説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2018年3月11日 四旬節第四主日
民数記21章4-9節
エフェソの信徒への手紙2章4-10節
ヨハネによる福音書3章13-21節
説教題 信じるとは、心の目で見ること
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1. はじめに
東日本大震災からちょうど7年が経ちました。東京にいる私たちも、本当に立ち止まって被災した方々や犠牲者の遺族の方々そして今なお避難生活を送っている方々を心に留める日です。礼拝の後半部分で教会の祈りの部があります。その時に苦難の道を歩まれた方々のためにお祈りいたしましょう。本日の説教では、聖書の箇所の解き明しに努め、私たちの造り主である神は私たちに何を求めているのか、それに対して私たちはいかに応えて行くべきかということを御言葉から明らかにしていきたいと思います。その明らかになったことを心に刻んで、また明日から始まる平日の日常に戻って、自分自身の課題に取り組んだり、また私たちを取り巻く時代のいろんな問いかけに向き合ってまいりましょう。
そういうわけで本日の説教は、本日の福音書の箇所、ヨハネ福音書3章13-21節にあるイエス様の言葉を解き明かすことが中心ですが、これは実は本日の旧約の日課、民数記21章4-9節と使徒書の日課、エフェソ2章4-10節とも密接に結びついています。これらの3つの聖句を互いに突きあわせることで、ヨハネ福音書のイエス様の言葉がよくわかってきます。ヨーロッパ中世の神学者で名前は忘れましたが、聖書は聖書に拠って解釈される、と言った人がいます。聖書の箇所で難しいところがあっても、聖書内の別の箇所と結びつけたり照らし合わせたりしてみるとわかるということです。いたずらに聖書外部の知見を持ちこんで、もともと神が意図していなかったことをさも神の意思であるかのように言うのではなく、聖書の良き解釈者はあくまで聖書であるという姿勢で行くのが、全知全能の神の意思に近づける近道です。
そういうわけで、本日の説教ではヨハネ3章13-21節の解き明かしを、民数記21章4-9節とエフェソ2章4-10節と突きあわせながら行っていきます。そこでは、三つのことが大事なこととして見えてくると思います。一つは、信じるというのは心の目で見るということ。二つ目は、信仰とは神から与えられたものを受け取って生きること。三つ目は、隣人のために祈ることの大切さです。
2. 信じるとは、心の目でみること
本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答(ヨハネ3章1-21節)の後半部分です。この問答でニコデモはイエス様から、人間が霊的に生まれ変われるということについて、また神の愛や人間の救いについて教えを受けます。
本日の箇所でイエス様はニコデモに、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命をえるためである」と述べます。モーセが荒れ野で蛇を上げたという出来事は、先ほど読んで頂いた民数記21章の日課にありました。イスラエルの民が約束の地を目指して荒れ野を進んでいる時、過酷な環境の中での長旅に耐えきれなくなって、指導者のモーセのみならず神に対しても不平不満を言い始めます。神はこれまで幾度にも渡って民を苦境から助け出したにもかかわらず、一時すると民はそんなことは忘れて新しい試練に直面するとすぐ不平を言い出す、そういうことの繰り返しでした。この時、神は罰として「炎の蛇」を大量に送ります。咬まれた人はことごとく命を落とします。民は神に対する反抗の罪を認めてそれを悔い、モーセにお願いして神に祈ってもらいます。モーセは神の指示に従って青銅の蛇を作り、それを旗竿に掲げます。それを仰ぎ見る者は、「炎の蛇」に咬まれても命を失わないで済むようになりました。
イエス様は、自分もこの青銅の蛇のように高く上げられる、そして自分を信じる者は永遠の命を得る、と言います。イエス様が高く上げられるというのは十字架にかけられることを意味します。イエス様は、旗竿の先に掲げられた青銅の蛇と十字架にかけられる自分のことを同じように考えています。旗竿に掲げられた青銅の蛇を見ると命が助かる。それと同じように十字架にかけられたイエス様を信じると永遠の命を得られる。ここには、両者がただ木の上に上げられたということにとどまらない深い意味が含まれています。
民数記21章の出来事に出て来る「炎の蛇」שרףですが、興味深いことに各国の聖書では「猛毒の蛇」と訳されています(英語NIV、フィンランド語、スウェーデン語)。ヘブライ語の辞書を見ると、確かに「炎の蛇」と書いてありますが、「猛毒の蛇」はありません。訳した人たちはきっと、古代人というのは蛇が毒で人を殺すことを炎で焼き殺すことにたとえたのだろう、毒が回って体が熱くなるから炎の蛇なんて形容したんだろう、恐らくそんな考え方で辞書にはない言葉を使ったんではないかと思われます。「炎の蛇」など現実には存在しないと言わんばかりに、出来るだけ理性的に捉えた方が良いと考えたのでしょう。欧米人にはどうもそういうところがあるように思われます。しかし、彼らが作った辞書にせっかく「炎の蛇」とあるのだから、ここはもう少し踏みとどまって、「炎の蛇」で通すことにします。
モーセは神から「炎の蛇」を作りなさいと言われます。そこで彼がとっさに作ったのは当時の金属加工技術で出来る青銅の加工品でした。土か粘土で蛇の型を作り、そこに火の熱で溶かした銅と錫を流し込みます。その段階ではまだ高熱でまさに「炎の蛇」です。しかし、冷めて固まります。それを神に言われたように旗竿の先に掲げます。そこにあるのは、高熱からさめて冷たくなった蛇の像です。金属製ですので、もちろん生きていません。なんの力もありません。それに対して生きている「炎の蛇」は、人間の命を奪おうとします。これは罪と同じことです。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが悪魔にそそのかされて、造り主の神に対して不従順になって罪を犯したことが原因で人間は死ぬ存在となってしまいました。
イスラエルの民が「炎の蛇」に咬まれて命を失うというのは、まさに神に対して罪を犯すと、その罪が犯した者を蝕んで死に至らしめるということを表わしています。そこで、罪を犯した民がそれを悔い神に赦しを乞うた時、彼らの目の前に掲げられたのは、冷たくなった蛇の像でした。それは、彼らの悔い改めが神に受け入れられて、蛇には人間に害を与える力がないことを表わしました。神が与える罪の赦しは、罪が持つ死に至らしめる力よりも強いということを表わしたのでした。それを悔い改めの心を持って見た者は、そこで表わされていることがその通りになって死を免れたのです。
これと同じことがイエス様の十字架でも起こりました。罪が人間の内に入り込んでしまったために、造り主の神と造られた人間の結びつきが壊れてしまいました。神はこれを修復しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送り、彼に全ての人間の全ての罪を負わせて、十字架の上で罪の罰を受けさせました。まさにイエス様が、全ての人間の罪を人間に代わって償って下さったのです。さらに、全ての罪が十字架の上でイエス様と抱き合わせになる形で断罪されました。その結果、罪もイエス様と一緒に滅ぼされてその力が無にされました。罪の力とは、人間が神との結びつきを持てないようにしようとする力であり、人間がこの世から去った後も造り主のもとに永久に戻れなくなるようにする力です。その力が打ち砕かれ、無力と化したのです。こうしたことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。ところが、一度滅ぼされたイエス様の方は三日後に神の力によって死から復活させられました。それによって、永遠の命への扉が人間に開かれました。罪の方はと言えば、もちろん復活など許されず、滅ぼされたままです。その力は無にされたままです。
このように神はイエス様を用いて全ての人間の全ての罪の償いをして下さり、また罪の力を無にして人間を罪の支配下から贖って下さいました。ところが、人間の方が、この神の整えて下さったものを受け取らない限り、償いも贖いも人間の外部によそよそしく留まっているだけです。せっかく準備ができているのに、それと無関係でいることになります。真にもって勿体ない話です。それでは、神がイエス様を用いて準備して下さった償いと贖いはどのようにして受け取ることが出来るでしょうか?
それは、十字架にかかっているイエス様を心の目で見ることです。かつてイスラエルの民は、悔い改めの心を持って必死になって青銅の蛇を見ました。そして蛇の像が表わしていた毒消しがその通りに起こって、もう炎の蛇にかまれても大丈夫になりました。ところが、私たちはイエス様の十字架をイスラエルの民のように肉眼で見ることはできません。それは2000年前に立てられたものです。それゆえ、心の目で見なければなりません。心の目で見るというのは、まず思い浮かべることです。私たちは、思い出や愛する人を目の前にいるかのように思い浮かべたりします。イエス様の十字架の場合はもう一つあって、十字架に何があるかを知っていて思い浮かべるということです。イエス様の十字架に何があるかというと、私たちの罪があります。あそこで項垂れて死なれたイエス様がおられる。彼の肩や頭には私の罪が重く圧し掛かっている。イエス様はあそこでそれを私に代わって償って下さったのだ。そのようにわかって思い浮かべると、十字架のイエス様を心の目で見たことになります。それが出来た人はもう、イエス様を自分の救い主と信じてそう告白することができます。その時、罪の償いと罪からの贖いはもう外部によそよそしくあるものではありません。その人の中に入って、その人の中でその通りになります。まさにモーセの青銅の蛇と同じことが起こったのです。
3.信仰とは、神から与えられたものを受け取って生きること
十字架のイエス様を心の目で見ることができる人には、罪の償いと罪からの贖いが起こることがわかりました。罪が償われて、罪から贖われるというのは、神から罪を赦してもらったということですから、そうなると神との結びつきを回復できたことになります。なぜなら、罪がその結びつきを壊していたのですから。神との結びつきを回復できた人は、それからはその結びつきを持ってこの世の人生を歩むこととなり、順境の時も逆境の時もいつも神から守りと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は手を取って引き上げられて永遠に御許に戻ることができるようになります。不思議なことに、この結びつきを失ってしまった原因は人間にあるのですが、神がそれをひとり子を犠牲にしてまで取り戻して下さったのです。これが、神の愛と言われるものです。人間はただ、神が「こっちで準備は全部したから、あなたは受け取りなさい」と差し出して下さるものを受け取るだけで良いのです。
エフェソ2章8節で使徒パウロは、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」と述べますが、まさに救いとは、人間の方では神の気を引くようなことは何もしていないのに、神の方がただ人間を憐れんで一方的に「受け取りなさい」と言って差し出してくれている、それを受け取ることです。まさに神から人間への「お恵み」を受け取ることです。しかし、先にも申し上げましたように、人間がこの差し出されたものを受け取らないでいると、それは外側によそよそしくあるだけです。それを心の目で十字架のイエス様を見て受け取ってはじめて自分のものになり、それからは、神との結びつきを持って今の世と次の世の両方を貫く人生を歩むことができるようになります。この、神から与えられるものを受け取って生きることが「信仰」です。パウロは、救いは恵みによる、信仰による、と言って、二つなければならないことを言いました。「信仰による」(ギリシャ語原文では「信仰を通して」)がなければ、神が差し出すものは受け取られておらず、外側によそよそしくあるだけです。「恵みによる」がなければ、人間は救いを自分の力で得ようとして、それを信仰と呼ぶようになってしまいます。信仰とは神から与えられるものを受け取ることに徹することなのです。
信仰をそんな受け身で考えていいのか、と疑問をもたれるかもしれません。そんなことでは神からの贈り物を自分だけで消費する、利己的な人間になってしまうのではないか、という疑問です。私としては、神がひとり子を用いて準備して下さったものというのは、受け取ることに徹すれば徹するほど、利己的な人間から離れていくのではないかと思います。というのは、十字架のイエス様を心の目で見ることができると、魂は大きな解放感と深い厳粛さを同時に味わうことになります。神に対する負い目である罪を償ってもらったこと、罪の支配から贖ってもらったことはなんとも言えない大きな解放感をもたらします。同時にその解放が神のひとり子の尊い犠牲によるものであるというのは厳粛な気持ちにさせます。この全く異なる二つのことが同時にあることが大事です。厳粛さだけでは重苦しく暗くなるだけです。解放があるから喜びがあります。また解放感だけでは軽々しくなります。厳粛さがあるから軽はずみなことには走りません。キリスト信仰者というのは誰しも、こうした解放の喜びと厳粛さを同時に兼ね備えていると思います。バランスの取り方は人それぞれでしょう。
解放も厳粛も神の成し遂げたことから来ていますから、それらが魂に響いているキリスト信仰者は、神の意思に沿うように生きるのが当然という心になります。それでは、神の意思とはなんでしょうか?それは十戒にあります。先週の説教で少し詳しくお話ししました。それから、イエス様が十戒の主旨を二つにまとめて、神を全身全霊で愛することと隣人を自分を愛するが如く愛することが大事だと教えています。それと照らし合わせながら十戒をみます。また使徒パウロは具体的な場面でそれらをどう実践するかについて教えています。悪に対して悪で報いるな、とか、少なくとも自分の方からは他人と平和を保つように努めよ、とか、正義の実現のためと言っても復讐は正当化されない、償いも謝罪も何もなかったことについても神が最後の審判で決着をつけるからそれに委ねよ、等々。これらは、キリスト信仰者のこの世での立ち位置を教えています。
エフェソ2章10節でパウロは、「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」と述べています。「善い業」とは具体的にはどんな業なのかを考える時、今申し上げたこと、つまり、神が与えて下さるものを一所懸命に受け取るとそこから神の意思に沿うように生きようという心が生まれる、ということを思い起こしてみると良いと思います。もともと人間は神に造られたものとして、神との結びつきをもっていましたが、それが罪のために失われてしまった。それをイエス様が自分を犠牲にして回復して下さった。「イエス・キリストにおいて造られた」というのは、イエス様を救い主と信じることで、この世を生きる新しい命が与えられた、まさに新しく造られたことを意味します。その時、神の意思に沿うように生きようという心が生まれますが、それはもともと神が人間を造った時にあったものでした。それは堕罪で失われてしまいましたが、また回復したのです。まさに神が天地創造の時、「前もって準備してくださった」ものを、イエス様を救い主と信じることで回復したのです。
それから、新共同訳で「わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」と言っていることについて。ギリシャ語原文では「善い業を行って歩む」とは言っていません。「善い業の中で歩む」です。「善い業の中で」というのはわかりにくいですが、要は、善い業と結びついているということです。実際に行って行為として現れる場合もあれば、神の意思に沿うように生きようという心の有り様も含まれます。
4. 隣人のために祈ることの大切さ
ヨハネ福音書3章の本日の箇所の後半(18-21節)で、イエス様は自分のことを信じない者についてどう考えたらよいかについて教えています。信仰者にとっても気になるところと思われますので、ちょっと見てみましょう。
3章18節でイエス様は、彼を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」と述べます。これは一見、イエス様を信じない者は地獄行きと言っているように聞こえ、他の宗教の人や無神論の人が聞いたらあまりいい顔はしないでしょう。ここで注意しなければならないことがあります。確かに人間には善人もいれば悪人もいますが、先ほども申し上げたように、人間は堕罪以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている、これは善人も悪人も皆同じです。みんながみんな代々死んできたように、人間は代々罪を受け継いでいます。みんながみんな、この世を去った後は永久に神から離れ離れになってしまう危険に置かれている。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道の進行にストップがかけられ、永遠の命に向かう道へ軌道修正されます。信じなければ状況は何も変わらず、堕罪以来からある滅びの道を進み続けるだけです。これが、「既に裁かれている」の意味です。軌道修正されていない状態を指します。従って、それまで信じていなかった人が信じるようになれば、それで軌道修正がなされて、「既に裁かれている」というのは過去のことになります。
3章19節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。神はイエス様をこの世に送り、「こっちの道を行きなさい」と彼を用いて救いの道を整備して下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは、「既に裁かれている」状態を自ら継続してしまうことになってしまいます。
3章20節では、人々がイエス様という光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒さないようにするのと同じだ、と言います。これなども、他の宗教や無神論者からみれば、イエス様を信じない者は悪行を覆い隠そうとする悪人で、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに行く人、そう言っているように見えて、キリスト教はなんと独善的かと呆れ返るところだと思います。しかし、それは早合点です。まず、キリスト信仰者とそうでない者の違いとして、そうでない者の場合は、人間の造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が、造り主に全てお見通しという考えがありません。そもそも、そういうことを見通している造り主を持っていません。
キリスト信仰者の場合は逆で、自分の行い、生き方、考え方、口に出した言葉は常に、造り主の意志に沿っているかいないかが問われます。結果はいつも沿っていないので、そのために罪の告白をして、イエス様の身代わりの犠牲に免じて神から赦しをいただくことを繰り返します。毎週礼拝で行っている通りです。これからも明らかなように、イエス様は「信じる者は善行しかしないので晴れ晴れした顔で光のもとに来る」などとは言っていません。3章21節を見ればわかるように、イエス様のもとに来る者は、善行を行うのではなく、「真理を行う」のです。「真理を行う」というのは、自分自身について真の姿を造り主に知らせるということです。善行もしたかもしれないけれど、罪もあわせて一緒に白日に晒すということです。私は全身全霊で神を愛しませんでした、また自分を愛するが如く隣人を愛しませんでした、と認めることです。以前であれば滅びの道を進むだけでしたが、今はイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されます。
このようにキリスト信仰者は自分の罪を神の目の前に晒しだすことを辞しません。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善行が人目につくように明るみに出すためなんかではありません。3章21節に言われているように、キリスト信仰者が行うことはまさに「神に導かれてなされる」ものです。そこでは善行も自分の力の産物でなくなり、神の力が働いてなせるものとなり、神の前で自分を誇ることができなくなります。
翻ってイエス様を救い主と信じない場合、そういう自分をさらけ出す造り主を持たないので、イエス様という光が来ても、光のもとに行く理由がありません。しかし、これは、造り主の側からみれば、滅びの道を進むことです。そこから人間を救い出したいがためにイエス様をこの世に送られたのでした。人間を救いたい神からみれば、これはゆゆしき大問題であります。
しなければならないことは、はっきりしています。とにかく福音を宣べ伝えることです。ただ具体的にどうすればよいのか、という段になるといろいろ考えなければならないことがあります。人によっては、宣べ伝えなどに貸す耳など持っていないでしょう。そのような人については、お祈りをします。ただ、お祈りの仕方は、いきなり「イエス様を救い主と信じるようにして下さい」ではなく、その方が抱える具体的な課題や問題の解決を父なるみ神にお願いするのが良いのではと思います。それに続いて、その方の心の目が開かれて十字架のイエス様に気づくように、と付け加えます。どうしてそういうふうにした方が良いかというと、神という方は具体的な問題や課題を通してよく御自分の力や導きを示される方だからです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン