2016年10月26日水曜日

神のひとり子の尊い犠牲のゆえに (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2016年10月23日(聖霊降臨後第23主日)武蔵野教会

申命記10章12-22節
テモテへの第二の手紙4章6-18節
ルカによる福音書18章9-14節

説教題 神のひとり子の尊い犠牲のゆえに


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

福音書には、徴税人と呼ばれる人たちがよく登場します。どんな人たちかと言うと、名前が示すごとく、税金を取り立てる人たちです。福音書に出てくる徴税人とは、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人です。なぜ占領された国民の中に、占領国に仕えようとする人が出てくるかというと、徴税の仕事は金持ちになれる近道だったからです。福音書をよく読んでみると、徴税人たちが決められた徴収額以上に取り立てていたことがわかります。ルカ福音書3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱責する場面があります。そこでヨハネは彼らに次のように警告します。「規定以上のものは取り立てるな」(13節)。ルカ19章では、ザアカイという名の徴税人がイエス様に次のような改心の言葉を述べます。「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)。そういうわけで、占領国の権力をかさに不正を働いていた徴税人が自分の利益しか考えない裏切り者とみなされて、同胞から憎まれていたことは驚きに値しません。

ところが、こうした背景知識をもって福音書を読んでみると、驚くべきことに気づかされます。それは、福音書に登場する徴税人たちは、以上みてきたような実際に存在した徴税人とは様子が違うのです。福音書に登場する徴税人には、邪悪なところがみられないのです。もう一度ルカ福音書の3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが、神の裁きが来ることを人々に告げ知らせています。ヨハネの宣べ伝えを信じた大勢の人たちが、自分たちの悔い改めを確かなものにしてもらおうと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループがいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねました。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは神の裁きを恐れ、神に背を向けて生きていたことを認めて、それをやめて神のもとに立ち返らなければならないと思ったのです。それで、そのために何をすべきかと聞いたのです。本日の福音書の箇所の徴税人の場合は、何をすべきかと聞くどころか、ただ「赦して下さい」と神に憐れみを乞うだけです。どちらにしても、これまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。

もちろん本日の箇所の徴税人は、イエス様のたとえに登場する架空の人物です。しかし、それでもこのような改心した徴税人が実際にいたことは、洗礼者ヨハネのもとを訪れた徴税人のグループがいたという歴史的事実から明らかです。ルカ19章の徴税人ザアカイですが、イエス様が彼の家を訪問すると決めるや否や、これまで不正を働いて貯めた富を捨てるという大きな決心をしました。マルコ福音書2章にレビという名の徴税人が登場しますが、イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てた、ということです。

以上から、福音書に登場する徴税人は、神に背を向けていた生き方をやめて、神のもとに立ち返らなければならないと感じていた人たちでした。

ところが、聖書を読む人の中には、このような神のもとに立ち返る徴税人というものを否定する人もいます。その人の一人に、E. P. サンダースSandersという著名な新約学者がいます。1986年に出版されて世界的に注目された彼の研究書Jesus and Judaism(「イエスと第二神殿期ユダヤ教世界」とでも名付けてよいと思います)の中に、イエス様が十字架刑に処せられるに至った要因について述べているところがあります。要因の一つとしてサンダースがあげるのは、イエス様が徴税人その他の罪びとたちと食事を共にしたということです。つまり、イエス様は罪びとたちを神への立ち返りがない状態、改心していない状態で受け入れて、罪びとの罪を公に承認したというのです。これが、当時のユダヤ教社会の宗教指導層の反感を買い、イエス様に対して敵意を抱かせることになったとサンダースはみるのです。もし、イエス様と食事を共にした罪びとたちが神への立ち返りを行った「元罪びと」であったならば、それはそれで宗教指導層にとっておめでたいことだから、その場合は反感も敵意も生まれなかっただろう。しかし、実際にはイエス様は罪人の罪をおおっぴらに承認する行動に出て、支配者たちに衝撃を与えた、とサンダースは考えるわけです。

 しかしながら、それではイエス様という方は、支配者たちにショッキングなことをやってみせて体制を引っ掻き回す、なにか注目集めの騒がし屋のようになってしまいます。私としては、もっと福音書に記述されている出来事、つまり、徴税人のグループが洗礼者ヨハネのもとに行って洗礼を求めたこと、レビが全てを捨ててイエス様に付き従ったこと、イエス様に受け入れられたザアカイが不正で築いた富になんの価値も見出さなくなったこと、こうした出来事にもっと注目すべきではないかと思います。イエス様と食事を共にした罪びとたちというのは、イエス様の招きがきっかけとなって神のもとに立ち返った人たちだったのです。

 それならば、なぜユダヤ教社会の宗教指導層は、イエス様とこうした「元罪びと」たちの食事の宴をみて満足しなかったのでしょうか?もちろん、指導者たちには満足できない理由がありました。というのは、神への立ち返りということが、指導者たちの権威を素通りして、完全にイエス様の招きの力で実現したからです。マルコ福音書2章に、イエス様が全身麻痺の男の人を癒す奇跡を行った出来事が記されています。その時イエス様は、自分が人間の罪を赦すことが出来る者であると人々に示されました。罪を赦す立場にあるというのは、神と同等の地位にあるということです。このような、人間に罪の赦しを与え、神のもとへ立ち返らせることができる人物というのは、宗教指導層からすれば自分たちの権威に対する重大な挑戦と受け取られたのです。

 以上から次のことが明らかになります。もし人が天地創造の神に背を向けていた生き方を変えなければならない、神のもとに立ち返らなければならない、とわかったら、その人とイエス様の出会いはもう目と鼻の先です。キリスト信仰者の間でよく言われる言葉に「イエス様はあなたをあるがままの状態で愛される」とか「受け入れて下さる」というものがあります。誠にありがたい言葉です。しかし、これが意味するところは、イエス様は、あなたが神の意思に反する生き方をし続けてもよいと認めているということではありません。そうではなくて、それが意味しているのは、まず、「イエス様は、あなたが弱かろうが貧しかろうが、神のもとへ立ち返らなければいけない、とわかる日を待ち望んでいらっしゃる」ということです。あなたが立ち返らなければいけないとわかるや否や、「イエス様は、あなたが弱かろうが貧しかろうが、立ち返る生き方をしっかり守って支えて下さる」ということです。これが、イエス様があなたをあるがままの状態で愛し、受け入れてくれるという意味です。神の意思に反する生き方をし続けて良いという意味ではありません。

2.

本日の福音書の箇所で、イエス様は祈りについて何か教えています。そのことをみてみましょう。二つの全く対象的な祈り方について述べられています。一方は、自分は神が定めた規定をちゃんと行っていると神に報告します。まるで神に対して念を押すような高慢さが見られます。自分が周りにいるような罪びとたちと同じでないことを感謝します、などと言うのは醜いエリート意識そのものです。他方は、自分が罪びとであることを認めて神に憐れみを乞うだけです。それが全てです。胸を打つというのは、悲しみや悔恨を表わす行為です。悔恨や憐れみを乞うのが本当に心の底からの叫びだったことが窺われます。先週の主日の福音書の箇所も祈りについての教えでしたが、それは、執拗に願い求める未亡人と神をも畏れない裁判官のたとえでした。そこで、イエス様は、神を信頼して気を落とさずに絶えず祈ることの大切さを教えました。それに続くのが本日の福音書の箇所で、イエス様は、神の御前で自分を低くするような仕方で祈らなければならないと教えます。

先週と本日の教えには面白い関連があります。先週の「やもめと裁判官」のたとえは、弟子たちに述べられていました。本日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(189節)述べられます。ここで「正しい」というのは、ギリシャ語では「義」を意味する言葉(δικαιος)ですので、「神の目から見て申し分ない」とか「神の目に相応しい」という意味です。そのように自分たちは神の御前に立っても全く大丈夫、焼き尽くされることはない、と自信満々で、他の者は大丈夫ではないと見下している者たちです。誰のことを指すのでしょうか?

「やもめと裁判官」の最後のところで、イエス様は尋ねました。自分が地上に再臨する日、果たして、やもめのような執拗さをもって祈りを絶やさない信仰はこの世に残っているだろうか?この質問をイエス様は、たとえを聞いていた弟子たちにしました。この質問をした後で「ファリサイ派と徴税人」のたとえを今度は、自分は神に相応しいと自信満々な者たちに向けて話されました。つまり、このたとえが向けられた相手というのは、弟子たちの中で、自分は大丈夫だ、死ぬまで神を信頼して祈りを絶やさずに生き抜くことが出来ると信じていた者たちだったのです。自分が再臨する日に祈りを絶やさない信仰を見いだすことができるであろうか、というイエス様の問いに対して、「はい、わたしはそのような信仰を持っています」と自信を持って答えられる者を相手に述べられたのです。

そういうわけで、本日の福音書の箇所は、神を信頼して祈りを絶やしてはならないという先週の箇所の教えを、さらに一歩踏み込んだ教えと言えます。たとえ、信仰ある人が最後まで気を落とさずに絶えず祈り続けたとしても、もしその人がファリサイ派の人のように祈ったら、せっかくの絶えざる祈りといえども何の意味もなくなってしまいます。

先ほど、洗礼者ヨハネのもとに集まった徴税人たちは神の罰を受けないためにヨハネの洗礼の他に何をしなければならないかと尋ねたことを述べました。そして、本日の箇所の徴税人の場合は「何をしなければならない」という問いを通り越して、ただただ「神さま、罪びとの私を罰しないで下さい」と神に憐れみを乞うだけだったことも申しました。神から罰せられるというのは、この世の人生を終えた後で自分の造り主である神のもとに永遠に戻れなくなるということですが、この世の人生の後だけのことに限られません。この世で歩んでいる道が神のもとに向かう道でなければ、神から守りと良い導きを得られません。それで罰は将来のものであっても、既にこの世の段階で序章のように始まっていると言えます。そこで、私は罪びとです、神に背を向けて生きてきましたと認めて、神さま、罰しないで下さい、と憐れみを乞うた徴税人が神の目に相応しい者、神の御前に出て大丈夫な者、義なる者とされた、というのがイエス様の教えです。

これとは反対にファリサイ派の人の場合は、宗教的な規定をしっかり守っているので、自分では神に背を向けた生き方をしているとは思いもよらないし、神のもとに十分立ち返っていると思っていました。しかし、その彼が祈った後で、神の目に義なる者とはされなかったのです。なぜでしょうか?マルコ福音書7章にイエス様とファリサイ派の人たちの有名な論争があります。それは、何が人間を汚れたものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうかという問題でした。イエス様の論点は、人間を汚して神から切り離された状態にするのは、人間の内部に宿る無数の悪い思いである、従って、宗教的な儀式や規定を守っても内部の汚れは除去できないので意味がない、というものでした。それでは、どうしたら人間は自分を造られた神から切り離された状態に終止符を打てて、神との結びつきの中で生きることが出来るのでしょうか?

これを人間の力ではできないと知っていた神は、それを実現するためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そして、本来は人間が背負うべき罪の罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、このイエス様の身代わりの死に免じて人間を赦すことにしたのです。さらに神はイエス様を死から復活させて永遠の命があることを人間に示し、その扉を人間のために開かれました。人間は、これらのことが全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の身代わりの死に免じて罪が赦されます。こうして人間は、イエス様の贖いの業とそのイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで神の目に相応しい者となり、神との結びつきを持ってこの世を生きることができるようになりました。神との結びつきを持って生きられるのですから、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、今度は永遠に自分の造り主である神のもとに戻れるようになったのです。

3.

イエス様を救い主と信じて、神との結びつきの中で生きることになったとは言っても、肉をまとって生きる私たちには、まだ同じ内在する罪や汚れた悪い思いを抱えています。神に背を向ける生き方をやめよう、神のもとに立ち返らなければならないとわかるのは、キリスト信仰者になる時だけに限られません。信仰者となった後も、「神様、罪びとの私を憐れんでください」という祈りは終わることはありません。そのように言うと、私は徴税人のように罪を犯していないから、そこまでする必要はないという人も出て来るかもしれません。自分は、盗みも偽証もしないし、ましては不倫や殺人など思いもよらないことだ、というのが大方の思いでしょう。しかし、イエス様はこのことについて何と教えていたでしょうか?たとえ行為で犯していなくても、心の中で兄弟を罵ったら第五の掟を破ったのも同然、異性を淫らな目で見たら第六の掟を破ったのも同然と、十戒の掟は心の有り様にまで関わってくると教えました。

スウェーデンやフィンランドには罪を言い表す時に、「行為として現れる罪」と「受け継がれる罪」の二つを言い表す言葉があります([]gärningsyndarvsynd[フィ]tekosyntiperisynti)。前者は行い、思い、言葉の形を取る具体的な罪、後者は具体的な形を取らずとも人間が最初の人間から遺伝して受け継いできた罪です。これがあるから前者の罪も起こる、言わば罪の罪、まさに原罪です。人間なら誰でも「生まれながらにして」持っている罪です。キリスト信仰者と言えども、この罪を持たないという者は誰もいません。キリスト信仰者もそうでない者もこの点では全く同じ状態にあるのです。ところが、キリスト信仰者の場合は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して神から頂いた「罪の赦しの恵み」のおかげで、原罪が人間を永遠の死に押しやろうとする力を失っています。キリスト信仰者がこの信仰と恵みにとどまる限り、原罪は抜け殻のままで、死を超える永遠の命につながっていられるという希望を持つことができます。願わくば、一人でも多くの方がこの希望に与れますように。

このように信仰者となった後も、「神様、罪びとの私を憐れんでください」という祈りは終わることはありません。ただ、イエス様を救い主と信じてこの祈りを祈る人は、イエス様の身代わりの死に免じて神から罪を赦されます。イエス様を信じない人は、誰かの何かに免じて罪が赦されるということがないので、全て自分の力で神から赦しを得なければならなくなります。しかし、それは不可能です。

4.

 最後に申し上げたいこととして、本日の箇所の徴税人の祈りには「イエス様のゆえに」とか「イエス様の御名を通して」ということがありませんでした。ただ単に自分が罪びとであることを神に認めて、赦していただけるように、と神に憐れみを乞う祈りです。罪の告白だけです。「イエス様のゆえに」がないのは、このたとえが話されたのはまだイエス様の十字架と復活が起きる前のことだったので、無理もありません。徴税人は全身全霊で罪の告白をしましたが、果たして自分が神から憐れみを受けて罪を赦されたのかどうか、わかる術もなく家に帰らなければなりませんでした。もちろんイエス様は赦されたと宣言しますが、徴税人はその宣言を聞きませんから、何も確かなことはなく家に帰っただけです。神からは赦しを受けているのに、自分では全く気がつかない、全く気の毒です。

 しかしながら、十字架と復活の出来事の後は状況が一変しました。私たちは、心の目をゴルゴタの十字架に向け、あのお方の肩の上に私たちの罪が重くのしかかっていることを見ることができる時、あそこに私たちの罪の赦しがあるとわかります。父なるみ神はひとり子を犠牲にすることを厭わないくらいに私たちを愛して下さることがわかります。このように私たちの罪の告白は、「イエス様の尊い犠牲」に依拠して赦しを乞う告白です。神は、罰するかわりに本当に赦しを与えて下さることを私たちがわかるように、イエス様をこの世に送られて十字架の死に引き渡したのです。

 そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちは本当に、イエス様の尊い犠牲のゆえに、罪を赦されて神の御前に出ても大丈夫な者とされていることを忘れないようにしましょう。そして、この同じ希望に出来るだけ多くの人が与れるように福音のために働いてまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン