2021年2月22日月曜日

キリスト信仰者の鉄壁の防御 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021年2月21日 四旬節第一主日

 

創世記9章8節-17節

ペテロの第一の手紙3章18-22節

マルコによる福音書1章9-15節

 

説教題 キリスト信仰者の鉄壁の防御

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.      はじめに

 

 今年も四旬節/受難節の季節になりました。今年の復活祭/イースターは44日に定められています。その日まで主日を除いて数えた40日間が四旬節です。この間の水曜日217日がその始まりの日でした。そういうわけで本日は四旬節最初の主日となります。四旬節の背景ですが、古いキリスト教会の伝統として西暦300年頃から復活祭の前に主日を除く40日間に断食することが行われるようになったことがあります。どうして40日間の断食かというと、イエス様が荒野で悪魔から誘惑の試練を受けた時40日間何も食べなかったということに由来します。そもそもイエス様の生涯は人間の救いのためにゴルゴタの十字架にかけられる犠牲の死に備えるものでした。それゆえ、キリスト教徒たちは40日間の断食を通して主の備えの生涯を身近なものにしようとしたのです。

 

四旬節は英語ではレントLentと呼ばれ、それは古代英語の春を意味する言葉に由来するそうです。フィンランドやスウェーデンではカトリックの時代の伝統を受け継いで「断食の時期」paastonaikafastetidと呼ばれます。もちろん、両国ともルター派の国なので外面的な規則の順守が救いを左右するという考えはなく、「断食」と言っても名前だけです。それでも、人によっては、この期間は何か好物のものを食べなかったり、好きなTV番組とか愛着のあるものを遠ざけようとする人もいて、牧師にもそのようなことを勧める人もいます。ただし皆さん、そういうことをして神に認められるとか、救いを確実にするとか、そんなことは全く関係ないとわかっています。好物を食べなくても食事はちゃんととるので断食には程遠いです。それでは、どうしてそんなことをするのかと言うと、日常生活の中に普段よりもイエス様の受難に注意が向くようにするための一種のトレーニングのようなものです。別に好物や愛着のあるものを遠ざけなくても注意が向くのならしなくてもいいのです。ただ、普通しないことをあえてすることで、いつもよりもイエス様のことに心が向くようになるということです。

 

本日の説教の聖書日課ですが福音書を中心に説き明かしをします。使徒書の第一ペトロの個所は死んで陰府に下ったイエス様が死者の霊に福音を宣べ伝えたという難しいところです。これについては3年前の四旬節第一主日の説教で「死者のための祈り」という題で説き明かししました。その時も申し上げましたが、この個所は少なくとも46節まで見ないと説教は不可能です。今回3年前の説教を読み返してみて考え方は基本的に変更はなく、もう少し洗礼の重要性を出した方が良かったかなと思ったくらいでした。それで今回は第一ペトロを取り上げず、福音書の日課の説き明かしに専念することにしました。(3年前の説教にご関心ある方はホームページの説教集を遡ってお探しになれば見つかると思います。)

 

本日の福音書の箇所の中にイエス様の荒野の試練があります。この出来事はマタイ福音書とルカ福音書では詳細に記述されていますが、マルコ福音書ではたったの二節しかありません。荒野の試練の時、イエス様にはまだ弟子がおらず一人でしたので、目撃者がなく、この出来事はイエス様が後に弟子たちに語られたものと考えられます。マタイ福音書とルカ福音書には詳細に語られたものが伝承されて記載されましたが、マルコ福音書には要約された形のものが記載されたと言えます。たった2節をもとに説教をするというのは簡単なことではありません。しかし、ルターだったら1節だけでも1時間位は説教できたでしょう。しかも彼の場合は、聖書外のことには言及せず聖書だけで話が出来ました。私も彼を見習って説き明かしをしていこうと思います。

 

2.野獣の危険と天使の守り

 

本日のマルコ福音書の記述は要約された形ですが、それでもマタイ福音書やルカ福音書にはないことが含まれていますので、それを見てみましょう。

 

 「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」皆さん、この文章の意味わかりますか?この新共同訳の訳ですと、イエス様は40日間サタンから誘惑を受けたと同時に、野獣とも一緒にいて、さらに同時に天使たちに仕えられた、という具合にいろんな出来事が同時に混在しています。原文のギリシャ語の文がわかりそうでわかりにくい形なので、そんな訳になってしまったのでしょう。マタイ福音書の記述を見ると、天使が来てイエス様に仕えるのは、イエス様がサタンの誘惑を撃退した後に起きるという順番です(マタイ411節)。

 

この順番を踏まえてマルコの記述をわかりやすくすると次のようになります。「イエスは荒野にいてまず40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その後、野獣のただ中にいたが、天使たちに仕えられていた。」新共同訳の「野獣と一緒におられた」というのは、イエス様が野獣と仲よく暮らしたみたいですが、そうではありません。日本語で「~と一緒に」と訳されているギリシャ語の言葉(μετα)は「~の間に、~の中に」とも訳すことができます。それで、荒野で野獣のただ中にいたという危険な状態にあったということです。(ちなみに、フィンランド語訳とスウェーデン語訳の聖書では「野獣のただ中に」です。英語のNIVは日本語と同じ「野獣と一緒に」でした。)

 

さてイエス様は、荒野で野獣のただ中という危険な状態に置かれたが、天使たちに仕えられ守られたので何も危害はなかったということです。荒野の野獣というのは目に見える具体的な危険です。天使というのは人間同様、神に造られたものですが、普通は人間の目には見えない霊的な存在です。つまり、イエス様は悪魔の誘惑の後も、見に目える危険な状態に置かれたが、目には見えない霊的な守りのなかにあり、危害は及ばなかったということです。このように理解すると、この13節の野獣の危険と天使の守りというのは、ただ単に荒野の出来事だけでなく、その後イエス様が置かれていった状況全般を指しているとも言えます。つまり、野獣のような危険な敵対者に何度も遭遇するが、目には見えない天使という霊的な守りの中にあったということです。

 

マタイ福音書とルカ福音書の記述では、イエス様が悪魔からどんな試練を受け、それにどう打ち勝ったかということが詳しく記されていますが、その後の野獣の危険と天使の守りについては触れられていません。ここでイエス様の天使の守りということについてよく考えてみると、悪魔の誘惑の時にはそれはなく、それに打ち勝った後にありました。そして最後にイエス様が逮捕されて十字架にかけられる時はありませんでした。十字架の時に天使の守りがなかったということは後で見ます。このようにイエス様に天使の守りがあったりなかったりしたというのは、どういうことか見ていこうと思います。というのは、そのことが私たちキリスト信仰者にとって大きな意味を持っているからです。どんな意味かと言うと、キリスト信仰者には鉄壁の防御があるということです。

 

3.人間の救いにとって際どい瞬間だった

 

 マタイとルカの記述によると、イエス様は40日間飲まず食わずの状態で悪魔から誘惑を受け続け(特にルカ42節)、最後に三つの誘惑を受けます。最初の二つは「お前が神の子なら、石をパンにかえて、空腹を満たしてみろ」というのと、「お前が神の子なら、エルサレム神殿の屋根の上から神殿の背後にまっさかさまに切り落ちている谷に向かって身を投げて、天使に助けさせてみろ」というものでした。イエス様は多くの人の不治の病を治したり、自然の猛威を静めたりする奇跡を行える神のみ子です。だから、パンを石に変えたり、谷に身を投げて天使に飛んできてもらうことなど容易に出来たはずです。それなのになぜ、これらのことをせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また目のくらむような高い所にとどまることを選んだのでしょうか?

 

それは、もしそうしていれば確かに神のみ子の力を見せつけることができたでしょうが、しかしその瞬間、イエス様は悪魔が命令したからこれらのことをした、ということになってしまい、これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意思に従うことになってしまうからです。悪魔がやれと言ったからやったことになってしまうのです。凄まじい空腹や危険の恐怖という弱みにつけこんで、どうだ、そこから逃れたいだろ?お前が神の子ならわけないだろ、それとも逃れられないのか?だったらお前は神の子でもなんでもないんだ、と巧みに追い詰めていったのです。しかし、イエス様は悪魔の言う通りにはしないということを貫きました。たとえそれが空腹と恐怖の中に留まることを意味しようとも。

 

 三つ目の誘惑は、イエス様に世界の国々とそれらの豪華絢爛を全て見せた上で、もし俺にひれ伏せば、これらを全部お前にやろう、というものでした。しかし、イエス様はこれにも応じませんでした。この誘惑をはねつけたことは、先の二つに増して、私たち人間の救いにとって決定的な意味を持ちました。というのは、イエス様は荒野の試練の直前にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かったばかりでした。その時、神の聖霊が降り、また神のみ子であるとの認証を神から受けていました(マルコ11011節)。それで、もし、その神の子が悪魔にひれ伏してしまったならば、神の子が受けた神の霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と神の霊が悪魔よりも下であれば、もはや神そのものも悪魔の下になったのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔より強い者は存在しなくなります。しかし、そうはなりませんでした。イエス様は、豪華絢爛などいらない、だからお前にひれ伏すこともしない、ときっぱり拒否したのです。こうして天上でも地上でも地下でも神の権威は揺らぐことなく保たれました。実に際どい瞬間でした。

 

4.聖書の御言葉は悪魔の攻撃を撃退する力に満ちている

 

 それでは次にイエス様はどのようにして悪魔の誘惑に打ち勝ったかをマタイとルカの記述に即してみていくことにします。結論から言うと、誘惑をはねつけて悪魔を退散させるのにイエス様は聖書(旧約)の神の御言葉を武器に用います。

 

 まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対しては、イエス様は申命記83節の御言葉ではねつけます。その箇所の全文はこうです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民はシナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神のみ言葉こそが生きるための本当の糧であることを身に染みて体験します。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく経験に裏付けられた真実の言葉です。それなので、もし悪魔が空腹の満たしのような人間の最も基本的な必要に訴えて私たちを自分の言いなりにしようとしたら、私たちもこの申命記の言葉を突き出して悪魔に対して次のように言い返すことができます。「悪魔よ、私の命はパンがある時もない時も常に神の御言葉を拠りどころとして立つのだ。パンがあっても御言葉がなくなってしまったら、それはもう私の命ではない。このことをお前はこの御言葉から思い知るがよい。」

 

次に、悪魔がイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと誘惑した時、今度は巧妙にも聖書の御言葉を使います。それは詩篇911112節です。「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」。神の御言葉にそうあるのだからその通りになるだろ、だから飛び降りてみろ、と言うのです。

 

それに対してイエス様は、申命記616節をもって誘惑をはねつけます。それはこういう箇所です。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは出エジプト17章にある出来事で、イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなって指導者モーセに不平不満を言い始め、神に水を出すよう要求した事件です。実に荒野の40年間、イスラエルの民は困難に遭遇するたびに、すぐ神に不平不満をぶつけました。彼らは神の奇跡の業を何度も目にしてきているのに、新たな困難が生じる度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神を疑い、「言うことを聞いてくれないなら、もうエジプトに帰ってやるから」と、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すようなことばかりを繰り返してきました。申命記6章というのは、イスラエルの民がやっとシナイ半島からカナンの地に移動するという時、神が40年の出来事を振り返って、あの時のように「神を試してはならない」と命じるところです。

 

それでは、私たちは困難に直面したらどうすればよいのでしょうか?希望した解決がすぐ得られない時、どうすればよいのでしょうか?その時は、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じること。たとえ祈って与えられたものが自分の意にそぐわないものでも、それを神の導きとして受け取る、それくらいに神を信頼するということです。この申命記616節の御言葉を用いたイエス様の生き方こそ、こうした神への深い信頼を示しています。

 

実を言うと、イエス様の神への深い信頼は、悪魔が誘惑用に使った詩篇91篇全体の趣旨だったのです。この篇の最初をみると次のように言われています。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(23節)。このような神に対する深い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要はなくなります。悪魔は、詩篇91篇全体に神への深い信頼が貫かれていることを無視して、真ん中辺にある天使の守りの部分だけをちょこっと文脈から取り外してイエス様に投げつけたわけです。まさしくコピー・アンド・ペーストです。しかし、そんなやり方で真理と張り合えるなどと思うのは愚の骨頂です。それにしてもコピペというのは真実のかけらを大いなるウソの塗り固めに用いてしまうものです。悪魔的な業と言ってもいいかもしれません。そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちがウソを見破ることができて真理にどまることができるように日々の聖書の繙きを怠らないようにしましょう。

 

さて、三つ目の誘惑「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の手下になれ」に対して、イエス様は申命記613節の御言葉を突きつけて誘惑をはねつけます。その御言葉は「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」というものです。「神を畏れる」というのは、聖書の中で最も大切な教えの一つです。それは、神をまさに天と地と人間を造り人間に命と人生を与えた造り主として仰ぎ、天においても地においても神より力ある者は存在しないと畏れ敬うことです。たとえ神の力が働いていないように見える時でも、目に見えて働いている時と同じくらいに神は全てに優る力を持つ方であると畏れることです。神より力ある者は存在しないというのは、神に敵対する者からすれば恐怖以外の何ものでもなく、そのような者は神から逃避しなければなりません。しかし、神と平和な関係にある者からみれば、神よりも力あるものはいないのだから、神以外に何も恐れるものはなく、神のもとにいて大きな安心を得ることが出来ます。

 

悪魔の下に服して神に敵対するようになってしまったら、たとえこの世の支配権と豪華絢爛を手にしていても、それが何の安心になるでしょうか?たとえ、この世で権力と富を維持拡大できても、神に敵対していれば、この世から死んだ後は最後の審判の日に、永遠に止まない滅びの中に投げ込まれます。そこには権力も富も持ち運ぶことはできません。しかし神と平和な関係にある者はこの世にいる時は順境の時も逆境の時もいつも大きな安心が伴っています。この世を去った後はそれこそ手ぶらで大きな安心の源である神のもとに永遠に迎え入れられます。それがわかれば、悪魔がやると言った権力や富はなんと頼りない儚いものであるかがわかります。そんなもののために神との平和な関係を捨ててみろなどとは、悪魔はなんと情けないことを聞くのでしょうか?

 

5.イエス様が天使の守りを遠ざける時

 

 以上のように、イエス様は聖書にある神の御言葉を用いて悪魔の誘惑をはねつけました。これからもわかるように、神の御言葉は悪魔の攻撃を撃退する力を持っています。私たちも聖書の御言葉をよく学び、その力に服するようにしましょう。

 

さて、悪魔はイエス様のもとから退散しましたが、イエス様は今度は野獣のただ中にいて、天使に仕えられて守られた状態に入りました。これは、ユダヤの荒野にいた時の状況だけでなく、その時から始まって十字架の受難の道に入るまでの全ての状況を含むと考えてよいでしょう。どうしてかと言うと、この「野獣の危険と天使の守り」というのはよく見ると、先ほど見た詩篇91篇で言われていることの実現だからです。つまり、神は天使を通して守ってくれるということの実現です。このことを少し詳しくみてみます。悪魔が愚かなコピペをした1112節の中で天使の守りについて言われていました。それに続く13節には野獣の危険から守られることが言われているのです。11節から13節まで全部見てみましょう。

 

「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道をどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んでいく。」

 

悪魔から誘惑を受けている時のイエス様は、悪魔の魂胆を見抜いたので、天使を呼び寄せて自分を助けさせることはしませんでした。あたかも天使たちに次のように命じた如くです。「天使たちよ、お前たちは今は来なくて良い。私は神の御言葉で悪魔に打ち勝つから心配はいらない。もしお前たちが来たら、私が助かった瞬間に私は悪魔に従ったことになってしまう。」そして、イエス様は、見事に一人で悪魔に打ち勝ちました。悪魔が退散した後で、野獣の危険の中に入りましたが、今度は天使たちに来るのを許して仕えさせたのです。ユダヤの荒野でも、またその後でガリラヤ地方にいた時も、いろいろな危険が身に迫りましたが、イエス様は天使に仕えられ守られていました。

 

ところが、十字架の受難が始まると、イエス様は守りが全くない状態に陥ってしまいました。イエス様が逮捕された時、弟子のある者が剣を抜いて官憲に抵抗しようとしました。これに対してイエス様は、剣をさやに納めろと命じて言いました。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ265354節)。つまり、イエス様は天使の軍勢の助けを得られる可能性を持ちながら、あえてそれを用いず、逮捕されるにまかせたのです。なぜでしょうか?

 

それは彼自身が言った通り、聖書の預言が実現するためでした。それは、創造主である神が計画した人間救済計画を実現することでした。罪がもたらす永遠の滅びから人間を救い出すことでした。この救いを実現するために、神のひとり子が私たちの身代わりとなって神罰を受けられて十字架の上で死なれました。まさに私たちのために罪の償いを神に対して果たして下さったのです。もしイエス様が天使の軍勢を呼び寄せて十字架の死を回避してしまったら、人間の救いは起こらなかったのです。それでイエス様は、あえて十字架の道を選ばれたのです。ちょうど本日の福音書の出来事のように、本当は回避出来るけれども、悪魔の言いなりにならないために、あえて空腹と恐怖を選んだのと同じです。

 

6.キリスト信仰者の鉄壁の防御

 

以上から、イエス様は悪魔の誘惑の試練の時と十字架の受難の時に天使の守りを遠ざけたことが明らかになりました。このことが私たちキリスト信仰者にとってどんなに大きな意味を持つことかを見てみましょう。

 

荒野で悪魔の誘惑をはねつけた時、イエス様は天使の守りを求めず、聖書の御言葉をもってはねつけました。このように聖書の御言葉は悪魔の攻撃を撃退する力を持っているのです。ただし、御言葉がコピペのような使われ方、つまみ食いのような使われ方をしないで、御言葉をそれがある文脈に沿って正しく理解した時に撃退力は発揮されます。それなので、聖書を日々繙いて主日は説教を聞き、他の日は自分で少しずつでも聖書に習熟するようにすることが肝要です。キリスト信仰者は聖書の御言葉という強力な守り手を持っているのです。

 

次に、イエス様は天使の守りを求めないで、十字架の受難の道に入られました。そのおかげで神に対する私たちの罪の償いが果たされて、神罰が私たち人間に下されないですむ道が開けました。これで、神と人間の間を引き裂いて敵対関係に追い込もうとする悪魔の目論見は破綻してしまったのです。人間はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。それと同時に悪魔の目論見の破綻もその人にその通りになります。

 

このようにキリスト信仰者は悪魔の攻撃を撃退する力に満ちた御言葉を持っています。また洗礼を通して罪の償いと悪魔の破綻が身に備わっているのです。主にあって兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。キリスト信仰者というのは洗礼を通して、復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてそこを進む者です。そこで何者かがその歩みを妨げようとしても、私たちには御言葉と罪の赦しと悪魔の破綻があるのでそれらを撃退できるのです。しかも、キリスト信仰者には守りの天使も付いています。ヘブライ114節で言われるように、天使というのは、神の国への迎え入れに向かって進む者たちに仕える霊だからです。

 

しかし、次のように言う人もいるかも知れません。何者かが神の国への歩みを妨げようとしたら、それを撃退するものが自分に備わっていることはわかった。しかし、信仰者の内に神の意思に反しようとする罪がある。自分の内にあるものが歩みを妨げる時はどうすればよいのか?それへの答えはいつも説教でお教えしていますが、いつも神のもとに立ち返って罪の告白をして赦しを頂くことを繰り返すことです。それを繰り返せば繰り返すほど、内に留まる罪は日々圧し潰されていきます。次のルターの教えを聞けば、キリスト信仰者は外側も内側も鉄壁の防御で守られていることがわかるでしょう。

 

「罪、高慢、利己心、憎むことその他これらに類することが我々の内にぶら下がっている。しかし、そうしたものは我々を信仰の中で成長させるためにあるのだ。我々の信仰が日に日に前に進み、最後に完全なキリスト信仰者になれるためにあるのだ。その時我々はキリストの懐に飛び込んで御国の祝宴の席につくことができる。

 海の荒波を思い浮かべるがよい。大きな波が次から次へと岩に打ちつける。それはさながら、力づくで岩を打ち砕こうとするかのようだ。しかし、打ち砕かれるのは波の方で、岩に当たった後は退いて消えてなくなってしまう。罪もこれと同じだ。罪が我々の頭上から襲い掛かり、我々を絶望へと追いやろうとする。しかし、退散しなければならないのは罪の方であって、それは最後には消散してしまうのである。」

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン