説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教2015年7月5日 聖霊降臨後第六主日
創世記3章8-15節
コリントの信徒への第二の手紙5章11-15節
マルコによる福音書3章20-30節
説教題 「何が赦されない罪か」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1. はじめに
本日の福音書の箇所は、心を重苦しくする内容かもしれません。というのは、28節でイエス様は、全ての罪は赦される、と言った後すぐ、29節で、永遠に赦されない罪がある、と言います。聖霊を冒涜することがそれである、と言うのです。「罪が赦される」と言う時、新約聖書のギリシャ語で受け身の形は普通、天の父なるみ神を隠れた主語とします。それで、神は全ての罪を赦すが、聖霊を冒涜する罪は赦さない、ということになります。神が罪を赦すというのは、どういうことでしょうか?それは、神と人間の間にある断絶が解消されて両者の結びつきが回復すること。そして人間はこの世の人生を神との結びつきを持って生きられるようになること。順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は自分の造り主である神のもとに永遠に戻れるようになること。こうしたことが罪を赦された人に起こります。罪が赦されないと、逆のことが起こります。人間は神との結びつきを持てないまま、この世を生きることになり、この世から死んだ後も、自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることができなくなってしまいます。
それでは、神によって赦されない罪、聖霊を冒涜する罪とは、どういう罪でしょうか?また、それ以外の罪は全て赦されると言う時、赦しというものはどのようにして得られるのでしょうか?今日は、そういったことを考えてみたいと思います。
2. イエス様の怒り
その前に、聖霊を冒涜することがどんなに重大なことか、それが本日の福音書の箇所のイエス様の反応によく表れているので、それを見てみましょう。
イエス様は、不治の病を癒したり、悪霊に苦しめられている人たちからそれらを追い出したりして、大勢の人々を助けていました。その噂は方々に広がって、各地からもっと大勢の人たちが助けてもらおうとやって来て、大変な騒ぎになりました。悪霊というのは、先週の説教でもお話ししましたように、人間を様々な仕方で苦しめることで、自分は神から見放されたとか、また神など何の役にも立たないとか存在しないと思わせて、人間と神との間を引き裂くことを目的とする霊的な存在です。イエス様がそのような霊に苦しめられている人の前に立つと、霊は皆パニック状態に陥って、命じられるままに出て行ったことが福音書の中で多く伝えられています。
さて、モーセの律法の専門家たちが来て、イエス様の活動が神の意思に則ったものかどうかを調査しました。そして、あれは、悪霊のボス、ベルゼブルを内に持っていて、その力で悪霊を追い払っているのだ、という結論を下しました。ベルゼブルというのは、もともとはカナンの民族が信じた神で、列王記下1章にバアル・ゼブブという名で出てきます。それがイエス様の時代には、悪霊の首領を意味するようになっていました。
これに対してイエス様は、悪霊が悪霊を追い払うことなど出来ないと反論します。そんなことしたら、国が二分して内乱状態に陥って自滅するのと同じことになるではないか。また家が内輪もめになって成り立たなくなるのと同じことになるではないか。サタンだって内輪争いに陥ったら共倒れになるのだ、と。
そのように、イエス様の悪霊追い出しは同じレベルの者同士がやりあっているのではないとすると、一体どういうことなのか?イエス様は次にそれを説明します。強い者がいる家に入り込んでそこから物を奪い取ろうとする時、最初にその強い者を縛り上げないと成功しない。つまり、イエス様が悪霊を追い出すことができるのは、それを既に縛り上げてしまったからだ。強い者とみられる悪霊よりもはるかに強い者がそれを縛り上げで、手足が出ない状態にしてあるからだ。自分がそのはるかに強い者なのだ、と言うのであります。イエス様が他人の家に入り込んで物を奪い取ると言うのは、相手が悪魔とは言え、あまりいいたとえに聞こえませんが、実は、奪い取るものとして言われている「家財道具」とは、ギリシャ語のもとの単語はスケウオスσκευοςと言います。原文にあるように複数形の時は家財道具の意味も持ちますが、基本の意味は「道具」とか「器」です。その意味をもとにして、「肉体を持つ人間」も意味します。つまり、奪い取るというのは、悪魔に囚われた状態の人間を奪い返すという意味なのです。
このようにイエス様は、自分が悪霊を追い出すことができるのは、自分が悪霊なんかをはるかに上回る力を持っているからだと証します。では、その力はどこから来るのか?律法学者はイエス様の内に悪霊がいると言った、それが聖霊を冒涜したことになる。ということは、聖霊がイエス様の内にいて働いていたことになります。聖霊の働きを悪魔の働きと言ったことが、聖霊に対する冒涜になって、それが赦されない罪である、というのであります。赦されない罪というのは、情け容赦が通用しないということです。イエス様がこんな非情なことを言うのは意外な感じがしますが、この下りは読めば読むほど、イエス様の苛立ちや怒りが伝わってきます。悪魔同士の内紛と共倒れを言うために、同じようなたとえを三回も言うのはくどい位です。そして、たとえを言った後で「はっきり言っておく」と前置きして、律法学者が言ったことは聖霊に対する冒涜で、それは赦されない罪になると断罪するのです。この「はっきり言っておく」というのは、ギリシャ語原文では「まことにお前たちに言う」Αμην
λεγω θμινですが、感じを出そうとすると、「これから言うことは、脅しでもなんでもないんだぞ」という訳になるでしょう。そう言ってから、聖霊に対する冒涜は赦されない罪になると警告するのであります。
3. 罪の赦しについて
イエス様は、聖霊に対する冒涜以外の罪や冒涜は赦されると言います。赦されない罪についてみる前に、罪が赦されるということはどのようにして起こるかを見てみます。先ほど述べましたが、罪が赦されるというのは、人間と神との間の断絶が解消されて、人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、万が一この世から死んだ後も神のもとに永遠に戻ることができるようになることだと申しました。従って、罪とは、人間と神との間に断絶をもたらして、人間が神との結びつきを持てなくするようにするものです。
神はこの断絶状態を悲しみ、これをなんとかしようと思いました。もともと自分が創造した人間ですので当然です。そこで何をしたかと言うと、ひとり子イエス様をこの世に送り、人間と神との結びつきを断ちきる原因であった人間の罪を全部イエス様に請け負わせて、人間の代わりにその罰を十字架の上で受けさせて死なせた。そして三日後に死から復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開かれた。そこで人間は、これらのことが自分のために起こったとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、神から「罪の赦しの救い」を得て、神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道に置かれて、それを歩み始めることとなります。
ここで、「罪」とか「罪を犯した」いう言葉を聞くと、私たちはとかく他人に危害を加えるような行為を思い浮かべます。しかし、天の父なるみ神が問題にする罪とは、そういう外面的な行為に限られません。たとえ行為として罪を犯さなくても、人間の内には罪の種のようなものがあるのです。誰からも非の打ちどころのない人と言われるような人でも、もし境遇や環境の変化があれば、行為に現れてしまうかもしれないし、また現れなくても思考の中で形を取るかもしれない。そういう罪の種を原罪と言います。先ほど朗読していただいた旧約聖書の箇所は堕罪の出来事についてでしたが、最初の人間アダムとエヴァの堕罪の時にこの原罪が人間の内に入り込み、それ以後全ての人間が受け継いできたのです。そのような奥深くて除去不可能なものが、洗礼を受けることで、イエス様の神聖さを衣のように頭から被せられて覆い隠されます。そして神は、そのような衣をまとった者としてキリスト信仰者を見て下さるのです。
そういうわけで、神が罪を赦すというのは、大体神が次のように言ってくれることと言ってよいでしょう。「もちろん、お前が罪を犯したという事実は消えないし、またこの世で肉を纏って生きる限り原罪も消えない。しかし、お前は、私のひとり子イエスが身代わりになって死んだと信じ、それで彼を救い主と信じる信仰がある。だから、私はイエスの犠牲に免じてお前を赦そう。お前が纏っている白い衣に私は目を留めよう。それゆえ、お前が犯した罪は、もう不問にする。あたかもなかったかのようにする。だから、お前は心配せず新しい命の道をしっかり歩みなさい。」
ここで一つ難しい問題を考えてみましょう。それは、人が殺人のような何か大きな罪を犯した時、もしその人がキリスト信仰者で、自分は「汝殺すなかれ」や「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という神の掟に背いてしまったと認めて悔いて、神に赦しを乞えば、神は本当に赦してくれるのだろうか?また、もしその人がキリスト信仰者でなくても、その後魂の変遷があってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、犯した罪を悔いて神に赦しを乞うならば、神はそれも赦して下さるのだろうか?被害者の肉親が納得しないというような時でも、神は赦してしまうのか、という疑問です。
難しい問題ですが、考えの出発点として、キリスト信仰においては、他人に何か害悪を及ぼすと言うのは、その人に対してだけでなく神に対しても罪を犯すことになる、ということを思い起こします。ルカ15章の有名な「放蕩息子」の話で、父親の財産を愚かなことに使い切ってしまった息子は、自分は天に対しても父に対しても罪を犯した、と告白します(18節、21節)。「天に対して」というのは「神に対して」ということです。両親を大切にせよ、という神の掟を破ったことを認めて悔いているのです(他に金の使い方で「姦淫するな」も破っています)。親を単に自分の欲望を満たすための手段にしたことで、親に対して罪を犯した。それはまた神の意思に背くことなので、神に対しても罪を犯したことになるのです。
もし悔いる心を神が本物と認めて赦しの乞いを受け入れれば、神は直ちにその人の罪を赦します。神がその人の罪を赦すというのは、先ほども述べたように、神が罪を不問にすると言って、永遠の命に至る道に戻してあげること、その人と神との結びつきが回復して、その人が再び神の子とされることです。もちろん、国や社会の法律の規定に従って刑に服したり賠償をしなければならないということがあります。しかし、受刑者であっても賠償責任者であっても、神から赦しを得たら、法律上は犯罪者でも、その人は神の子なのです。
ところで、罪を犯した人が悔いて赦しを乞うても、あれは本物だろうか、と疑いを持たれることがあるかもしれません。しかし、悔いる心と赦しの乞いが本物かどうか、それを見極めて判断できるのは神だけです。私たち人間の判断力や人の心を見る目は神のものと比較して、あまりにも小さく限られています。では、私たちはどうしたらよいのでしょうか?もし、悔いる心と赦しの乞いは本物ではないと決めつけて、後で実は本物だったとわかったら、罪を犯した人が立ち直るのを妨げてしまったことになるでしょう。そこで、最低限しなければならないこととして考えられるのは、悔いる心や赦しの乞いが表明されたら、それがその人にとって本物になるように周りが手助けすることです。具体的にはどういうことか言うのは難しいのですが、ひとつはっきりしているのは、最初から頭から疑ってかかるのは悔いる心が本物になるのを最初から妨げてしまうことになるので、それは避けなければなりません。
そこで、もし犯された罪があまりにも大きて、その被害も甚大であった場合、いくら神の方で悔いる心を本物と認めて赦したとしても、人間の方はそう簡単に赦すことはできないということがあるかと思います。その場合、キリスト信仰に即して言えば、兄弟が罪を犯して赦すのは7回までかというペトロの問いに対するイエス様の答え「7の70倍」ということが原則としてあることを思い返します(マタイ18章22節)。そのような気前がよすぎると見なされてしまうような赦しはどのようにして可能でしょうか?それは、私たち自身が、神から、お前の罪を不問にする、とか、お前が纏っている白い衣に目を留める、と言ってもらっているからで、それで私たちも同じようにしなければならない。悔いる心を示されて赦しを乞われたら、私たちも神が私たちにしてくれたように赦して、なかったことにしなければならないということであります。
神のひとり子が自分を犠牲に供したおかげで私たちは神の罰を免れて神の子とされたのだとわかると、今度は私たちが被った危害というものも心の中では、法律がこのくらいの大きさだと言っているよりも縮小されたものになるのではないかと思います。いずれにしても、キリスト信仰にあっては、「神は赦しても、自分は赦せない」というのは、自分を神の上に立てることになるので絶対に言ってはならないことです。
これまでは、加害者が罪を悔い神と被害者に赦しを乞う場合のことを言ってきました。それでは、もし加害者がそのようなことをしない場合は、どうすればよいのでしょうか?特に、被った危害が甚大なものである場合は?それでも、キリスト信仰者は赦さなければならないのでしょうか?イエス様が「7の70倍」と言う時、何も条件が付されていないだけに気になるところです。ここは、使徒パウロの教えによるしかないのではないかと思います。つまり、復讐は神に任せよ、です(ローマ12章19節)。私たちは、心に復讐心を抱かない。加害者に何が起きるか、この世で何か罰を受けるのか、それとも、たとえこの世で起きなくとも、最終的には最後の審判の日に「命の書」が開かれて、全ての人間の全ての所業がその人の目の前に示されて、それに基づいて最終的にプラス・マイナスが清算される。それだから、その人の処遇は神に任せて、自分では復讐心を持たないようにする。復讐心を持たないとはどういう心の有り様かと言いますと、これもパウロの続く教えが大事になると思います。つまり、もし加害者が目の前に現れて、飢えていたら食べ物をあげ、渇いていたら水を上げる、という態度です(ローマ12章20節)。それはその人が愛おしくて愛しているからそうするのではなく、ただ神がそうしなさいと言っているからするだけです。それでも復讐を神に任せていることになります。もし、水も食べ物も与えなかったら、それは自分で復讐することになってしまいます。この、食べ物と水を与えて復讐は神に任せるという態度を持てないと、被害を被った人も事件が心身にもたらす呪縛からなかなか解放されないのではないでしょうか?
それでは、イエス様が敵を愛せよ(マタイ5章44節)と言っていることはどうなるのでしょうか?難しいですが、これも、イエス様が十戒を二つの掟に要約したことを考えてみたらよいと思います。つまり、「神を全身全霊で愛せよ」がはじめにあって、それを土台にして「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」が来ます(マタイ22章37-38節)。そうなので、敵なる者がそれこそ罪を犯したことを悔い、神にも人にも赦しを乞うような者に変わるようにその人を導くこと、これがその人に対する隣人愛と言うことができると思います。もし聞く耳も持たないとか、顔を合わせられる状況でない場合には、その人がそうなるように私たちが神に祈りに祈ることではないかと思います。イエス様が、神というのは善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせる方(マタイ5章45節)と言っているのも全く同じことです。これは、神が無原則な見境のない気前のよさを持っていると言っているのではありません。神は、悪人が神のもとに立ち返る日を待っているからそうするのです。もし、悪人に太陽を昇らせず雨も降らせなかったら、悪人はすぐ滅びてしまって神のもとに立ち返るチャンスを失ってしまいます。ここから、キリスト信仰者に課せられた使命、役割は明白でしょう。
4.赦しに至らせない最悪の罪
以上、神が罪を赦すというのはどういうことか、どのようにして起こるのか、また私たちはそれにどのように従っていったらよいのかについて述べてみました。これらは難しい問題なので、一回の説教で全てが納得できることを期待せず、これからも何度も何度も立ち止まって考えたり、聖書を繙いたり、祈ったりしなければならないことを心に留めておきましょう。
さて、最後に、神が赦さないという罪、聖霊に対する冒涜についてみてみましょう。なぜ、聖霊に対する冒涜がこんなに大きな罪になるのかについて、まず聖霊はどんな働きをするのかを振り返ってみる必要があります。
まず、聖霊は「弁護者」(ヨハネ15章26節、16章7節)としての役割を果たします。それは、悪魔が神の前で信仰者を指さして、この者は罪の汚れを持つ者です、情け容赦は無用です、と神に訴える時、聖霊は、この人はイエス様を救い主と信じる信仰を持っています、その証拠に白い衣を手放さないでしっかり纏っています、と弁護してくれます。
それから、聖霊は「真理の霊」(ヨハネ15章26節、16章13節)とも呼ばれます。どういうことかと言うと、もし人が、神の意思に背くことをしてしまった時、また背くようなものが自分の内にあることに気づいた時、神との結びつきが失われてしまったという恐れや心配に陥ります。その瞬間、聖霊は次のように言います。「あなたは今、心の目をゴルゴタの丘の十字架に向けなさい。あそこにいるのは誰ですか?あの方の両肩に重くのしかかっている全ての人間の罪の中にあなたのものも入っているのをしっかり見届けなさい。」
人間の内に罪があるという真理をわからせるのも、また、このように救いの真理を告げて人間を罪の底から絶えず引き上げてくれるのも聖霊です。このような聖霊を侮辱するというのは、人間を神のもとに立ち返らせる働きそのものを侮辱することです。十字架と復活の出来事の前の段階では聖霊に対する侮辱とは、本日の福音書の箇所にあるように、イエス様が聖霊の力を得て行ったことを悪霊の力と言ったことでした。十字架と復活の出来事の後の聖霊に対する侮辱は、人間が罪の赦しを持てなくなるようにすることが明白になりました。
愛する兄弟姉妹の皆さん、そういうわけで、自分の罪を白日の下に晒しだされるようなことがあっても、すぐ十字架の主のもとに立ち戻れば、私たちはそれで聖霊の働きの中に入っていますので、何の心配もありません。イエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限り、聖霊を冒涜するということはありえないので安心して行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン