説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2019年6月23日聖霊降臨後第二主日 スオミ教会
列王記上17章17-24節
ガラテアの信徒への手紙1章11-24節
ルカによる福音書7章11-17節
説教題 喪失の悲しみから復活の希望へ
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
今日は教会のカレンダーでは聖霊降臨祭から数えて第二の主日です。先週が聖霊降臨後の第一主日でした。聖霊降臨で父・御子・御霊の三つが出そろったということでしょうか、教会のカレンダーでは三位一体主日とも定められています。これから教会のカレンダーは毎週「聖霊降臨後第何主日」と続いて、クリスマスの準備期間である待降節まで続きます。今年は聖霊降臨の主日は11月24日まで24回あります。その次の12月1日が待降節の第一主日、これが教会のカレンダーの新年になります。その日までまだ23週間もあります。梅雨が終われば暑い夏が来て、本格的な秋になるまでは残暑も続くでしょう。その間の私たちの毎日の歩みは山あり谷ありかもしれません。もちろん途中で、緑の牧場や水辺のほとりもあるでしょう。私は、スオミ教会の礼拝が皆様の心と霊にとってそういう憩いと安らぎの場になることを願っています。少し気が早いですが、待降節第一主日にはまた「ダビデの子、ホサナ」(後注1)を一緒に元気よく歌いましょう。その日を目指して、一日一日を父なるみ神の見守りと導きに信頼して歩んでまいりましょう。
本日の旧約の日課は、紀元前9世紀にイスラエル王国で活動した預言者エリアが死んだ子供を生き返らせる奇跡を行った話です。福音書の方は、死んでこれから埋葬されようとしていた青年をイエス様が生き返らせた奇跡についてです。両方とも子供に先立たれた母親の悲しみが言われていて、両方とも母親は未亡人です。夫に先立たれ、残された子供も失った時の悲しみは相当なものでしょう。未亡人たちはその悲しみを経験した後で、それぞれエリアとイエス様に助けられました。どちらもよく似たような話ですが、聖書をよく目を凝らして読むと違いもあります。そのことについては後ほど見ていきます。
私たちが、もし最愛の人に先立たれて悲しみのどん底に落ちたら、本日の日課の出来事のように、その人が生き返って悲しみがなくなるということが起こるでしょうか?イエス様を救い主と信じる私たちは、そういう奇跡が起こる可能性は信じていますが、奇跡である以上は一般的には起こらないことも知っています。もし一般的に起きたら、それはもう奇跡ではないからです。それじゃ、そのような状況に陥ったら、どうしたら良いのか?どうやって悲しみを乗り越えられるのか?不幸な出来事を忘れることが出来て悲しみが消える日を待つのか?でも、悲しみは消えるでしょうか?なかなか消えないのではないでしょうか?そうなると肝心なことは、たとえ悲しみは残ってしまっても、後で生まれてくる喜びもしっかり味わえるようになることではないでしょうか?つまり喜びを味わえないようにしてやろうとする悲しみの破壊力を弱体化させることです。悲しみが消え去らないものならば、そういうふうにするしかないでしょう。しかし、それは時間のかかることです。どうしたら、その時間を短く出来て、早く日常が回るようになれるでしょうか?悲しみは残っても、新たに生まれてくる喜びもしっかり味わえるようになっていけるでしょうか?
この問いに対する答えは本日の旧約と福音書の日課から見つかるかどうかと言うと、大方の人は見つからないと答えるでしょう。というのは、二人の未亡人は確かに子供を失って悲しみのどん底に陥ったが、結局は子供を生きて返してもらったからです。もうどん底にはいないのです。生きて返してもらえなかった親たちにとって、今日の日課は意味がないではないか、という疑問が起きます。もっともな疑問です。しかし、私は、この二つの話は、たとえ喪失の悲しみは残るにしても、それを覆い包んでいって悲しみを弱めて日常がまた回転し出す、そういう導きの力を教えていると思います。それを以下に見ていこうと思います。
2.不幸 - 罪に対する神罰の結果か?神の業が行われる起点か?
最初に旧約の日課を見てみましょう。エリアは旧約聖書の代表的な預言者の一人です。紀元前10世紀にダビデ-ソロモンの王国が南北に分裂しますが、その北王国で活動した人です。北王国の王様が天地創造の神を捨てて異教の神を崇拝するようになってしまい、エリアはそれを正そうと奔走し迫害も受けます。本日の日課のところは、エリアが神の指示に従い、国外に出てシドン地方のサレプタというところで未亡人と男の子の住む家に滞在を始めました。当時、地中海東部を干ばつが襲い、飢饉が起こっていました。未亡人の家も食べ物がなくなり、最後の小麦粉でパンを焼いたら後は餓死するだけというところまで追いつめられていました。そこにエリアが来て、壺の小麦粉は使っても使ってもなくならないという奇跡が起きました。これを見た異邦人の女性はきっとイスラエルの民の神、聖書の神は真の神とわかったでしょう。
ところが一難去ってまた一難。男の子が重い病気にかかって息を引き取ってしまいました。未亡人のエリアと神に対する態度は一変します。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」(列王上17章18節)。「あなたは私にどんなかかわりがあるのでしょうか」というのは、「あなたは私に一体何をするつもりなのか?」ということです(後注2)。つまり、「私の所にやってきて、私の罪を明るみに出して私の息子を死なせるなどとは、私に一体何をするつもりなのか?」
この未亡人のように、不幸の原因を自分が罪を犯したので神が罰を下したという考え方はよくあります。特にサレプタの未亡人の場合、なくならない小麦粉の奇跡を見せられて、聖書の神の偉大さがわかったばかりでした。その後で息子が死ぬという不幸が起きてしまいました。きっと、この畏れ多い偉大な神は私の罪を見出して、その罰として息子を死なせたのだ、と考えたのでしょう。しかし、自分の罪のために犠牲になるのが当の自分ではなく最愛の子というのはどうにも受け入れ難いものです。エリアに対する未亡人の言葉には明らかに抗議が見て取れます。エリアは神に祈り、それを聞き遂げた神は男の子の息を吹き返させました。これで不幸とは神の罰が下った結果でないことが明らかになりました。そうではなく、不幸とは、天地創造の神を畏れ偉大な神と信じる者にとっては、神の業が行われる起点になるということが明らかになりました。未亡人がエリアのことを「神の人」と二回言いますが、最初、奇跡の前に言った時は神のことを罪を見つけて裁く方という理解でした。奇跡の後は、信じる者が不幸に陥ったとき憐れんで助けてくれる方という理解でした。
サレプタでの出来事のポイントは、天地創造の神を真の神と受け入れると罪の自覚が生まれるが、それでも起こる不幸は神罰ではないということ、そうではなくて、神の業が行われる起点であるということです。ところで、サレプタの未亡人の場合は、神の業は息子を生き返らせてもらう奇跡でした。それでは、亡くなった人が生き返らなかったら、不幸を起点にした神の業は何も起こらなかったということでしょうか?そういうことではないと思います。たとえ亡くなった人が生き返らなくとも、神の業は違う仕方で起きる、それは生き返りに比べたら物足りなく見えるかもしれないが、それでも悲しみの破壊力を弱めるものになる、そういう神の業もあると思います。そのような神の業をわかるために福音書の日課のイエス様の業を見てみましょう。
3.人間の根底的な苦しみとその解決
イエス様はガリラヤ地方とユダヤ地方の境に近くにあるナインという町で死んだ者を蘇らせる奇跡を行いました。イエス様が死者を生き返らせる奇跡は、福音書に記録されている例としては、ガリラヤ地方のカペルナウムという町で、ユダヤ教会堂の会堂長ヤイロの娘を生き返らせたこと(ルカ8章40-56節、マタイ9章18-26節、マルコ5章21-43節)と、エルサレムの近くにあるベタニアという町でマルタ、マリア二姉妹の兄弟ラザロを死後4日目に生き返らせたことがあります(ヨハネ11章1-44節)。
ナインでの奇跡の出来事の次のようなものでした。イエス様が弟子たちや他に付き従う大勢の人たちと一緒に町の門の近くまで来る。ちょうどその時、中から門を通って外の墓地に向かう葬列が出てくる。亡くなったのは若者で、それは母親にとっては一人息子、しかも、母親は未亡人でした。町の人たちが大勢葬列に加わって歩いて行く。イエス様の言葉「もう泣かなくてもよい」から明らかなように、婦人は悲しみに打ちひしがれて泣きながら歩いていたでしょう。イエス様は葬列に近寄り、棺に手を触れます。棺を担ぐ人も葬列自体も立ち止まりました。そこで思いもよらないことが起こります。「イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」(14-15節)。母親は、一度死んで失った息子を生きて取り戻すことができたのでした。
ここで一つのことに注意します。それは、イエス様が他で生き返らせの奇跡を行った時は肉親から助けを求められて行っていますが、ナインでは誰もイエス様にお願いをしていません。イエス様は、お願いされる前にさっさと奇跡を行いました。お願いされなくても奇跡を行うきっかけが、本日の箇所の中で言われています。それは、「母親を見て、憐れに思った」というところです。目の前に悲劇の現実があることを自分の目で確認し、それに対して憐れに思った。憐れに思うというのは、ギリシャ語のσπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイという動詞ですが、心に訴えかけられる、それで憐れむ、可哀そうに思う、気の毒に思う、同情する、という意味です。イエス様が泣いて悲しんでいる母親を見て、本当に可哀そうに思った、それがイエス様をして奇跡の業を行わせたということです。私たちも、苦難や困難に陥った人を助ける時は、彼らの苦しみや悲しみに心を傾けることから始まります。可哀そうに思う、気の毒に思う、こうした心の有り様が他者を助ける出発点になります。その点については、イエス様も全く同じでした。私たちが救い主と信じる神のひとり子は、私たちが苦難や困難に陥った時にその心を本当に私たちの苦しみや悲しみに寄せて下さる方です。苦難や困難に陥るというのは、イエス様に見放されたということではありません。その時イエス様は、今のところは父なるみ神の右に座しているとは言っても、彼の心は騒ぎ、ナインの未亡人を可哀そうに思ったと同じように私たちのことも可哀そうに思うのです。
イエス様が「他者の苦しみや悲しみに心を傾ける」、憐れむ、可哀そうに思う、気の毒に思う、ということを意味するギリシャ語の言葉σπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイですが、これは彼が奇跡を行う場面でよく使われます。例えば、マタイ14章で、イエス様を追ってきた大勢の群衆を「見て深く憐れみ」(14節)、彼らの中にいた病人たちを癒されました。15章では、三日三晩飲まず食わずにいた4000人の群衆のことを、イエス様が「かわいそうだ」と言って(32節)、手元にあった7つのパンと少量の魚で全員を満腹にする奇跡を行いました。20章では、イエス様はエリコの町で二人の盲人から、目が見えるようにして下さい、と執拗に嘆願されます。その時、「深く憐れ」んだ(34節)イエス様は二人の目を見えるようにします。これらはギリシャ語ではみんなσπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイです。
他の奇跡の場面では、苦難困難に陥っている人たちを前にしたイエス様の心の動きは詳しくは記されていませんが、以上の例からだけでも、イエス様はそうした人たちに対して、いつも深い憐れみの心、可哀そうに思う心を持って、それに突き動かされて奇跡の業を行っていたことは否定できないでしょう(後注3)。私たちの主は、まことに私たちのことを心に留められて、私たちの苦しみや悲しみをさも自分自身の苦しみ・悲しみのように受け止めて下さる方です。
それならば、イエス様はなぜ、私たちが苦難や困難に一切遭遇しないで済むようにしてくれないのか?また、遭遇してしまった時は、どうして早くそれから抜け出られるようにして下さらないのか?ちょっと贅沢な疑問ですが、このことを考える時に、ひとつ注意しなければならないことがあります。それは、もしイエス様の任務が、苦難や困難に陥った人たちを憐れんで奇跡の業で助けてあげることだとすれば、なぜ彼はそれを途中でやめてしまったのか、ということです。イエス様はガリラヤ地方とユダヤ地方とそれらの周辺地域で実に多くの人々を奇跡の業をもって助けました。不治の病を治し空腹を満たし無数の悪霊を追い出しました。ところが突然、彼はこうした巡回救援活動を止めて、行けば死が待っていると自分でもわかっているエルサレムを目指して歩み始めるのです。イエス様が十字架に架けられたのが大体西暦30年頃とすると、年齢的に30少しいった位です。まだまだ働き盛りです。もっとあちこちを回って救援活動を続けられた筈です。それこそ、地中海の東海岸地方だけでなく、南はアフリカ、北は今のヨーロッパ、東はアジアへと、世界各地で病人を癒し空腹を満たし悪霊を追い払っていた方が、はやばやとエルサレムで死刑になってしまうよりは、人類のためになったのではないでしょうか?
ところがそうではないのです。ゴルゴタの十字架に架けられることの方が、人類のためになったのです。そっちを実行するために、イエス様はエルサレムに向かう道を歩み出したのです。それは、病気や飢えや他のあらゆる苦しみが助けてあげるのに値しないということではありません。そうではなくて、そうした苦しみ全ての根底にある苦しみから人間を救い出すということをイエス様は目指したのです。
人間の根底的な苦しみとは、人間が堕罪以来、自分の造り主である神との関係が断ちきれた状態に置かれたということです。そのため、人間はこの世の人生では、神との結びつきをもって生きることができず、この世から去った後も、神との関係は断ち切れたままで、造り主である神のもとに戻ることができず、永遠に滅びに陥ってしまう。しかし、神の側で、人間をそういう状態に陥らせないようにしようと思われた。人間が神との関係を回復できて、この世の人生では神との結びつきをもって生きられるようにしてあげよう、たえず神から見守りと導きを得られるようにしてあげよう、と。この世を去ることになっても、その時はひと眠りの後で目覚めさせ、この世での肉体に替わる新しい復活の体を着せて自分のもとに引き上げてあげよう、そうして、造り主である自分のもとに永遠に戻ることができるようにしてあげよう、と。
しかしながら、神聖な神と罪を受け継ぐ人間の断ち切れた関係を回復させるためには、神から切り離す原因となった罪から人間を解放しなければなりません。そこで、神がやったことは、神のひとり子をこの世に送り、彼に人間の罪からくる罰を全て受けさせて身代わりとして死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すことにする、ということでした。さらに、一度死んだイエス様を死から復活させて、人間に永遠の命への扉を開きました。サレプタの未亡人は、自分の罪のために子供が犠牲にさせられたと勘違いしましたが、私たちの場合は、私たちの罪のためにこともあろうに天地創造の神のひとり子が犠牲にさせられたのです!人間は、イエス様こそ自分の救い主であると信じて洗礼を受けることで、イエス様の身代わりの犠牲による罪の赦しにすっぽり包まれて、そこから神との結びつきを持ってこの世を生き始めます。そこで苦難や困難に遭遇しても、それは神の罰の結果ではない、むしろ神の業が行われる起点なのだという態度になります。
このように、エルサレムに向かう道を歩み出したイエス様は、人間を助けることを途中でやめたのではなかったのでした。そうではなくて、本当に人間を助けるために十字架の道を選んだのでした。もちろん、病気や飢えや悪霊から人間を助けることも大事です。しかし、イエス様は人間と神の結びつきが失われていることをまず解決しなければならないと考えて道を選んだのでした。これで、イエス様を救い主と信じる者にとって、苦難や困難は神の罰の結果ではなくなって神の業が行われる起点になりました。それでは、最愛の人を失ってしまった悲しみが苦難・困難の場合、最愛の人が生き返ってこないならば、一体何が神の業になるのでしょうか?
4.喪失の悲しみから復活の希望へ
その問いの答えを探す時、イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡を行ったのは何のためだったのかを考えるとよいでしょう。ただ未亡人を可哀そうに思って助けてあげただけだったでしょうか?エリアの生き返らせの奇跡とイエス様のそれとでは違いがあります。エリアは子供を生き返らせる時に神に祈り、それを聞いた神が生き返りを起こしました。神に生き返らせてもらったということです。ところが、イエス様の場合は「娘よ、起きなさい」とか「ラザロ、出てきなさい」とか、今日の個所のように「若者よ、起きなさい」とか、全部自分の命令で生き返らせています。神の力を仲介したエリアと違って、イエス様は自分が生き返らせる力を直に持っていることを示しました。将来の復活の予行練習みたいなものと言ってもいいかもしれません。
イエス様は人々に教えていた時、「終わりの日」に自分を救い主と信じる者を「復活させる」と公言していたことを思い出しましょう(ヨハネ6章39節、40節)。終わりの日の復活とは、この世を去った者たちが最後の審判の日に眠りから目覚めさせられ、イエス様の犠牲を受け入れて罪の赦しを得た者には神が「お前は義とする」と宣告される、そして、新しい朽ちない復活の体を着せられて懐かしい人たちと一緒に天の御国に迎え入れられる、これが復活です。そうすると、生き返りの奇跡で生き返らせられた人たちは復活したのではなく、生き返った後は寿命が来るまで生きたというにすぎず、この世を去った後は復活の日の目覚めまでは眠っているのです。生き返らせの奇跡は復活ではありませんでしたが、それをすることでイエス様が復活させると言っていることが口先だけでなく、本当にその力を持っていることを思い知らせることになりました。
キリスト信仰とその中にある復活信仰に立つと、亡くなった方は復活の目覚めの日までは眠りについているという立場になります。そして再会の日まで祈り・感謝を捧げたり思いを打ち明けたり人生の出来事を報告する相手はあくまで天の父なるみ神という立場になります。ところが、日本の大方の人は、仏壇などがありますので亡くなった方がそういう相手になって常にコミュニケーションを取れていつでも身近にいる存在になります。復活信仰だとコミュニケーションの相手は私たちの造り主である神だけになって寂しくなってしまうと思われるかもしれません。それでは喪失の悲しみは癒せないと言われるかもしれません。しかし、祈りを捧げる相手が創造主の神であればあるほど、愛する方と復活の日に再会できるという希望が強められていきます。確かに愛する方を失って神への感謝ということは遠のくかもしれないが、復活の日の再会の希望が強まれば、亡くなった方と共に過ごした日々の思い出がとても美しい麗しいものに変わり、それはきっと高価な芸術作品の絵画以上になるでしょう。この素晴らしい過去が神への感謝になり、それと将来の復活への希望が合わされれば、亡くなった方が今静かに眠っていても不安になることはなくなります。キリスト信仰の場合、まさにそこに、悲しみは残っても、日常は回り、新たに生まれる喜びも味わえるという神の業が働くのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
後注1.「ダビデの子、ホサナ」は、フィンランドやスウェーデンでは待降節第一主日の礼拝で歌われることが伝統になっている讃美歌です。教会の「新年」を元気よく始める雰囲気に溢れる歌です。
後注2.(ヘブライ語とギリシャ語が分かる人にです。)列王記上17章18節のヘブライ語の文מה-לי ולךを見た人は、マルコ1章24節で悪霊がイエス様に言った言葉τι ημιν και σοι;とヨハネ2 章4節でイエス様が母マリアに言った言葉τιεμοι και σοι;を思い出すのではないでしょうか?ヘブライ語の文、ギリシャ語の文ともにシンタックススが同じだからです。意味はマルコ1章24節は「我々とお前の間に何があるのか?」⇒「お前は我々に何をするつもりなのか?」、ヨハネ2章4節は「私とあなたの間に何があるのか?」⇒「あなたは私に何を求めるのか?」同様に列王上17章18節も「私とあなたの間は何があるのか?」⇒「あなたは私に何をするつもりなのか/何を求めるのか?」。
後注3.ラザロの生き返らせでは、σπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイは使われず、かわりにενεβριμησατο τω πνευματι και εταραξεν εαυτον(ヨハネ11章33節)という言い方がされています。新共同訳では「心に憤りを覚えて、興奮した」とありますが、何に憤ったのかわからないし、すぐ後でイエス様も一緒に泣いてしまうので(35節)、ここはやはりイエス様が本当に可哀そうに思ったのだと考えた方がいいと思います。