2012年9月17日月曜日

イエス様の奇跡の業の目的 (吉村博明)



説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
 
主日礼拝説教 2012年9月16日(聖霊降臨後第十六主日)
日本福音ルーテル横須賀教会にて
 
イザヤ書35:4-10、
ヤコブの手紙1:19-27、
マルコによる福音書7:31-37
  
  
説教題 イエス様の奇跡の業の目的
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
1.
 
本日の福音書の箇所は、イエス様の行った数多くの奇跡の業の一つで、耳が聞こえず喋ることがほとんどできない人を治して、聞こえかつ話せるようにしたという話です。イエス様の言行録である4つの福音書を繙くと、実に数多くの奇跡について記録されています。マルコ福音書だけをみても、病気の癒しの事例は、全身麻痺の男(2章)、熱病にあったシモンのしゅうとめ(3章)、手が萎えた状態の男(3章)、らい病の男(6章)、盲目の男二人(8章と10章)、悪霊祓いの事例は、5章、7章、9章にあります。これらは癒しの出来事が個別に詳しく述べられている事例ですが、この他に1章、3章、6章で、大勢の人を相手に病気の癒しと悪霊祓いをしたと一括して記されています。これらに加えて、死んだ娘を生き返らせたこと(5章)、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたこと(5千人が6章、4千人が8章)、嵐に命令してこれを静めたこと(4章)、水の上を歩いたこと(6章)、高い山の上でこの世のものとは思えない光をもって輝いたこと(9章)、実をならさないいちじくの木に裁きの言葉をかけて枯らせたこと(11章)、さらに、自分の死と復活について預言したこと、ペテロが主を見捨ててしまうことを預言したこと、最後は死からの復活があります。
 
これらの奇跡が実際にあったのかどうか、ということになると、科学技術がとてつもなく発達した現代に生きる私たちには信じられないという思いが強くなるのではないかと思われます。特に歴史を学術的に記述することを仕事とする歴史学者・研究者は、人間を取り巻く条件は古代においても現代とかわらない、つまり、現代において人が水の上を歩くことはできないのは、古代も同じである、という立場に立って、収集した文献や資料を分析し歴史を再構築して記述します。そこでは、ナザレ出身のイエスの歴史的存在や十字架で処刑された事実は認めても、彼が天と地と人間を造った神のひとり子とか、処刑された後に生き返ったとか、そういうことは記述しません。
 
しかしながら、キリスト教信仰において、イエス様の奇跡の業は避けて通ることはできません。なぜなら、最初の目撃者である使徒たちが、自分たちの見たこと聞いたことの性質上(それがもとでイエス様を神の子、救い主と信じるようになったのですから)、それを人々に伝えないではいられないという動機を持ったからです。彼らは、イエスの名を広めたら命はないぞ、と脅されても屈せず、場合によっては命を落としてしまいますが、自分たちの見たこと聞いたこと、そしてそれらに基づいてイエス様は神の子で救い主であるという信仰を教え伝えました。逆に言えば、命を差し替えてもいいという位のものを目撃したということです。こうした使徒たちの証言が口伝えされパピルス紙に記述されてさらに伝えられていき、一~二世代の後に福音書という書物にまとめられました。使徒たちの命を賭けた教えを受けた人たちは、それが偽りでないと確信しイエス様を神の子、救い主と信じました。キリスト教信仰が使徒的信仰と言われるのは、直の目撃者である使徒たちが見聞きしたことに基づいてイエス様は神の子、救い主だったと信じるに至った信仰を出発点にし、それを受け継ぐ信仰だからであります。
 
そういうわけで、使徒的信仰の観点に立てば、イエス様の奇跡の業の記述は、私たちも、使徒たちが信じて教え伝えたようにそれを受け入れるのが順当ということになります。しかしながら、科学技術が発達した現代のような時代にいると、奇跡などというものは大昔の文明段階に相応した想像や空想の産物でしかないという向きが多くなります。キリスト信仰者の中にも、奇跡なんかなくてもいい、イエス様の立派な教えがあれば十分と言って、イエス様を仏陀やモハメッドのような影響力のある宗教創始者のように扱うことがあります。それだけにとどまらず、イエス様が他に比べていかに卓越した思想家だったかを示そうと、イエス様の教えに時代時代の要請に応じていろいろな意味を注入して膨らませることも見受けられます。しかし、奇跡を除外して、イエス様が救い主であるということは言えるでしょうか?ここで、イエス様は救い主である、と言う時、また、そう信じる時、一体何が人間にとって救われない状態なのか、そこからどういう状態になることが救われたことになるのか、それがわかっていなければなりません。わからないと、「イエス様は救い主」と言ってもピンとこなくなります。そのことをこれから見ていこうと思いますが、その前に、本日の箇所の奇跡についてもう少し見てみます。
 
 
2.

イエス様の奇跡の業の記述を読んでいくと、わかりにくいことに多く出くわします。本日の箇所のところでも、聴覚言語障害のある男を連れてきた人たちはイエス様に、手をおいて下さい、とお願いします。しかし、イエス様は男を人々から引き離して、誰にも見えないところで男を癒します。「誰にも見えないところ」というのは正確ではないでしょう。イエス様がどんな仕方で癒し、その時どんな言葉をかけたかがちゃんと記述されているので、誰かがその場に居合わすことを認められ、何が起きるか目撃したのは明らかです。誰が一緒にいることを認められたのでしょうか?本日の福音書の箇所にはそのような者は言及されていません。しかし、5章をみると、シナゴーグ会堂長ヤイロの娘を生き返らせたとき、イエス様は群衆について来ないように言って、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三弟子だけを家の中まで連れて行き、目撃させました。この同じ三弟子は、イエス様が高い山で姿が輝いてモーセとエリヤと話をした時にも連れて行きました(9章)。同じ三弟子かどうかは不明ですが、本日の箇所でも誰か直近の弟子を同行させていたことが十分考えられます(8章のベトサイダでの盲人を癒した時も同じだったと思われます)。「エッファタ」というのはイエス様の間違いない母語のアラム語です(正確にはאפּתח「イプタ」か「エプタ」か?意味は「わたしは開くようにしてやろう」か?)。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、イエス様の言葉や(「タリタ、クーム」[マルコ5章41節]、「エロイ、エロイ、レマー、サバクタニー」[同15章34節])、また彼を取り巻く人たちの叫び声(「ホサナ」[同11章9-10節]、「ラッブーニ」[ヨハネ20章16節]― 福音書記者はこれをヘブライ語と言っていますが)、さらに黎明期のキリスト信仰者の祈りなど(「マラナ、タ」[第一コリント16章22節])、ところどころ、もともとのアラム語の言葉がギリシャ語の言葉に翻訳されずに、そのまま(ギリシャ語文字で)記されています。これは、これらの言葉を最初に聞いた人がその時受けた強烈な印象をそのまま伝えようとし、それを受け取った人たちもその印象をそのまま残したかったからと考えられます。従って、私たちは、こうしたもともとの言葉を目にすることで、当時の生々しい現場の一端に触れることができるわけです。
 
それにしても、本日のイエス様の奇跡の業はわかりにくいことがいろいろあります。他の箇所では言葉をかけただけで癒しが実現したこともあるのに、なぜ耳に指を入れ、唾を相手の舌につけて触れるようなことをするのか。唾は、ベトサイダの盲人の癒しの時にも使います(マルコ8章、ヨハネ9章も)。しかし、エリコの盲人の癒しの時には言葉だけでした(マルコ10章)。さらに、ある奇跡の時は、本日の箇所のように人々から引き離して行い、別の箇所では群衆の目の前で行っている。本日の箇所では人々に対してこの癒しは触れ回るなと命じ、他の箇所ではそのようなことは命じません。奇跡の業の公開性・非公開性について首尾一貫性がないことについて、いろいろな学説がありますが、すっきり解明する学説はおそらくまだないのではないでしょうか?それでも、一つだけ確実に言えることがあります。それは、もしマルコ福音書が書いた人の創作物語にすぎないならば、これほど作者の創作能力の欠如を示す物語はないということです。つまり、本気で創作物語を書くのであれば、奇跡は全部人目を避けて行われたというように首尾一貫させるのではないか。または、群衆の面前と人目を避けたところの使い分けをするなら、どういう基準で使い分けするか自分でもはっきりわかっていなければならないのではないか。それが見られないというのは、結局、マルコ福音書は、書いた人が(何か神学的な方向性は持ちつつも)目撃者の生々しい証言や記憶を出来るだけ手を加えないようにして書き綴ったものという性格が浮かび上がります。
 
 
3.
 
それでは、イエス様は救い主である、と言う時、また、そう信じる時、一体何が人間にとって救われない状態なのか、そこからどういう状態になることが救われたことになるのか、ということを見てみましょう。
 
キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られた被造物であるということを大前提にしています。この前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまっている、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥り、罪を犯したため、人間は死する存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。このように人間が死ぬということが、人間の造り主である神との関係が壊れている、ということの現れなのであります。
 
このため神は、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に、造り主である自分のところに戻れるようにしようとします。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪と不従順を除去しなければならない。しかし、それは不可能なことであります。先々週の主日の福音書の箇所はマルコ7章の初めの部分でしたが、そこでの問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。
 
人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、人間を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の死の呪いをそのひとり子に負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は誰でも、ひとり子を犠牲に用いて行った神の解決がまさに自分のために行われたのだとわかって、そのひとり子イエスを自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この救いを受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪に満ちたままイエス様の神聖さを頭から被せられます。こうして人間は、幸福の時にも苦難の時にも常に造り主の神の御手に守られてこの世の人生を歩むようになり、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻ることができるようになります。
 
 
4.

イエス様は、このように神が計画された救いを実現するためにこの世に送られました。それでは、十字架と復活の前に、多くの奇跡の業を行ったのは、どういう目的だったのでしょうか?何のために病気を癒したり、悪霊祓いをしたり、大勢の人の空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたりしたのでしょうか?自分を拝めば御利益があると人々にアピールするためだったのでしょうか?そうやって従う者を集めて自分を教祖に新しい宗教団体を結成しようとしたのでしょうか?キリスト信仰者だったら、そうは考えないでしょう。イエス様は、弱い者困っている者を心から憐れみ本当に助けてあげたくて一切の私利私欲を捨てて救援活動にまい進した、というイメージが強くもたれているのではないかと思います。イエス様がそうであった以上は、キリスト者もそれに続かなければならない、と。私は、奇跡の業はイエス様の慈愛・憐れみの心のあらわれというのはその通りだと思いますが、このイメージにはまだ大事なものが欠けていると思います。それは何かと言うと「神の国」であります。
 
イエス様は「神の国は近づいた」と公に宣言することをもって活動を開始しました(マルコ1章14節)。その活動の内容は、奇跡の業と神の国についての教えを宣べることでした。つまり、彼の教えは、神の国がどういうものかをわからせる教えでした。それにあわせて、彼の無数の奇跡の業は、神の国というものがあらゆる悪から守られ神の意志と力に満ちたところであるということを具体的にわからせる手段だったのであります。奇跡の業と神の国が結びついていることは、イエス様が弟子たちを最初の宣教旅行に派遣する時にも現れています。マタイ10章で、イエス様は派遣する弟子たちに病気の癒しや悪霊祓いの力を授けますが、その際、神の国(「天の国」)が近づいた、と宣べ伝えよ、と命じています。
 
神の国とは、最終的には最後の審判の日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる時(イザヤ65章17節、66章22節、黙示録21章1節)、今目に見えるものすべてが崩れ去った時に顕現するものです(ヘブライ12章26-27節)。そこは、涙をことごとくぬぐわれ、悲しみも嘆きも苦しみも、そして死さえもないところです(黙示録21章4節)。イエス様の奇跡の業は、人間から悲しみ嘆き苦しみ不安を取り除くものでした。自然に対しては、自然の法則を超える力を示すものでした。そういうわけで、イエス様の奇跡の業は、いつの日か到来する神の国の前奏曲であったと言ってもよいでしょう。奇跡の業を受けた人たちは、その音色を聞かせてもらった、または神の国の味を少し味あわせてもらった、と言ってもよいでしょう。
 
 しかし、そうは言っても、人間はその時に神の国そのものに入れたわけではありませんでした。そのためには人間は罪と不従順の汚れを取り除き、神の神聖さにマッチする存在にならなければなりません。それを可能にしたのが、先ほども申し上げたイエス様の十字架の身代わりの死であり、死からの復活であります。人間はそれが自分のためになされたとわかってイエス様を救い主と信じ、洗礼を受けることで、神の国の一員となることができるのであります。
 
 
5.

最後に本日の旧約の箇所であるイザヤ書35章と本日の福音書の箇所の関係について触れておきます。
 
5節と6節で「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」とありますが、イエス様の癒しを受けた人たち、それを見た人たちは、ついにこの預言が成就する日が来たのだという思いに満たされたでしょう。8節で、荒野の中に聖なる道と呼ばれる大路が敷かれ、「主御自身がその民に先立って歩まれ」とあり、10節をみると行先はシオンとなっています。シオンは直接的にはエルサレムの神殿がある場所を指すので、イエス様を先頭にしてエルサレムに向かった群衆はまさに預言の実現を感じていたでしょう。しかし、10節をみると、この聖なる道を歩む者は、「主に贖われた人々」であります。「主に贖われた人々」とは、そもそもイエス様の十字架と復活の出来事の後、彼を救い主と信じる信仰を持った人たちです。従って、十字架と復活の出来事の前のイエス様の活動の時期はまだ預言の完全な実現ではなかったのです。10節に、主に贖われた人々が帰り着くシオンとは、「嘆きと悲しみが逃げ去った」場所と言われます。これも黙示録の21章4節に預言されている神の国、復活して永遠の命を得た者たちの国と同じです。そこには痛みも嘆きも苦しみもなく、涙は全て拭われ、死さえもがありません。かつてさまざまな病気や障害の人がイエス様から癒しを受けたのは、将来到来する神の国を少し味あわせるようなものであったと、先ほど申しました。神の国においては、すべての病気や障害が消滅するのであります。死さえも力を失うのであります。
 
そういうわけで、イザヤ書35章に言われる、聖なる道を進む主に贖われた者たちとは、実に神の国を目指してこの世の人生を歩む私たちキリスト信仰者なのであります。このことを頭に入れて、今一度、本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書35章4-10節を読んで本説教の締めとしたく思います。

心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。
敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。」
そのとき、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳が開く。
そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり
渇いた地は水の湧くところとなる。
山犬がうずくまるところは
葦やパピルスの茂るところとなる。
そこに大路が敷かれる。
その道は聖なる道と呼ばれ
汚れた者がその道を通ることはない。
主御自身がその民に先立って歩まれ
愚か者がそこに迷い入ることはない。
そこに、獅子はおらず
獣が上ってきて襲いかかることもない。
解き放たれた人々がそこを進み
主に贖われた人々は帰って来る。
とこしえの喜びを先頭に立てて
喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを迎え
嘆きと悲しみは逃げ去る。
  
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2012年9月10日月曜日

シリア・フェニキアの女の信仰 - 非ユダヤ人のキリスト教信仰の萌芽 (吉村博明)



説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
  
主日礼拝説教 2012年9月9日(聖霊降臨後第十五主日)
日本福音ルーテル日吉教会にて

「イザヤ書」35:1-3、
「ヤコブの手紙」1:2-18、
「マルコによる福音書」7:24-30

説教題 シリア・フェニキアの女の信仰 - 非ユダヤ人のキリスト教信仰の萌芽


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 
1.

 イエス様の言行録である4つの福音書を繙くと、彼の活動舞台の大部分は、ユダヤ人の居住地域であるガリラヤとユダヤの二つの地域であったことが明らかになります。イエス様は神から課せられた任務をまさにイスラエルの民の間で遂行していた、と言うことができます。ところが、本日の福音書の箇所では、イエス様は二つの地域の外側にある地中海沿岸のフェニキア地方の都市ティルスの近くまで行きます。お手元の聖書の後ろにある地図「新約時代のパレスチナ」をご覧になれば、どこにどの地域があるかわかると思います。今は先を急ぎますので、お家でご確認いただければと思います。ユダヤ人は、ガリラヤとユダヤの二地域以外の各地にも少数派として居住していたので、イエス様はティルス近郊でユダヤ人を相手に活動するつもりだったのでしょう。

 ところが、思いがけないことが起こりました。ユダヤ人でない婦人がイエス様のもとに来て、足元にまでひれ伏して助けを求めるのです。婦人の民族的所属は、新共同訳では「ギリシャ人で、シリア・フェニキアの生まれ」となっていますが、少し注釈します。当時地中海世界の東半分はギリシャ語が公用語になっていましたから、別にギリシャ本土でなくてもギリシャ語を操る人は広範囲に存在していました。そういうわけで、問題の婦人の民族的所属を正確に記すと、「ギリシャ語を主要言語とするシリア・フェニキア人」ということになります。ギリシャ本土出身のギリシャ人ということではありません。さて、その婦人が、「汚れた霊にとりつかれている娘を助けて下さい」と助けを求めました。それに対するイエス様の答えは、先ほど読んでいただいた通り、かなり冷淡なものでした。「子供たち」と「犬」のたとえを話しますが、「子供たち」がユダヤ人、「犬」が非ユダヤ人を指すのは一目瞭然です。しかし、真剣勝負とも言える対話の結果、婦人は願いをかなえてもらい、娘は悪霊から解放されます。

本日の福音書の箇所は、神やイエス様に対するへりくだりの大切さを教える一種の美談のようにしばしば言われます。神やイエス様は、へりくだった心を示す者を必ず顧みて下さることを教えているのだ、と。それはそれで正しいのですが、実は本日の箇所は、「へりくだりの大切さの教え」だけでは収まりきれない大きなことが含まれています。これからそれを見て行こうと思います。


2.

 4つの福音書を繙いて気づかされることの一つは、イエス様の活動の対象は実にユダヤ人中心だったということです。確かに、主は死から復活した後、弟子たちに「全世界の全民族に福音を宣べ伝えよ」と命じ、自分が救世主であることはユダヤ人を超えて全人類に関わっているのだと言います。ところが、十字架の出来事が起きるエルサレム入城以前のイエス様は、ほとんどガリラヤとユダヤの二地域でユダヤ人を相手に活動をしており、本日の福音書の箇所以外で、彼が明らかに非ユダヤ人と対話をするような接触があるのは、ルカ7章のローマ帝国軍百人隊長と、ヨハネ4章にあるサマリア人の女くらいです(マルコ5章に出てくるデカポリス地域の男がユダヤ人だったかどうかは不明)。

 十字架の出来事の前のイエス様が活動の対象をユダヤ人に限っていたことは、マタイ福音書によく表れています。例えば、10章で12弟子を最初の宣教旅行に送り出すとき、イエス様は、非ユダヤ人のところには行くな、「イスラエルの家の失われた羊たち」のところに行け、と命じます。15章には本日の箇所と同じシリア・フェニキア人の婦人の出来事が別のバージョンで記され、そこでイエス様は婦人に対して、自分は「イスラエルの家の失われた羊たち」のために遣わされたのであり、それ以外の者たちのためではない、とまで言い切ります。

こうした復活前のイエス様の非ユダヤ人に対する態度は、イザヤ書49章6節にある神の預言と相いれないように思えます。そこで神は、将来現れる救世主は、ユダヤ人以外にも救いをもたらすことを任務にすると、言っています。
「わたしはあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」
この日本語訳で「だがそれにもまして」というのは意味が弱すぎます。ポイントとなるヘブライ語の動詞(נקל)を忠実に訳すると、もっと迫力のある意味になります。
  「ヤコブの諸部族を興し、イスラエルの残余の者を帰還させる目的で、おまえをわたしの僕にするというのは、あまりにもスケールが小さすぎる。わたしの救いが地の果てにまで及ぶために、わたしはお前を諸国民の光にする。」

結果的には、復活後のイエス様はこの預言どおりに諸国民の光として立ち現われることとなりました。しかし、なぜ十字架と復活の出来事の前の彼は、人間の救いにかかわる任務をユダヤ人に限るようなことを言っていたのでしょうか?ユダヤ人以外の人間の救いは考えていなかったのでしょうか?この疑問に答えられるためには、イエス様が神から与えられた任務とは、そもそもなんだったのか、ということと、そのような任務を与えた神の目的はそもそもなんだったのか、ということがわからなければなりません。


3.

 神のそもそもの目的は、ユダヤ人非ユダヤ人にかかわらず人間を救うことでした。キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られた被造物であるということを大前提にしています。この前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまっている、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥り、罪を犯したため、人間は死する存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。このように人間が死ぬということが、人間の造り主である神との関係が壊れている、ということの現れなのであります。

このため神は、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に、造り主である自分のところに戻れるようにしようとします。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪と不従順を除去しなければならない。しかし、それは不可能なことであります。先週の主日の福音書の箇所はマルコ7章の初めの部分でしたが、そこでの問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。

人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、人間を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の死の呪いをそのひとり子に負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は、ユダヤ人非ユダヤ人に関係なく、ひとり子を犠牲に用いて行った神の解決がまさに自分のために行われたのだとわかって、そのひとり子イエスを自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この救いを受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪に満ちたままイエス様の神聖さを頭から被せられます。こうして人間は、幸福の時にも苦難の時にも常に造り主の神の御手に守られてこの世の人生を歩むようになり、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻ることができるようになります。
以上が、イエス様が神から与えられた任務と神がその任務を与えた目的であります。


4.

 それでは、神の目的やイエス様の任務がユダヤ人非ユダヤ人に関係なく人間すべてに向けられているのなら、なぜ十字架前のイエス様はユダヤ人を中心に活動していたのか、ということについてみてみましょう。

 重要なことは、イスラエルの民はもともと天と地と人間を造られた神に選ばれた民であった、ということです。この「神に選ばれた民」というのは、一般に思われがちですが、神に特別目をかけてもらっているので何をしても神のお墨付きだ、などという甘い独善主義とは全く無縁の厳しいものです。神はイスラエルの民に十戒を与えましたが、これは、造り主である神が造られた人間に要求していることはかくかくしかじかであると、神の人間に対する意志を明確に表示したもので、それを責任持って管理しろ、とイスラエルの民に付託したのです。諸民族を出し抜いて、天地創造の神の意志を授かったからといって、神に特別扱いされたなどといい気になるな、しっかり守らないとどうなるか、周りの諸民族はその目撃者になるだろう、というのです。

 事実、イスラエルの民の歴史は、この重い責任の歴史となりました。国民がこぞって神の意志に背く時はいつも国難がふりかかりました。アッシリア帝国やバビロニア帝国の侵略も、神が罰としてイスラエルの民に送った、ということが旧約聖書に何度となく言われます。国滅ぼされてバビロニアの地に捕囚となったイスラエルの民でしたが、今度はペルシャ帝国の王の計らいでユダヤへの帰還が認められます。しかし、これも本当は、神が民の罪の償いはもう十分と認めたので、ペルシャ帝国にバビロニア帝国を滅ぼさせてやった、ということになります。このように、旧約聖書では、諸々の民族の動向や興亡はみな、天地創造の神の意志に基づいていることが示されています。当該民族としては、自分たちはなぜイスラエルの民を攻撃するのか解放してやるのか、本当の理由はわかっていないでそうしていたのであります。

全ての人間の救いにかかわる以上は全ての人間に対して送られたはずの救世主がまさに神に選ばれた民の中から誕生した、ということは重要です。なぜなら、イスラエルの民は、十戒や旧約聖書に示された神の意志をしっかり管理する責任があり、それがイエス様の時代にもいろいろな問題があったからです。ファリサイ派もサドカイ派も律法学者たちも、自分たちの動機ではそれぞれの解釈に基づいて神の意志を実現していると思っていたのでしょう。しかし、本当は実現どころか反するようなこともしていたのです。先ほど触れました何が人間を内部から不浄にするかという問題もその一つでした。何か宗教的な儀式行為をすれば大丈夫という考えに対して、イエス様は、神が与えるものをしっかり受け取らなければ人間は神の意志を実現した状態にはなりえない、それくらい人間は汚れきっていると教えるのです。

このようにイエス様には、十戒をはじめとして旧約聖書に延々と記された神の意志というものを、もう一度整理する役目が与えられました。イエス様と当時の宗教指導者との論争が新約聖書に記録されたおかげで、神のみ子自身が父なる神の意志をどう教えたか、ということを私たちは知ることができます。イエス様がイスラエルの民の中から生まれ、その民を相手に活動したというのは、私たちが神の意志を正しく知ることができるために必要であったのです。


5.

 以上から、十字架前のイエス様がユダヤ人を主たる相手に活動しつつも、その任務は全ての人間の救いに関わるものであることをしっかりわきまえていたことが明らかになったと思います。シリア・フェニキア人の婦人との対話は、実にこのことを明らかにするものでした。ただし、任務は全ての人間の救いという普遍的なものではあるけれども、それはイスラエルの民を通して遂行できるという具体的な歴史の状況があるので、イスラエルのこうした特別な立場も対話の中にはっきりでてきます。それにもかかわらず、救いの任務は全ての人間に関わるということもはっきりでている。それが、本日の福音書の箇所の趣旨であります。

婦人は娘から悪霊を追い出して下さいと、イエス様に懇願します。ここで注意しなければならないことは、イエス様は何のために病気を癒したり、悪霊祓いをしたり、大勢の人の空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたりしたかということです。自分を拝めば御利益があると人々にアピールするためだったのでしょうか?いいえ、そうではありません。イエス様は「神の国は近づいた」と公に宣言することをもって活動を開始しました(マルコ1章14節)。つまり、彼の無数の奇跡の業は、神の国というものがあらゆる悪から守られ神の意志と力に満ちたところであるということを具体的にわからせる手段だったのであります。神の国は、最終的には最後の審判の日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる時(イザヤ65章17節、66章22節、黙示録21章1節)、今目に見えるものすべてが崩れ去った時に顕現するものです(ヘブライ12章26-27節)。そこは、涙をことごとくぬぐわれ、悲しみも嘆きも苦しみも、そして死さえもないところです(黙示録21章4節)。イエス様の奇跡の業は、いつの日か到来する神の国の前奏曲の音色であったと言ってもよいでしょう。

シリア・フェニキア人の婦人がイエス様に奇跡をお願いしたのは、彼にしてみれば、神の意志もまだ知らない非ユダヤ人に神の国の味を味あわせろということになります。イエス様の答え「最初に子供たちの空腹を満たせなさい」(27節)というのは、最初にユダヤ人に神の国の味を味あわせろ、という意味です。それに続く「子供たちのパンを取って、犬に投げやるのは正しくない」(27節)は、ユダヤ人に先駆けて最初に非ユダヤ人に味あわせるのは正しくない、という意味です。

これに対する婦人の答え「犬も食卓の下で、子供たちのところから落ちるパンのかけらは食べます」というのは、注目に値します。ここで婦人は、ユダヤ人に先駆けて非ユダヤ人を先にして下さいなどとは言っていません、ユダヤ人が先の順番なのはそれで構いません、ただ救いと神の国は非ユダヤ人にも与えられるというのが神の御心ならば、たとえユダヤ人と同じ席でなくても何らかの仕方で与えられるのが当然ではないですか、犬だって食卓から落ちるパンのかけらを食べてもいいのと同じくらい当然ではないですか、と言うのです。婦人の答えは、救いは全ての人間に及ぶという普遍的なものではあるけれども、それはイスラエルの民を通して行わなければならないという特殊な事情のもとで行うというイエス様の任務を全面的に受け入れたものとなりました。この答えの後、婦人の娘は癒され、神の国の前奏曲の音色はこの非ユダヤ人にも響き渡ったのであります。


6.

 おわりに、本日の福音書の箇所の教えに基づいて、キリスト教に対してありがちな誤解を正したく思います。それは、キリスト教や聖書は人間をキリスト教徒と非キリスト教徒にわけて、前者をよい者、後者を悪者扱いする独善的な宗教であるというような誤解です。本説教で見てきて明らかなように、旧約新約を含む聖書が人間を二分化する基準はキリスト教徒非キリスト教徒ではありません。イスラエルの民かその他諸々か、であります。つまり、ユダヤ人か非ユダヤ人かであります。イエス・キリストは実に両者を隔てる敵意の壁を取り壊し、彼を救い主と信じる信仰をもって両者を一つにしたのであります。このことは「エフェソの信徒への手紙」2章に詳しく述べられています。

 非ユダヤ人には、当たり前のことですが、アメリカ人もヨーロッパ人も日本人も含まれます。私事で恐縮なのですが、キリスト信仰に至る道に入りかけた頃、キリスト教徒になるというのは結局欧米人に頭を下げるようなものではないかとの思いがしてなかなか足を踏み出せませんでした。ところが、神の目からすれば、アメリカ人もヨーロッパ人も日本人も皆、テーブルの下でパンくずを待っている犬にすぎない、ということがわかった時、信仰に至る道にあった大きな障害物が粉砕した思いがしました。

それから、キリスト教は、キリスト教徒はよい者で非キリスト教徒は悪者とみる独善主義に満ちているというのも、キリスト信仰のなんたるやを知らないから出てくる誤解です。本説教でも明らかにしましたが、キリスト信仰者も性質上、神に対する不従順と罪に満ち満ちているという点では非信仰者と何の変わりもありません。ただ、キリスト信仰者の場合は、イエス・キリストの神聖な白い衣を頭から被せられているということが違います。しかし、これはこれでまた大変なことであります。というのは、神聖な白い衣を被せられているにもかかわらず、自分の内に宿る不従順と罪のために、それに相応しくないことを行ったり、言ったり、考えたりし、また逆に相応しいことは行わなかったり、言わなかったり、考えなかったりしてしまうからです。まさにこのために、キリスト信仰者にとって罪の赦しの祈りは生涯付きまとうのです。しかし、その祈りの度に神は、白い衣の方に目を留めて、それに免じて赦しを与えて下さるのです。そして、人がこの世の人生を終える時、神は白い衣を捨てずにしっかりまとい続けた者を御元に引き上げて下さり、こうして神に造られてこの世に生まれた人間は、造り主のもとに永遠に戻ることが出来るのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2012年6月20日水曜日

今の時から、そして永遠に (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士) 
 
日本福音ルーテル教会
横浜墓地春季墓前礼拝説教 2012年4月15日
  
説教題「今の時から、そして永遠に」
  
聖書の箇所 詩篇121篇

1.都に上る歌。
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
2.わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
   天地を造られた主のもとから。
3.どうか、主があなたを助けて
足がよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださるように
4.見よ、イスラエルを見守る方は
    まどろむことなく、眠ることもない。
5.主はあなたを見守る方
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
6.昼、太陽はあなたを撃つことがなく
夜、月もあなたを撃つことがない。
7.主がすべての災いを遠ざけて
あなたを見守り
    あなたの魂を見守って下さるように。
8.あなたの出で立つのも帰るのも
    主が見守ってくださるように。
今も、そしてとこしえに。(新共同訳)





私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安とがあなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.詩篇121篇 - 聖地巡礼の旅路の歌から人生の旅路の歌へ

聖書の中で、祈祷書・讃美歌集のような書物として「詩篇」があります。全部で150篇の祈りや歌が収められていますが、120篇から134篇まではどれも冒頭に「都に上る歌」と題されております。都とはエルサレムを指しますが、原語のヘブライ語の正確な意味は、「エルサレムの神殿の祭事の時に都エルサレムに上るキャラバンの歌」という意味です。簡単に言うと、エルサレムの神殿の年中行事に参加する「聖地巡礼者たちの歌」ということです。
 
 エルサレムの神殿は、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちが紀元前500年代の終わりに再建した第二神殿が西暦70年にローマ帝国の大軍によってエルサレムの町ともども破壊されてしまいます。それ以後、神殿は存在していません。巡礼の本当の目的地である神殿がない以上、この詩篇121篇はもう意味がないのでしょうか?実は、この詩篇の歌は、イエス・キリストの出来事の後に新しい意味を持つようになりました。以下、そのことをみてみましょう。
 
エルサレムの神殿では、イスラエルの民が自分たちの罪を天地創造の神から赦してもらうために、夥しい数の羊や牛などの生け贄を捧げていました。ところが、イエス・キリストが来て、イスラエルの民だけでなく人間すべての罪が神から赦されるようにと、神の子でありながら自分自身を犠牲の生け贄として捧げ、十字架上の死に自らを委ねました。この犠牲をよしと見た神は、死んだイエス様を三日後に死から復活させて、人間のために永遠の命、復活の命への扉をも開かれました。
 
このようにして神は、イエス様を用いて人間の救いを全て整えられたのであります。救われるために人間がすることと言えば、この救いの福音を聞いて、これらのことが自分のためになされたのだとわかって、イエス・キリストを救い主と信じ洗礼を受けるだけです。そうすることで私たちは、神の整えられた救いを所有することができ、この世にいながら、永遠の命、復活の命に至る道を歩むようになるのであります。
 
こういうわけで、イエス・キリストの十字架と復活の出来事の後は、人間は、罪や不従順を神から赦してもらうために、また神から守りと平安をいただくために、もう何も犠牲も生け贄も捧げる必要はなくなったのであります。この世から死んだ後に永遠の命、復活の命を持って、自分の造り主である神のもとで永遠に暮らすことができるようになるために、何の犠牲も生け贄も捧げる必要はなくなったのです。神のひとり子にまさる犠牲の生け贄など存在しないからです。仮に今、神殿が存在したとしても、その年中行事の儀式に参加する必要はないのです。それならば、この詩篇の歌は、イエス・キリストを救い主と信じる者には無用なものなのでしょうか?
 
いいえ、そうではありません。たとえ、エルサレムの神殿が存在しなくても、また、イエス様が私たちを罪と不従順の奴隷状態から贖いだしたおかげで神殿など不要になったとしても、この「聖地巡礼者たちの歌」は依然として重要です。なぜでしょうか?この歌は、エルサレムの神殿が存在する時は、確かに神殿に巡礼する旅路についての歌でした。ところが、神殿が存在せず不要になった後では、この歌は、イエス・キリストを救い主と信じる者の人生の旅路についての歌になったのです。この詩篇121篇には、神の助けや見守りという言葉が繰り返されます。これも、神殿があった時には、巡礼の旅路で受ける神の助け、見守りでしたが、神殿がない今では、人生の旅路で受ける神の助け、見守りを意味します。従って、この歌で歌われる旅路の最終目的地も、神殿があった時には神殿とそこでの祭事への参加ということでしたが、イエス・キリストを救い主と信じる者にとっては、この世の人生を終えた後で造り主の神のもとで永遠に暮らすこと、これが最終目的地になったのです。「聖地巡礼」という冒頭の言葉も原語のヘブライ語のもともとの意味は「上に昇る」という意味です。この歌の最後の言葉は「今の時から、そして永遠に」です。つまり、この歌は、この世での聖地巡礼ということを超えて、天国での永遠の人生に向かう旅路という意味を持っているのです。

2.イエス・キリストを救い主と信じる者の人生の旅路

このように詩篇121篇は、イエス・キリストを救い主と信じる者にとっては、人生の旅路とそこで受ける神からの助けについて歌う歌になりました。それでは、この歌がどのように人生の旅路を歌っているのかを見てみましょう。
 
 1節で、「私は山に向かって目を上げる」と言います。「山」とは聖地巡礼者にとっては、エルサレムの神殿や町が横たわるシオンの山を意味しました。キリスト教徒なら、今の世の天と地が消え去って新しい天と地にとってかわられる時に現れる天上のエルサレム(黙示録21章)を瞼に思い浮かべるでしょう。ここで大切なことは、具体的に何か雄大な山を見て、「私の助けはどこから来るのだろう」とつぶやく時、助けは、その山も含めて天と地の一切のものを造られた神から来るということです(2節)。自然の荘厳さや雄大さに目を奪われすぎて、それ自体が助けをもたらすような神秘的な力を持っていると見なすのは本末転倒です。そうした荘厳で雄大な自然自体を造られた神がおられる、力と助けは彼からのみ来ると肝に銘じておかなければなりません。私たち自身も、天地創造の神に造られたのです。しかも、その同じ造り主が私たちの救いのために御子イエス様を送られ、私たちにかわって救いを整えて下さったのです。私たちは、造られた被造物ではなく造り主を信じ、より頼まなければなりません。
 
3節から6節までは、神が一時も休まずに私たちに目を注ぎ、私たちのこの世の人生の旅路を守って下さることが歌われます。「見よ、イスラエルを見守るかたはまどろむことなく、眠ることもない」(4節)。「イスラエル」というのは、もともとは神の民イスラエルですが、イエス・キリストの十字架と復活の後は、この神が送られたひとり子を信じる者が神の民になるので、キリスト教徒を指します。
 
ところで、神が不眠不休で私たちに目を注ぎ、私たちのこの世の人生の旅路を守って下さると言っても、そう思えない事態に私たちはしばしば遭遇します。苦難や不幸に見舞われた時など、神に見捨てられた、背を向けられた、と思いがちです。また、ひょっとしたら、全身全霊で神を愛さなかったことがあった、隣人を自分を愛するが如く愛することがなかったために、それで神は怒って罰を下したのだ、とも思うことがあります。ここで思い違いをしてはなりません。神は、イエス・キリストを救い主と信じる者が神の意志を満たせなかったことや、それに背いてしまったことを本当に悔やみ、どうか見離さないで下さいと祈る時、神は、イエス・キリストの身代わりの犠牲に免じて赦して下さり、新しい一歩を踏み出せるように助けて下さるのです。神に対して恥じ入り悔いる心を持つ者を、神は決して見捨てたり、背を向けたりはしません。神が絶えず見守っているということは、苦難や困難の最中にはなかなか実感できないものであります。しかし、これは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰を持つ者にしてみれば、実感は難しくとも真理なのであります。このことは、苦難や困難をくぐり終えた後で事後的にわかるということがよくあります。この事後的にわかるということは、後で8節を見る時にでてきます。
 
6節で、昼は太陽があなたを傷つけることはなく、夜も月が傷つけることはない、と歌われています。中近東の強い日差しの中での巡礼旅行は、まさに太陽に傷つけられるという感じでしょう。しかし、月が傷つける、とはどういうことでしょうか?月が昼間の太陽と同じくらい灼熱を放つとは考えにくいことです。実は、これは、創世記で太陽と月が造られたことを振り返れば、意味がわかります。創世記1章16-17節で、神は、日中を支配させるために太陽を造り、夜を支配させるために月を造ったとあります。太陽は日中を支配する力であり、月は夜を支配する力です。詩篇121章6節の「昼は太陽があなたを傷つけることはなく、夜も月が傷つけることはない」というのは、日中を支配する力からも、夜を支配する力からも守られるという意味です。つまり、昼も夜も関係なく、私たちは一寸の隙もないくらい神から目を注がれて、始終守られているという意味です。
 
さて、最後の7-8節に来ました。新共同訳聖書では、二節共に「見守って下さるように」、「見守って下さるように」と祈り願うような形で訳されています。ヘブライ語の動詞の用法として、実は、「神は見守って下さる」とか「見守って下さる方である」と、神の未来の行為とか神の習性を言い表す意味にもなります。英語、ドイツ語の主要な聖書やスウェーデンやフィンランドのルター派国教会の聖書をみても、新共同訳のような祈り願う訳はしていません。それですので、本説教でも、「神は必ずそうして下さる方だ」という意味で訳します。そうすると、7節は「主はあなたをあらゆる悪から守られる方である。あなたの魂を守られる方である」となります。私たちは、「主の祈り」を祈る時、「私たちを悪より救いだして下さい」と祈り願いますが、もし神が私たちを悪より救い出して下さるかどうか不安を抱くときは、この詩篇121篇7節を思い出しましょう。続いて、8節は、新共同訳では「あなたの出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」となっていますが、ヘブライ語原文では「帰る」とは言っていません。「入っていくこと」です。英語、ドイツ語の主な聖書、フィンランドやスウェーデンの聖書をみても「帰る」という訳はありません。みな「入っていくこと」なっています。そうすると、8節は「主は、あなたが出ていくことと入っていくことを守られる。今の時から、そして永遠に」となります。それでは、「出ていくこと」とは何から出ていくことで、「入っていくこと」とはどこへ入っていくことでしょうか?
 
神殿が存在していた頃の聖地巡礼の歌であれば、「出ていくこと」とは巡礼への出発、「入っていくこと」とは、待望のエルサレムに到着し、祭事に参加するために神殿に入っていくことを意味します。これが、キリスト教徒の人生の旅路の歌ということになれば、「出ていくこと」とはこの世の人生を終えて、この世から死ぬということになり、「入っていくこと」とは、永遠の命、復活の命を持って、造り主である神のもとに永遠に一緒にいる永遠の人生に入っていくことになります。神が「あなたの出ていくことと入っていくことを守られる。今の時から、そして永遠に」というのは、まさにこの世から死んで永遠の人生に移行するという境目にいるという場面です。この境目まで来たとき、私たちは、この世の人生で数々の苦難や困難に遭遇したにもかかわらず、この地点まで来られたというのは、やはり神の導きや助けが途切れることなくずっと今に至るまであったということを思い知ることができる時なのであります。ああ、あの時、神に背を向けられたとか、神に見捨てられたなどと思ってしまっていたが、実はそうではなく、本当はそのような時も神はずっと目をかけていて下さっていたのだ。自分はただそれに気づかなかっただけなのだ、と。

3.

さあ、これでこの世から次の世に移行しよう。神はこの瞬間から永遠まで、私を守って下さる。そう思うや否や、一つの大きな問題にぶつかります。それは、復活はいつ起きるのかということです。もし、ちょうど私が移行しようとするこの瞬間に、イエス・キリストが再臨して、死者の復活が起きれば、私もすぐその復活の波に乗って、造り主である神のもとに運ばれる。ところが、キリストの再臨がまだ先のことだとすれば、私はこの世から離れた瞬間、どこにいることになるのだろうか?イエス様を救い主と信じてこの世から死んだ先達たちは、どこで主の再臨と死者の復活の日を待っているのだろうか?何十年、何百年も待っていて退屈しないのだろうか?その間、何をしているのだろうか?実は、この問題に対して、ルターが明快な答えを出しています。彼によれば、この世からの死は一時の眠りのようなものであり、眠った本人にすれば、それが何十年、何百年たっていても起きた瞬間に「あれ、いつ眠りこけたのかな」としか思えないくらい短く感じられるものだというのであります。以下に、ルターの教えを引用して本説教の締めとしたく思います。あわせて、本横浜墓地のこのお墓に名を記された先達の方々について皆様が抱かれる想い出に敬意を払いつつ、復活の日における彼らとの再会の希望を皆様とご確認できればと思う者でございます。
 
「我々は、我々の死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるように、それを恐れてはならない。キリストとしっかり結びついている者にとっては、死とは、全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休憩用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪からも、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は、我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。
死が一時の睡眠である以上、我々は、そのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気に溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって、墓から飛び出し、天上の雲にいます我々の主、救い主に迎えられるのである。
我々は、喜んで、そして安心して、我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命の全てを委ねよう。主は御自分の言葉に忠実な方なのだ。我々は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、命を主に委ねるではないか。我々は、主に委ねた命は失われることがなく、眠っていた間、主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただいていたことを知っている。この世から死ぬ時も全く同じである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン




2012年6月11日月曜日

罪びとを生まれ変わらせるイエス様の招き (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 2012年6月10日(聖霊降臨後第二主日)
  
日本福音ルーテル日吉教会にて
  
イザヤ書44:21-22、
コリントの信徒への第二の手紙1:18-22、
マルコによる福音書2:13-17
   
 
説教題 罪びとを生まれ変わらせるイエス様の招き


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン
 
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
  
1.

 本日の福音書の箇所は、イエス様が大勢の罪びとの間に入っていき、彼らと近い関係を持ったことが、当時のユダヤ教社会のなかで強い発言力を持っていたファリサイ派の人たちのひんしゅくを買うというところです。ファリサイ派というのは、ユダヤ民族が神の民としての神聖さを保てるようにしようと非常にこだわったグループで、モーセ律法とそこから派生して出てきた清めに関する規則を厳格に守ることを唱えて自ら実践するという、ひとつの信徒運動でありました。
 
本日の福音書の箇所でイエス様を批判するのは、「ファリサイ派の律法学者」となっていますが、律法学者というのは、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)の研究者かつ専門家です。ユダヤ人の日常生活、家族生活、社会生活において様々な問題が起きた時に、モーセ律法に照らして、こう解決しなさい、と助言したり指導する立場にありました。その職業性の度合いについては説が定まっていないようで、律法学者を完全な職業集団とみる人もいれば、本業ないし副業に携わりながら法曹の仕事を行っていたとみる人もいます。
 
そこで、「ファリサイ派の律法学者」というのは、そうした律法学者のなかにはファリサイ派の理念に共鳴して、同派に属することになった者もいた、ということであります。律法の研究者かつ専門家、さらに当時のユダヤ教社会で強い発言力を持っていたグループの一員、そういう手強い相手からイエス様は批判を受けたのであります。
 
ところで、当時のユダヤ教社会のなかで、徴税人は罪びとの最たるものとみなされていました。イエス様はそのひとりのレビに弟子として従うよう命じ、レビはつき従って行きます。そして自分の家にイエス様とその弟子たちを招き、さらに他の徴税人その他もろもろの罪びとたちも同じ食卓の席につくことになりました。そこをファリサイ派の律法学者たちに目撃され、批判されるのです。当時は、食事に招かれたり同席したりするというのは、親せき関係に入ったに等しいくらい近い関係になったことを示す出来事と考えられていました。
 
 徴税人がどうして罪びとの最たるものとみられていたかについて。彼らの主たる任務は、イスラエルを支配下に置いているローマ帝国に対して、住民から税を取り立てたり、交通の要所で通行税を取ることが仕事でした。なぜ、占領された側の国の民から、占領した側に仕えるような職務につく者が出たかというと、これが金持ちになる早道でもあったからです。各福音書からも、徴税人が認められている額以上の税や通行税を取りたてていたことがうかがい知れます。例えば、ルカ3章で、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱りつけるところがあります。そこで「定められた以上に取り立ててはならない」と戒めます。同じルカの19章で改心した徴税人ザアカイは、イエス様にこう言いました。「過剰に取り立ててしまった人には4倍にして返します。」占領国の利益になるように仕えるのみならず、自分たちの私腹も肥やすことをしたわけですから、徴税人が、自分の利益しか顧みない国の裏切り者と見なされ、憎まれていたことは想像に難くありません。
 
 ところで、マタイ福音書とルカ福音書にも同じ出来事が収録されていますが、マタイでは徴税人の名前はレビではなくマタイになっています。どっちが正しいのでしょうか?当時は二つの名前を持つ人も珍しくなかったので(例えばサウルとパウロ、トマスとディドゥムスとか)、マタイとレビもそれと同じことなのか、ということが考えられます。そうでなければ、一方の記述は正しくて、他方は誤りということになるのか?
 
福音書には、同じ出来事を扱っていても記述・描写にブレがあることが多くあります。この問題と聖書の信ぴょう性について、いつか機会があれば別にお話ししたく思いますが、結論だけ申し上げると、同じ出来事の記述・描写にブレがあっても、聖書の信ぴょう性にはなんら問題はないと言うことです。福音書の出発点として、まずイエス様の教えや行い、また彼に起こった出来事をつぶさに目撃し見聞きした直近の弟子たちがいる。こうした直接の目撃者の証言が伝承され始めます。最初は口伝えで、次第にパピルス紙に記述されたりし、それらをひとまとめにして出来たのが福音書であります(ルカ1章1-4節にそうしたプロセスの一端を垣間見ることができます)。イエス様にまつわる証言や記述は、伝承の過程で伝承する人たちの観点も働き、例えば、大事だと思われたものはより詳しくされたり、それほど大事と思われなかったら短くされたり削除されたりします。それで、同じ出来事を扱っていても、福音書のそれぞれの記述に違いが生じてくるのであります。しかし、忘れてはならないのは、出発点にあるもともとの出来事は否定できない事実として残るのであります。
 
2.

 本題に戻ります。イエス様の時代のユダヤ教社会では、徴税人が罪びとの最たるものと見なされていたことをみました。ところが、興味深いことに、福音書に登場する徴税人は、どうも勝手が違うのです。例えば、先ほども触れたルカ3章では、洗礼者ヨハネがヨルダン川の地域で神の裁きの到来について大々的に宣告し、大勢の人たちが悔い改めの洗礼を受けに来る。その中に徴税人たちの姿も見られる。彼らは、不安におののきながらヨハネに尋ねます。「先生、私たちは何をしたらよいのでしょうか?」これらの徴税人は、神のもとへ立ち返る必要性を感じていたのであります。同じルカの18章にイエス様のたとえ話として、自分の罪を自覚し神に赦しを祈る徴税人の話があります。これは、たとえ話なので実際にあったことではないのですが、それでも、ヨルダン川のヨハネのもとに集まって来た不安におののく徴税人を思い起こせば、全く非現実的な話ではないのであります。ルカ19章の徴税人ザアカイにしても、イエス様に受け入れられるや否や、悪を持って蓄えた富を捨てる決心をしました。ルカ5章では、イエス様に従いなさいと声を掛けられた徴税人レビは、「全てを捨てて」つき従ったと記されています。つまり、イエス様につき従うのと同時に、それまでの生き方を捨てたのであります。このように、福音書に登場する徴税人は、それまでの生き方を一変して神のもとに立ち返る必要性を感じていた人たちであり、また、イエス様の招きを受け入れて立ち返った人たちでありました。そういうわけで、イエス様と一緒に食卓についた徴税人やその他の罪びとは、イエス様に招かれたことがもとで、神のもとに立ち返った人たちなのであります。
 
 このように見ていくと、ひとつ疑問が生じます。もし、イエス様と一緒に食卓につく徴税人その他の罪びとが、神のもとに立ち返った人たちであるならば、なぜ、ユダヤ教社会の宗教指導者たちは、それを見て満足したり喜ばなかったのか?どうしてショックを受けて怒り出したのか?それは、神のもとへの立ち返りが、指導者たちが考えていた伝統的な手続きや手順を一切無視して、イエスという一個人の招きだけで実現してしまったからです。その上、イエス様は、罪の赦しを与えることができる者としても御自分を現されました。罪の赦しを与えることができるというのは、つまり神の地位にあるということです。マルコ2章で、イエス様が、手足の動かない人を癒すことを通して、罪を赦す力を持っていることを示した出来事について記されています。(その箇所について、2月の本日吉教会の説教で教えたところです。)ユダヤ教社会の宗教指導者にとって、このように罪の赦しを現実に与えられる者、罪びとの神への立ち返りを実現できる者、このような者は、自分たちの権威への挑戦以外の何ものでもなかったのであります。
 
 以上のことから、私たちは次のことを学ぶことができます。イエス様は人々を御自分のもとに招きます。もし、招かれた人が、招きを受ける時点で、神へのもとに立ち返る必要性を感じていれば、その人の人生は、神の意志に適うものへと変わり始めるということです。私たちがよく耳にする言葉として、「イエス様はあなたをあるがままの姿で今のままの自分を受け入れて下さる」というのがあります。これが大きな誤解を生みだしています。つまり、「あるがままの姿で今のままの自分を受け入れて下さる」というのは、天地創造の神に背を向けて生きる生き方をそのまま続けてよいという意味ではありません。正確に言うならば、「イエス様は、神への立ち返りの必要性を感じているあなたをあるがままの姿で今のままの自分を受け入れて下さる」という意味です。神への立ち返りの必要性のない人は、イエス様の招きに応じることはしないでしょう。仮に、立ち返りの必要性を感ぜずにイエス様の招きに応じたにしても、その人の人生が神の意志に適ったものになっていく変化は生まれてこないでしょう。私たちが生まれ変われるかどうかは、天地創造の神であり私たちひとりひとりを造られた神へ立ち返る必要性を感じているかどうか、また感じた時にイエス様の招きに応じるかどうかにかかっていると言えます。
 
 今言ったことに関連して、キリスト信仰にまつわるもう一つの誤解があります。それは、「神は全人類のためにイエス様を用いて救いを整えられた」ということについて起きる誤解です。全人類のために整えたのだから、もう全ての人が救われたのだ、どんな宗教を信じようと何も信じまいと、もう救われたのだ、という理解です。これは、そうではありません。ルターもはっきり教えていることですが、神は全人類のためにイエス様を用いて救いを整えられた、ということは、その整えられた救いが全人類に向けて「どうぞ受け取って下さい」と提供されているにすぎない状態ということです。全人類みんなが、それを「はい、受け取ります」と言って受け取るわけではありません。提供されることと、それを受け取ることは別問題なのであります。神がイエス様を用いて整えた救いが、この自分のためになされたのだ、とわかり、イエス様を救い主として信じて洗礼を受けること、これが救いを受け取ることであります。

3.

 本日の福音書の箇所で、イエス様は「健康な人に医者は必要ない。あるのは病気の人だ」とおっしゃり、食卓を共にする徴税人その他の罪びとを病人、自分は彼らを癒す医者であるとたとえられます。罪びとたちは、神へ立ち返る必要性を感じている人たちなので、治りたい、癒されたいと希求する病人と同じと言ってよいでしょう。病人の方で症状を自覚し、治りたいと希求すれば、ドクター・イエスはすぐ治して下さるのです。それでは、イエス様は、私たちを何の病気から治してくれるのでしょうか。
 
 端的に言うならば、それは、永遠の死、永遠の滅びに至る病です。その病から癒されると、私たちは、死を超えた永遠の命、復活の命を持てるようになります。
 
 どういうことかと言うと、創世記3章に記されている堕罪の出来事を振り返ってみましょう。「これを食べたら神のようになれる」という蛇の誘惑の言葉が決め手となって最初の人間たちは禁じられていた実を食べてしまい、善だけでなく悪をも知り行えるようになってしまう。そして同時に死する存在になってしまいました。パウロが「ローマの信徒への手紙」5章で明らかにしているように、死ぬということは、人間は誰でも神への不従順と罪を最初の人間から受け継いでいるということのあらわれなのであります。確かに、人によっては、悪い行いを外に出さない真面目な人もいるし、悪いこともするが良い行いが上回っているという素敵な人もいます。それでも、全ての人間の根底には、神への不従順と罪が脈々と続いているのであります。イエス様は、モーセ十戒の第五の掟について、たとえ人殺しをしなくても兄弟を見下したり忌々しく思ったり苛立ったりしただけで、殺人と同じ罪に値すると教えられました(マタイ5章21-26節)。行為の重大さにかかわらず、神にとって人間が隣人をないがしろにすることはなんでも許せないことなのだと明らかにされるのです。また第六の掟について、たとえ結婚を裏切る性関係を持たなくても、みだらな思いで異性をみたらそういう関係を持ったも同然であると教えられました(マタイ5章27-30節)。行為に出さなくても同じだと言うのは、性関係の無秩序化から人間を守るのが神の意志であると明らかにしたのです。その他にも、マタイ5章の山上の垂訓のところで、イエス様は、十戒から派生した様々な掟ひとつひとつについて、その根底にある神の意志を明らかにしますが、敵を愛せよとか、復讐してはいけないとか、どれも実現困難なものばかりです。これらを総じて神の律法と言いますが、それはもはや私たちがどれだけ神の意志から離れた存在であるかを明らかにするだけです。私たちの内に、神への反発、反抗や不従順が宿っていること、最初の人間アダムとエヴァ以来の罪を受け継いでいることを明らかにするだけです。
 
 しかし、神は、不従順や罪のゆえに私たちが受けなければならない裁きを、愛するひとり子に全てかわりに受けさせた。そうなると、不従順や罪を持つ私たちは、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けることで、不従順と罪をまだ持ったまま裁きを赦されているという奇妙な状態に置かれることとなった。神の目から見て、さもそれらがなかったかのような状態に置かれることとなった。本当はまだ持ったままなのに。イエス様を救い主と信じ洗礼を受け、イエス様の義という汚れなき衣を頭から被せられた私たちは、その衣の内側にはまだ不従順と罪の汚れを持っているのに、神はそれらがないかのように私たちに被せられた新しい衣だけを見て下さる。そしてそのようなものとして私たちを扱って下さり、永遠の命に至る道に入らせて下さった。ルター派では、キリスト教徒とは罪びとにして同時に赦されている者をいう、ということが強調されますが、まさにその通りであります。まだ不従順と罪をもっているのに、神の子としてもらったのです。
 
 それでは、そのようにイエス様の清さを被せられて、永遠の命への道を歩めるようになった私たちは、まだ自己に残っている不従順や罪に対してどうすればよいのでしょうか。これだけ私たちの人生と命を大きく方向転換して、私たちを新しく生まれ変わらせ、永遠の命に結び付けて下さった神を賛美し感謝して、そんな神の意志に我が命、我が生を委ねて生きようとするのがあるべき生き方だと思います。パウロは、コリント第二の手紙の中で次のように教えました。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(6章19-20節)。ここで言う代価とは、神のみ子イエス・キリストが十字架で流された血です。そのようなとてつもなく大きなことを私にして下さった神を全身全霊で愛そうとすること、そしてその神が私に対して憐れみ深く振る舞って下さったように、私も隣人に対して同じように振る舞おうということ、このように心が方向付けられていくのが当然だと思います。もちろん今すぐ完全にはできません。日々失敗し挫けそうになりますが、日々神様は聖書の御言葉を通して赦して慰めて下さいます。一歩一歩成長していきましょう。大元のところでは、もう赦しを得ているのですから、神様が見放すなどと心配する必要は全くありません。道が見えなくなったとき聖霊が聖書の御言葉を通して光を照らして下さいます。道が険しくなったら、聖霊が後押しをして下さいます。イエス様は、この世の終わりまで毎日わたしたちと共にいると約束されました(マタイ28章20節)。
 
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 そういうわけで、私たちキリスト信仰者は、この世の人生の段階にありながら永遠の命、復活の命に至る道に置かれて、神の守りと支えを受けて日々歩んでいる者であります。そして、この世から死んだ後は、造り主である神のもとに永遠にいることができるようにと御許に引き上げられます。洗礼で築かれた神との堅い絆によって、イエス様が私たちをすぐ引き上げて下さるのです。これら全てのことは、神が聖書の中で、ある時は自らの言葉で、ある時は預言者を通して、ある時はイエス様を通して、またある時は使徒たちを通して、約束されていることです。神は自らを欺くことをしない方です。約束は必ず守られる方です。(本日の使徒書の日課である第二コリント1章18-20節にも、そのことが述べられています。「神は真実な方です」というより「神は忠実な方」とか「信頼に値する方」と訳した方が正確だと思います。)
 
 東日本大震災を経験したにもかかわらず、次は南海トラフとか首都直下型かなどと考えなければならなくなり、同時に目に見えない放射能の危険に不安を抱きながら生きなければならなくなってしまった今の日本人には、今すべて地にあるものは震動し、揺らぎ、崩れ落ち、堅個なものはなにもないと感じられるでしょう。今崩れ落ちていなくても、「想定外」が来たら、それもダメなのではないかと不安でしょう。まさにそのような時に、決して揺らぐことのない確固としたものがある、それに結びついていれば不安を上回る希望を持ってこの世を生きることができる、そしてこの世から死んだ後は自分を造られた方のもとに永遠にいることができるようになる、以上のことを一人でも多くの人に知ってもらうことが今ほど緊急な時はないのではないでしょうか?その「決して揺らぐことのない確固としたもの」とは、神の愛 - イエス・キリストの十字架上の身代わりの死と死からの復活による永遠の命の扉の開放、このことにあらわされた神の愛です。神の愛と約束の言葉は、あらゆる「想定外」を超えたものであることを示す聖句を三つほど紹介して本説教を終わりにしたく思います。

詩編46章2-4節
「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも。海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。」

イザヤ書54章10節
「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる。」

イザヤ書40章6-8節
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむがわたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン