを問うと教えたのです。それにどんなに注意していても、人間的な弱さのためにまた隙をつかれてしまって罪が行為や言葉で出てしまうこともあります。そのような時はどうなるのでしょうか?イエス様が果たして下さった罪の償いを台無しにしたことになり神から赦しをキャンセルされてしまうのでしょうか?神から赦してもらえない者になって神との結びつきは失われてしまうでしょうか?
そうではない、というのがキリスト信仰であると先週申し上げました。パウロがガラテア3章27節で言うように(ローマ13章14節も)、洗礼を受けた者はイエス様を汚れのない純白な衣のように被せられます。神はその人を見る時、その人の内にある罪よりもその人が纏っている衣の方に目を向けます。それなので、自分に罪があるとわかったら、すぐそれを神の御前で認めて、イエス様を救い主と信じますから赦して下さいと祈ります。そうすると神も、「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前は心の目をあのゴルゴタの丘の十字架に向けるがよい。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられ微動だにしていない。わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦すから、これからは罪を犯さないようにしなさい」と応じて下さいます。そうしてキリスト信仰者は再出発のスタートを切ることができるのです。
この世でキリスト信仰者は、肉を持って生きるので神の意思に反する罪を内に抱えたままです。それで自然、罪の告白と赦しを繰り返すことになります。毎週日曜日の礼拝の初めで司式者と会衆が一緒に神のみ前で行っていることがそれです。もちろん、他にも信徒が牧会者や他の信徒と一緒にもっと具体的に個別に行うものもあります。罪の告白と赦しを繰り返すというのは、洗礼の時に被せられたイエス様の衣を手放さずにしっかり纏うことです。繰り返せば繰り返すほど、内に宿る罪はイエス様の衣の神聖さの重みで圧し潰されていきます。ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者のこの世の人生というのは、洗礼を通して植え付けられた霊的な新しい人を日々成長させ、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスです。例えば、怒りや憎しみとか、舌を制御することができないとか、地位や立場で人を選別したり自分も選別されることを期待するとか、そういう愛のなさが染みついている古い人、これを神から頂く罪の赦しとイエス様の神聖な衣を重石にして圧し潰していくプロセスです。
そして、このプロセスが終わる日がきます。その時点で生きている者も既に死んでいた者も全ての者が創造主の前に立たされる日です。その時、各自に審判が下されます。これは最後の審判なので申し開きや弁明する機会はなく判決だけが言い渡されます(マタイ25章を見ると判決の理由は聞くことが出来るようです)。その時、「お前は罪を圧し潰す側に立って生きていた」と認められればよいのです。そう認められた者は、もう自分には圧し潰すものがなく、自分自身の体が神の栄光を映し出して輝いていることに気づきます。これが復活の体です。ルターが言うように、キリスト信仰者が本当に完全な信仰者になるのはこの世を去って肉の体を脱ぎ捨てた時なのです。
4.一般常識からキリスト信仰の常識へ
以上、神の人間救済の計画とそれがどのように実現したかについて述べてきました。本日の課題に戻りましょう。イエス様がつき従う者、つまり私たちキリスト信仰者に対して背負いなさいと言っている十字架とは何か?そして、命を救う、失う、と言っていることは何か?
まず、キリスト信仰者が背負う十字架について。これは、イエス様が背負った十字架と同じでないことは明らかです。神のひとり子が神聖な犠牲となって人間の罪を全部引き受けてその神罰を全て受けて人間の救いを実現したのです。私たち人間が同じような十字架を背負うことは出来ないし、そもそも救いの十字架は一度打ち立てられて完結したのです。
それでは、私たちが各自背負うべき十字架とは何でしょうか?自分を捨てるとはどんなことでしょうか?先ほど、キリスト信仰者の人生は洗礼の時にイエス様を衣のように被せられて罪を圧し潰していくプロセス、神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスだと申しました。
それで、「自分を捨てる」というのは、まさに肉に結びついた古い人を死なせ、神の霊に結びついた新しい人を育てていく、そういう生き方を始めることです。つまり捨てるのは肉に結びつく古い自分です。それを捨てることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まります。ただこれはプロセスですので、この世を去るまでは捨て続けます。「自分を捨てる」と言うと、何だか無私無欲の立派な人間を目指すように聞こえます。また逆に、自分自身を放棄する自暴自棄のように聞こえるかもしれません。一般常識の耳で聞くとそういうふうに聞こえるのです。しかし、そういうことではありません。罪の告白と赦しを繰り返すことで古い人が圧し潰されて衰えて代わりに新しい人が育っていく、そのようにして古い人を捨てること、これがキリスト信仰の常識から見た「自分を捨てる」の意味です。
そういうわけで、私たちが十字架を背負うというのは、洗礼を受けた時に始まる、罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いを戦うということになります。戦いの具体的な形は、それぞれ人が置かれた状況によって異なってきます。具体的な人間関係の中で死なせるべき古い人の特徴がはっきり出てくるでしょう。自分より良い境遇にある人を妬むことで古い人が強まります。あるいは自分はキリスト信仰者であると公けにすることで仲間外れになったりすると、イエス様を救い主と信じることが揺らいで新しい人が育たなくなってしまうことも起こります。このように背負う十字架は形は違っても、新しい人を育て古い人を死なせるという点ではみな同じです。そういうわけで、「十字架を背負う」とか「自分を捨てる」というのは殉教そのものではありません。今見た通り、罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いは迫害がないところでも日常生活のどこにでもあるからです。
このように、「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」とは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いに入ることだとわかると、続く35節と36節で「命」(後注)を救うとか失うとか言っていることもわかってきます。以下、それを見ていきましょう。
35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」これは前の節の繋がりで見ると、自分の命を救いたいと思う者とは、自分を捨てることもせず自分の十字架を背負うこともせず、従って罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いに入らなかった人のことです。それなので、復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かって歩んでおらず、この世での命が全てになってしまう人です。そのような人にとって新しい世での新しい命などありえないことですから、この世での命にしがみつくしかありません。しかし、この世での命は永遠に続きません。これが「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」の意味です。
次に「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」先ほど、自分の十字架を背負い自分を捨てるというのは殉教そのものではないと申しました。罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いは迫害がないところでも日常生活のどこにでもあるからです。ところが、信仰を捨てるか命を捨てるかのどちらかにせよ、という権力者からお達しが来たらどうするかという問題は歴史上あちこちでありましたし今日でもあります。信仰を捨てずに命を落とした人もいれば、逆に信仰を捨てて命を保全した人もいました。たとえ罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いが殉教で中断させられてしまっても、命落す日まで戦いを続けたことは父なるみ神の「命の書」に記されます。最後の審判で、お前は罪を圧し潰す側に立って生きていたと必ず認められるでしょう。
そして36~37節です。イエス様は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」ここの「命を失ったら」の「失う」ですが、前の35節の「命を失う」に二度出てくる「失う」とは原語のギリシャ語では動詞が異なります。35節はアポリュミαπολλυμιという動詞で、それは文字通り「失う」という意味があり、35節の訳はそれの通りです。36節はツェーミオオーζημιοωという動詞で、その正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。そのため辞書によっては、イエス様のここの言葉を「命を失う」と訳してはいけないと注意するものもある位です。新共同訳ではそう訳してしまっていますが。ここは「命に傷がついている、ダメージを受けている」という意味です。そうなると、イエス様は「命は地球より重し」という一般常識を教えていないことになります。一体イエス様は何を教えたかったのでしょうか?
36~37節を少し解説的に訳すと「人はたとえ全世界を手に入れても、命が傷つきダメージを受けていたら、そんなものは何の役にも立たない。なぜなら、どんなにこの世で永らえようとしてもいつかは時が来るのだし、その時、手に入れた全世界をもって命を買い戻そうとしても無駄である」ということになります。ここでの問題は「命に傷がついている、ダメージを受けている」とはどういうことかということです。
それは、ここで言われている「代価」に注目します。人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることが出来ます。それによって人間は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かって歩みだします。このようにイエス様は私たち人間を罪と死の支配下から神のもとに買い戻して下さったのです。神聖な神のひとり子が十字架で流された血を代価として私たち人間を神のもとに買い戻されたのです。買い戻されたというのは難しい言葉で「贖われた」とも言います。「代価」と訳されるギリシャ語の言葉アンタラグマανταλλαγμαは「身代金」の意味を持ちます。人間は罪と死に売り渡されたも同然だったが、神が痛い身代金を払って買い戻して下さった、人間を罪と死の支配から御自分のもとに贖い出して下さったのです。
それで、傷ついている、ダメージを受けている命というのは、贖われていない、買い戻されていない状態を意味します。そのような状態の人が死を間近にして慌てて自分が手に入れた全世界を代価にして死を免れようとしても、そんなものは神のひとり子の犠牲に比べたら何の力にもならないのです。そういうわけで、ここは、一般常識では命が大事と言っているように見えていたのが、実はイエス様の犠牲、彼が十字架で流した血が大事と暗に言っているのです。それがなぜそんなに大事かというと、それは言うまでもなく、私たち人間を罪と死の支配から解放して、復活の日に復活を遂げられて死を超えた永遠の命に与ることが出来るようにするからです。これがキリスト信仰の常識です。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
(後注 35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという少し厄介な言葉です。これは、生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力そのものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。)