説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2012年1月22日 顕現節第三主日 スオミ教会
エレミア書16章14-21節
コリントの信徒への第一の手紙7章29-31節
マルコによる福音書1章14-20節
説教題 福音、神の国、悔い改め
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書の箇所は、旧約と使徒書の箇所も併せて、キリスト教の信仰にとって大事なことが一杯詰まっています。それを全部解き明かして皆さんにお届けするのにどれくらいの時間が必要か考えただけで気が遠くなりそうです。しかし、限られた時間の中で説教しなければならないので、今回は「福音」、「神の国」、「悔い改め」という三つの事柄に焦点を絞って解き明しをしていこうと思います。
本日の箇所の出来事の前にどんなことがあったか覚えていらっしゃいますか?イエス様は洗礼者ヨハネから洗礼を受けて神からの霊を注がれ、この者は神の子であると神から認証を受けました。その後40日間荒野で悪魔から試練を受け、これに打ち克ちました。そして、いよいよ本格的な活動に乗り出します。そこからが本日の箇所です。折しも、洗礼者ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕らわれたとの報が入りました。イエス様は、大胆にもガリラヤに乗り込み、人々に教え始めました。新共同訳の文章では「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」と書かれています。「福音」、「神の国」、「悔い改め」と三つの事柄が出て来ます。
2.福音
ここで「神の福音」と「福音を信じなさい」と、「福音」という言葉が2回出て来ます。「福音」という言葉は、原語のギリシャ語でエヴァンゲリオンευαγγελιονと言います。もともとは「良い知らせ」という意味です。「福音」というのは、「良い知らせ」の中でも特段に良い知らせのことを言います。それでは、特段の良い知らせである「福音」とはどんな良い知らせなのでしょうか?
「福音」がどんな内容の良い知らせかと言うと、大体以下のようなものになります。イエス様が私たち人間のために十字架の上で犠牲の死を遂げられ、そのおかげで人間は神から罪の罰を受けないで済むようになった、そのイエス様を救い主と受け入れることで人間は神に受け入れてもらえるようになった、神に受け入れてもらえた者として神の守りと導きを受けてこの世を生きられるようになった、たとえこの世から死ぬことになっても、イエス様が復活されたように自分も復活して神の御許に引き上げてもらえるようになった。以上が「福音」の内容です。つまり、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事の後、それらにまつわる良い知らせが「福音」と呼ばれるようになったのです。
ところが、本日の箇所ではイエス様はまだ活動を開始したばかりで、十字架も復活もまだ先のことです。それなのに「神の福音」とか「福音を信じなさい」と訳すのは、少し早すぎやしないか?ギリシャ語のエヴァンゲリオンは、「福音」の意味の他に「良い知らせ」もあるのだから、ここは「良い知らせ」と訳した方がいいのではないか?そこで各国の訳を見てみると、英語訳の聖書NIVは、「神の良い知らせ」、「良い知らせを信じなさい」good newsと訳して「福音」gospelとは訳していません。スウェーデン語の訳は「神の知らせ」、「知らせを信じなさい」budskapと訳していて、これも福音evangeliumではありません。フィンランド語の訳は、「神の福音」evankeliumi、「良い知らせを信じなさい」hyvä sanomaと二つを使い分けています。ドイツ語の訳は意外にも日本語訳と同じで両方とも「福音」と訳されていました。
それでは、十字架と復活の出来事の前だから、エヴァンゲリオンの訳は「福音」ではなくて「良い知らせ」の方がいいのではと言うことになると、今度は、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とはどんな知らせだったか、という問題が起きます。もちろんイエス様はギリシャ語ではなくアラム語で話したので、発音した言葉はエヴァンゲリオンではなかったのですが、書かれた記録はギリシャ語のものしかないので、それに基づくしかありません。イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」の内容ですが、これは、旧約聖書イザヤ書52章7節から53章12節を見ればわかります。まず最初の52章7節をみると次のように言われます。
「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足(רגלי מבשר)は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え(טוב מבשר ) 救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」
伝えるべき「良い知らせ」の内容は、「平和」、「救い」、「神が王になる」ことの3つです。「平和」ヘブライ語のシャロームשלוםは、意味がとても広く、「救い」を意味することもあります。それで、ここの「良い知らせ」の内容は、「救い」と「神を王に戴く神の国の到来」の二点に絞ってよいと思います。イザヤ書の続きを見ていくと、この「救い」は何を意味し、それが「神を王に戴く国」とどう関係するかが明らかになります。
52章8-12節で、神が廃墟と化したエルサレムに戻り、イスラエルの民に対して捕囚の地バビロニアから帰還せよと呼びかけます。神は、イスラエルの民の祖国帰還を実現し、自分の力を諸国民に示します。つまり、良い知らせに言う「救い」とは、イスラエルの民が神の力でバビロン捕囚から解放され、祖国帰還し、そこで神を王として戴く神の国が実現するということです。
ところが、これに続く52章13節から53章12節までは、「救い」が違う形で展開していきます。そこには有名な「主の僕」が登場します。それは、目を背けたくなるほど惨めな姿をしているのだが、実はそれは私たちの痛みと病をかわりに背負ったためであり、私たちの罪がもたらす神の罰をかわりに受けてくれたためであった。それによって私たちは神との間に平和を得ることができ、まさに彼の受けた傷によって私たちは癒された。53章11節で神は次のように述べられます。「私の義なる僕は、多くの者が義なる者になれるようにした。彼らの罪を自ら背負うことによってそうした。」「義なる者」とは、神の目に相応しい者、神の前に立たされても大丈夫な者という意味です。主の僕が人間の罪を自ら背負うことによって、人間は神の目に相応しい者になれたのだというのです。ここでの「救い」は、先ほどみたような、イスラエルの民がバビロン捕囚から祖国復帰して神を王として戴く神の国が到来するという意味ではなくなっています。むしろ、神の国の中では神の僕の犠牲によって罪が赦され神罰が免れる、ということが「救い」の意味になっています。
このイザヤ書52章7節から53章12節までの箇所で言われる「救い」は、バビロン捕囚がもうすぐ終わるという紀元前500年代終わりにあっては、イスラエルの民の捕囚からの解放と祖国帰還を指すと考えられました。解放と帰還が実現すれば、それはただちに神が王として君臨する神の国の実現だったのです。その場合、身代わりの犠牲で人々を神罰から救う「主の僕」とは、異国の地に連行された捕囚の民と考えられました。イスラエルの民が長い歴史の間に重ねた罪の罰としてバビロン捕囚が起きたのであり、捕囚の民が異国の地で辛酸を舐めるという罰を受けることで、民の罪が赦され、また元に戻れるようになった、と考えられたのです。
ところが、祖国に帰還した後も神の国は実現しませんでした。ということは「救い」も実現しませんでした。確かにエルサレムの神殿と都市は再建されました。しかし、イスラエルの民はペルシャ帝国、アレキサンダー帝国という大国支配の下に置かれ続け、一時独立を取り戻した時はあったものの、ほどなくしてローマ帝国の支配下に入ってしまいました。このように実態は、諸国民も恐れおののく神の国からは程遠かったのです。さらに、民の間でも、神殿を拠点とする神崇拝が行えていたとしても、それが果たして救いの実現なのかどうか疑問視する声も強く出てきました。このことは、マラキ書やイザヤ書の終わり56-65章に垣間見ることが出来ます。そうしているうちに次第に、神の国は実は今の世の天と地が新しい天と地に創造し直される日に現れるという預言もでてきました。イザヤ書の終わりやダニエル書にそれらが窺えます。
そういうわけで、イザヤ書52章7節から53章12節までの預言は未完だったと理解されるようになりました。それでは、いつどうやってこれらの預言が実現することになるのか?神の国を待ち望む人たちがそう問うていた、まさにその時にイエス様が登場したのです。イエス様が「信じなさい」と言う「良い知らせ」とは、神が旧約聖書の中で約束した救いと神の国の到来についての知らせでした。その約束を信じなさい、とイエス様は言われたのです。なぜなら、これからイエス様本人が「主の僕」としてその神の約束を果たすことになるからです。十字架と復活の後、神の約束についての「良い知らせ」はまさに「福音」として結晶しました。
3.神の国
イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた」と言われました。それについてみてみましょう。「時は満ちた」の「時」とは、ギリシャ語でカイロスκαιροςという言葉が使われています。これは何か特別な事が起きる時、定められた時を意味し、単に時の流れを意味するクロノスχρονοςと区別されます。「時は満ちた」というのは、起きるべきことが起きる時がついに来た、機は熟した、ということです。この「時」が洗礼者ヨハネの投獄と重なったのは、ヨハネがもはや人々に「罪の赦しに導く悔い改めの洗礼」を与えることができなくなった、これからはイエス様にバトンタッチして「罪の赦し」そのものを確立してもらう段階に入ったということです。ヨハネは悲劇的な運命を辿りますが、主の道を整える役割は果たしたのです。
「神の国は近づいた」というのは、どういうことでしょうか?「神の国」とは「天の国」とか「天国」とも言い換えられます。言葉だけからみると、空高いどこか、ないしは宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」とは、今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られました。そうすると「神の国」は、私たちの世界からすれば見えない裏側の世界みたいですが、神から見たらこちらの方が裏側でしょう。神は、天と地と人間を造られた後、あちら側に引き籠ってしまうことはしませんでした。あちら側から絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大なものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間の救いを実現したことでしょう。
ところで、イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26-29節など)を見ると、今あるこの世は滅びるという終末についての預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を創造し、そこで唯一残るものとして神の国が現れてくる。そうすると、「神の国」は天国のことだから、天国はこの世の終わりに現れてくるということになり、あれっ、キリスト教って、死んだらすぐ天国に行けるんじゃなかったの?という疑問が起きます。ところがキリスト教には「復活」の信仰がある以上、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。このことは、普通のキリスト教会で毎週日曜日の礼拝で唱えられる使徒信条や二ケア信条でもちゃんと言われています。教会讃美歌366番「愛の泉」で明確に歌われています。そうなると、じゃ、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。実はこれもルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に輝く復活の体と命を与えられて蘇らされるということです。
それでは、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、彼は終末が近づいたと言っていたのでしょうか?そうだとすれば、イエス様の時代はおろか、あれから2000年たった今でもまだ天と地はそのままなので、イエス様の言ったことは当たっていなかったことになります。しかし、イエス様は少し違うことを言っていたのです。
どういうことかと言うと、イエス様の行った奇跡の業が、神の国が近づいたことと関係があります。イエス様は無数の奇跡の業を行いました。大勢の難病や不治の病の人を癒したり、悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、枚挙に暇がありません。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげたという人道支援の意味もあったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上にいて困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ったのか、という疑問が起きます。
イエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せた、味あわせたのです。神の国とは、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神に労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、神の国とは、神がそこに迎え入れられた人の目からことごとく涙を拭い取り、悲しみも嘆きも労苦もないところです。つまり、この世の人生で被った不正義や損失が最終的に神の手によって償われ、逆に悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われるところがあるので、キリスト信仰者は、何事かを成そうとする時、神の意思に沿うようにやるのであれば、たとえうまく行かなくとも無駄だったとか無意味だったことは何もない、とわかるのです。
このように神の国とは、神の正義が貫徹されていて、害悪や危険そして死そのものがなく、永遠の平和と安心があるところです。そこで、イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されるということもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになって目に前に現れて、「私について来なさい」と言ったら、人間は抵抗できるでしょうか?本日の福音書の箇所の4人の漁師たちの付き従いからわかるように、イエス様の呼びかけの声の中に聞く人を有無を言わさずに従わせる力があったというのは、まさにここにあります。病気が治れと言われて健康に変わったように、悪霊が出て行けと言われて出て行ったように、嵐が静まれと言われて静まりかえったように、「ついて来なさい」と言われたらついていくしかなかったのです。イエス様の呼びかけの声の中には、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた神の力が働いていたのです。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神との結びつきを失って罪を代々受け継いできました。人間は、そのままの状態では神聖な神の国に入ることはできません。罪の汚れが消えなければ神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしても、宗教的な修行を積んでも、人間は心と体と魂に染みついている罪を消去することはできず、自ら神聖なものに変身することはできません。
人間が神との結びつきを回復できて神の国に迎えられるように問題を解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。それは、最初に述べたように、旧約聖書に約束された良い知らせが実現して福音として結晶した出来事でした。私たち人間は、イエス様の十字架と復活が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の身代わりの犠牲に免じて罪が赦されるということが本当に起こり、神との結びつきが回復して、見事に神の国に迎え入れられるのです。これは全て、神が自分のひとり子も惜しまないくらいに私たちのことを大切に思って下さっていることの現れなのです。多くの人がこのことに気づきますように。
4.悔い改め
イエス様は、「良い知らせ」を信じなさい、と勧める時、「悔い改めなさい」とも勧めました。「悔い改める」はギリシャ語でメタノエオ―ですが、基本的な意味は考えを改める、とか、方向転換するという意味です。信仰の観点で意味を考えれば、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになることを意味します。このように「悔い改め」は、一人で籠って反省しまくっているのではなく、あくまで神を前にしての立ち振る舞いです。
「悔い改める」についてもっと知ろうとするならば、4人の漁師が召し出された出来事を見るとよいでしょう。「人間を捕る漁師にしよう」などと言われて、ついて行った4人は、なんだか宗教団体の勧誘員になるような感じがします。沢山入信させたら、有能な漁師と言われるような。しかし、イエス様の言葉には勧誘とか人集めの意味は一般に思われるほどはありません。理由は、この言葉の背景にあるエレミア書16章16節「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる」を見ればわかります。イエス様はエレミア書の神の御言葉を引用しているのです。
さて、エレミア書16章16節に出て来る、神が送る漁師たちが獲る獲物「彼ら」とは誰を指すのでしょうか?17節を見ると、神の目は、彼らの全ての道に注がれている、とあります。「道」というのはどんな生き方をしているかということです。彼らは神に何も隠し立てすることはできず、18節で言われるように、罪の罰を受けることになります。「彼ら」とは、まさに漁師に捕まえられて、神の前に出されて罪や悪行を全て暴露されて裁かれる者たちです。誰のことでしょうか?エレミア書の舞台となっている紀元前500年代初めの文脈で見れば、「彼ら」とは神の意思に背いてばかりいたイスラエルの民と考えられます。彼らは罰を受け、それで国滅びてバビロン捕囚の憂き目にあうのです。あるいは、イスラエルの民を攻撃略奪したバビロン帝国を指すとも考えられます。バビロン帝国も後に罰としてペルシャ帝国に滅ぼされます。
ところが、旧約聖書というのは、書かれている歴史的舞台の中で理解するだけでは不十分なのです。先ほど申し上げましたが、バビロン捕囚からの解放と祖国復帰を預言していると考えられていたことが、実は解放と復帰は実現してもその他のことはまだ実現していない、そういう未完のことが一杯出て来るのです。イエス様もそうした観点に立っています。もし漁師が獲る獲物が紀元前500年代のイスラエルの民ないしはバビロン帝国を指すのなら、彼が4人の男たちを呼び出した時に言った言葉は意味をなしません。イエス様は、漁師が獲る獲物は過去の歴史を越えて今もあるという観点です。つまり人間全てが獲物になります。そして獲物である人間は、エレミア書に即して見れば、神の前に出されて罪と悪行を暴露されて裁きを受けます。漁師はまるで悪人を探し出して捕まえる神の警察官のような者たちです!宗教団体の勧誘どころではありません。
ところが、イエス様の人間を獲る漁師たちにはもう一つ大事な役割がありました。彼らは、十字架と復活の出来事の目撃者になりました。イエス様を救い主と信じれば神から罪の赦しを受けられるという福音を与えられたのです。このように、イエス様が集めて送り出した漁師というのは、人間を神の前に出して自分の本当の姿を知らしめることはしても、それは人を滅ぼすためにするのではない。そうではなくて、人に福音を示して、神の前に出されても大丈夫なのだ、と安心させて、それで人が神の方を向いて生きられるように導く役割を持ったのでした。福音がなくて神の前に出されたら、普通は途方もない絶望に陥るか、または神に背を向けて生き続けるかしかありません。その先には神の裁きしかありません。しかし、福音を示されることで、人は神の前に出されても大丈夫になるとわかり、神の方を向いて生きられるようになって、本当の悔い改めができるのです。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちは神の方を向いて生きる勇気をまさに福音から与えられるのです。このことを忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン