説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2019年11月10日(聖霊降臨後第22主日)スオミ教会
歴代誌上29章10-13節
テサロニケの信徒への第二の手紙2章13節-3章5節
ルカによる福音書19章11-27節
説教題 信仰に生きよ、そして遭遇し祈れ
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書の箇所はイエス様のたとえの教えです。これから王様になるという位の高い人が家来たちに1ムナという単位のお金を与えて、自分の留守中に何か商売か事業をさせて、どれだけ儲けを得るか試す話です。1ムナというのは当時の肉体労働者の日当100日分の金額ということです。どれくらいの金額か、今の感覚で言えば、週休2日で最低賃金で働いた4カ月分くらいの給与ということになるのではと思います。そこで、たくさん儲けを得た家来と少ししか得なかった家来、全然得なかった家来の3人が登場します。王の位を受けて戻ってきた人がそれぞれにどんな態度をとったかは、先ほど読んでいただいた通りです。この教えは少しわかりにくいです。登場する王様は、儲けを得なかった家来のお金を取り上げて、一番儲けた家来にあげてしまいます。儲けを得なかった家来は、王様が不在中、お金をずっと布に包んでしまっていたのですが、それはお金を大切に保管していたことになります。お金は減りもせず、なくなりもしませんでした。でも、王様は大いに不満でした。さらには、自分が王になることを反対する者たちを連れ出して「打ち殺せ」とも命じます。とても残酷な王様にみえます。イエス様は、このたとえで一体何を教えたいのでしょうか?
まず、イエス様がこのたとえを話された理由をみてみます。それは11節に記されています。イエス様が「エルサレムに近づいておられ、人々はすぐにでも神の国が現れると思っていたからである。」どういうことでしょうか?イエス様は大勢の人たちを伴って、ユダヤ民族の首都であるエルサレムに向かっています。人々はイエス様に大きな期待を賭けていました。この方は無数の奇跡の業を行い、民族の宗教指導者たちなんか太刀打ちできない権威をもって、天地創造の神の意思を教えられる。誠にかつての偉大な預言者級の方で、この方がエルサレムに入城すれば神の天使の軍勢が加勢して、イスラエルを占領しているローマ帝国軍を追い払い、占領者と結託している支配層も叩き出して、真の神の国が実現する。そして旧約の預言通りに諸国の民が天地創造の神を参拝しにエルサレムにやってくる。大体そういう期待です。しかし、天と地と人間を造られた神が全人類のために実現しようとしていた計画は、そんな一民族の解放をはるかに超えたもっとスケールの大きなものでした。この時はまだ誰もそのことはわかりませんでした。
そこで実際に起こったことをみてみましょう。イエス様は、エルサレム入城後、宗教指導者たちと激しく対立し、最後は一人の弟子に裏切られ他の弟子たちにも見捨てられて逮捕され、裁判にかけられて十字架刑に処せされました。それまで従っていた人たちも、期待外れだったとイエス様に背を向けました。ところが、死んで墓に葬られたイエス様は神の力で三日目に復活させられ、死を克服し永遠の命の扉を開いた者となって大勢の人たちの前に現れました。このようにして神の人間救済計画が実現したのです。つまり神は、自分と人間との結びつきを損なっていた人間の罪という重荷を全部イエス様に背負わせて十字架の上にまで運ばせて、そこで人間に代わって神罰を受けさせました。こうして神に対して罪の償いが果たされました。人間は、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを純白な衣のように頭から着せられて、神の目から見て相応しい者と見なされるようになります。そして、イエス様が開いて下さった永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むようになります。罪を償ってもらったので罪は赦されました。それで神との結びつきも回復し、あとはその結びつきを持ちながら道を歩むことになります。やがて、この世を去って神の前に立たされる時が来ても、イエス様を救い主と信じる信仰をしっかり携えて生きたことを認めてもらえるので何の心配もありません。父なるみ神のみもとに迎え入れられます。そこは祝宴にもたとえられるところです。
以上が、歴史上の一民族の解放を超えて、文字通り全人類に及ぶ神の人間救済計画でした。神はそれをイエス様を用いて実現されたのでした。
復活されたイエス様はその40日後に天に上げられました。いつの日か天使の軍勢を従えて地上に再臨する日まで、天の父なるみ神の右に座すこととなったのです。そういうわけで、神の国が見える形をとって現われるのは、イスラエルの民が期待したようにイエス様のエルサレム入城の時ではありませんでした。それは、将来起こる主の再臨の日なのです。しかし、当時こうしたことは、民族解放の希望に燃えていた人たちにとっては想像もつかないことでした。イエス様が本日のたとえを話したのは、神の国の到来は彼らの期待した形をとらないということ、そしてその到来の日まで私たちは何をしなければならないか?どう生きなければならないか?ということを教えるためでした。
2.「王と家来」のたとえの意味
少し脇道にそれますが、イエス様のこのたとえは、現実に起きた事件が下地にあります。イエス様が赤ちゃんだった時、これを殺害しようとしたヘロデという王がいたことは皆様もご存知の通りです。ヘロデ王が死んだ後、息子の一人アルケラオが父親の領土の一部を受け継いで王となるためにローマに出かけました。なぜそんなことをするのかと言うと、当時ユダヤ民族はローマ帝国に占領されていたので、王の地位につくためにはもっと上の支配者であるローマ皇帝の承認を得なければならなかったのです。実はアルケラオは、「王」ではなく一ランク下の「領主」になって、ユダヤの地に戻ってきました。しかし、話はそこで終わりませんでした。マタイ2章22節でも言われるようにアルケラオは残忍な性格だったため人々の反感を買います。そこでユダヤ人たちは実際に、本日のたとえに出てくる反対者のようにローマに使い送って皇帝に訴え出たのです。それが功を奏してアルケラオは領主の位を失いました。
イエス様が本日のたとえを話されている場所は、エリコというエルサレム近郊の町です。そこにはアルケラオの建てた宮殿も残っていました。出来事から20年以上たってはいましたが、たとえを聞いた人たちはアルケラオのことをすぐに思い出したでしょう。しかしながら、たとえに出てくる王様は失脚しません。王になって帰国すると反対者を全滅させます。これは何を意味するのでしょうか?それは、イエス様の再臨の日まで彼に敵対することをやめなかった者たち、またイエス様を信じる人たちを迫害した者たちが裁かれて永遠の滅びに落とされることを意味します。つまり、最後の審判のことです。このように、このたとえは、人々がよく知っている出来事を材料にすることで、イエス様の再臨と最後の審判に現実味を帯びさせる効果があるのです。それがイエス様の狙いでした。
最後の審判の日に、イエス様に敵対することをやめなかった者たちや彼を信じる人々を迫害する者たちが裁かれる。ということであれば、私たち信仰者は、そのような敵対者に遭遇しても恐れてはいけないし、逆にそのような人たちの心が変わるように祈りながら働きかけていかなければいけません。さらに、まだイエス様のことを知らない人たちに対しては福音を宣べ伝えて、一人でも多くの人がイエス様の純白な衣を受け取ることができるようにしていかなければなりません。
さて、多く儲けた家来、少なく儲けた家来、全然儲けなかった家来と王様のやりとりが何を意味しているのかを見ていきましょう。
最初の家来は、王様にもらった1ムナが商売した結果、10ムナの儲けを得ました。次に同じ1ムナのお金で5ムナの儲けを得た人が出てきます。二人に対する王様の処遇ですが、日本語訳の聖書では「10の町の支配権を授けよう」と褒美が与えられたように書かれています。しかし、ギリシャ語の原文を見ると、「十の町の支配権を持ちなさい/支配権を持つ者になりなさい」と命令文になっていいます。褒美をあげるというより責任を与えたことになります。5ムナの儲けを得た人も同様です。日本語で「5つの町を治めよ」と命令文に訳されていますが、これは原文通りです。そういうわけで、10の町、5つの町の支配権とは儲けの大きさに比例した褒美を与えたというのではなく、10倍の儲けを得た者にはその実力相応の責任を与える、5倍の儲けを得た者にはそれ相応の責任を与える、ということです。5倍の儲けの人には10の町の支配権を任せるというような無理はさせない。そのかわりに、10倍の儲けの人には5つの町の支配権で済ませるということもしない。このようにイエス様は、私たち一人一人がどれだけの力を持っているかをよく吟味して、それに相応しい課題や任務をお与えになると言えます。私たちの尺度からみて不相応だとか不公平だということも出てくるかもしれませんが、基本はそういうことだと思います。
王様が1ムナを与えた家来は全部で10人いましたが、他の7人の成果は触れられていません。でも、みんな同じ原則に則って処遇を受けたでしょう。7ムナを儲けた人には7つの町、3ムナを儲けた人には3つの町という具合に。
ここで大変なことが起こりました。家来の中に儲けが全然なかった人がいたのです。その人は、1ムナをずっと布に包んでしまっていました。なぜか?商売に失敗して1ムナを失ってしまった時の王様の処遇を恐れたのです。家来は王様に言います。あなたは、自分では預けなくとも、それがあるかのごとく取り立てをする、自分では種を蒔かなくとも、蒔かれたかのごとく刈り入れを要求する、そういうお方だ、と。つまり、何も取り立てするものがなくても、また刈り入れするものがなくても、取り立てたり刈り入れたりしようとする方である。こうなると商売に失敗して持ち金ゼロになった場合、取り立てを要求されたらかなわない。それなら、いらぬリスクは避けて1ムナは保管して、後でそのまま返してしまえば無難だ、という結論になったのです。
これに対する王様の処遇はとても厳しいものでした。この家来に対し、リスクを恐れて商売しなくても銀行に預ければ利息がつくではないか、と言います。「銀行」と言う訳語を見ると現代っぽく感じられ、なにかATMが付いた建物を連想しそうになりますが、要は金貸し業とか両替商のようなお金を扱う業者のことです。王様の言っていることを原文通りに訳すと「私が帰ってきた時に、そのお金を利息と一緒に(業者から)要求できたのに」ということです。当時の利息の算出方法は知る由もありませんが、利息を得るために何か交渉しなければならないということです。ここから、王様の真意は、利息のもうけが目当てではなくて、家来が何がしかの動きを示すことだったと言えます。
王様としては、どんなに小さくても儲けに相当する責任を負わせるつもりでした。それが、儲けゼロではなんの責任も負わせられません。家来が王様のことを、取り立てたり刈り入れたりするものが何もなくてもそうする方だと言ったことに対して、王様は、そう思っているのなら、そうしてやろう、と言わんばかりに、家来の保管していた1ムナを取り上げて、10ムナ持っている家来にあげてしまいます。どうして、既に十分持っている者にさらにあげるのかというと、一番成功した者に対する偏愛ではなく、その者が一番大きな責任を担えると信頼しているからでしょう。
3.1ムナをキリスト信仰者の「賜物」とすると
ここで、たとえに出てくる王様、家来そして1ムナというお金は何を意味しているのかを見てみましょう。これは一般には、神がキリスト信仰者に与える賜物として理解されると思います。もちろん、それもありますが、私は今回説教を準備していた時、それは「信仰」も意味するのではないかと思いました。まず、「賜物」としてみた場合、どういうことになるかを見て、その後で「信仰」としてみた場合を見てみます。
王様は、紛れもなく最後の審判の時に再臨するイエス様です。家来と言うのは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者です。神が与えられる賜物とは、例えば「ローマの信徒への手紙」12章で使徒パウロが、預言をする賜物、奉仕をする賜物、教える賜物、勧めを行う賜物、施しをする賜物、指導をする賜物、慈善を行う賜物などをあげています。どれも教会を作り上げ成長させるためのものです。この他にも教会の成長に役立つ賜物はいろいろあります。よく言われるものとして音楽の賜物があります。その他にも教会の成長に資する賜物はいろいろ考えられます。
そこで、教会の成長とは何かということですが、それは教会が聖書の御言葉という土台に立って御言葉を宣べ伝えること、洗礼を通してイエス様を救い主と信じる人を教会に招き入れること、聖餐を通して招き入れられた人の信仰を揺るがないものにしていくこと、これらを通して成長は果たされます。もちろん、教会に繋がる人たち同士の連携も成長にとって大事です。
たとえの中で王様は、10ムナの儲けを得た家来に対して、「お前はごく小さな事に忠実だった」と言います。小さな事とは1ムナのことですが、神が私たちに与える賜物も小さな事とはどういうことでしょうか?この同じ言葉は、ルカ16章の「不正な管理人」のたとえのところでも出てきました。そこでお教えしましたが、「小さな事」ギリシャ語のエラキストスελαχιστοςは別に大きさの大小のことだけでなく、価値のあるなしにも使われます。つまり、1ムナというお金が金額が少ないということではなく、お金自体が「ささいなこと、取るに足らない事」であると言っているのです。お金というものは、人の心を神から引き離す力を持っているので、それでささいなもの取るに足らないものということになります。ところが、そのようなお金に心を奪われてそれに支配されてしまうのではなく、逆にお金に対して主人になれる者はそれを神の意思に沿って使うことができる。まさに、「取るに足らないものを取り扱う際に神に対して忠実」ということでした。神の意思に沿ってお金を使うというのは、神を全身全霊で愛するということ、そしてその愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛するということ、これらの愛のために使うということでした。
同じことが賜物にもあてはまります。神から与えられたとは言え、それを自分の繁栄や名声のために消費してしまったら、お金に仕えてしまうのと同じです。賜物を神の意思に沿うように用いようとすると、お金の時と同様、賜物に対しても主人として立ち振る舞うことになります。それなので、神から与えられたとは言っても、「小さな事」と言った方が与えられた側は得意がらずに謙虚になるのではないかと思います。
4.1ムナを「信仰」とすると
以上は、家来が王様から頂いた1ムナは、信仰者が神から与えられた賜物と考えられるということでした。次に、それを「信仰」とみた場合、どういうことになるかをみてみます。キリスト教では「信仰」というのは、神から与えられて人間は受け取るという性格を持っています。人間の救いは、神がイエス様を用いて全て整えて下さった、だから、あとは人間の方が、これらは本当にあの時起こったのだとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、その救いを所有することが出来ます。これらのことがわかるとか、イエス様を救い主と信じるというのは聖霊が影響力を行使しないと出来ません。このイエス様を救い主と信じる信仰を神から与えられたものとすると、次に問題となるのは儲けは何を意味するかです。
1ムナが10になったり5になったりすると言う時、それらは一体何か?人によっては、一生懸命伝道活動をして信者を増やすのに貢献したとか、献金を増やすのに貢献したとか、教会をこれだけ拡大したとか、あるいは慈善活動でこれだけの人を助けたとか、そういう具体的な形で表れる成果を考えるかもしれません。もちろん、それは間違いではないです。ただ、そういう具体的な形で表れるもの以外にもあることを忘れてはいけないと思います。例として、ローマ12章でキリスト信仰者の心得をパウロが教えています。悪を憎むが悪に悪を返さない、迫害する者のために祝福を祈る、相手を自分より優れた者として敬意を持って接する、高ぶらず身分の低い人々と交わる、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣く、自分で復讐しないで神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせる、乾いていたら水を飲ませる等々。これらはまさに信仰から育ってくる良い実です。信徒数や献金額の増加とは性格が異なりますが、これらのことが出来るようになることも1ムナから生じる儲けの中に数えていいと考えます。
こうした良い実に関連して、キリスト信仰を持って生きるためにこの世の流れに抗するということも考えることができます。信仰を持って生きることから生じる様々な苦労や苦難に遭遇することも「儲け」に入れてよいと考えます。信仰ゆえに苦労や苦難に遭遇する、それが多ければ多いほど大きな儲けになるということです。そう考えると、1ムナを布に包んでしまった人は、この世の中に入って行かず苦難や苦労に遭遇しないですむようにした人と言えます。ルター派的な言葉を使えば、神から与えられた召命や課題を回避するということでしょう。この世の中に入って行かなかったら、「喜ぶ人と共に喜ぶ」も「泣く人と共に泣く」もなくなってしまいます。さらに、この世の中に入ったとしても自分がキリスト信仰者であることを隠し通したら、信仰ゆえの苦労や苦難を回避できることになります。そういう状態でしたら迫害も受けないで済むし、迫害する者のために祈ることもなくなります。楽で簡単ですが、儲けもなくなります。
イエス様としては、信仰者にはこの世の中にどんどん入ってもらって、そこで世の流れに抗するように生きよ、ということなのでしょう。そうすることで大きな儲けが得られます。逆もまたしかりです。
このように1ムナは「信仰」も意味することができるとすると、それでは信仰も賜物同様「小さな事」と言っていいのでしょうか?ここで思い出しましょう、イエス様は弟子たちから「大きな信仰を与えて下さい」と懇願された時、お前たちは信仰をからし種のように捉えよ、と教えました。からし種とは1ミリにも満たない種が最後は数メートルの木に成長するという種です。信仰をそのように捉えると、初めは小さくても必ず成長し大きくなるということが確信出来ます。ただそれも、ちゃんとこの世の中に入って行って、流れに抗することをしないと、成長は起こりません。
そういうわけですから、兄弟姉妹の皆さん、せっかく頂いた信仰を隠してしまうことなく世の中に入って行って、いろんなこと、いろんな人に遭遇していきましょう。そこで、私たちを豊かにするものや人に出会ったら、まず神に祈り感謝しましょう。逆に出会うことや人が私たちにとって試練になれば、その時も神に祈り助けと導きをお願いしましょう。神は、祈る私たちを通して働かれます。
イエス様を救い主と信じる信仰に生きよ、
そして遭遇し祈れ。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン