2021年11月15日月曜日

最後の審判の恐れを上回る勇気を持てたら この世もへっちゃらなのだ (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教2021年11月14日 聖霊降臨後第25主日

スオミ教会

 

ダニエル書12章1-3節

ヘブライの信徒の手紙10章11-25節

マルコによる福音書13章1-8節

 

説教題 「最後の審判の恐れを上回る勇気を持てたら

この世もへっちゃらなのだ」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに - 最後の審判に心を向けよう!

 

 キリスト教会のカレンダーは聖霊降臨祭の後は聖霊降臨後第何主日と言って数え、次主日21日が今年の聖霊降臨後の最後の主日になります。28日からは待降節に変わりイエス様の降誕を祝うクリスマスの準備期間となります。

 

 毎年同じことの繰り返しですが、聖霊降臨後の季節も終わりに近づくと聖書の日課は最後の審判とか復活に関係するテーマが多くなります(考えてみたら本スオミ教会の説教は年がら年中そのテーマで話しているかもしれません)。北欧諸国のルター派教会では聖霊降臨後の最終主日は「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」とは、今のこの世が終わる時にイエス様が再び今度は栄光に包まれて天使の軍勢を従えて再臨する時に起こることです。私たちが礼拝の中で唱える使徒信条や二ケア信条にあるように、この再臨する主が「生きている人と死んだ人を裁く」という最後の審判のことです。その時はまた、創造主の神が今ある天と地に代わって全く新しい天と地を創造するという天地の大変動も起きます。さらに死者の復活ということも起きて、審判の結果、神に義と認められた者は復活の体、神の栄光を映し出す朽ちない体を着せられて新しい天地のもとにある神の国に迎え入れらえるということが起こります。じゃ、それまでに死んでいれば最後の審判は関係ないかというとそうではなく、その時既に死んでいた人も眠りから起こされて、その時点で生きている人と一緒に審判を受けるのです。まさに「生きた人と死んだ人とを裁かれる」のです。

 

 最後の審判がいつなのかは、マルコ13章の終わりの方でイエス様が言います。天の父なるみ神以外には誰にも知らされていないと(32節)。それで、主の再臨の日、この世の終わりの日、最後の審判の日、死者の復活の日、新しい天と地が創造される日、それらがいつなのかは誰にもわかりません。イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように準備をしていなさい、目を覚ましていなさい、と教えられるだけです(33-37節)。

 

 教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることは、最後の審判に今一度心を向けて、今自分は復活と永遠の命に至る道を歩んでいるのだろうかと自省する意味があります。これが心の準備をすることであり目を覚ますことです。しかしながら、最後の審判とか裁きとかいうのは、あまり景気のいい話ではありません。はっきり言って恐ろしいです。それででしょうか、「裁きの主日」を定めている肝心の北欧諸国をみても、自省なんかしないでさっさとクリスマスの準備に入ってしまう人が大半ではないかと思います。しかし、忘れてはならない大事なことは、イエス・キリストの福音は、裁きの恐れを上回る勇気を与えてくれるということです。最後の審判は怖くないという勇気を与えられたら、今度は返す刀でこの世で怖いものもなくなります。理不尽な上司も権力者も脅しも祟りも誘惑もみんな空振り三振のバッターのようになります。イエス・キリストの福音とはそういう勇気を与えるものだということがわかるためにこそ、最後の審判に目を向けることは必要なのです。

 

2.マルコ13章のイエス様の預言について

 

 イエス・キリストの福音は最後の審判の恐れを上回る勇気を与えてくれることを、今日の旧約の日課ダニエル12章と使徒書の日課ヘブライ10章をもとに見ていこうと思います。福音書の日課はどうしましょうか?マルコ13章の初めの部分ですが、福音の勇気を得るためにその部分だけでは少し足りないと思います。私としては13章全部を日課にしてほしかったです。そもそもマルコ13章は「キリストの黙示録」とも呼ばれる、イエス様の預言の言葉です。預言の内容はとても複雑です。一方でイエス様の十字架と復活の後イスラエルの地で起こる直近の出来事の預言、他方ではもっと遠い将来全人類にかかわる出来事の預言、これら二つの異なる預言が入り交ざっています。それらを解きほぐすように読まなければなりません。それは容易ではありません。破茶滅茶な解釈が起きないように、かつ全てを昔の人のファンタジーと片付けてしまわないように熟達したバランス感覚が必要です(同じことは黙示録でも言えます)。

 

 マルコ13章を少しだけ見てみます。冒頭でイエス様は、エルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言されます。これは実際にこの時から約40年後の西暦70年にローマ帝国の大軍によるエルサレム攻撃が起きてその通りになりました。預言が気になった4人の弟子が、それはいつ起こるのか、その時どんな前兆があるのかと聞きます。それに対する答えとしてイエス様の詳しい預言が語られていきます。預言は語られるうちに、エルサレム神殿の破壊の前兆から、イエス様の再臨の日の前兆すなわちこの世の終わりの前兆に移っていきます。

 

 神殿破壊の前兆として、偽キリスト、戦争やその噂、地震、飢饉が起こると預言されます。西暦70年の前にこれらのことが実際に起こったことは歴史を細かく調べれば出てくると思います。一例として、14節の「憎むべき破壊者が立ってはいけない所にたつ」というのを見てみます。これはダニエル書11章や12章の預言に出てくるものです。こういう歴史的事件がありました。イエス様の十字架と復活の出来事から10年程後にローマ皇帝カリギュラがエルサレム神殿に自分の像を建てようとして、ユダヤ人たちが必死の外交努力で撤回させたという事件がありました。しかし、これがきっかけとなってローマ帝国とユダヤ民族の相互不信が一気に高まってしまい、ついには西暦70年のエルサレム攻撃に至ってしまったのです。このように預言されたことは歴史的に突き止めることが可能です。

 

 3章19節で、天地創造以来一度もなかった災いが起こるというあたりから、預言の内容はイエス様の再臨の前兆すなわちこの世の終わりの前兆に移っていきます。どんな災いかは具体的には述べられていませんが、主がその期間を短くしなければ、誰一人として助からないくらいの災いである、と言うから凄まじいものです。しかし、主は選ばれた者たちのために既にその期間を短く設定したと言われます(20節)。「選ばれた者たち」というのは、聖書の観点ではもちろんキリスト教徒ということになります。こう言うと、またキリスト教の独りよがりが始まったと思われてしまうかもしれません。「選ばれた者」などと優越感に浸りやがって、と。ここで、キリスト教徒とはいかなる種族の者か考えてみましょう。まず、キリスト教徒とは洗礼を受けた者です。しかし、せっかく洗礼を受けても最後の審判の恐れを上回る勇気を得ていなかったら、この世で神以外のものを沢山恐れて生きていたことになります。それは、洗礼をただのアクセサリーにしてしまったことになります。アクセサリーでは最後の審判や天地の大変動の前に立ち往生してしまいます。洗礼から吹き付けてくる力をかわしたり逃げたりせず、それを全身全霊で受け止めて力を身につけないといけません。そうするキリスト教徒が「選ばれた者」なのです。詰まるところ、キリスト教徒とは最後の審判が怖くてビビっているから勇気をもらわないとダメな種族なのです。別に優越感になんか浸っていません。

 

 マルコ13章全体の詳しい説き明かしは別の機会に譲り、今日はダニエル12章とヘブライ10章をもとにイエス・キリストの福音が最後の審判の恐れを上回る勇気を与えることを見ていきましょう。

 

3.ダニエル書12章 - 最後の審判をクリアーする人たち

 

 先週の礼拝の説教で、キリスト信仰では死というのは復活までの眠りにしか過ぎず、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて永遠に神の御許に迎え入れられるということを申しました。まさにキリスト信仰の死生観です。本日のダニエル書の日課はまさにその死生観をはっきり言い表しています。2節で「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める」と、復活とはまさに死からの目覚めであることがはっきり言われています。

 

 2節ではまた、ある人たちは永遠の命に与り、別の人たちは永遠の恥と憎悪の的となると言われます。選別が行われるので最後の審判があることを示唆しています。永遠の恥と憎悪とは、創造主の神から見て恥ずべき者、神の憎悪を永遠に受けてしまう人たちのことです。恐ろしいことです。ひるがえって、永遠の命に与る人たちのことを3節で「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く」と言っています。これらの人々が輝くというのは、使徒パウロが第一コリント15章で述べているように、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられることを意味します。

 

 ここで、「目覚めた人たち」というのは正しい訳ではありません。「理解できる人たち」とか「見ることが出来る人たち」です(動詞שכלの動名詞形)。そう訳すとは、じゃ、理解できる人たちとは誰?ということを考えなければならなくなり話が難しくなります。それで、どうせ復活して目覚めさせられる人たちのことだから、目覚めた人でいいや、とやってしまったのではないかと思います。本当かどうかわかりませんが、もし本当なら情けない訳です。

 

 それでは「理解できる人たち」、「見ることが出来る人たち」は誰のことかわかるのかというと、これはダニエル書がどういう書物か考えればそんなに難しくはありません。ダニエル書というのは、神の秘められた計画を神の使者が人間に明らかにしてくれる事例集です。神の秘められた計画は人間の力では理解できず見えもしません。それで、神が遣わした者が人間に明らかにして理解できるようにしてくれる、見えるようにしてくれるのです。キリスト信仰の観点に立ってみると、理解できる人、見ることが出来る人というのは、イエス様のおかげで神の秘められた計画を理解できるようになった人、見ることが出来るようになった人のことです。その人たちが復活の体を着せられて永遠の命を持って生きることになるのです。最後の審判をクリアーしたのです。

 

 3節にはまた、最後の審判をクリアーする人たちとして「多くの者の救いとなった人々」というのもあります。これも原文を直訳すれば、「多くの人を神のみ前で無罪になるように導いてくれる人々」です。キリスト信仰の観点に立ってみれば、そういう導きをする人はイエス・キリストの福音を周囲に伝える人のことです。そして、福音を伝えられて受け入れた人は最後の審判で無罪扱いになる。これはまさに福音が福音である所以を言い表しているとても大事なことです。だから福音を伝えられて自分のものにすることが出来ると最後の審判の恐れを上回る勇気を得られるのです。このことを見ていきましょう。

 

4.福音と洗礼で最後の審判の恐れを上回る勇気を得よう!

 

 最後の審判の日、裁き主は一人一人を十戒に照らし合わせてみて、神の目に適う者かどうか判断します。もし殺人姦淫その他行為によって人を傷つけた者は法律上の刑罰を受けたかどうか以上に問われることがあります。それは、神が与える罪の赦しを受け入れたかどうか、受け入れたらそれで神に背を向ける生き方をやめたかどうかが問われます。さらにイエス様は、行為に出さず法律上の問題にならなくても、心の中で兄弟を罵ったり異性をみだらな目で見たりしただけで神の目に適う者になれないと教えられました。そういうふうに心の有り様まで問われたら、誰も神の前で、私は潔癖です、などと言えません。だから最後の審判は恐ろしいのです。

 

 しかしながら、神は人間が完全に神の目に適う者にはなれないことをご存じでした。堕罪の時から全て人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまったので自分の力ではなれないのです。そこで神は、それならば私の力で適う者にしてあげよう、目に適う者になれて私と結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげよう、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせて復活の体を着せて私の許に永遠に迎えてあげよう、そう決めてひとり子をこの世に送られたのです。そして、ひとり子イエス様に人間の全ての罪を負わせて、あたかも彼が全責任者であるかのようにして、十字架の上で神罰を受けさせて死なせました。自分のひとり子に人間の罪の償いを果たせたのです。しかも神はその後、想像を絶する力でイエス様を死から復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開かれました。この出来事の全容を知らせるのが福音です。

 

 あとは人間がこの福音の知らせを聞いて、イエス様の十字架と復活はまさに自分が神と結びつきを持ててこの世と次に到来する世の双方を生きられるようにするためだったんだとわかって、それでその大役を引き受けたイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものにできるのです。洗礼を受けるというのは、イエス様が果たされた罪の償いを全身全霊に吹き付けられて償いに染められてしまうことです。罪を償ってもらったということは、神の目から見て罪を赦された者になったということです。

 

 神から罪を赦された者と見られるとどうなるのか?それは本日のヘブライ11章17節で言われています。それはエレミヤ31章34節の引用です。神はお前の罪を思い出さないと言われます。これが神の罪の赦しの本質です。罪を赦すと言うのは罪を許可することではありません。許可など断じて出来ないが、それで裁いてしまったらお前は永遠の恥と憎悪に投げ込まれてしまう。そうならないために、お前はこの世だけでなく次に到来する世も生きられる新しい命を得なければならない、そのために私はイエスを贈ったのだ。そのイエスをお前は救い主と信じ洗礼を受けて罪の償いを自分のものにしたのだ。だから、お前が犯した罪は、私はもうとやかく言わない。犯した事実は書き換えられないが、さもなかったかのようにする、だからお前は与えられた新しい命に相応しく生きよ。そう神はおっしゃられるのです。これが罪の赦しです。

 

 ところが、このように神の力によって神の目に適う者とされていながら、またそのされた「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながらも、実際にはこの世で生きる限り神の目に相応しくないことがどうしても起きてきてしまいます。行為に出さなくても心の中に現れてきてしまいます。どうしたらよいでしょうか?その時は、すぐその罪を神に認めてイエス様の名に依り頼んで赦しを願います。心に痛みを伴うかもしれませんが、神に背を向けずこのように神の方を向くことを怠らなければ神は約束通りイエス様の犠牲に免じて罪を赦されます。こうして復活と永遠の命に向かう道に留まりそれを歩み続けることが出来ます。このように罪の赦しを心の中に貫かせている人は十戒をもう体の外側に持っていません。心の中に持っています。まさにヘブライ10章16節で引用されているエレミヤ31章33節の御言葉、神は十戒を心に与え刻み付け給う、が実現しているのです。十戒を心の中にではなく外側に持っていたら外面的に守っていることで満足して心の有り様は問わなくなります。最後の審判では心の有り様まで問われるのです。

 

 やがてかの日が訪れ、神のみ前に立つことになる時、キリスト信仰者の申し開きはこうなります。確かに私には至らないことが沢山ありました。しかし、イエス様が果たしてくれた罪の償いにいつもしがみついて生きて参りました、いつもそこに戻るように生きてきました。それ以上のことはできませんでした。そう裁き主に言えばいいのです。神がそれで不十分と言うわけはありません。そんなことを言ったら、ひとり子の犠牲では不十分だったということになるからです。そんなことは絶対にあり得ません。ヘブライ10章14節で言われるように、この方の唯一の犠牲によって罪を不問にしてもって罪から清められた者たちが完全な者、最後の審判をクリアーできる者にされたのです。この方の前にも後にもそのような犠牲はありません。この方のだけです。

 

 兄弟姉妹の皆さん、イエス・キリストの福音とはこのように最後の審判の恐れを上回る勇気を与えてくれる知らせです。洗礼は私たちの人生をその勇気の中で生きる人生にするものです。最後の審判を恐れない心があるならば、この世で何か怖いものがあるでしょうか?理不尽な上司や権力者が怖い、脅しや祟りや誘惑が怖い、それで間違ったことを間違っていると言えなくなることがあります。しかし、よく考えてみて下さい。その怖いと言っているのは神ではないのです。日本語では神でないものを神と呼ぶことが多いので紛らわしいのですが、その恐れる人やものの正体は考えればわかります。その人やものがあなたを造って命と人生を与えたのですか?違うでしょう。その人やものはあなたがこの世から別れた後、あなたを復活させる力がありますか?ないでしょう。その人やものはあなたが言う通りにしないとあなたを地獄に落とすことが出来きますか?できません。その人たちこそ創造主の神の前で崩れ落ちる運命にあるのです。神を差し置いてそんな人たちを恐れるというのは話にならないとわかるでしょう。

 

 最後にもう一言。このように私たちがこの世で怖いものがなくなって間違っていることを間違っていると言えるようになった時、言い方にも注意しなければなりません。ローマ12章でパウロが教えるように、相手を自分より優れた者のように振る舞い、自分はヘリ下って、少なくとも自分の側からは平和を保つように話さなければなりません。パウロもルターも十戒の第4の掟に基づいて父母やこの世の権威には敬意を払わなければいけないと教えています。敬意を払いながら間違いは間違いと言うのです。この点は、熱くなりやすい性格の人は意識して振る舞わないといけないので訓練が必要でしょう。聖書にはそのための手引きが沢山あります。イエス様や使徒たちの教えがそれです。また実例集も豊富にあります。例えばヨセフやダニエルが理不尽な人たちに対してどう振る舞ったかを見るのは大いに参考になります。

 

 そういうわけで皆さん、これからも聖書をたくさん読んでいきましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2021年11月8日月曜日

聖書は復活信仰で満ちている (吉村博明)

  

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2021年11月7日(全聖徒主日)スオミ教会

 

イザヤ書25章6-9節

ヨハネの黙示録21章1-6a節

ヨハネによる福音書11章32-44節

 

説教題 「聖書は復活信仰で満ちている」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

(以下の1.は礼拝の導入部のところでお話しした部分です。内容的に説教の導入部になるので説教文に統合させました。ご了承ください。)

 

1. フィンランドの「全聖徒の日」について

 

 フィンランドでは11月の最初の土曜日は「全聖徒の日(Pyhien päivä)」という国の祝日です。キリスト教の伝統に基づく祝日です。キリスト教会では古くから11月1日をキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者を「聖徒」とか「聖人」と称して覚える日としてきました。ラテン語でFestum omnium sanctorumと言います。加えて11月2日をキリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。これは、Commemoratio omnium fidelium defunctorumと呼ばれます。フィンランドのルター派国教会では11月最初の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者双方を覚える日となっています。今年は11月6日、昨日でした。

 

 その日フィンランド人は何をするかと言うと、大方は教会の墓地にロウソクを持って行って火を灯します。風で消えないようにガラスの瓶に入っているロウソクです。日本ではお墓に花や何か贈り物を持っていくことを「供える」とか「供え物」と言います。フィンランドでも墓に花を飾るので、ああ、キリスト教徒も供え物をするんだな、と日本人は考えます。宗教は違っても人間の思いは同じなんだな、と。確かに表面上はそう見えますが、実はフィンランド人には「供える」という意識も感覚もありません。ただ飾るだけです。墓の前で手を合わせることもしないし、拝んだり、何かを唱えたり、または見えない誰かに何かを呟くこともしません。墓はあくまで家族の記念碑のようなものです。表面上の類似性の下には途方もない違いがあるのです。

 

 どうしてそうなのかについては後ほど本説教の中でお話しします。

「全聖徒の日」にフィンランド全国の教会墓地は全てと言っていいほど墓の前にロウソクが灯されます。白夜の季節が終わった暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に登場する「白い衣を着けた大群衆」を思い起こさせます。これから歌います教会讃美歌496番「白雪おおえる」は、まさにその白く輝く大群衆について歌うものです。北欧ノルウェーの讃美歌で作曲家グリーグの編曲によるものです。

(教会讃美歌496番斉唱)

 

2.復活とは眠りからの目覚めである

 

 本日の福音書の日課はイエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行った出来事です。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。その中でもシナゴーグの会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とある未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の例は詳しく記されています。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも亡くなった方を想う時に「安らかに眠って下さい」と言うことがあります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないのではないかと思います。キリスト信仰では本気で眠っていると考えます。それじゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?と心細くなる人が出てくるかもしれません。しかし、キリスト信仰では心配無用です。天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神が見守ってくれるからです。

 

 キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、死からの「復活」があると信じるからです。復活とは、本日の日課の前でマリアの姉妹マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです(21節)。この世の終わりとは何か?聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まった、それが先ほどの黙示録21章の中で言われるように、神に全て新しく造り直される時が来る。それが今のこの世の終わりということになります。ただし天と地は新しく造り直されるので、この世が終わっても新しい世が始まります。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点とはそういう途方もないものなのです。死者の復活は、まさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言ったのは、復活とは眠りから目覚めることと同じという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになるのです。

 

 ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、イエス様が生き返らせた人たちは実は「復活」ではないということです。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。使徒パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられることです。ところが、イエス様が生き返らせた人たちはみんなまだ肉体がそのままなので「復活」ではありません。時々、イエス様はラザロを復活させたと言う人もいるのですが正確ではありません。「蘇生」が正解でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。加えて4日経ったとは言っても、実は3日だった可能性があります。というのは、当時の日数の数え方は出来事の最初の日も入れて数えるからです。イエス様は金曜日に十字架にかけられ日曜日に復活されたので私たちから見たら2日目ですが、聖書では3日目と言います。

 

 いずれにしても、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんな後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今は神のみぞ知る場所にて「眠って」いて復活の日を待っているのです。

 

 本日の説教では、このキリスト信仰に特異な復活信仰について、本日の他の日課イザヤ25章と黙示録21章をもとに深めてみようと思います。深めた後で、なぜイエス様は死んだ人を蘇生させる奇跡の業を行ったのか、それが復活信仰とどう関連するのかということを考えてみようと思います。

 

3.聖書は復活信仰で満ちている

 

 復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられた者たちは神の御許に迎え入れられます。その迎え入れられるところが「神の国」ないしは「天の国」、天国です。黙示録21章で言われるように、それは天すなわち神の御許から神と共に下ってきます。しかも下ってくる先は今私たちを取り巻いている天地ではなく、それらを廃棄して新たに創造された天と地です。その迎え入れられるところはどんなところか?聖書にはいろいろなことが言われています。黙示録21章では、神が全ての涙を拭われるところ、死も苦しみも嘆きも悲しみもないところと言われています。「全ての涙」とは痛みや苦しみの涙、無念の涙を含む全ての涙です。

 

 特に無念の涙が拭われるというのはこの世で被ってしまった不正や不正義が完全に清算されるということです。キリスト教徒を冗談ではなく真面目にやっていたら、この世の不正や不正義を被るリスクが一気に高まります。創造主の神を唯一の神として祈り赦しを願い、神を大切なものとして礼拝など守っていたら、そうさせないようにする力が襲い掛かります。またイエス様やパウロが命じるように、害をもたらす者に復讐してはならない、祝福を祈れ、悪に悪をもって報いてはならない、善をもって報いよ、これらのことを行ったら、たちまち逆手に取られてどんどんつけ入れられます。

 

 しかし、創造主の神の御許に迎え入れられる日、この世で被った不正や不正義が大きければ大きいほど、清算される値も大きくなります。それで、この世で神の意思に沿うように生きようとして苦しんだことは無駄でも無意味でもなかったということがはっきりします。

 

 このため復活の日は神が主催する盛大なお祝いの日でもあります。黙示録19章やマタイ22章で神の国が結婚式の祝宴に例えられています。神の御許に迎え入れられた者たちはこのように神からお祝いされるのです。天地創造の神がこの世での労苦を全て労って下さるのです。これ以上の労いはありません。そこで本日の旧約の日課イザヤ書25章6節でも祝宴のことが言われています。この節はヘブライ語の原文で読むと韻を踏んでいる詩的な文章です(新共同訳では「酒」が提供されると言っていますが、ヘブライ語原文を見ると「ぶどう酒」です。取り違えてはいけません。こういう訳をするから大酒飲みの牧師が出てくるのです)。

 

 これは一見すると何の祝宴かわかりません。歴史的背景を考えて理解しようとすると、ユダヤ民族を虐げた国々が滅ぼされて、その後で催される勝利の祝宴を意味すると考えられるかもしれません。しかし、8節で「主は死を永遠に滅ぼされた、全ての顔から涙を拭われた」と言うので、これは復活の日の神の国での祝宴を意味するのは間違いないでしょう。

 

 そのように理解すると難しい7節もわかります。「主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼした。」布を滅ぼすとは一体何のことか?と誰もが思うでしょう。頑張って理解しようとする人は想像力を駆使して自分なりの結論を見つけるでしょう。しかし、聖書は神の言葉です。自分の想像力にぴったりな意味が神の言わんとしていることだなどという思い込みは捨てなければなりません。そういうわけで、自分の思いは脇に置いて神が言わんとしていることに迫ってみましょう。

 

 7節のヘブライ語原文を直訳すると、「主はこの山で諸国民を覆っている表面のものと諸民族を覆っている織られたものを消滅させる」です。「覆っているもの」というのは人間が纏っている肉の体を意味します。どうしてそう言えるのかというと、詩篇139篇13節に「私は母の胎内の中で織られるようにして造られた」とあるからです。ヘブライ語原文ではちゃんと「織物を織る」という動詞(נסך)が使われているのに、新共同訳では「組み立てられる」に変えられてしまいました。イザヤ書25章7節でも同じ動詞(נסך)が使われていて人間が纏っているものを「織られたもの」と表現しています。それが消滅するというのは、復活の日に肉の体が復活の体に取って代わられることを意味します。

 

 人間が纏っている肉の体は神が織物を織るように造ったという考え方は、パウロも受け継いでいます。第二コリント5章でパウロはこの世で人間が纏っている肉の体を幕屋と言います。幕屋はテントのことですが、当時は化学繊維などないので織った織物で作りました。まさにテント作りをしていたパウロならではの比喩でしょう。幕屋/テントが打ち破られるように肉の体が朽ち果てても、人の手によらない天の幕屋が神から与えられるので裸にはならないと言います。まさに神からの幕屋が復活の日に現れることが今日の黙示録の日課の中ではっきり言われるのです。21章3節です。ギリシャ語原文をパウロの意図を汲んで訳すとこうなります。「見よ、神の幕屋が人々と共にある、神は人々の上に幕屋を張り共に住まわる。」つまり、復活の体を纏わらせてもらった人たちが神の御許に迎え入れられたということです。

 

 ここで余談ですが、なぜヘブライ語の原文ではこのように復活について言われているのに、翻訳ではそれが見えにくくなるように訳されてしまうかということについて。これは、旧約聖書を翻訳する人が、たとえ復活信仰を持つキリスト信仰者であっても、同時に聖書の学会の学説に縛られる研究者でもあるということによります。学会の定説では、復活信仰というのは紀元前2世紀頃に現れた思想ということになります。そうなると、それ以前からある旧約聖書の書物の中で復活を言っているように見える個所は実は復活信仰を言い表しているのではない、例えばユダヤ民族の復興を比喩的に言っているということになります。今ある天と地に代わって新しい天と地が創造される時に起きる、そういう全人類な出来事を言っているのではないのだと。それで、旧約聖書の中で復活を言っているように見える個所に出くわしても、復活を出さないように訳してしまうのです。

 

 ところが、パウロもペトロもヨハネも各々の手紙や使徒言行録の中で言っていることを見ると、みんな旧約聖書のそういう個所をことごとく復活を意味していると言うのです。現代の聖書の学者たちが見たら歴史認識が欠如していると呆れかえるでしょう。ところがイエス様も同罪なのです。イエス様は復活なんかないと主張するサドカイ派の人たちに対して、いや復活はある、その証拠に神はモーセに「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言ったではないか、と出エジプト記3章6節を根拠に掲げたのです。これは紀元前2世紀どころではない、かなり太古の時代の話です。

 

 こういうふうに旧約聖書から復活信仰をくみ取るというのは、イエス様と使徒たちがとったアプローチ法です。私たちが手にする翻訳からでは見えてこないことを、ヘブライ語やアラム語やギリシャ語の原文を前にしてイエス様と使徒たちと同じ観点に立って見るといろんなことが見えてきます。人間の想像力など用いなくても神が言わんとすることに迫ることができるのです。学会の学説は一つの見識として片耳に挟む程度にして、私としては、これからもキリストと使徒の観点と原文を手掛かりにしてみ言葉の説き明かしに努めていきたく思います。そうやって説教を準備するといつも何か新しい発見があります。それで説教の業においては私もまだまだ発展途上なのです。

 

4.復活信仰の確認

 

 話が横道にそれました。イエス様が死んだ人たちを生き返らせる奇跡を行ったことが復活信仰とどう関連するか見ていきましょう。

 

 そのため少し本日の日課の前の部分に立ち戻らなければなりません。イエス様とマルタの対話の部分です。兄弟ラザロを失って悲しみに暮れているマルタにイエス様は聞きました。お前は私が復活の日に信じる者を復活させ永遠の命に与らせることが出来ると信じるか?マルタの答えは、「はい、主よ、私はあなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)」。実に興味深い答えです。というのは、マルタはメシアについて当時一般的だった考え方、ユダヤ民族を他民族の支配から解放する英雄の王がメシアという考え方ではなかったからです。マルタがメシアを復活や永遠の命を人間に与える全人類的な救世主と捉えていたことを伺わせる答えでした。

 

 マルタの答えで興味深いことがもう一つあります。それは、イエス様が救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではこの動詞の意味は「過去の時点から今日の今までずっと信じてきました」という意味です。つまり、今イエス様と対話しているうちにわかって初めて信じるようになったということではありません。ずっと前から信じていたということなのです。このことに気づくとイエス様の話の導き方が見えてきます。私たちにとっても大事なことです。つまり、マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れている。将来復活というものが起きて、そこで兄と再会するということはわかってはいた。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持つ者でも悲しくつらいものです。これは何かの間違えだ、出来ることなら今すぐ生き返ってほしいと願うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても遠い世界の話か気休めにしか聞こえないでしょう。

 

しかし、復活信仰には死の引き裂く力を上回る力があります。復活そのものが死を上回るものだからです。それでは、どうしたら復活があると信じることが出来るのでしょうか?それは、神がひとり子のイエス様を用いて私たち人間に何をして下さったかを知れば持つことができます。聖書の観点に立ってみると、人間の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっているということが見えてきます。そうした罪は人間なら誰でも生まれながらにして持ってしまっているというのが聖書の立場です。人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世から別れた後は造り主のもとに永遠に戻れるようにする、そのためには結びつきを持てなくさせようとする罪の問題を解決しなければならない。まさにその解決のために神はひとり子イエス様をこの世に贈り、彼が人間の罪を全て引き受けてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けることで罪の償いを果たしてくれたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、その命に至る道を人間に切り開かれました。まさにイエス様は「復活であり、永遠の命」なのです。

 

神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける番となります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ることができます。罪を償ってもらったということは、これからは神からの罪の赦しのお恵みの中で生きるこということです。頂いたお恵みに心と人生を方向づけられて歩んでいくことになります。目指す目的地は、死を超えた永遠の命と神の栄光を現わす体が与えられる復活です。そこでは死はもはや紙屑か塵同様です。神から頂いた罪の赦しのお恵みから外れずその中に留まっていれば神との結びつきはそのままです。この結びつきを持って歩むならば死は私たちの復活到達を妨害できません。

 

マルタは復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活に与らせて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまいました。今すぐの生き返りを期待するようになっていました。これはキリスト信仰者でもそうなります。しかし、イエス様との対話を通して、復活と永遠の命の希望が戻りました。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認できて見失っていたものを取り戻しました。兄を失った悲しみは消滅しないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげも鋭さを失い鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰に留まるだけです。

 

ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからそのご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかです。これが大事な点です。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。

 

それにもかかわらずイエス様が生き返りを行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼には復活の目覚めさせをする力があること、これを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。

 

このようにラザロの生き返らせの奇跡は、イエス様が死んだ者を蘇生する力があることを示すこと自体が目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の両方をもって、自分が復活であり永遠の命であることを示したのでした。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

2021年11月1日月曜日

神への愛、隣人への愛、自分自身への愛 (吉村博明)

  

 

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教2021年10月31日 聖霊降臨後第31主日

 

申命記6章1-9節

ヘブライの信徒への手紙9章11-14節

マルコによる福音書12章28-34節

 

説教題 「神への愛、隣人への愛、自分自身への愛」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 律法学者がイエス様に聞きました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」「第一」(πρωτη)というのは「一番重要な掟は何ですか?」と聞いているのです。

 

 律法学者というのはユダヤ教社会の中で起きてくる様々な問題を律法すなわち神の掟に基づいて解決する役割がありました。それで職業柄、全ての掟やその解釈を熟知していなければなりませんでした。神の掟とは、まず私たちが手にする旧約聖書の中にモーセ五書という律法集があります。その中に皆さんよくご存知の十戒があります。その他にもいろんな規定があります。神殿での礼拝についての規定、宗教的な汚れからの清めについての規定、罪の赦しのためいつどんな生け贄を捧げるかについての規定、人間関係についての規定等々数多くの規定があります。これだけでもずいぶんな量なのに、この他にも文書化されずに口承で伝えられた掟も数多くありました。マルコ7章に「昔の人の言い伝え」と言われている掟がそれです。ファリサイ派というグループはこれらも文書化された掟同様に守るべきと主張していました。

 

 これだけ膨大な量の掟があると、信仰生活や社会生活の中で解決しなければならない問題が起きた時、どれを適用したらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、そういう問題が頻繁に起きたでしょう。そればかりか、膨大な掟に埋もれていくうちに、神の掟と思ってやったことが実は神の意思から離れてしまうということも起きました。例として、両親の扶養に必要なものを神殿の供え物にすれば扶養の義務を免れるというような言い伝えの掟がありました。イエス様はこれを十戒の第4の掟「父母を敬え」を無効にするものだ、と強く批判しました(マルコ7章8-13節)。そういう時勢でしたから、何が神の意思に沿う生き方かということを真剣に考える人にとって、「どれが一番重要な掟か?」という問いは切実でした。現代というのは創造主の神など持ち出さなくていいという時代ですが、こういう問いかけは自分の生き方の方向を考え直す時に大事な視点になるのではないかと思います。

 

2.最も重要な掟

 

 イエス様は、「第一の掟は、これである」と言って教えていきます。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。本日の旧約の日課、申命記6章からの引用でした。これが第一の掟、一番重要な掟でした。ところが、律法学者は「第一の掟は?」と聞いたのに、イエス様はそれに続けて「第二」(δευτερα)の掟、すなわち二番目に重要な掟も付け加えます。それは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、でした。これはレビ記19章18節からの引用でした。イエス様は実に旧約聖書の上に立っているのです。

 

 さて、二番目だから少し重要度が低いかというと、そういうわけでもなく、「この二つにまさる掟は他にない」と言われます。それで、この二つの掟は神の掟中の掟ということになる。山のような掟の集大成の頂点にこの二つがある。ただし、その頂点にも序列があって、まず、神を全身全霊で愛すること、これが一番重要な掟で、それに続いて隣人を自分を愛するが如く愛することが大事な掟としてくる、ということです。

 

 この二つの掟をよく見てみると、それぞれ十戒の二つの部分に相当することがわかります。皆様もご存知のように十戒の初めの3つは、天地創造の神の他に神をもったり崇拝してはならない、神の名をみだりに唱えてはならない、安息日を守らなければならない、でした。この3つの掟は神と人間の関係を既定する掟です。残りの7つは、両親を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、隣人の所有するものを妬んだり欲したり損なったりしてはならない、また隣人の妻など隣人の家族を構成する者を妬んだり欲したり損なってはならない、というように、人間と人間の関係を既定する掟です。最初の、神と人間の関係を既定する3つの掟を要約すれば、神を全身全霊で愛せよ、ということになります。人間と人間の関係を既定する7つの掟も要約すれば、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということになります。

 

 このようにイエス様は、十戒の一つ一つを繰り返して述べることはせず、二つの部分にまとめあげました。それで、天地創造の神以外に神をもって崇拝してはならない云々の3つの掟は、つまるところ神を全身全霊で愛せよ、ということに行きつく。同じように、両親を敬え云々の7つの掟も、つまるところ隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということに行きつくというのです。

 

 さて、イエス様から二つの掟を聞かされた律法学者は、目から鱗が落ちた思いがしました。目の前にあった掟の山が崩れ落ちて、残った二つの掟が目の前に燦然と輝き始めたのです。律法学者はイエス様の言ったことを自分の口で繰り返して言いました。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす捧げ物やいけにえよりも優れています。」律法学者はわかったのです。どんなにうやうやしく神殿に参拝して規定通りに生け贄や貢物を捧げたところで、また何か宗教的な儀式を積んだところで、神を全身全霊で愛することがなければ、また隣人を自分を愛するが如く愛さなければ、そんなものは神からみて何の意味もなさない空しい行為にすぎない、ということが。律法学者がこの真理の光を目にしたことを見てとったイエス様は言われます。「あなたは、神の国から遠くない。」

 

 これでこの件はめでたしめでたしの一件落着かと言うと、そうではありませんでした。イエス様が言われたことをよく注意してみてみましょう。「あなたは、神の国から遠くない」。「神の国に入れた」とは言っていないのがミソです。「神の国に入れる」というのはどういうことでしょうか?それは、人間がこの世から別れた後、復活の日に目覚めさせられて復活の体という朽ちない神の栄光に輝く体を着せられて自分の造り主である神のもとに迎え入れられて永遠に生きることを意味します。そのようにして、今のこの世の人生と次に到来する新しい世の人生の二つを合わせたとてつもなく大きな人生を生きられることです。そのような人生を生きられるために守るべき掟として、一番重要なのは神への全身全霊の愛、二番目に重要なのは隣人愛である。それらをより具体的に言い表したのが十戒で、その他の掟はこれらを土台にしているかどうかで意味があるかないかがわかる。こうしたことを知っていることは、神の国に入れるために大切なことではあるが、ただ知っているだけでは入れないのです。実践しなければ入れないのです。知っているだけでは、せいぜい「遠くない」がいいところです。

 

 それでは人間はどうすればイエス様が教える神への全身全霊の愛と隣人愛を実践することができるのでしょうか?それを次に見てみましょう。

 

3.神を全身全霊で愛する愛

 

 まず一番重要な掟、神を全身全霊で愛することからみていきます。全知全能の神、天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えられた創造主にして、ひとり子イエス様をこの世に送られた父なる神。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?

 

 その答えは、この一番重要な掟の最初の部分にあります。「わたしたちの神である主は、唯一の主である。」これは命令形でないので、掟には見えません。しかし、イエス様が一番重要な掟の中に含めている以上は掟です。そうなると、「神を全身全霊で愛せよ」というのは、神があなたにとっても私にとっても「唯一の主」として保たれるように心や力を尽くせ、ということになります。つまり、この神以外に願いをかけたり祈ったりしてはならないということです。この神以外に自分の運命を委ねてはならないし、またこの神以外に自分の命が委ねられているなどと微塵にも考えないことです。嬉しい時にはこの神に感謝し、苦しい時にはこの神に助けを求めてそれを待つ、そうする相手はこの神以外にないということです。さらに、もしこの神を軽んじたり、神の意思に反することを行ったり思ったり言葉にした時は、すぐこの神に赦しを願うことです。こうしたことが神を唯一の主として保つことです。

 

 実は、このような全身全霊を持ってする神への愛は、私たち人間には生まれながら自然に備わっていません。私たちに備わっているのは、神の意思に反しようとする罪です。それでは、どうしたら神への愛を持てるのでしょうか?それは、神は私たちに何をして下さったのかを知ることで持てます。それを知れば知るほど神への愛は強まってきます。それでは、神は私たちに何をして下さったのか?まず、今私たちが存在している場所である天と地を造られました。そして私たち人間を造られ、私たち一人一人に命と人生を与えて下さいました。ところが残念なことに、人間が悪魔に隙を見せてしまったために神の意思に反しようとする罪が備わってしまいました。それで最初にあった神との結びつきは失われてしまったのです。しかし、神は失われた結びつきを人間に取り戻して人間が自分との結びつきを持って生きられるようにしようと決意されました。まさにそのためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そして本当なら私たちが受けるべき罪の罰を全部イエス様にかわりに受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲の死に免じて私たち人間の罪を赦すことにして下さいました。さらに一度死んだイエス様を死から復活させることで死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を切り開かれました。そこで人間がこれらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の犠牲に免じた罪の赦しを受け取ることになります。神から罪の赦しを受けたことになるので、その人は神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めるようになります。こうして順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られながら歩むことができ、この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠に自分の造り主のもとに迎え入れられるのです。

 

 このように私たちは、神が私たちにして下さったことのなんたるやがわかると、この神にのみ願いをかけ祈るようになり、この神にのみ自分の運命を委ねるようになり、この神にのみ感謝し助けを求めるようになり、この神にのみ赦しを願うようになるのです。まさに神を全身全霊で愛するようになるのです。

 

4.隣人を自分を愛するが如く愛する愛、自分自身を愛する愛

 

 次に二番目に重要な掟「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」を見てみましょう。これはどういう愛でしょうか?

 

 隣人愛と聞くと、大方は苦難や困難に陥った人を助けることを思い浮かべます。しかし、人道支援という隣人愛は、キリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていても、また無信仰者・無神論者でもできます。そのことは、日本で災害が起きるたびに多くの人がボランティアに出かけることを見てもわかります。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛にあって他の隣人愛にないものがあります。それは、先ほども申しましたように、神への全身全霊の愛の上に立っているということです。神への全身全霊の愛とは、神を唯一の主として保って生きることです。そのように生きることが出来るのは、神がこの自分にどんなにとてつもないことをして下さったか、それをわかることにおいてです。このため、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の業が神を唯一の主とする愛に即しているかどうか吟味する必要があります。仮に創造主の神は唯一なんかではない、という考えで行ったとしても、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということではありません。しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別物です。

 

 イエス様が教える隣人愛の中でもう一つ注意しなければならないことがあります。それは「自分を愛するが如く」と言っていることです。自分を愛することが出来ないと隣人愛が出来ないのです。自分を愛するとはどういうことでしょうか?自分は自分を大事にする、だから同じ大事にする仕方で隣人も大事にする。そういうふうに理解すると、別にキリスト教でなくてもいい、一般的な当たり前の倫理になります。そこでイエス様の教えを少し掘り下げてみましょう。

 

 イエス様は隣人愛を述べた時、レビ記19章18節から引用しました。そこでは隣人から悪を被っても復讐しないことや、何を言われても買い言葉にならないことが隣人愛の例としてあげられています。別のところでイエス様は、敵を憎んではならない、敵は愛さなければならない、さらに迫害する者のために祈らなければならないと教えています(マタイ5章43-48節)。そうなると、キリスト信仰者にとって、隣人も敵も区別がつかなくなり、全ての人が隣人になって隣人愛の対象になります。しかし、そうは言っても、そういう包括的な「隣人」の誰かが良からぬことをしたり迫害することも現実にはありうる。そのような「隣人」をもキリスト信仰者は愛さなければならないとはどういうことなのでしょうか?

 

 イエス様は、敵を愛せよと教えられる時、その理由として、父なるみ神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる方だからだ、と教えました。もし神が悪人に対して太陽を昇らせなかったり雨を降らせなかったら、彼らは一気に滅びてしまいます。しかし、神は悪人が悪人のままで滅んでしまうのを望んでいないのです。神は悪人が神に背を向けた生き方を方向転換して神のもとに立ち返ることを望んでいて、それを待っているのです。彼らがイエス様を救い主と信じる信仰に入って、永遠の命に向かう道を歩む群れに加わるのを待っているのです。そういうわけで、神が悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるというのは、なにか無原則な気前の良さを言っているのでは全くなく、悪人に神のもとへ立ち返る可能性を与えているということなのです。

 

 ここから、敵を愛することがどういうことかわかってきます。イエス様が人間を罪と死の支配状態から救い出すために十字架にかけられる道を選ばれたのは、全ての人間に向けてなされたことでした。神は、全ての人間がイエス様を救い主と信じて罪の赦しというお恵みを受け取ることを願っているのです。キリスト信仰者は、この神の願いが自分の敵にも実現するように祈り行動するのです。迫害する者のために祈れ、とイエス様は命じられます。一体全体、何を祈るのかというと、まさに迫害する者がイエス様を自分の救い主と信じて神のもとに立ち返ることを祈るのです。「神様、迫害者を滅ぼして下さい」とお祈りするのは神の御心に適うものではありません。もし迫害を早く終わらせたかったら、神様、迫害者がイエス様を信じられるようにして下さい、とお祈りするのが遠回りかもしれませんが効果的かつ神の御心に適う祈りでしょう。

 

 このように、キリスト信仰の隣人愛は、苦難困難にある人たちを助けるにしても、敵や迫害者を愛するにしても、愛を向ける相手が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにすることが視野に入っているのです。神がひとり子を用いて私たち人間にどれだけのことをしてくれたかをわかればわかるほど、この神を全身全霊で愛するのが当然という心になります。その神が実は敵や反対者に対しても罪の赦しというお恵みをどうぞ受け取りなさいと差し出しているのです。それがわかると敵や反対者というものは神のお恵みを受け取ることが出来るように助けてあげるべき人たちになり、打ち負かしたり屈服させるためにあるものではなくなります。

 

 こうしたことがわかると、キリスト信仰で「自分を愛する」というのはどういうことかもわかります。神は御自分のひとり子を犠牲にするのも厭わないくらいに私のことを愛して下さった、神はそれくらい私のことを愛するに値する者として扱って下さっている、それなので私はこの神の愛に留まり、これから離れたり外れたりしないようにしよう。これが「自分を愛する」ことです。神の愛が自分に注がれるのに任せる、神の愛に全身全霊を委ねる、これが「自分を愛する」ことです。そのような者として隣人を愛するというのは、まさに隣人も同じ神の愛を受け取ることが出来るように祈ったり働きかけたりすることになります。隣人が既にキリスト信仰者の場合は、その方が神の愛の中に留まれるように助けてあげることです。

 

 このように、神を全身全霊で愛する愛、隣人を自分を愛するがごとく愛する愛、自分自身を愛する愛、これらの愛は、神がひとり子を用いて私たち人間に大いなる救いをもたらして下さったという愛があってこそ起こってくる愛です。そして、その神の愛の中に留まり続けることで強まっていく愛です。このことに立ってヨハネの次の言葉を心に刻んでおきましょう。

 

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、

わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。

ここに愛があります。

愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、

わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(第一ヨハネ4章10~11節)

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン