説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2023年3月5日 スオミ教会
創世記12章1~4a節
ローマの信徒への手紙4章1~5、13~17節
ヨハネによる福音書3章1-17節
説教題 「聖霊とキリスト信仰者は風のごとく往く」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに ニコデモ - 自省するファリサイ派
本日の福音書の日課の個所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答です。ここでイエス様は4つの大切なことを教えます。一つ目は、人間は母親のお腹から生まれた有り様は肉的な存在である、しかし、洗礼を受けると霊的な存在になるということ。二つ目は、霊的な存在になって神の国に迎え入れられる、これが救いであるということ。三つ目は、人間がそのような霊的な存在になれるために天地創造の神はイエス様を贈った、これが神の愛であるということ。四つ目は、その神が贈ったイエス様を救い主と信じる信仰が人間を救う、人間が神に国に迎え入れられるようにするということ。今日はこれらのことについて少し詳しくみていきます。
まずニコデモという人について。彼が属していたファリサイ派というのは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわったグループでした。旧約聖書にあるモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則も厳格に守るべきと主張しました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。
そこにイエス様が歴史の舞台に登場しました。彼が数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派と衝突するようになります。イエス様に言わせれば、神の前での清さというのは外面的な事柄に留まらない、内面的な心の有り様も含めた全人的な清さでなければならない。例えば、モーセ十戒の第五の掟「汝、殺すなかれ」は、実際に殺人を犯さなくても心の中で他人を憎んだり見下したりしたらもう破ったことになる(マタイ5章22節)。第六の掟「汝、姦淫するなかれ」も、実際に不倫をしなくても心の中で思っただけで破ったことになると教えたのです(同5章28節)。イエス様は十戒を厳しく解釈したように見えますが、十戒を人間に与えた神の本来の意図はまさにそこにあるのだと、神の子として父の意図を人々に知らせたのです。
全人的に神の意思に沿えているかどうかが基準になると、人間はどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方で勝手に規則を作って、それを守ったり修行を積めば清くなれるんだぞ、と自分にも他人にも規則を課すのは愚かしいことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。
ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、グループの中には、このやり方で神の前で清くいられるだろうか、神に義とされて天の御国に迎え入れられるだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。ニコデモはまさにそのような自省するタイプのファリサイ派だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。日中だと、ファリサイ派の人たちはいつもイエス様と議論の応酬だったので、夜こっそり一人で出かけたのです。(余談ですが、この対話をきっかけにニコデモはイエス様を救い主と信じ始めたようです。例えば、最高法院でイエス様を逮捕するかどうか話し合われた時、ニコデモは弁護するような発言をします(ヨハネ7章50-52節)。さらに、イエス様が十字架にかけられて死んだ後、ローマ帝国総督のピラトのもとに行き許可を得てイエス様の遺体を引き取り、それを丁重に墓に葬ることもしています(19章39-42節))。
2.「生まれ変わる」ではなく「新たに生まれる」
さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである、人間が肉的な存在から霊的な存在になるというのはどういうことか見ていきます。イエス様はニコデモにイエス様はいきなり言われます。
「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」(3節)
「新たに生まれる」ということについて注意します。それは、「生まれ変わる」ということと全く違います。例えば、自分は前世では誰々だったが、今の自分はその生まれ変わりであるなどと言う人がいます。こういう考えを輪廻転生と言います。そこまで大胆でなくとも、今度生まれたら金持ちになりたいとか、有名人になりたいなどと言う人は沢山いると思います。あるいは、赤ちゃんが生まれた時、亡くなったおじいちゃんかおばあちゃんに似ているので、この子はおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うのもよく聞かれると思います。
聖書の信仰には輪廻転生はありません。私この吉村博明はこの世から死んだ後は何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。宗教改革のルターも言うように、この世から死んだ後は「復活の日」が来るまではみんな神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わって天と地が新しく創造される日のことです。その日この吉村博明は目覚めさせられてイエス様のおかげで(※)朽ちない復活の体を着せられて永遠の命を与えられて吉村博明が続いていくことになります。それでは、「生まれ変わり」ではない「新たに生まれる」とはどういうことでしょうか?(※ この「イエス様のおかげで」を礼拝の説教では「運が良ければ」と言ってしまいました。「イエス様のおかげで」ということは本説教の後で強調されることなので、ここでは冗談ぽく言っておこうという軽い気持ちでした。礼拝後のコーヒータイムで教会員から、とても気になったとご指摘を受けました。良くなかったと反省しました。お詫びして訂正いたします。)
イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」はもはや母親の胎内を通って起こる誕生ではありません。どんな誕生かは、次のイエス様の言葉を聞いてみましょう。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5-6節)。
イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて神の霊、聖霊を注がれることを意味します。
人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてきますが、それはまだ肉的な存在で霊的な存在ではないというのです。その上に今度は神の霊、聖霊を注がれないと「霊から生まれたもの」になれないのです。「水と霊による誕生」の「水」は洗礼を指し、「霊」は聖霊を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は母の胎内から生まれた有り様は肉的な存在であるが、洗礼を受けることで聖霊を注がれて霊的な存在になり、これが新しく生まれることです。
3.肉的な存在から霊的な存在へ
それでは、霊的な存在というのはどんな存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえ気味悪く思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。洗礼を受けて聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、外見からではわからない変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)
なにかとても深いことを言っていると思わせる言葉です。何を言っているのでしょうか?風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。気流の流れによってはゴーっという音もします。聖霊を注がれて霊的な存在になった者はみなそういうものなのだと。一体どういうことでしょうか?
さて、ニコデモは困ってしまいました。イエス様の言っていることがさっぱりわかりません。この時はまだイエス様の十字架の死も死からの復活も起きていません。洗礼を通して聖霊が注がれるということもまだ先のことです。イエス様はそれらを先取りして言っているので、理解できないのは無理もありません。加えて、風のたとえを難しくしているもう一つの理由は、ギリシャ語では「風」と「霊」は同じ言葉プネウマということです。イエス様とニコデモは間違いなくアラム語で会話しています。それが後にギリシャ語に翻訳されて新約聖書になりますが、アラム語でも「風」と「霊」は同じ言葉ルーァハです。それで、「風は思いのままに吹く」と言うのは、「霊は思いのままに吹く」と言い換えることができます。「霊」とは神の霊、聖霊のことです。「聖霊」の場合は「吹く」と言わずに「往く」と言った方がよいでしょう。ギリシャ語の意思を表す動詞テロ―が使われているので、風の場合は「思いのままに吹く」でいいですが、聖霊の場合は「自分の意思に従って往く」という意味になります。洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者もそうであると言うのです。そうならば、聖霊もキリスト信仰者もどこから来てどこへ往くのか誰にもわからないというのはどういうことなのか?それについては後で見ることにして、今はイエス様とニコデモの対話に戻ります。
理解できず困ってしまったニコデモに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、なんと情けないことか!清めの規定とかそういう地上に属することについて私が正しく教えてもお前たちは聞こうとしない。ましてや、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。
イエス様は核心部分に入ります。これから、今まで述べたこと、水と霊から新しく生まれること、肉的な存在から霊的な存在に変わること、そうすることで神の国に迎え入れらえるようになること、こうしたことが、どのようにして起こるのかについて明らかにします。
「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。(13節)」
ここでイエス様は、「水と霊による新たな生まれ」を起こすのは他ならぬ自分であると教えます。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。イエス様は、それは自分のことであると言い、自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということも言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。
「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』」も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。(14節)」
モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事です。イスラエルの民が毒蛇の大群にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅で作った蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起きると言うのですが、どのように起こるのでしょうか?
イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられたのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。人間は神の意思に背こうとする性向、罪をみんな持ってしまっている。そのために神との結びつきを失った状態にある。それを神は結びつきを持てるようにしてあげようと、そのためにひとり子をこの世に贈られたのです。神はこのひとり子を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき罪の罰を彼に受けさせました。それがゴルゴタの十字架の出来事だったのです。しかし、それが全てではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、その命に至る道を人間に切り開かれました。
それでその後は人間が、これらのことは本当に起こった事でありイエス様は本当に救い主だとわかって信じて洗礼を受ける、そうすると彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになり、神から罪を赦された者と見なされるようになります。罪を赦されたから神との結びつきが回復します。それからは神との結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠の命に向かう道を進んでいきます。この世から別れる時も神との結びつきをもったまま別れ、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠の命を持てて万物の主である神のもとに永遠に迎え入れられます。イエス様が言われたこと、洗礼と聖霊をもって新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。
4.聖霊とキリスト信仰者は風のように往く
このように洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者は復活の日に永遠の命を与えられて神の国に迎え入れられるということがわかりました。それが、イエス様の風のたとえとどう結びつくでしょうか?先にも申しましたが、アラム語やギリシャ語では「風」と「霊」は同じ単語で言い表します。ここでイエス様は両方をひっかけて教えているのです。このたとえで教えようとしていることは、肉的な人にとって聖霊は理解不能なものであるということです。風がどこから吹いてきてどこへ吹いていくのかわからないのと同じである。ただ、風は枝葉の音や風自体の音があるので実在するのはわかる。聖霊も、聖霊降臨の出来事の時に激しい風の吹くような音がしたり(使徒言行録2章2節)、フィリポに向かってエチオピアの宦官のもとに行けなどと言葉を発したりするので(8章29節)、実在するとわかる。しかし、聖霊はあくまで自分の意思に従って往くので肉的な人には聖霊のことはわからない。
これと同じことが洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者にも当てはまる。肉的な人からみたら、キリスト信仰者は姿かたちも見えるし声も聞こえるから実在するのはわかる。しかし、聖霊と同じように、あくまで自分の意思に従って往くので肉的な人にはわからない。このことはパウロが第1コリント2章14~15節で言っていることと一致します。
「肉的な人は聖霊が示すものを受け入れない。なぜなら、肉的な人にとってそれは馬鹿げたことだからだ。それは、霊的な状態をもって吟味されるものである。だから、肉的な人には理解できない。霊的な人がそれを吟味する。しかし、霊的な人は肉的な人から吟味されない。」
それでは、洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者は、肉だけの人と何が違うのでしょうか?以下それを見ていきます。そこで聖霊の働きについてもわかってきます。
キリスト信仰者は新たに生まれて霊的な存在になっても、最初に生まれた時の肉の体を纏っています。まだ復活の体ではありません。そのため、神の意思に反する性向、罪をまだ持っています。その点は肉的な人と変わりありません。ただ、人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。この凌ぎ合いがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。この戦いに入るか入らないかが霊的な存在か肉的な存在かの違いになります。使徒パウロも自分で認めように、「他人のものを自分のものにしたいと欲してはいけない」と十戒の中で言われていて、それが神の意思だとわかっているのに、自分はそうしてしまう、そういう神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に従える人はいないのです。どうしたらよいのでしょうか?どうせ従えないのだから神の意思なんかどうでもいい、などと言ったら、神のひとり子の犠牲を台無しにしてしまいます。しかし、心の奥底から完全に従えるようにしよう、しようと細心の注意を払えば払うほど、逆に従えない自分が気づかされてしまう。
まさにこの時が聖霊の出番です。聖霊は次のように言って私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて下さいます。「あそこにいるのは誰だか忘れたのですか?あの方が神の意思に沿うことができないあなたの身代わりとなって神罰を受けられたのではありませんか?あの方があなたのために犠牲となったおかげと、あなたにあの方を真の救い主と信じる信仰があるおかげで、神はあなたを赦して下さるのです。あなたが神の意思に完全に沿えることができたから赦されたのではありません。そんなことは不可能です。そうではなくて、神はひとり子を犠牲に供することで至らないあなたを先に赦して受け入れて下さったのです。あなたは先に救われたのです。あの夜、あの方がニコデモに言ったことを思い出しなさい。
「モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、「人の子」も高く掲げられなければならない。それは、「人の子」を信じる者が永遠の命を得るためである。
神はそういう仕方で世の人々に対する愛を示された。それでかけがえのないひとり子を与えることにした。それは、彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るためである(ヨハネ3章14~16節)。」
この瞬間、キリスト信仰者は自分の内から罪が消えた感じがします。神の意思に沿う存在になった感じがします。神への感謝に満たされて、神の意思に沿うように生きようと心を新たにして再出発します。しかしながら、神との結びつきを持って生きる以上は、再び自分を神の意思に照らし合わせ始めます。すると、消えたはずの罪が戻って来ているのに気づきがっかりします。その時はまた聖霊の出番です。先ほど聖霊が話しかけると言いましたが、普通は聖霊の話し声は聞こえないと思います。ただ、心の目をゴルゴタの十字架に向けることができ再出発できるというのは、耳には聞こえないが聖霊とのやり取りは確かにあったのです。だから再出発に至ることが出来たのです。実にキリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきます。実はこうすることが、自分は罪に与していない、罪に反抗して生きていることの証しなのです。
このような聖霊が働く内なる霊的な戦いは、本当に内なる戦いなので、外部の人、肉的な人には信仰者の内で何が起きているのかはわかりません。肉的な人にはそのような内なる戦いは無意味なものです。なぜなら、肉的な人にとって、例えば人を傷つけるようなことを言ったり行ったりしなければ十分である、心の中まで神の意思に照らし合わせたら身が持たないと言うでしょう。しかし、霊的な戦いに身を投じた人は、イエス様が救い主になっているので心の中まで神の意思に照らし合わせても大丈夫なのです。ここのところが肉的な人にとって理解できないところになると思います。
たとえ肉的な人がわからなくても、キリスト信仰者は内なる霊的な戦いは全て自分をゴールに導く戦いであるとわかっています。ゴールは復活の日に神の御国に迎え入れられるところです。かの日、天地創造の神のみ前に立たされる日、神は、キリスト信仰者が旧い世で罪を内に持っていたにもかかわらず、罪の赦しのお恵みに留まって罪に与せず罪に反抗する生き方を貫いたと認めて下さいます。その時、霊的な戦いは終結します。なぜなら、肉の体に代わって神の栄光を現す復活の体を着せられるからです。キリスト信仰者が受ける栄冠です。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン