2019年11月18日月曜日

聖書の神が私の神になる時、私は復活の日に復活させられる (吉村博明)

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年11月17日(聖霊降臨後第23主日)スオミ教会

マラキ書3章19-20節
ユダの手紙17-25節
ルカによる福音書20章27-40節

説教題 聖書の神が私の神になる時、私は復活の日に復活させられる


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.「復活」はしつこいテーマか?

本日の福音書の箇所は、復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについて教えるところです。復活というのは、人間はこの世から死んだ後どうなるかという問いに対する聖書の答えの核心です。本教会の礼拝説教でも何度も取り上げてきました。本日の個所では、復活をまた別の角度から見ていくことになります。同じ事柄ですが、いつもいろんな角度から見ていくことで全体像がはっきりしてきます。

復活は、人間は死んだらどうなるかという問題に関わります。それで、死ぬだの復活だの、どうしていつもそう暗い話ばかりするのか、もっと明るい話題を取り上げてみんなをハッピーにするのが宗教の役割ではないか、と煙たがられるかもしれません。特に最近は今月初めに全聖徒主日があったせいか、復活についてお話しすることが多かったのでそう思われてしまうかもしれません。でも、誤解して頂きたくないのですが、キリスト信仰者は年がら年中、死んだらどうなるかばかりを考えて生きているわけではありません。普段はそんなことを考えないで普通に生きています。ただ何かの拍子でふと、あれっ、人間は、またはこの自分は死んだらどうなるんだっけ、と頭によぎる時はあります。そんな時はすぐ、ああ、聖書はこう言っていたな、と思い出して、それを確認したらまた普通に戻って普通を続けます。だから、死んだらどうなるかという問いに埋没して抜け出られなくなることもないし、逆にそんな問いには近づいて欲しくないと懸命に避けることもしない。来たら来たで、確認してハイ終わり、です。確認するものがあるというのはいいことです。

今日の説教は福音書の個所の解き明かしが中心になりますが、解き明かしに入る前に、復活について一般的なことを述べておきます。ただし大きな事ですので、復活の全容については立ち入らず、本日の個所の理解に役立つことだけ見てみます。復活は、まず十字架にかけられて死んだイエス様の死からの復活があります。これは約2000年前に起きた過去の出来事です。それから、イエス様を救い主と信じる者たちが与る将来起きる復活があります。ここで注意すべきことは、将来の復活は将来のある時に人類全員一括して関係してくる出来事ということです。人間が一人亡くなるたびにその都度起きることではありません。その将来のある時とは、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地が創造される時(イザヤ6517節、6622節、黙示録2011節、221節)、また、今ある全ての被造物が揺るがされて除去され、かわりに唯一揺るがされずに残る神の国が現れる時(「ヘブライ人への手紙」122728節)です。イエス様が再臨するのも同じ時期になります。

黙示録20章を見ると、そういう天地の大変動が起こる時に、まずイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした者たちが復活させられる。これは第一の復活と言われています。その次に残りの死んでいた者に対して神を裁判官とする裁判が行われます。全ての人が前世でどんな生き方をしたかを記した記録があって、それに基づいて判決が言い渡されます。ある者は神の国に迎え入れられますが、別の者は永遠に燃えさかる火の海に投げ込まれます。黙示録には「第二の復活」という言葉はありませんが、神の国に迎えられた者たちがそれに与るということになります。

ところが、第一テサロニケ4章を見ると、使徒パウロは復活について次のように述べています。イエス様再臨の時、まずイエス様としっかり繋がりがある死者たちが復活させられる。その時点でまだ生きている信仰者たちが彼らと合流させられて天のみ神のもとに迎え入れられる。ここでは特に裁判のことも、第一の復活、第二の復活ということもありません。黙示録では第一と第二の復活の時に死んだ者たちに判決が言い渡されます。つまり、みんな死んでいるわけです。パウロは生きている人のことも言っています。

そこで、黙示録と第一テサロニケで言われていることを頑張って合わせて理解しようとすると、大体次のことが浮かび上がってきます。天の御国に迎え入れられる者たちというのは、まず、その時点で既に死んでいた者たちは復活させられて迎え入れられる。これはいいでしょう。次に、その時点でまだ生きていた者たちに関しては、そのままの姿かたちで迎え入れられるということはないであろう。というのは、第一コリント15章でパウロは、復活させられる者は皆、この世の肉体のように朽ちてしまわない、神の栄光を現わす復活の体を着せられると言っているからです。なので、この世の姿かたちのまま天の御国に迎え入れられるということはありません。みな、死から復活させられた者たちと同じ復活の体を着せられるわけです。誰もこの世の姿かたちで天の御国に迎え入れられないという意味で、皆がこの世の肉体から離別するということになります。それから、もう一つ忘れてはならないことは、迎え入れられる者たちと入れられない者たちの二つに分かれるということは、やはりそれを決める最後の審判があるということです。

以上から、復活とは、将来に一括して起きることであり、人間一人一人死ぬ度に起こることではないことがお分かりいただけたかと思います。

 それでは、死んだ人たちは、将来起きる復活の日まではどこで何をしているのか?これも、本教会の説教の中でルターの教えに基づいて何回もお教えしました。亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っているということです。ところで日本では一般的に、人は死んだらすぐ天国か何かわからないがどこか高いところに舞い上がって、今そこから私たちを見守ってくれている、という考え方をする人が多いのではないかと思います。しかし、復活というものがあるキリスト信仰ではそんなことはありえません。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っている。高いところに行くのは将来のことで、その日その高いところから地上を見下ろしても、その時はもう天地大変動の後ですので、今ある地上はもう存在していません。

 それから、死んだ人が眠ってしまうだけなら、誰があの世から見守ってくれるのかと心配する向きもあるかもしれません。これもキリスト信仰では、見守って下さる方は亡くなった者ではなく、天と地と人間を造られた創造の神しかいません。この私たちを見守って下さるのは私たちの造り主である神であり、この方が、私たちの仕えるべき相手です。

 それでは、天の御国への迎え入れというのが起きるのは復活の日まで待たないといけないとすると、天国は今空っぽなのかという疑問が起きるかもしれません。もちろん、父なるみ神自身はおられます。天に上げられたイエス様も神の右に座しておられます。あと天使たちもいます。他にはいないのでしょうか?そこで気になるのが本日の福音書の個所です。イエス様が言います。かつて神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言った、と。そして神は生きている者の神である、死んだ者の神ではない、とも。そうなると、この三人は今生きているということになって、それはもうとっくに復活してしまったから、ということになるのか?これから行う解き明かしは、このことにも立ち入ります。

2.この世での有り様と復活の時の有り様

まず、本日の福音書の個所の出来事の次第を見てみましょう。サドカイ派というユダヤ教社会のグループの人たちがイエス様を陥れようと議論を吹っかけました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とする貴族階級のエリート・グループです。彼らは、旧約聖書の中の律法集であるモーセ五書を重要視していました。また彼らは、復活などないと主張していました。これは面白いことです。新約聖書に頻繁に登場するファリサイ派は復活はあると主張していました。復活という信仰にとって大事な事柄について意見の一致がないくらいに当時のユダヤ教は様々だったのです。(この他に聖書には登場しませんが、エッセネ派という派もあり、これは有名な死海文書を形成したグループです。復活はあるのかないのか、エルサレムの現実の神殿は正当なものかどうか、という争点で色分けすると三つのグループの立ち位置がわかり、当時のユダヤ教の多様性が明らかになります。この辺のことは礼拝の説教では取り上げることではありません。)

サドカイ派の人たちが、イエス様の教えが間違っていることを人前で示そうとして復活をテーマに持ち出しました。同じ女性と結婚した7人兄弟の話です。申命記255節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという規定があります。7人兄弟はこの規定に従って順々に女性を娶ったが、7人とも子供を残さずに死に、最後に女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんながよみがえった時、女性は一体誰の妻なのだろうか?ローマ7章でパウロが言うように、夫が死んだ後に別の男性と一緒になっても律法上問題ないが、夫が生きているのに別の男性と関係を持ったら十戒の第6の掟「汝、姦淫犯すべからず」を破ることになる。復活の日、7人の男と1人の女性が一堂に会した。さあ大変なことになった。復活してみんな生きている。この女性は全員と関係を持っていることになる。ここからわかるようにサドカイ派の意図は、イエス様、復活があるなんて言うと、こういう律法違反が起きるんですよ、律法を与えた神はこんなことをお認めになるんですかね。サドカイ派はどんな表情で聞いたでしょうか?群衆の前で、イエスよ、これでお前の権威もがた落ちだ、とニヤニヤ顔で勝ち誇った表情だったでしょうか?それとも、ニヤニヤは心の中に留め、表情はあたかも素朴な疑問です、と言わんばかりの無垢を装う演技派だったでしょうか?

 これに対するイエス様の答えは、サドカイ派にとって思いもよらないものでした。イエス様の論点は二つありました。第一の論点は、人間のこの世での有り様と復活した時の有り様は全く異なるということ。第二の論点は、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことです。まず、復活の有り様を見てみましょう。

人間は復活すると、この世での有り様と全く異なる有り様になる、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない有り様になる。つまるところサドカイ派は、人間は復活した後も今の世の有り様と同じだと考えて質問したわけだが、それは誤った前提に基づく質問である。それでは、復活した者はどんな有り様になるのか?まず、復活した者がいることになる場所は、今の天と地が新しい天と地に取って代わられた次の世ということになります。そして、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような霊的な存在になり、第一コリント15章のパウロの言葉を借りると、復活の体、朽ちることのない体、神の栄光で輝いている体を着せられた者になります。そういう復活に与る者は「神の子」である(36節)と。それなので、復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういうこの世の肉体を持って生きていた時の人間的な事柄に心と神経をすり減らすことはなくなって「神に対して、神のために」生きる「神の子」になる。この、復活した者が「神に対して、神のために生きる」ということは、あとでアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神のところで大事なことになりますので、また後ほど見ていきます。

 以上が、イエス様の第一の論点でした。サドカイ派は復活を正しく理解していない。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などという質問が出来たのだ。復活を正しく理解していれば、そんな質問は生まれてこない。完璧に的外れな質問だったのです。

3.「神に対して/神のために生きる」とは?

 イエス様の第二の論点は、サドカイ派の律法理解が表面的なものであることを暴露するものでした。出エジプト記36節で神がモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出るところがあります。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んで既にいなくなった人たちなのに、神は彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神であると言う。これを引用したイエス様はたたみ掛けて言いました。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ」(38節)。イエス様は彼らが生きていると言っているように聞こえます。アブラハムたちはやはり復活の日を待たずに復活して今、天の父なるみ神の御許に永遠の命を持つ者としているということなのか?

ここで問題となっていることは、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことが、復活があることの論拠になっているということです。それで、アブラハム、イサク、ヤコブが既に一足早く復活させられて今神の御許におられる、そういうふうに考えることも可能です。ただ、その場合、じゃ、どうしてヨセフは言われなかったのか?あんなに信心深く憐れみに満ちていたのに。ヨセフはアブラハムたちと一緒に復活させられず、私たちと同じように復活の日まで眠っているということなのか?アブラハムたち3人とヨセフを区別するものは何なのか?そういうことを考えると、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神というのは、彼らが今天の御国にいるということではなく、みんなと同じように復活の日まで眠っているが、それでもこの聖句が復活がある根拠になる、じゃ、この聖句はどう理解したらよいのか?私は、アブラハムたちが今復活して生きているという可能性を保留したまま、別の理解の仕方もあることが今回分かりました。それをこれから述べていきます。

カギはイエス様の最後の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」にあります。実は、この日本語訳はまずい訳です。「神によって」と言うと、「神に依拠して」とか「神のおかげで」という意味になりますが、実はこの個所ではそういう意味ではないのです。もちろん、「すべての人は、神によって生きている」という言うこと自体は間違っていません。全ての人間は神によって造られて神から食べ物や着る物や住む家を与えられているという真理からみれば、まさに「全ての人は神によって生きている」と言うのはその通りです。しかし、それは復活について教える本日の個所と全然かみ合いません。本日の文脈から乖離してしまいます。加えて、「全ての人」というのもここでは全人類のことを指していません。誰を指しているかと言うと、35節に言われている人たち、「復活に与るのに相応しいとされた人たち」を指しているのです。文章というのは、それ自体は正しく意味を成すことを言っていても、文脈と無関係だったら意味を成しません。このイエス様の言葉が復活の教えにかみ合う意味を見つけ出さなければなりません。そんな意味は見つかるでしょうか?ここはまさに説教者の腕の見せどころです。

まず、「神によって」と訳されているギリシャ語のもとの言葉は「~によって」と訳さず、ほとんど直訳的に素直に「~に対して」とか「~のために」と訳します(後注1)。これが私個人の勝手な訳でないことは、英語訳の聖書NIVを見てもto him「彼に対して」と言っていて、「によって」とは言っていません。ドイツ語のEinheitsübersetzung訳ではfür ihn「彼のために」、スウェーデン語訳でも「彼のために」(för honom)、フィンランド語訳でも「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)です。このように少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありません。

次に、「神に対して/神のために生きる」というのは、どういう生き方かを見ていきます。わかりそうでわかりにくいです。イメージとして、神の方を向いて、神にお仕えするように生きる、ということが思い描かれますが、もっと具体的にならないでしょうか?それがなるのです。「神に対して/神のために生きる」という同じ言い方がローマ6章にあります。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は罪に対して死んでおり、神に対して生きている、と言っているところです。日本語訳では違う言い方で訳されてしまいますが、ギリシャ語で読むと、あっ、同じ言い方だ、とわかるのです(後注2)。そこでローマ6章で「神に対して/神のために生きる」がどんな生き方か言われていることを見れば、本日のイエス様の言っていることもわかります。

ローマ6章のパウロの教えは2週間前の説教でもお話ししました。それを少し復習します。神の意思を表す律法は、人間が罪を持つ存在であることを暴露する。しかし、神のひとり子のイエス様が十字架の上で神罰を受けたことで、人間の罪を全て人間に代わって神に対して償って下さった。だからイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを純白な衣のように頭から被せられて、神から罪を赦された者に見なされるようになる。まさに罪の赦しが神からの「お恵み」として与えられる。それなので、律法を通して罪がますます暴露されようとも、罪の赦しのお恵みは常にそれを上回ってある。以前は罪が人間を永遠の死に陥れていたが、イエス様の十字架と復活の出来事の後は罪の赦しのお恵みが人間を永遠の命に導くようになった。

そういうふうに言うと、罪の赦しがお恵みとしてあるのなら別に罪にとどまってもいいじゃないか、どうせ赦されるんだから、などと言う人も出てくる。パウロは、勘違いするな!と言って反論する。「我々キリスト信仰者は罪に対して死んでしまったので、罪にとどまって生きるなど不可能なのだ」。ここで「罪に対して死んでいる」ということが出てきます。さあ、どういうことか?パウロは、そのことは洗礼の時に起きたと言います。どういうふうに起きたか?人間は洗礼を受けるとイエス様の死に結びつけられると同時に彼の復活にも結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、我々の内にある罪に結びつく古い人間も十字架につけられたことになり無力化する。そうして我々は罪にお仕えする生き方から離脱する。加えてイエス様は死から復活されたので、もう死は彼に力を及ぼせない。死が力を及ぼせないというのは、人間を死に陥れようとする罪も力を失ったということだ。イエス様が十字架で死なれた時、それは罪と死が彼に勝ったのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が壊滅的な打撃を受ける出来事であったのだ。日本語訳で「罪に対して死なれた」というのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれたということだ。そのことが十字架という一度限りの出来事をもって未来永劫にわたって起きた。

さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活された。それからは生きることは、神の栄光を現わす器として生きることになる。この、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現わす器として生きることは、イエス様だけでなく、洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまる。洗礼を受けた者は復活の日に神の栄光を現わす体を着せられる日に向かってこの世を歩むということです(後注3)。

4.神は復活に向かう者の神

 このように「神に対して/神のために生きる」とは、復活の命と体に向かって、天の父なるみ神、もともとは自分の造り主である方のもとに向かって生きることです。そのように生きる者は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、イエス様の死と復活に結びつけられて、その道に置かれて歩む者です。イエス様が「神は生きている者たちの神である」と言うのは、このことです。ここで「生きている」というのは、ただ単にこの世で生存していることではなくて、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むことです。神はそういう者たちの神であると言うのです。それなので、「神は~の神である」と言う時、その~はその道を歩んでいるということです。こういうふうに「神は~の神である」という言い方は、その~は復活が約束されている者という意味が含まれています。その~に自分を当てはめてみて下さい。この私が聖書の神、つまり創造主でありイエス・キリストの父である神のことを「私の神です!」と言うのは、私はその神に向かって歩んでおり、復活の日に神は私を復活させてくれると信じていると告白することになります。同じように、「神はアブラハムの神である」と言うのも、アブラハムは復活の日に復活させてもらえるということを意味します。

「神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言い方にはこのような意味が含まれていることは、復活を信ぜず、復活の内容も知らないサドカイ派の人たちには全く意味不明だったでしょう。しかし、イエス様の答えを聞いて、かつて神が自分のことをアブラハムの神と言ったのは、単に過去の時代にアブラハムに対して神として立ち振る舞ったという過去の意味ではなく、何か今の自分たちにも関係がある深い意味があると思い知らされたでしょう。ただ、それがどんな意味か具体的なことがわかるのはイエス様の十字架と復活の出来事が起きるのを待たなければなりませんでした。それでも、イエス様の二つの論点を聞いた律法学者が聖書には何かただ事ではないことがあると感じ取りました。日本語訳では「先生、立派なお答えです」とお上品に訳していますが、私などは「先生、その答え、ちょっと凄いよ」と言い換えるでしょう。

最後に、なぜ神はアブラハム、イサク、ヤコブの3人だけの神であると名乗ったのか?ヨセフやベンヤミンは入れなかったのか、ということについて。神がモーセにこう名乗ったのはどんな時だったでしょうか?それは、これからモーセがイスラエルの民を率いて奴隷の国を脱して約束の地カナンに民族大移動する任務を与えられる場面でした。神はアブラハムとイサクとヤコブに対して、お前の子孫にカナンの地を与えると約束していました。その約束をこれから果たすという時に、神はその約束を述べた3人の名を引き合いに出したのです。ヨセフもベンヤミンも皆、アブラハム、イサク、ヤコブ同様に復活に与ることには変わりありません。ただ、モーセの前で神は約束した相手に限定して名乗って、自分はした約束を忘れない、必ず果たす者である、と明らかにしたのです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、聖書の神は約束したことを忘れず、必ず果たす方というのは、私たちの復活もそうです。聖書の神が私たちの神になるとき、私たちは復活の日に復活させられるのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注1αυτω代名詞、男性、単数、与格
(後注2)ルカ2038αυτω ζωσιν、ローマ610ζη τω θεω11ζωντας (…) τω θεω (…)
(後注3)「罪に対して死ぬ」の「~に対して」の与格はdativus incommodiの意味であると、2週間前の説教の後注に記しました。「神に対して生きる」の「~に対して」の与格は対照的にdativus commodiの意味になるわけです。