2023年12月28日木曜日

クリスマスの祝い方 (吉村博明)

  

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

降誕祭前夜礼拝説教 2023年12月24日

スオミ・キリスト教会

 

ルカによる福音書2章1-20節

 

説教題 「クリスマスの祝い方」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

1.

 

 今年もクリスマス・イブの日となりました。クリスマスはお祝いのシーズンということで、毎年あちこちにクリスマスツリーが飾られ、イルミネーションが輝き、デパートやお店ではクリスマスプレゼント用の品物が山のように並び、レストランではクリスマスディナーが振る舞われ、あちこちにクリスマスソングが響きます。

 

 そうしたお祭り、お祝いの雰囲気に今年は違和感を覚える人もいます。というのは、ウクライナの戦争が続いている上に、今年は10月からのイスラエルとガザの戦争が連日ニュースで伝えられ毎日のように悲劇的な映像を目にします。さらに、こうした大きなニュースになる国々の陰で世界のあちこちで紛争や内乱があります。世界中で戦火に巻き込まれて苦しんでいる人が大勢いるのに、お祝いする気になんかなれないというのは、もっともなことと思います。

 

 そもそもクリスマスは何をお祝いする日なのか?イエス・キリストというキリスト教の大元になる人の誕生日ということは多くの人が知っています。ただ、自分はキリスト教徒じゃないから、イエス・キリストの誕生日は関係ないというのが大半かと思います。しかし、だからと言ってお祝いをしないかと言うと、意外とそうではありません。きっと多くの人たちは新年の前に過ぎ去る一年を労うようなお祝いみたいのがあってもいいじゃないかということではないかと思います。それでか、クリスマスというキリストに関係する言葉を避けて、この季節をホリデ―シーズンと言ったり、挨拶も季節の挨拶シーズンズ・グリーティングスなどと言い換えたりします。それで、華やかに豪華に年末のお祝いをするのですが、今のように世界の悲惨な状況がすぐ目の前に飛び込んでくるようになると、お祭り気分になれないという気持ちになると思います。

 

 キリスト信仰者は、もちろんイエス・キリストを前面に出してクリスマスをお祝いするのですが、信仰者でない人たちから見たら、今のような世界情勢の中でどうしてお祝いする気分になれるのかと驚かれるかもしれません。特に、先ほど読んだ聖書の個所の次の2つのことがこの疑問を強くします。それは、天使が羊飼いたちに言った言葉、「救い主がお生まれになった」と、もう一つ、大勢の天使たちが賛美して言った「地には平和、御心に適う人にあれ」という言葉です。「地には平和、御心に適う人にあれ」というのは、ギリシャ語の原文が詩的な文章なので正確な意味がつかめにくいです。一つには、「地上では神の御心に適う人に平和がありますように」という希望を表明していると捉えられます。もう一つは、、「地上では神の御心に適う人に平和があるんだ」と、そういう人たちに平和があるという常態を述べているとも捉えられます。

 

 しかしながら、希望にしても常態にしても、今の世界情勢の現実を見ると、そんなのは常態からほど遠いし、そんな希望も打ち砕かれてしまう状況があるではないかと反論されると思います。それに、「神の御心に適う人たちに平和がある」などと言ったら、戦争のさなかにいる人たちは神の御心に適わないのか、逆に戦争のないところにいる人たちは神の御心に適うのか、となってしまいます。また、「救い主」が生まれたと言っても、悲惨な状況から救われない人たちが沢山いるではないか、救いなど全然ないではないかと反発を受けたりします。

 

 そのような反発は、「救い主」や「平和」をただ言葉のイメージだけで考えると出てきやすいと思います。そこで、今少し立ち止まって、聖書が伝える「救い主」とは何か、「平和」とは何かを見てみようと思います。それがわかると、今のこの混乱と悲惨に満ちた時代の中にいても、イエス・キリストの誕生を素直にお祝いできるようになります。これからそのことを見ていきます。

 

2.

 

 「神の御心に適う人に平和がある」の「平和」とは何か?戦争がない平和でしょうか?もちろん、それも含まれますが、キリスト信仰で一番大事な「平和」は神と人間の間に平和な関係があるということです。神と人間が対立関係にないということです。神と平和な関係があれば、たとえ自分の周りは平和が失われた状況でも、自分と神との平和な関係は失われていない、周りが平和か混乱かに関係なく自分には失われない平和がある、そういう内なる平和です。使徒パウロは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者にはこの平和があると教えます(ローマ5章)。そして、神と平和な関係にある信仰者は周囲の人たちと平和な関係を築くのが当然になると教えました(12章)。周囲の人たちと平和な関係を築けるかどうかがキリスト信仰者のあなたの肩にかかっているのであれば、迷わずにそうしなさいと。相手が応じればそれでよし。相手が応じない場合でも、相手みたいに非友好的な態度はとらないということです。神との平和な関係が築けたら、そうするのが当然だと言うのです。

 

 次に「救い主」についてみてみましょう。普通、「救い」とか「救われる」と言う時、それは何からの「救い」、「救われ」でしょうか?普通、病気が治った時とか、何か危険な状態から脱することが出来た時、救われたと言います。もちろん、そういうことも含みますが、キリスト信仰の「救い」、「救われる」で一番大事なことは次のことです。つまり、神との平和な関係を壊していた原因が除去されて、神との平和な関係を築けることが「救い」です。それでは、神との平和な関係を壊していたものは何か?それは、人間誰しもが神の意思に反することが備わっているということです。その神の意思に反することを聖書は罪と言います。罪という言葉を聞くと、普通は法律で罰せられるような犯罪行為を考えます。もちろん、それも含みますが、キリスト信仰で「罪」と言ったら、もっと広く、行為には出なくても心の中で持ってしまっても罪になります。それで法律で罰せられないものも神の目から見たら罪になります。まさにこのために神と人間の平和な関係が失われていたのでした。これを放置しておくと、人間はこの世を生きる時、神に背を向けたまま、神との結び付きを持たないで生きることになってしまいます。そして、この世を去る時も、神と結び付きがないまま、全くの一人で未知の世界に飛び立たなければならなくなってしまいます。

 

 創造主の神は、この罪の問題を解決して人間が自分と平和な関係を築けるようにしようと、それでひとり子のイエス様をこの世に贈ったのでした。この神のひとり子は、人間のすべての罪を全部自分で引き受けて、ゴルゴタの十字架の上に運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けて死なれました。神聖な神のひとり子が人間の罪を人間に代わって神に対して償って下さったのです。さらに神はイエス様を想像を絶する力で死から復活させて、死を超える命があることをこの世に知らしめ、人間も将来の復活の日に復活に与れる可能性を開いて下さいました。あとは人間の方が、これらのことは本当に起こった、それでイエス様は救い主であると信じて洗礼を受けると、ひとり子が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は罪を償われたので神から罪を赦された者と見なされ、神との間に平和な関係が打ち立てられます。神と平和な関係があれば、この世の人生で逆境だろうが、順境だろうが、何も変わらない神との結び付きを持てて生きることになります。そして、この世を去る時、神との結び付きを持って去り、復活の日に眠りから目覚めさせられて、朽ち果てた体に換わる朽ちない復活の体を着せられて神の御許に永遠に迎え入れられます。このような、今のこの世と次に来る世にまたがって神との結び付きを持って生きられることが、キリスト信仰の救いです。

 

3.

 

 このようにキリスト信仰で「平和」と言ったら、一番大事なものは「神との平和」であり、「救い」と言ったら、一番大事なものは「罪の赦しの救い」です。これらは全部、父なるみ神が御子イエス様を通して私たち人間に準備して下さいました。神は、それを受け取りなさいと言って、私たちに差し出して下さっているのです。これを受け取らないという手はありません。ただ単に受け取るだけで、神との平和と罪の赦しのお恵みを自分のものにすることが出来るのです。どうやって受け取るかと言うと、洗礼を受けることで受け取れます。そして、イエス様を救い主と信じる信仰に留まることで、受け取ったものを携えて歩むことができます。

 

 なので、クリスマスでイエス・キリストの誕生を神に感謝してお祝いするというのは、単に一人の赤ちゃんが不運な境遇の中で無事に生まれて、ああ、良かった、おめでとう、というお祝いではないのです。このひとり子のおかげで、私たちがこの混乱と悲惨が渦巻く世の中にあっても、神との結び付きを持って歩めるようになった、それで、そのひとり子を贈って下さった神に感謝してお祝いをするのです。だからキリスト信仰者は、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけの中で眠っている赤ちゃんを心の目で見る時、同時にその先にあるイエス様の十字架の死と死からの復活をも心の目で見るのです。

 

 それは、あたかも、長くて暗いトンネルの向こうに光があるのを見るのと同じです。真っ暗闇の中にいる人は、自分がどこにいるのか、どこに向かっていいのかわかりません。キリスト信仰者には、自分はどこにいて、どこに向かっていいのかがわかる光があるのです。罪の赦しの救いと神との平和の関係をもたらしてくれたイエス様がその光です。イザヤ書91節のみ言葉の通りです。「闇の中を歩む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」 ベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけの中で安らかに眠る赤ちゃんにこの光を見ることが、キリスト信仰者にとってクリスマスのお祝いの一番なくてはならないものです。それがなかったら何もお祝い出来ないというくらい大事なものです。そのお祝いでは、この光を与えて下さった神に感謝します。

 

 キリスト信仰者が光を見、神に感謝するのは、周囲が平和な時か平和でない時かは関係ありません。平和で品物に不自由しない時、お祝いの雰囲気を高めようと品物や食べ物を用いますが、それは光に置き換えることは出来ないと信仰者はわかっています。逆に平和がなくて品物や食べ物がない時でも、光はそれと無関係に輝いていることをキリスト信仰者は心の目で見ています。それはさながら、暗闇の方が光がよく見えることと同じです。逆に周りが明るいと光は見えなくなってしまいます。それは、平和の時に品物や食べ物に囲まれてしまってイエス様の光が見えなくなってしまうことと同じです。それだからこそ、この日、あのベツレヘムの夜、電気も街頭もイルミネーションもない、ただ夜空の星と月だけの天然の照明の夜、馬小屋の中は油か蝋燭の光が頼りだったあの夜、ヨセフとマリアと羊飼いと集まってきた人たちに囲まれて安らかに眠る赤ちゃんを心の目で見ることは本当の光をみることになるのです。

 

 ヨハネ福音書114節のみ言葉は、神の言葉ロゴスであるひとり子が人間として生まれて神の栄光を現していたことを述べています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン