2021年2月1日月曜日

神は人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つように教育する (吉村博明)

  

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2021年1月31日 顕現節第四主日 スオミ教会

 

申命記18章15-20節

コリントの信徒への第一の手紙8章1-13節

マルコによる福音書1章21-28節

 

説教題 神は人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つように教育する

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の聖書日課の使徒書第一コリント8章と福音書マルコ1章の箇所は3年前の礼拝説教で説き明かしをしました。その時、これは頭の痛い厄介な個所だと申しました。というのは、マルコの方はイエス様が悪霊を追い出す奇跡を行うところで、悪霊追い出しなどというものは今どき真面目に取り上げるべきものではないと言われてしまうからです。しかし、聖書に書かれていることを単に大昔の人間の作り話なんかではないという立場で見ていきますと、やはりイエス様の悪霊追い出しは避けて通れないテーマです。

 

もう一つ厄介なのは、コリント8章の偶像に備えられた肉をキリスト信仰者は食べていいのかという問題です。キリスト信仰者が社会の少数派であるところでは似たような問題が起きてきます。この日本でもそうです。コリントの偶像に備えられた肉というのはどういうものか少し振り返ってみます。

 

コリントは現在のギリシャにある町で、そこにある教会に使徒パウロが手紙を送ったのでした。当時キリスト教は始まったばかりで、どこでも少数派でした。キリスト教が広まる地域は大体、ギリシャ神話の伝統が根強い地域で神話の神々の神殿があちこちにあり、人々はそこにお参りに行きます。当時の肉の食べ方ですが、まず家畜を神殿で生け贄に供えるものとしてそこで屠ります。それを祭事の時にみんなで食べるか、またはマーケットに出して売ります。そういうわけで肉料理と言ったら、宗教儀式を経た肉が使われたということなのです。さあ、キリスト教徒は違う宗教の儀式を経て供えられた食べ物を食してもよいのでしょうか?

 

第一コリント8章でパウロは、「偶像など存在しない、神々などというものはあっても、神は本当はただ一人のみ、その方が万物を造られたのだ」と言って、万物の造り主としての唯一の神を打ち出します。そういうことを言うと、多神教と言うのか多霊教と言うのか、そういう立場の人は、またキリスト教の独りよがりが始まったと嫌な顔をするかもしれません。

 

本日の説教は、3年前にお教えしたことを一歩先に進めるような説き明かしになると思います。3年前ははっきり出なかった視点がはっきりします。どんな視点かと言うと、神という方は私たち人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つように教育する方だということです。

 

2.偶像と異教の神々

 

初めに、偶像に供えられた肉をキリスト信仰者が食べることについてのパウロの教えを見ます。ここでまず、そもそも偶像とは何かということを考えてみましょう。パウロは4節で「世の中に偶像の神などはない」と言っています。しかし、そうは言っても世界には、これは何々神の像である、というような像は無数にあります。その意味で偶像の神はあります。パウロだってギリシャ神話の神々の像があちこちにあることは知っているはずです。なのにどうして、そんなものはない、などと言うのでしょうか?

 

これは、聖書の神が「生きる」神であることをわかるとパウロの真意が理解できます。旧約聖書のヘブライ語の言い方で、「~をした神は確実に生きておられる」とか「神が確実に生きておられるのと同じ確実さで~が起きる」というものがあります(חי יהוה אשר ~)。神が確実に生きておられることの証明として「神は~をしたのだ」と言うのです。その神がした「~」には、例えば「イスラエルの民をエジプトの地から導いた」とか「民をバビロン捕囚から解放して祖国に帰還させた」とか、そういう歴史的に大きな事件が言われます(例としてエレミア161415節)。こうした出来事は神が力を行使して起こったのだ、まさに神が生きていることの証しだというのです。 

 

そこで聖書の中で偶像崇拝を批判する箇所を見ると、偶像は単なる像にしかすぎない、歴史的大事件を起こせるどころか、口があっても話せない、目があっても見えない、耳があっても聞こえない、足があっても歩けない、などと手厳しいです(例として詩篇11548節)。つまり、生きている神から見たら偶像は死んでいるのです。それで、偶像は沢山存在するのにパウロが存在しないと言っているのは、「生きている」偶像は存在しないという意味なのです。

 

ただ、人によっては、何々神の像は見えないということはない、聞こえないということもない、ちゃんと見ておられる聞いておられる、聖書は失礼なことを言うな、と怒るかもしれません。つまり、そうした像が魂を持っていると思って畏敬の念を覚えるのです。像が魂を持っていると思えたら、像は見えている、聞こえている、ということになります。ところが像自体は何を見ているのか聞いているのか、像を作った人間のことをどう考えているのか教えてはくれません。人はどうやって像が見ていること考えていることを知ることが出来るでしょうか?多分、像はこういうことを見ている考えていると自分で思い描いてそれを潜在意識にインプットすれば、夢にでも出て来て教えてくれるかもしれません。

 

聖書の神が人のことをどう見て考えておられるかということはわかります。まず聖書に記されている神の意思というものを知って、それに自分を照らし合わせて見ると、神の目から見た自分の姿を知ることができます。また神は、私たちの祈りをいつも聞いていて下さり、祈り求めたことの答えや解決を御自分が良かれと思う仕方で良かれと思う時に必ず与えて下さいます。このように人間が自分の姿を知るにしても、祈り求めたことの答えを得るにしても、それはいつも神の視点で起こります。もちろん人間も自分の視点を持ちますが、それはいつも神の視点によって軌道修正させられます。聖書の神は、人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つようにと絶えず教育する方なのです。

 

第一コリント8章に戻りますと、パウロは5節で「天や地に神々と呼ばれるものがいる」と言います。生きた偶像は存在しないが、天や地に霊的なものが沢山あって、それらはみな「神」と呼ばれている、そういう霊的なものは存在することは認めています。これは旧約、新約聖書に共通する見方です。ところが6節をみると、これらの霊的なものは全て天地創造の神に造られた被造物にしかすぎないということが言われます。これも聖書の立場です。他の宗教が聞いたら、自分たちの神が低くランク付けされているようで、あまりいい気持ちはしないでしょう。しかし、聖書は出だしから万物の造り主の神が登場するので、立場上はそうならざるを得ないのです。

 

3.偶像に供えられた肉を食べないことが愛を示すことになる

 

偶像や神々というものと聖書の神の違いについて見ました。ここで、キリスト信仰者は違う宗教の儀式を経由してきた肉を食べてもいいのかという問題に入ります。このコリント8章はロジックが分かりにくいと思います。というのは、パウロは一見すると、強い信仰者は食べるが、弱い信仰者は食べない、と言っているようにみえるからです。

 

人によってはこれは逆なのではないかと思うでしょう。つまり、異教の神々に捧げられた肉なんか死んでも食わないぞ!と頑張るのが強い信仰者で、逆に食べないと周囲からつまはじきされてしまう、だから仕方なくおどおどして食べてしまうのは弱い信仰者ではないかと思われるからです。私が初めてこれを読んだ30年以上も前の時、その頃私に聖書を教えてくれたフィンランドの神学部の学生は言ったものでした。そうじゃないよ、逆だよ、偶像なんか存在しない!異教の神々なんか天地創造の神の前では何者でもない!そういうふうに信じる者は偶像に供えられた肉を物ともせずに食べられる、ところが、食べたら偶像や異教の神々の影響が入り込んでしまうと恐れて食べられないのは、まだそういうものがあると信じているので弱い信仰者なんだよ、と教えてくれたものでした。それを聞いた私は、そういうことならキリスト信仰者は皆、強い信仰者を目指して別の宗教の儀式に関わるものを受け入れて、さらには810節に言われているように、その儀式に結びつく宴にも参加できるくらいになれないといけないのか、などと驚いたものでした。

 

ところが、この説明に私自身しっくりいかないものがあって、なかなか食べられる強い信仰者になろうという気持ちは起こりませんでした。やはり自分は弱い信仰者止まりか、でも弱い信仰者で何が悪い、という気持ちになりました。その後もずっとこの箇所を読むたびに同じ気持ちでした。だって、パウロは弱い信仰者に強くなれとは言っておらず、弱いままでいい、自分も同じように食べないから心配するな、と言っているではありませんか!パウロは、偶像や異教の神々をものともせずに供えの肉を食べられる信仰をいいとか目指すべきとは言っていません。正確を期して言えば、パウロは他宗教の儀式を経た肉を食べる人のことを「強い」とは言っておらず、ただ「知識」を持つ者と言っているだけです。パウロが食べることを推奨する意図がないことは、テキストをよく見ればわかります。

 

「知識」ということについて、パウロは81節で「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と述べます。ここで言う「知識」は、先ほども述べた生きた偶像など存在しない、神々などあってもそれは全て被造物であるということを知ることです。その知識を持つことが肉を食べる前提になっています。「愛が造り上げる」というのは、キリスト信仰者というのは各自が一つの体の中の一つ一つの部分であって、それぞれがお互いを支え合いかばい合いながら一つの体として成長することを意味します(第一コリント121231節、エフェソ416節参照)。パウロは、知識を持つだけでは肉は食べられるが高ぶってしまうと言うのです。それだけでは、お互いを支え合いかばい合う成長は起こらないと言うのです。

 

続く2節を見ると、「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は知らねばならないことをまだ知らない」、ギリシャ語原文を直訳すると、その人は知らなければならないようには知っていない(知らなければならない仕方では知っていない)、つまり、自分は知識があると言っている人の知識は神から見たらズレていると言うのです。この1節と2節から、知識を持つ者への厳しい見方が明らかです。知識を持つ者が異教の神に捧げられた肉を食べます。彼らは、生きた偶像など存在しない、神々などはあってもそれは単なる被造物で恐れるに値しない、だから食べても痛くもかゆくもない、と言って食べるのです。

 

ところが、食べられない信仰者もいる。なぜかと言うと、イエス様を救い主と信じて受け入れる前は、ギリシャの神々の神殿で礼拝していたので、その礼拝がどんなものかわかっています。それなので神殿の儀式を経由した肉を食べたら、その儀式の内容を一緒に摂取した感じになってあまりいい感じはしません。しかし、あの知識を持つ信仰者たちは平気で食べている、ましてや儀式が行われた神殿の宴で神殿礼拝者と一緒に食事までしている、自分も食べないと馬鹿にされてしまう、それじゃ自分も、とそれくらいの、明確な知識に基づかず風に吹かれるように食べてしまうと、はやり後で落ち着かなくなります。そのことについてパウロは10節で、「その人は弱いのに、その良心は強められて、偶像に供えられたものを食べるようになってしまわないだろうか?」と言っています。「良心は強められて」というのは、ギリシャ語原文では「良心は造り上げられて」です。さっきの1節の「愛は造り上げる」と同じ動詞(οικοδομεωです。つまりここでは「良心は変なふうに造り上げられて」という意味で、同じ動詞を使うことでパウロは痛烈に皮肉っているのです。

 

パウロの結論は、自分はそうした肉は絶対食べないということでした。理由は、「弱い信仰者」が信仰にとどまれるようにするためでした。実を言うと、食べないのが正しいということはエルサレムの教会の方針でした。使徒言行録15章を見ると、パウロとバルナバがアンティオキアに派遣される時、先方の教会に対する指示が託されました。その一つがまさに偶像に捧げられた肉を食べてはいけないというものでした(29節)。

 

それなら、パウロはなぜコリントの知識を持つ信仰者にはっきりとダメと言わなかったのでしょうか?これはまたいろいろ調べなければ確実なことは言えませんが、今の段階で言えることは、コリントの教会は知識を持つ人や霊的に自信満々の人が多くいて、かなり好き勝手にやっていた教会であったことがパウロの手紙から窺われます。そういうところで指示通りのことを正面から言ったらどうなったでしょう?パウロは情けない奴だ、神は万物の創造者と本気で信じているのか?そう信じれば、異教の儀式で一緒にやったって痛くもかゆくもないのに。そんなふうに凝り固まっている人たちに、正攻法でいってもうまく行かないでしょう。パウロがとった論法は、コリントの知識ある信仰者たちよ、君たちは知識はあるが、それは造り上げてはいない、高ぶるのと造り上げるのとどっちが大事なのか?造り上げるのが大事だと思うのなら、私に倣いなさい。そういう論法だと思います。私に倣いなさい、というのは、食べるのをやめなさい、ということです。

 

4.悪霊の追い出しと神の視点教育について

 

次にイエス様の悪霊追い出しを見ていきます。イエス様が追い出しの奇跡をする悪霊は、本日の箇所にあるように「汚れた霊」(ακαθαρτον πνευμα)と言われるものと、ずばり「悪霊」と訳される(δαιμονιον)の二つがあります。両者は同じものです。悪霊追い出しのことが多く出てくるマタイ、マルコ、ルカの三福音書の関連箇所を見渡すと、悪霊は何か具体的な病気または病的な状態をもたらすことをしでかします。イエス様の悪霊追い出しは、それ自体が目的で行う時もあれば、何か病気を癒す奇跡を行う時に行うこともあります。いずれにしても追い出しをすると、悪霊がもたらしていた病的な状態もなくなってみんな健康な状態になります。追い出しの時に悪霊が口を聞いてくる時もあります。本日の箇所もそうです。悪霊はイエス様が神聖な神の神聖なひとり子であるとわかっていて、その力もわかっているので恐れをなしてしまいます。出て行けと言われれば、そのまま出て行くしかありません。

 

3年前の説教の時、私は、イエス様が行った奇跡には病気の癒しと悪霊追い出しがあることから次のように述べました。人間の病気には病気自体によるものと悪霊のような病気を超えた要因で起きるものがある、病気自体による病気を悪霊によるものと考えて医学以外のものに頼ろうとするのはよくないということです。加えて、キリスト信仰者に関して言えば、悪霊や悪魔の企ては破綻しているので、病気や苦難の時はそれらにやられていると考えないで対処すべきとも申しました。ただ、このように言うと、病気の時はただ単に医学だけを頼りにすればいいと誤解されるのではと思い当たりました。医学を用いて癒しを目指す時にも、もちろん、ベストな治療を受けられますようにとか受けた治療が良い結果をもたらしますようにと父なるみ神に祈ることは必要です。どんなに医学が発達しても神の導きや祝福がなかったら望ましい結果に至らないからです。

 

今私は、キリスト信仰者においては悪霊と悪魔の企ては破綻していると申しました。これはどういうことか振り返っておきます。「悪魔」というのは新約聖書ではサタナー(σατανα)とかディアボロス(διαβολοςと言われます。サタナーとはサタンのことです。ディアボロスというのは引き裂く者、バラバラにする者という意味があります。旧約聖書ではサーターン(שטן)で、非難する者、告発する者という意味があります。「神様、この者は罪深い者で神罰に値しますよ」などと神に告発する者です。神と人間の間を引き裂き、人間が救われないようにと、将来神の裁きを受けて永遠の滅びに道連れにしようとする者、それが悪魔です。悪魔は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後で荒れ野で40日間誘惑の試練を与え、イエス様がこれから神の人間救済計画を実行するのを妨げようとしました。しかし、イエス様は悪魔の誘惑を全て跳ね除けたので神の計画をそのまま実行に移すことが出来、十字架の死と死からの復活を遂げたのでした。

 

悪魔と悪霊の区別については3年前にもお教えしました。サタン・悪魔は悪霊の頭、悪霊はサタン・悪魔の手下です(マルコ3章等にあるベルゼブル論争を参照)。悪魔は人間を神から引き離して神の罰を受けるように陥れようとします。悪霊は人間に苦しみを与えて救いなどない、神などいないという気持ちに持って行こうとします。両者とも人間がイエス様の成し遂げたことを知らないように、知っても忘れるようにしようとするのです。

 

イエス様が成し遂げたこととは何だったでしょうか?それは、彼が神のひとり子でありながら、人間が持っている神の意思に反しようとする罪を全部引き受けてその神罰を代わりに受けてゴルゴタの丘の十字架で死なれたことでした。私たちの罪の償いを私たちに代わって神に対して果たして下さったのです。さらに、父なるみ神の計り知れない力で死から復活され、死を超えた永遠の命に至る扉を人間のために開いて下さったことでした。人間は、これらのことがまさに自分のために起こったとわかってそれでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになります。罪を償われたからには神から罪を赦された者と見なされ、永遠の命が待つ神の国に向かう道に置かれてその道を進むことになります。順境の時も逆境の時もいつも神の守りと導きを得てその道を進み、この世を去ることになっても復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられるようになりました。

 

以上のことが、イエス様の十字架と復活の業のおかげで悪魔と悪霊の企ては破たんしたということです。イエス様を救い主と信じる者に関してはそれらの企ての破綻はその通りになっているのです。

 

 そこで一つ大きな問題になってくるのは、やはり、病気の癒しや苦難の打開を祈っても期待した結果にならない場合はどうなのかということでしょう。先ほど、どんなに医学が発達しても父なるみ神の導きや祝福がなかったら望ましい結果に至らないと申しました。それならば、祈っても望ましい結果にならなかったら神の導きや祝福がなかったということになってしまうのでしょうか?これはとても難しい問題です。例えば、何千人に一人の割合で健康上困難がある子供が生まれるという時、他のキリスト信仰者の子供はそうではないのになぜウチの子供はそうだったのか?とても不公平な感じがします。自分たちの信仰に何か問題があったのかと責めることも起きるかもしれません。さらには、イエス様を信じていなくても健康な子供が授かっているのに、信じている自分たちにはそうならなかったとなれば、信じることに何の意味があったのかという思いになるでしょう。

 

とても難しい問題です。ただ一つはっきりしていることは、このような不運がきっかけでイエス様を救い主と信じなくなって神に背を向けてしまったら、それは神の国に向かう道から降りてしまうことになり、悪魔や悪霊の思うつぼです。不運があっても、イエス様を信じて神の方を向いて進んでいれば、復活の日の再会があります。その時の私たちの有様はパウロが教えるように、この世の朽ち果てる体ではなく神の栄光で輝く体であり、イエス様が言われたように、みな天使のようになるのです。不運がもとで神に怒ることはあっても、神の国に至る道に留まって進むことは出来ると思います。それはきっと自分の視点を捨てて神の視点を持つようになるためのとても重いプロセスになるでしょう。それを思うと、不運を持たなかった人たちはどれだけ自分の視点を捨てて神の視点を持てるようになるか心配になってくるくらいです。

 

今の私にはこれ以上のことは言えません。神がこの問題を見極められる知恵を私にも皆様にも与えて下さいますように。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン