説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)
スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2026年10月4日 聖霊降臨後第19主日
イザヤ書5章1-7節
フィリピに信徒への手紙3章4b-14節
マタイによる福音書21章33-44節
説教題 「神の国の実を結ぶ者は誰か?」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに - 実現済みの預言ではなく現代にもかかわるたとえ
本日の福音書の日課は、ぶろう畑の所有者と雇われ農夫についてのイエス様のたとえの教えです。この教えは、本日の旧約聖書の日課イザヤ書5章のぶどう畑の話を土台にしています。両者は似ていますが違いもあります。イエス様はたとえの教えをユダヤ教社会の指導的立場にある人たちに話しました。彼らは旧約聖書の中身をよく知っている人たちです。イエス様が「ブドウ畑の所有者が垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて」などと話すのを聞いて、すかさずイザヤ書5章の冒頭を思い浮かべたでしょう。それで、ブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すとわかったでしょう。ところが、イエス様のたとえにはイザヤ書にないものがいろいろ出て来ます。農夫がそうですし、所有者が送った僕や息子もしかり。指導者たちは「この預言者の再来と民衆に担がれている男はイザヤ書の聖句を引き合いに出して何を言おうとしているのだ?」と首を傾げつつ耳を傾けたでしょう。
イエス様のたとえにはイザヤ書の引用ということの他に、当時の社会と経済の状況が織り交ざっている面もありました。ブドウ畑の所有者は畑を農夫に任せて旅に出たとあります。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語の動詞(αποδημεω)ですが、これは「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして外国が旅先になるのかと言うと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ畑を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者と労働者が異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が自国に帰ったということでしょう。こうした背景がわかると、農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたのは筋が通ります。普通だったら、そんなことをしたらすぐ逮捕されて自分たちのものなんかになりません。しめしめ、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国だ、邪魔者はいない、ブドウ畑は俺たちのもの、ということです。
そうなると、このたとえはブドウ畑の外国人所有者に対する現地労働者の反乱について言っているように聞こえるかもしれません。しかし、イザヤ書の聖句が土台にあることを忘れてはなりません。そうすると、所有者に対する反乱は神に対する反乱であることがわかります。所有者が送った僕が殺されるというのも、イスラエルの民の歴史を振り返れば神が送った預言者たちを国の指導者たちが迫害したことだとわかります。そうなると邪悪な農夫たちは国の指導者を指すとわかります。
それならば、所有者の息子は誰のことなのか?所有者が神を意味するなら息子は神の子ということになる。指導者たちが神の子をも殺してしまうなどと言っている。それは一体なんのことか?そこで指導者たちは思い当たります。そう言えば、この男は自分を神の子と自称しているそうではないか。まさか…と思った、まさにその時でした。イエス様が指導者たちに質問しました。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、農夫たちをどうするか?」まだたとえの本当の意味がわかっていない指導者たちは当たり前のように答えます。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸すだろう。」
この答えの後でイエス様は「隅の親石」の話をします。家を建てる者が捨てたはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になったという、詩篇118篇22-23節の聖句です。これは、イエス様の十字架と復活の出来事を知っている私たちから見れば意味は明らかです。捨てられた石は十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経てキリスト教会の基、まさに隅の親石になったのです。その親石を捨てた「家を建てる者」とは、イエス様を十字架刑に引き渡したユダヤ教社会の指導者たちです。十字架と復活の出来事が起きる前にこの詩篇の聖句を聞いた人たちは一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。ただ、「隅の親石」を捨てた家を建てる者は愚か者であることがわかります。それは、たとえの邪悪な農夫と重なってきます。一体、この男はイザヤ書と詩篇の聖句を引き合いに出して何を言いたいのか?指導者たちはイエス様の次の言葉を固唾を飲んで待ちました。
そこでイエス様は全てを解き明かします。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)。日本語で「民族」と訳されているギリシャ語の言葉(εθνος)は、たいていはユダヤ民族以外の民族を指す言葉です。日本語でよく「異邦人」と訳されます。ここにきてイエス様の教えの全容がはっきりしました。イエス様はイザヤ書のたとえを土台にして彼の時代の社会経済状況を織り交ぜて話されたのでした。それは、イザヤ書の預言はまだ完結していないことを教えているのです。かつてイスラエルの民は神が期待する実を結ばなかったためにその社会は衰退と混乱に陥って最後は強大な敵国に滅ぼされて祖国を失ってしまった。それと同じように今も、もし神が期待する実を結ばなければ神の国を受け継ぐ資格を失ってしまうのだと教えているのです。イエス様の時代の700年以上も前に預言されてその後のバビロン捕囚で実現済みと思われていたことは実はイエス様の時代にもあてはまるということを教えているのです。
これを聞いた指導者たちが激怒したのは無理もありません。ブドウ畑を神の国と言うのなら、その所有者は神です。神が送ったのに迫害され殺された僕たちは旧約聖書に登場する預言者たちです。邪悪な農夫はユダヤ教社会の指導者たちのことです。その指導者たちが神の子も殺してしまうなどと言う。我々が神の子を殺すとでも言うのか?この男が神の子だと言うのか?これこそ神に対する冒涜だ!しかも、我々ユダヤ民族が受け継ぐことになっている神の国が取り上げられて、異邦人が受け継ぐようになるなどと言う!冗談も休み休みにしろ!このように怒りが燃え上がった指導者たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした。
しかしながら、神のひとり子が指導者たちによって殺されるということ、そして、ユダヤ民族に代わって異邦人が神の国を受け継ぐようになるということ、これらはイエス様の十字架と復活の出来事の後でその通りになったのです。イエス様の復活から50日後にキリスト教会が誕生しました。イエス様を救い主と信じたユダヤ人に加えて同じ信仰を持つ異邦人がなだれ込んで来るようになりました。さらに西暦70年にユダヤ民族の首都エルサレムとその神殿はローマ帝国の大軍の攻撃により壊滅し、その後キリスト教の主流はユダヤ人キリスト教徒から異邦人キリスト教徒に移っていきました。このようにイエス様の言われたことは見事に実現してしまったのです。それでは、イエス様のたとえは実現済みの預言として片付けてしまっていいのでしょうか?
そうではないのです。イエス様のたとえは現代の私たちの地点から見たら確かに実現済みの預言にしか見えないかもしれませんが、実は現代を生きる私たちにどう生きるべきかを教えているのです。これからそのことを見ていきましょう。
2.神の国とは
イエス様のたとえの教えが今を生きる私たちにも関わっていることがわかるために、「神の国」が「神の国の実を結ぶ民族」に与えられると言っていることに注目します。新共同訳では、神の国に「ふさわしい実」を結ぶ民族となっていますが、ギリシャ語原文を見ると、「神の国の実を結ぶ」です。「ふさわしい実」ではなく、ずばり「神の国の実」そのものを結ぶということです。「民族」は、先ほども申し上げたように、ユダヤ民族以外の「異邦人」です。つまり、ユダヤ民族かどうかに関係なく、「神の国の実を結ぶ者」に「神の国」が与えられると言っているのです。それでは、「神の国の実を結ぶ」とは何なのか?もし「神の国にふさわしい実を結べ」と言われたら、頑張ってふさわしいものを目指さなければならないと頑張りを要求するものにならないでしょうか?ところが、「ふさわしい」がなくて、ずばり「神の国の実そのものを結べ」と言われたら、どうでしょう?何をどうすればいいのか途方にくれてしまうのではないでしょうか?実は、この「神の国の実を結ぶ」ということが、イエス様のたとえが今を生きる私たちに関わっていることなのです。どういうことか見ていきましょう。
「神の国の実を結ぶ」がどういうことかわかるために、まず「神の国」とは何かをわかる必要があります。これはスオミ教会の説教で何度もお教えしたことです。少し復習します。
神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」とか「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間が五感や理性を用いて認識・把握できるこの現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とこの中にあるものを造られた後は自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、この現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、愛するひとり子を御許からこの世に贈り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。
神の国は今は私たちの目に見える形で私たちのもとにはありません。しかし、私たちのもとに目に見える形で来る日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を再創造する、そういう天地の大変動が起こる時、再臨されるイエス様がその時点で生きている、神の目に適う者たちと、その日眠りから目覚めさせられて復活する者たちを一緒にして神の国に迎え入れられます。もちろん、最後の審判があることも忘れてはなりません。
その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。それが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。それが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを言い当てています。
このように神の国は神聖な神の神聖な意思が貫かれているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとはそのような神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神の意思に反する罪を持つようになってしまったために神のもとにいることができなくなり、神との結びつきが失われてしまいました。それで人間は死の力に服する存在になってしまったのです。この辺の事情は創世記3章に詳しく記されています。
神は、このような悲劇が起きたことを深く悲しみ、なんとか人間に自分との結びつきを回復させようと考えました。結びつきが回復すれば人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。この世から別れることになっても、復活の日まで安らかな眠りにつき、その日が来たら目覚めさせられ、神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の神の国に迎え入れられます。こうしたことが可能になるためには結びつきを失わせている罪を人間から除去しなければなりません。人間は罪のない清い存在にならなければならないのです。しかし、人間は神の意思に完全に沿うように生きられないのでそれは不可能です。
この問題を解決するために神はひとり子のイエス様をこの世に贈りました。人間の罪を全部ひとり子に背負わせてゴルゴタの十字架の上で神罰を受けさせて死なせました。神は文字通りイエス様に人間の罪の償いをさせたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、その命に至る道を人間に開かれました。そこで今度は私たち人間の方がイエス様の命じられた洗礼を受けると、彼の死と復活に結びつけられて新しい命を生きるようになります。洗礼の意味を自覚している者は、イエス様は本当に私を罪と死の支配から贖って下さった真の救い主なのだという信仰に満たされています。それでその人にはイエス様が果たしてくれた罪の償いがその通りになるのです。罪を償われたのでその人は神から罪を赦された者と見てもらえるのです。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになったのでその心は感謝と畏れ多い気持ちに満たされて、これからは罪を犯さないようにしようと、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようという心になります。
もちろん、キリスト信仰者と言えどもこの世ではまだ肉を纏って生きていますから、まだ罪を内に持っています。しかし、信仰者は神の意思に反することが自分にあると気づくと神に背を背けずに直ぐ神の方を向いて赦しを祈り願います。すると神は信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてこう言います。「お前の罪はあそこで赦されている。だからもう罪を犯さないように。」そのように信仰者を新しいスタート地点に立たせてくれるのが罪の赦しです。赦しとは罪を許可することではありません。罪は犯してはいけないのです。行いや言葉だけでなく心の思いも神の意思に反することは罪なのです。そんな罪ある私たちが神との結びつきを持てるようになるために神のひとり子の犠牲がなければならなかったのです。キリスト信仰者は神の意思に反する罪をイエス様の犠牲に免じて不問にしてもらって新しく出直すことを繰り返す種族です。そのことは本日の使徒書の日課フィリピ3章の中で使徒パウロも言っています。「過去のことは顧みないで前にあるものに身を乗り出すようにして自分はゴール目指してひたすら走る」と(13~14節)。ゴールとは、言うまでもなく神の国へ迎え入れられる地点です。
3.勧めと励まし - 神の国の実を結ぶとは?
イエス様は神の国の実を結ぶ者に神の国が与えられると言われました。罪の赦しという神からのお恵みを頂いて神の国への迎え入れを目指して歩むキリスト信仰者に神の国が与えられているのです。迎え入れの日はまだ先ですが、洗礼を受けることでゴールに到着できると神から約束してもらえました。途中で息切れすることがあっても聖餐式が呼吸を整えてくれます。迎え入れの日はまだでも神の国は聖餐に与かるキリスト信仰者の中で始まっているのです。では、キリスト信仰者はどのようにして神の国の実を結ぶのでしょうか?次の2つの仕方で結びます。
まず、キリスト信仰者は罪の赦しという恵みを頂いたので神の意思に沿うように生きようと志向します。神の意思に沿うようにしようとするのは、神に目をかけてもらうためとか、何か褒美を期待してするのではありません。全く逆です。こちらはまだ何もしていないのに一足先に神の方が私に目をかけて罪の赦しをお恵みのように与えてしまった、だからもう神の意思に沿うように生きるしかないと観念する。そのように神の意思に沿うことが手段ではなく結果になっていることが神の国の実を結ぶことです。パウロが本日のフィリピの手紙の中で義について述べていました。義とは、神聖な神の御前に立たされても大丈夫でいられる、焼き尽くされない状態のことです。律法を守ることで人間が自分の力で獲得しようとする義とイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに神が与えてくれる義の二つが言われていました。信仰のゆえに与えられる義はまさに救いの結果として神の意思に沿うことになる義です。律法を守ることで獲得しようとする義は神の意思に沿うことを救いを得るための手段にする義です。パウロはそれをゴミと言います。
もう一つの大切なことは、罪の赦しという恵みの中で生きると、罪を自覚し赦しを祈り願い、イエス様の犠牲に免じて赦しを頂いて新しく出直す、このことを何度も何度も繰り返す生き方になります。そうすることで神の意思に反することに与しない、罪に反抗する生き方をしていることを証しすることになります。これも神の国の実を結ぶことです。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しという恵みに留まって神の国の迎え入れを目指して歩むことが神の国の実を結ぶことになるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン