2021年11月8日月曜日

聖書は復活信仰で満ちている (吉村博明)

  

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2021年11月7日(全聖徒主日)スオミ教会

 

イザヤ書25章6-9節

ヨハネの黙示録21章1-6a節

ヨハネによる福音書11章32-44節

 

説教題 「聖書は復活信仰で満ちている」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

(以下の1.は礼拝の導入部のところでお話しした部分です。内容的に説教の導入部になるので説教文に統合させました。ご了承ください。)

 

1. フィンランドの「全聖徒の日」について

 

 フィンランドでは11月の最初の土曜日は「全聖徒の日(Pyhien päivä)」という国の祝日です。キリスト教の伝統に基づく祝日です。キリスト教会では古くから11月1日をキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者を「聖徒」とか「聖人」と称して覚える日としてきました。ラテン語でFestum omnium sanctorumと言います。加えて11月2日をキリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。これは、Commemoratio omnium fidelium defunctorumと呼ばれます。フィンランドのルター派国教会では11月最初の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者双方を覚える日となっています。今年は11月6日、昨日でした。

 

 その日フィンランド人は何をするかと言うと、大方は教会の墓地にロウソクを持って行って火を灯します。風で消えないようにガラスの瓶に入っているロウソクです。日本ではお墓に花や何か贈り物を持っていくことを「供える」とか「供え物」と言います。フィンランドでも墓に花を飾るので、ああ、キリスト教徒も供え物をするんだな、と日本人は考えます。宗教は違っても人間の思いは同じなんだな、と。確かに表面上はそう見えますが、実はフィンランド人には「供える」という意識も感覚もありません。ただ飾るだけです。墓の前で手を合わせることもしないし、拝んだり、何かを唱えたり、または見えない誰かに何かを呟くこともしません。墓はあくまで家族の記念碑のようなものです。表面上の類似性の下には途方もない違いがあるのです。

 

 どうしてそうなのかについては後ほど本説教の中でお話しします。

「全聖徒の日」にフィンランド全国の教会墓地は全てと言っていいほど墓の前にロウソクが灯されます。白夜の季節が終わった暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に登場する「白い衣を着けた大群衆」を思い起こさせます。これから歌います教会讃美歌496番「白雪おおえる」は、まさにその白く輝く大群衆について歌うものです。北欧ノルウェーの讃美歌で作曲家グリーグの編曲によるものです。

(教会讃美歌496番斉唱)

 

2.復活とは眠りからの目覚めである

 

 本日の福音書の日課はイエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行った出来事です。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。その中でもシナゴーグの会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とある未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の例は詳しく記されています。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも亡くなった方を想う時に「安らかに眠って下さい」と言うことがあります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないのではないかと思います。キリスト信仰では本気で眠っていると考えます。それじゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?と心細くなる人が出てくるかもしれません。しかし、キリスト信仰では心配無用です。天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神が見守ってくれるからです。

 

 キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、死からの「復活」があると信じるからです。復活とは、本日の日課の前でマリアの姉妹マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです(21節)。この世の終わりとは何か?聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まった、それが先ほどの黙示録21章の中で言われるように、神に全て新しく造り直される時が来る。それが今のこの世の終わりということになります。ただし天と地は新しく造り直されるので、この世が終わっても新しい世が始まります。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点とはそういう途方もないものなのです。死者の復活は、まさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言ったのは、復活とは眠りから目覚めることと同じという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになるのです。

 

 ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、イエス様が生き返らせた人たちは実は「復活」ではないということです。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。使徒パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられることです。ところが、イエス様が生き返らせた人たちはみんなまだ肉体がそのままなので「復活」ではありません。時々、イエス様はラザロを復活させたと言う人もいるのですが正確ではありません。「蘇生」が正解でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。加えて4日経ったとは言っても、実は3日だった可能性があります。というのは、当時の日数の数え方は出来事の最初の日も入れて数えるからです。イエス様は金曜日に十字架にかけられ日曜日に復活されたので私たちから見たら2日目ですが、聖書では3日目と言います。

 

 いずれにしても、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんな後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今は神のみぞ知る場所にて「眠って」いて復活の日を待っているのです。

 

 本日の説教では、このキリスト信仰に特異な復活信仰について、本日の他の日課イザヤ25章と黙示録21章をもとに深めてみようと思います。深めた後で、なぜイエス様は死んだ人を蘇生させる奇跡の業を行ったのか、それが復活信仰とどう関連するのかということを考えてみようと思います。

 

3.聖書は復活信仰で満ちている

 

 復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられた者たちは神の御許に迎え入れられます。その迎え入れられるところが「神の国」ないしは「天の国」、天国です。黙示録21章で言われるように、それは天すなわち神の御許から神と共に下ってきます。しかも下ってくる先は今私たちを取り巻いている天地ではなく、それらを廃棄して新たに創造された天と地です。その迎え入れられるところはどんなところか?聖書にはいろいろなことが言われています。黙示録21章では、神が全ての涙を拭われるところ、死も苦しみも嘆きも悲しみもないところと言われています。「全ての涙」とは痛みや苦しみの涙、無念の涙を含む全ての涙です。

 

 特に無念の涙が拭われるというのはこの世で被ってしまった不正や不正義が完全に清算されるということです。キリスト教徒を冗談ではなく真面目にやっていたら、この世の不正や不正義を被るリスクが一気に高まります。創造主の神を唯一の神として祈り赦しを願い、神を大切なものとして礼拝など守っていたら、そうさせないようにする力が襲い掛かります。またイエス様やパウロが命じるように、害をもたらす者に復讐してはならない、祝福を祈れ、悪に悪をもって報いてはならない、善をもって報いよ、これらのことを行ったら、たちまち逆手に取られてどんどんつけ入れられます。

 

 しかし、創造主の神の御許に迎え入れられる日、この世で被った不正や不正義が大きければ大きいほど、清算される値も大きくなります。それで、この世で神の意思に沿うように生きようとして苦しんだことは無駄でも無意味でもなかったということがはっきりします。

 

 このため復活の日は神が主催する盛大なお祝いの日でもあります。黙示録19章やマタイ22章で神の国が結婚式の祝宴に例えられています。神の御許に迎え入れられた者たちはこのように神からお祝いされるのです。天地創造の神がこの世での労苦を全て労って下さるのです。これ以上の労いはありません。そこで本日の旧約の日課イザヤ書25章6節でも祝宴のことが言われています。この節はヘブライ語の原文で読むと韻を踏んでいる詩的な文章です(新共同訳では「酒」が提供されると言っていますが、ヘブライ語原文を見ると「ぶどう酒」です。取り違えてはいけません。こういう訳をするから大酒飲みの牧師が出てくるのです)。

 

 これは一見すると何の祝宴かわかりません。歴史的背景を考えて理解しようとすると、ユダヤ民族を虐げた国々が滅ぼされて、その後で催される勝利の祝宴を意味すると考えられるかもしれません。しかし、8節で「主は死を永遠に滅ぼされた、全ての顔から涙を拭われた」と言うので、これは復活の日の神の国での祝宴を意味するのは間違いないでしょう。

 

 そのように理解すると難しい7節もわかります。「主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼした。」布を滅ぼすとは一体何のことか?と誰もが思うでしょう。頑張って理解しようとする人は想像力を駆使して自分なりの結論を見つけるでしょう。しかし、聖書は神の言葉です。自分の想像力にぴったりな意味が神の言わんとしていることだなどという思い込みは捨てなければなりません。そういうわけで、自分の思いは脇に置いて神が言わんとしていることに迫ってみましょう。

 

 7節のヘブライ語原文を直訳すると、「主はこの山で諸国民を覆っている表面のものと諸民族を覆っている織られたものを消滅させる」です。「覆っているもの」というのは人間が纏っている肉の体を意味します。どうしてそう言えるのかというと、詩篇139篇13節に「私は母の胎内の中で織られるようにして造られた」とあるからです。ヘブライ語原文ではちゃんと「織物を織る」という動詞(נסך)が使われているのに、新共同訳では「組み立てられる」に変えられてしまいました。イザヤ書25章7節でも同じ動詞(נסך)が使われていて人間が纏っているものを「織られたもの」と表現しています。それが消滅するというのは、復活の日に肉の体が復活の体に取って代わられることを意味します。

 

 人間が纏っている肉の体は神が織物を織るように造ったという考え方は、パウロも受け継いでいます。第二コリント5章でパウロはこの世で人間が纏っている肉の体を幕屋と言います。幕屋はテントのことですが、当時は化学繊維などないので織った織物で作りました。まさにテント作りをしていたパウロならではの比喩でしょう。幕屋/テントが打ち破られるように肉の体が朽ち果てても、人の手によらない天の幕屋が神から与えられるので裸にはならないと言います。まさに神からの幕屋が復活の日に現れることが今日の黙示録の日課の中ではっきり言われるのです。21章3節です。ギリシャ語原文をパウロの意図を汲んで訳すとこうなります。「見よ、神の幕屋が人々と共にある、神は人々の上に幕屋を張り共に住まわる。」つまり、復活の体を纏わらせてもらった人たちが神の御許に迎え入れられたということです。

 

 ここで余談ですが、なぜヘブライ語の原文ではこのように復活について言われているのに、翻訳ではそれが見えにくくなるように訳されてしまうかということについて。これは、旧約聖書を翻訳する人が、たとえ復活信仰を持つキリスト信仰者であっても、同時に聖書の学会の学説に縛られる研究者でもあるということによります。学会の定説では、復活信仰というのは紀元前2世紀頃に現れた思想ということになります。そうなると、それ以前からある旧約聖書の書物の中で復活を言っているように見える個所は実は復活信仰を言い表しているのではない、例えばユダヤ民族の復興を比喩的に言っているということになります。今ある天と地に代わって新しい天と地が創造される時に起きる、そういう全人類な出来事を言っているのではないのだと。それで、旧約聖書の中で復活を言っているように見える個所に出くわしても、復活を出さないように訳してしまうのです。

 

 ところが、パウロもペトロもヨハネも各々の手紙や使徒言行録の中で言っていることを見ると、みんな旧約聖書のそういう個所をことごとく復活を意味していると言うのです。現代の聖書の学者たちが見たら歴史認識が欠如していると呆れかえるでしょう。ところがイエス様も同罪なのです。イエス様は復活なんかないと主張するサドカイ派の人たちに対して、いや復活はある、その証拠に神はモーセに「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言ったではないか、と出エジプト記3章6節を根拠に掲げたのです。これは紀元前2世紀どころではない、かなり太古の時代の話です。

 

 こういうふうに旧約聖書から復活信仰をくみ取るというのは、イエス様と使徒たちがとったアプローチ法です。私たちが手にする翻訳からでは見えてこないことを、ヘブライ語やアラム語やギリシャ語の原文を前にしてイエス様と使徒たちと同じ観点に立って見るといろんなことが見えてきます。人間の想像力など用いなくても神が言わんとすることに迫ることができるのです。学会の学説は一つの見識として片耳に挟む程度にして、私としては、これからもキリストと使徒の観点と原文を手掛かりにしてみ言葉の説き明かしに努めていきたく思います。そうやって説教を準備するといつも何か新しい発見があります。それで説教の業においては私もまだまだ発展途上なのです。

 

4.復活信仰の確認

 

 話が横道にそれました。イエス様が死んだ人たちを生き返らせる奇跡を行ったことが復活信仰とどう関連するか見ていきましょう。

 

 そのため少し本日の日課の前の部分に立ち戻らなければなりません。イエス様とマルタの対話の部分です。兄弟ラザロを失って悲しみに暮れているマルタにイエス様は聞きました。お前は私が復活の日に信じる者を復活させ永遠の命に与らせることが出来ると信じるか?マルタの答えは、「はい、主よ、私はあなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)」。実に興味深い答えです。というのは、マルタはメシアについて当時一般的だった考え方、ユダヤ民族を他民族の支配から解放する英雄の王がメシアという考え方ではなかったからです。マルタがメシアを復活や永遠の命を人間に与える全人類的な救世主と捉えていたことを伺わせる答えでした。

 

 マルタの答えで興味深いことがもう一つあります。それは、イエス様が救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではこの動詞の意味は「過去の時点から今日の今までずっと信じてきました」という意味です。つまり、今イエス様と対話しているうちにわかって初めて信じるようになったということではありません。ずっと前から信じていたということなのです。このことに気づくとイエス様の話の導き方が見えてきます。私たちにとっても大事なことです。つまり、マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れている。将来復活というものが起きて、そこで兄と再会するということはわかってはいた。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持つ者でも悲しくつらいものです。これは何かの間違えだ、出来ることなら今すぐ生き返ってほしいと願うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても遠い世界の話か気休めにしか聞こえないでしょう。

 

しかし、復活信仰には死の引き裂く力を上回る力があります。復活そのものが死を上回るものだからです。それでは、どうしたら復活があると信じることが出来るのでしょうか?それは、神がひとり子のイエス様を用いて私たち人間に何をして下さったかを知れば持つことができます。聖書の観点に立ってみると、人間の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっているということが見えてきます。そうした罪は人間なら誰でも生まれながらにして持ってしまっているというのが聖書の立場です。人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世から別れた後は造り主のもとに永遠に戻れるようにする、そのためには結びつきを持てなくさせようとする罪の問題を解決しなければならない。まさにその解決のために神はひとり子イエス様をこの世に贈り、彼が人間の罪を全て引き受けてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けることで罪の償いを果たしてくれたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、その命に至る道を人間に切り開かれました。まさにイエス様は「復活であり、永遠の命」なのです。

 

神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける番となります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ることができます。罪を償ってもらったということは、これからは神からの罪の赦しのお恵みの中で生きるこということです。頂いたお恵みに心と人生を方向づけられて歩んでいくことになります。目指す目的地は、死を超えた永遠の命と神の栄光を現わす体が与えられる復活です。そこでは死はもはや紙屑か塵同様です。神から頂いた罪の赦しのお恵みから外れずその中に留まっていれば神との結びつきはそのままです。この結びつきを持って歩むならば死は私たちの復活到達を妨害できません。

 

マルタは復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活に与らせて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまいました。今すぐの生き返りを期待するようになっていました。これはキリスト信仰者でもそうなります。しかし、イエス様との対話を通して、復活と永遠の命の希望が戻りました。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認できて見失っていたものを取り戻しました。兄を失った悲しみは消滅しないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげも鋭さを失い鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰に留まるだけです。

 

ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからそのご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかです。これが大事な点です。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。

 

それにもかかわらずイエス様が生き返りを行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼には復活の目覚めさせをする力があること、これを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。

 

このようにラザロの生き返らせの奇跡は、イエス様が死んだ者を蘇生する力があることを示すこと自体が目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の両方をもって、自分が復活であり永遠の命であることを示したのでした。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

2021年11月1日月曜日

神への愛、隣人への愛、自分自身への愛 (吉村博明)

  

 

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教2021年10月31日 聖霊降臨後第31主日

 

申命記6章1-9節

ヘブライの信徒への手紙9章11-14節

マルコによる福音書12章28-34節

 

説教題 「神への愛、隣人への愛、自分自身への愛」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 律法学者がイエス様に聞きました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」「第一」(πρωτη)というのは「一番重要な掟は何ですか?」と聞いているのです。

 

 律法学者というのはユダヤ教社会の中で起きてくる様々な問題を律法すなわち神の掟に基づいて解決する役割がありました。それで職業柄、全ての掟やその解釈を熟知していなければなりませんでした。神の掟とは、まず私たちが手にする旧約聖書の中にモーセ五書という律法集があります。その中に皆さんよくご存知の十戒があります。その他にもいろんな規定があります。神殿での礼拝についての規定、宗教的な汚れからの清めについての規定、罪の赦しのためいつどんな生け贄を捧げるかについての規定、人間関係についての規定等々数多くの規定があります。これだけでもずいぶんな量なのに、この他にも文書化されずに口承で伝えられた掟も数多くありました。マルコ7章に「昔の人の言い伝え」と言われている掟がそれです。ファリサイ派というグループはこれらも文書化された掟同様に守るべきと主張していました。

 

 これだけ膨大な量の掟があると、信仰生活や社会生活の中で解決しなければならない問題が起きた時、どれを適用したらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、そういう問題が頻繁に起きたでしょう。そればかりか、膨大な掟に埋もれていくうちに、神の掟と思ってやったことが実は神の意思から離れてしまうということも起きました。例として、両親の扶養に必要なものを神殿の供え物にすれば扶養の義務を免れるというような言い伝えの掟がありました。イエス様はこれを十戒の第4の掟「父母を敬え」を無効にするものだ、と強く批判しました(マルコ7章8-13節)。そういう時勢でしたから、何が神の意思に沿う生き方かということを真剣に考える人にとって、「どれが一番重要な掟か?」という問いは切実でした。現代というのは創造主の神など持ち出さなくていいという時代ですが、こういう問いかけは自分の生き方の方向を考え直す時に大事な視点になるのではないかと思います。

 

2.最も重要な掟

 

 イエス様は、「第一の掟は、これである」と言って教えていきます。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。本日の旧約の日課、申命記6章からの引用でした。これが第一の掟、一番重要な掟でした。ところが、律法学者は「第一の掟は?」と聞いたのに、イエス様はそれに続けて「第二」(δευτερα)の掟、すなわち二番目に重要な掟も付け加えます。それは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、でした。これはレビ記19章18節からの引用でした。イエス様は実に旧約聖書の上に立っているのです。

 

 さて、二番目だから少し重要度が低いかというと、そういうわけでもなく、「この二つにまさる掟は他にない」と言われます。それで、この二つの掟は神の掟中の掟ということになる。山のような掟の集大成の頂点にこの二つがある。ただし、その頂点にも序列があって、まず、神を全身全霊で愛すること、これが一番重要な掟で、それに続いて隣人を自分を愛するが如く愛することが大事な掟としてくる、ということです。

 

 この二つの掟をよく見てみると、それぞれ十戒の二つの部分に相当することがわかります。皆様もご存知のように十戒の初めの3つは、天地創造の神の他に神をもったり崇拝してはならない、神の名をみだりに唱えてはならない、安息日を守らなければならない、でした。この3つの掟は神と人間の関係を既定する掟です。残りの7つは、両親を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、隣人の所有するものを妬んだり欲したり損なったりしてはならない、また隣人の妻など隣人の家族を構成する者を妬んだり欲したり損なってはならない、というように、人間と人間の関係を既定する掟です。最初の、神と人間の関係を既定する3つの掟を要約すれば、神を全身全霊で愛せよ、ということになります。人間と人間の関係を既定する7つの掟も要約すれば、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということになります。

 

 このようにイエス様は、十戒の一つ一つを繰り返して述べることはせず、二つの部分にまとめあげました。それで、天地創造の神以外に神をもって崇拝してはならない云々の3つの掟は、つまるところ神を全身全霊で愛せよ、ということに行きつく。同じように、両親を敬え云々の7つの掟も、つまるところ隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということに行きつくというのです。

 

 さて、イエス様から二つの掟を聞かされた律法学者は、目から鱗が落ちた思いがしました。目の前にあった掟の山が崩れ落ちて、残った二つの掟が目の前に燦然と輝き始めたのです。律法学者はイエス様の言ったことを自分の口で繰り返して言いました。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす捧げ物やいけにえよりも優れています。」律法学者はわかったのです。どんなにうやうやしく神殿に参拝して規定通りに生け贄や貢物を捧げたところで、また何か宗教的な儀式を積んだところで、神を全身全霊で愛することがなければ、また隣人を自分を愛するが如く愛さなければ、そんなものは神からみて何の意味もなさない空しい行為にすぎない、ということが。律法学者がこの真理の光を目にしたことを見てとったイエス様は言われます。「あなたは、神の国から遠くない。」

 

 これでこの件はめでたしめでたしの一件落着かと言うと、そうではありませんでした。イエス様が言われたことをよく注意してみてみましょう。「あなたは、神の国から遠くない」。「神の国に入れた」とは言っていないのがミソです。「神の国に入れる」というのはどういうことでしょうか?それは、人間がこの世から別れた後、復活の日に目覚めさせられて復活の体という朽ちない神の栄光に輝く体を着せられて自分の造り主である神のもとに迎え入れられて永遠に生きることを意味します。そのようにして、今のこの世の人生と次に到来する新しい世の人生の二つを合わせたとてつもなく大きな人生を生きられることです。そのような人生を生きられるために守るべき掟として、一番重要なのは神への全身全霊の愛、二番目に重要なのは隣人愛である。それらをより具体的に言い表したのが十戒で、その他の掟はこれらを土台にしているかどうかで意味があるかないかがわかる。こうしたことを知っていることは、神の国に入れるために大切なことではあるが、ただ知っているだけでは入れないのです。実践しなければ入れないのです。知っているだけでは、せいぜい「遠くない」がいいところです。

 

 それでは人間はどうすればイエス様が教える神への全身全霊の愛と隣人愛を実践することができるのでしょうか?それを次に見てみましょう。

 

3.神を全身全霊で愛する愛

 

 まず一番重要な掟、神を全身全霊で愛することからみていきます。全知全能の神、天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えられた創造主にして、ひとり子イエス様をこの世に送られた父なる神。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?

 

 その答えは、この一番重要な掟の最初の部分にあります。「わたしたちの神である主は、唯一の主である。」これは命令形でないので、掟には見えません。しかし、イエス様が一番重要な掟の中に含めている以上は掟です。そうなると、「神を全身全霊で愛せよ」というのは、神があなたにとっても私にとっても「唯一の主」として保たれるように心や力を尽くせ、ということになります。つまり、この神以外に願いをかけたり祈ったりしてはならないということです。この神以外に自分の運命を委ねてはならないし、またこの神以外に自分の命が委ねられているなどと微塵にも考えないことです。嬉しい時にはこの神に感謝し、苦しい時にはこの神に助けを求めてそれを待つ、そうする相手はこの神以外にないということです。さらに、もしこの神を軽んじたり、神の意思に反することを行ったり思ったり言葉にした時は、すぐこの神に赦しを願うことです。こうしたことが神を唯一の主として保つことです。

 

 実は、このような全身全霊を持ってする神への愛は、私たち人間には生まれながら自然に備わっていません。私たちに備わっているのは、神の意思に反しようとする罪です。それでは、どうしたら神への愛を持てるのでしょうか?それは、神は私たちに何をして下さったのかを知ることで持てます。それを知れば知るほど神への愛は強まってきます。それでは、神は私たちに何をして下さったのか?まず、今私たちが存在している場所である天と地を造られました。そして私たち人間を造られ、私たち一人一人に命と人生を与えて下さいました。ところが残念なことに、人間が悪魔に隙を見せてしまったために神の意思に反しようとする罪が備わってしまいました。それで最初にあった神との結びつきは失われてしまったのです。しかし、神は失われた結びつきを人間に取り戻して人間が自分との結びつきを持って生きられるようにしようと決意されました。まさにそのためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そして本当なら私たちが受けるべき罪の罰を全部イエス様にかわりに受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲の死に免じて私たち人間の罪を赦すことにして下さいました。さらに一度死んだイエス様を死から復活させることで死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を切り開かれました。そこで人間がこれらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の犠牲に免じた罪の赦しを受け取ることになります。神から罪の赦しを受けたことになるので、その人は神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めるようになります。こうして順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られながら歩むことができ、この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠に自分の造り主のもとに迎え入れられるのです。

 

 このように私たちは、神が私たちにして下さったことのなんたるやがわかると、この神にのみ願いをかけ祈るようになり、この神にのみ自分の運命を委ねるようになり、この神にのみ感謝し助けを求めるようになり、この神にのみ赦しを願うようになるのです。まさに神を全身全霊で愛するようになるのです。

 

4.隣人を自分を愛するが如く愛する愛、自分自身を愛する愛

 

 次に二番目に重要な掟「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」を見てみましょう。これはどういう愛でしょうか?

 

 隣人愛と聞くと、大方は苦難や困難に陥った人を助けることを思い浮かべます。しかし、人道支援という隣人愛は、キリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていても、また無信仰者・無神論者でもできます。そのことは、日本で災害が起きるたびに多くの人がボランティアに出かけることを見てもわかります。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛にあって他の隣人愛にないものがあります。それは、先ほども申しましたように、神への全身全霊の愛の上に立っているということです。神への全身全霊の愛とは、神を唯一の主として保って生きることです。そのように生きることが出来るのは、神がこの自分にどんなにとてつもないことをして下さったか、それをわかることにおいてです。このため、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の業が神を唯一の主とする愛に即しているかどうか吟味する必要があります。仮に創造主の神は唯一なんかではない、という考えで行ったとしても、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということではありません。しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別物です。

 

 イエス様が教える隣人愛の中でもう一つ注意しなければならないことがあります。それは「自分を愛するが如く」と言っていることです。自分を愛することが出来ないと隣人愛が出来ないのです。自分を愛するとはどういうことでしょうか?自分は自分を大事にする、だから同じ大事にする仕方で隣人も大事にする。そういうふうに理解すると、別にキリスト教でなくてもいい、一般的な当たり前の倫理になります。そこでイエス様の教えを少し掘り下げてみましょう。

 

 イエス様は隣人愛を述べた時、レビ記19章18節から引用しました。そこでは隣人から悪を被っても復讐しないことや、何を言われても買い言葉にならないことが隣人愛の例としてあげられています。別のところでイエス様は、敵を憎んではならない、敵は愛さなければならない、さらに迫害する者のために祈らなければならないと教えています(マタイ5章43-48節)。そうなると、キリスト信仰者にとって、隣人も敵も区別がつかなくなり、全ての人が隣人になって隣人愛の対象になります。しかし、そうは言っても、そういう包括的な「隣人」の誰かが良からぬことをしたり迫害することも現実にはありうる。そのような「隣人」をもキリスト信仰者は愛さなければならないとはどういうことなのでしょうか?

 

 イエス様は、敵を愛せよと教えられる時、その理由として、父なるみ神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる方だからだ、と教えました。もし神が悪人に対して太陽を昇らせなかったり雨を降らせなかったら、彼らは一気に滅びてしまいます。しかし、神は悪人が悪人のままで滅んでしまうのを望んでいないのです。神は悪人が神に背を向けた生き方を方向転換して神のもとに立ち返ることを望んでいて、それを待っているのです。彼らがイエス様を救い主と信じる信仰に入って、永遠の命に向かう道を歩む群れに加わるのを待っているのです。そういうわけで、神が悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるというのは、なにか無原則な気前の良さを言っているのでは全くなく、悪人に神のもとへ立ち返る可能性を与えているということなのです。

 

 ここから、敵を愛することがどういうことかわかってきます。イエス様が人間を罪と死の支配状態から救い出すために十字架にかけられる道を選ばれたのは、全ての人間に向けてなされたことでした。神は、全ての人間がイエス様を救い主と信じて罪の赦しというお恵みを受け取ることを願っているのです。キリスト信仰者は、この神の願いが自分の敵にも実現するように祈り行動するのです。迫害する者のために祈れ、とイエス様は命じられます。一体全体、何を祈るのかというと、まさに迫害する者がイエス様を自分の救い主と信じて神のもとに立ち返ることを祈るのです。「神様、迫害者を滅ぼして下さい」とお祈りするのは神の御心に適うものではありません。もし迫害を早く終わらせたかったら、神様、迫害者がイエス様を信じられるようにして下さい、とお祈りするのが遠回りかもしれませんが効果的かつ神の御心に適う祈りでしょう。

 

 このように、キリスト信仰の隣人愛は、苦難困難にある人たちを助けるにしても、敵や迫害者を愛するにしても、愛を向ける相手が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにすることが視野に入っているのです。神がひとり子を用いて私たち人間にどれだけのことをしてくれたかをわかればわかるほど、この神を全身全霊で愛するのが当然という心になります。その神が実は敵や反対者に対しても罪の赦しというお恵みをどうぞ受け取りなさいと差し出しているのです。それがわかると敵や反対者というものは神のお恵みを受け取ることが出来るように助けてあげるべき人たちになり、打ち負かしたり屈服させるためにあるものではなくなります。

 

 こうしたことがわかると、キリスト信仰で「自分を愛する」というのはどういうことかもわかります。神は御自分のひとり子を犠牲にするのも厭わないくらいに私のことを愛して下さった、神はそれくらい私のことを愛するに値する者として扱って下さっている、それなので私はこの神の愛に留まり、これから離れたり外れたりしないようにしよう。これが「自分を愛する」ことです。神の愛が自分に注がれるのに任せる、神の愛に全身全霊を委ねる、これが「自分を愛する」ことです。そのような者として隣人を愛するというのは、まさに隣人も同じ神の愛を受け取ることが出来るように祈ったり働きかけたりすることになります。隣人が既にキリスト信仰者の場合は、その方が神の愛の中に留まれるように助けてあげることです。

 

 このように、神を全身全霊で愛する愛、隣人を自分を愛するがごとく愛する愛、自分自身を愛する愛、これらの愛は、神がひとり子を用いて私たち人間に大いなる救いをもたらして下さったという愛があってこそ起こってくる愛です。そして、その神の愛の中に留まり続けることで強まっていく愛です。このことに立ってヨハネの次の言葉を心に刻んでおきましょう。

 

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、

わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。

ここに愛があります。

愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、

わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(第一ヨハネ4章10~11節)

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2021年10月25日月曜日

なぜキリスト信仰者は祈るのか ― 祈りの原理とテクニック (吉村博明)

  

 

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教2021年10月24日 聖霊降臨後第22主日

 

エレミア書31章7-9節

ヘブライの信徒への手紙7章23-28節

マルコによる福音書10章46-52節

 

説教題 「なぜキリスト信仰者は祈るのか ― 祈りの原理とテクニック」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちや群衆を従えてエルサレムに向かう途中エリコという町に立ち寄り、そこで盲人の男バルティマイの目を見えるようにしたという奇跡の出来事です。本日の説教では次の2つの事柄について考えてみたく思います。

 

 一つめは、イエス様がバルティマイを癒す直前に「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言ったことです。よく考えるとこれは変です。というのは、癒す前にこの言葉が言われたからです。もし癒しが起きた後で「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言ったのなら筋が通ります。イエス様はバルティマイの信仰を立派と認めてご褒美に目を見えるようにしてあげたことになるからです。ところがイエス様は目が見えるようになる前にそう言ったのです。どういうことでしょうか?一つの考え方として、イエス様は癒す前に「君はもう治ってるよ」と、治ることを先回りして言ってみせた、というのがあるかもしれません。つまり、治ることを預言者っぽく先に述べたというわけです。そうすると結局は、病気が治るというのはイエス様に立派と認められる信仰があったおかげということになります。もし治らなければ立派な信仰がないということになります。イエス様は病気が治る治らないは信仰の優劣で決まると言っているのでしょうか?実はそうではないのです。このことは、救われるとは何を意味するかわかれば明らかになります。これは以前の説教でもお教えしたことですが、大事なことなので今回もお話しします。

 

 本日の説教でもう一つ考えることは、祈ったことが起こる起こらないというのは信仰に優劣があるからではない、とすると、じゃ、起こる起こらないの決め手は何なのか?これはもう誰もが知りたいことでしょう。キリスト信仰者は経験上、祈ったことが起こらないことがあるということを知っています。祈ったことと全然違うことが起こるとか、また起こってもすごく時間がかかったとか、よくあります。バルティマイは望んだことがすぐ起こりました。羨ましいです。天地創造の神は何か気まぐれな方なのでしょうか?

 

 キリスト信仰では、祈りは結果はどうあれしなければならないことです。そう言うと、じゃ何のために祈るの?と言われてしまうでしょう。それは十戒の第一の掟、神以外を崇拝してはならない、というのがあるからです。それが意味することは、何か嬉しいこと悲しいことがあれば必ずこの神に報告する、願い事があればこの神に打ち明ける、他にはしないという位に創造主の神に信頼を置くということです。その信頼する神が祈ったことをしてくれなかったら普通だったらもう信頼なんかしない、ということになるでしょう。それでも祈るのがキリスト信仰者なのです。このことも後ほど見ていきましょう。

 

2.「救われる」とは?

 

 「あなたの信仰があなたを救ったのだ」というイエス様の言葉について。以前の説教でもお教えしましたが、「救ったのだ」と言っているギリシャ語原文の動詞の用法が日本語の訳では伝えきれていません。正確に訳すと「過去のある時点から現在まであなたの信仰があなたを救っていたのだ」ということです。過去のある時点と言うのはイエス様を救い主と信じた時です。それでここの意味は、イエス様を救い主を信じた時から現在に至るまでその人は救われた状態にあった、ということです。しかし、これは変です。だって、まだ目が見えるようになる前に既に救われていたと言うのです。普通なら、病気が治ったことをもって救われたと言うはずなのに、イエス様ときたら治ってもいない時にお前は既に信仰によって救われた状態にあるというのです。なぜでしょうか?

 

 それは、イエス様にしてみれば、病気が治ることと救われることとは別問題だからです。病気の状態にあっても救われた状態にあると言っているのです。それでは救われるとは一体何なのでしょう?病気の状態にあっても救われた状態にあるなんてあり得るでしょうか?病気が治ることと「救われる」ことは別問題と言うのなら、逆に健康であっても救われた状態にないというのもあり得ます。イエス様が考える救いとは何なのでしょうか?救われていないとはどんなことなのでしょうか?

 

 聖書の観点では、人間が救われていない状態というのは、神に造られた筈の人間の内に神の意思に反しようとする罪が入り込んで、造り主との結びつきが失われてしまった状態のことを言います。それで、この罪の問題を解決して神との結びつきを回復できることが救いになります。神との結びつきを回復できるとどうなるかと言うと、この世の人生でいついかなる時、それこそ順境の時だけでなく逆境の時にも、神との結びつきは何ら変わらないので常に神から助けと導きを受けながら歩めるようになります。たとえ、この世から別れることになっても、復活の日に目覚めさせられて、復活の体という朽ちない、神の栄光に輝く体を着せられて永遠に神の御許に迎え入れられます。

 

 そういうふうに神との結びつきが回復できるためには人間の内にある罪をどうにかしなければなりません。人間は自分の力で罪を除去することが出来るでしょうか?マルコ7章でイエス様は、人間を汚しているのは人間の内に宿っている諸々の悪い性向である、それらはどんな宗教的な清めの儀式をしても除去できない位に染みついてしまっている、と教えます。それならば、十戒の掟をしっかり守れば人間は神に義とされて結びつきを回復できるでしょうか?これもイエス様は十戒の第五の掟「汝、殺すなかれ」について、兄弟を憎んだり罵ったりしたら神の目から見て破ったも同然と教えました。第六の掟「汝、姦淫するなかれ」についても、異性をみだらな目で見たら神の目から見て破ったも同然と教えました。十戒の掟というのはそれくらい外面的な行いだけでなく、内面の心の有り様まで問うているのだと教えるのです。そこまで言われると神の目に適う人は誰もいなくなります。まさに使徒パウロが教えるように、十戒というのは外面的に守って自分は神の目に適う者だと得意がるためにあるのではない、内面までも問われることで自分はどれだけ神の意思から遠い存在であることを映し出す鏡なのです。

 

 そうなると人間はもはや自分の力では罪の問題を解決することは出来ません。しかしながら、天の父なるみ神はこれを放置することはしませんでした。神の切実な願いは、人間が自分との結びつきを早く回復して今の世と次に到来する世の双方を生きられるようになってほしいということだったからです。それで神はひとり子のイエス様をこの世に贈り、本当だったら人間が背負わなければならない罪の重荷を全部、彼に背負わせてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げさせ、そこで人間に下されるはずの神罰を全部彼に受けさせて死なせたのです。このように神が取った解決策は、人間が神罰を受けないで済むようにとひとり子を身代わりの犠牲にして、それに免じて人間を赦すということだったのです。

 

 さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、今度は死を超える復活の命、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開かれました。それで今度は人間の方が、これら全てのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、この神のひとり子の犠牲に免じた罪の赦しはその人にその通りになるのです。このようにして神から罪の赦しを受けられると神との結びつきが回復し、今のこの世と次に到来する世の双方を合わせた大きな人生を生きることが始まります。これが救いです。

 

 この救いは、まさに神がひとり子イエス様を用いて人間にかわって人間のために成し遂げたものです。人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってこの救いを受け取ることが出来ます。この信仰と罪の赦しというお恵みの中に留まれば受け取った救いはなくなりません。これは、受け取る人が健康であっても病気であってもそうです。それなので救いを受け取ったとき、それで病気がすぐ治るということでもありません。もちろん、医療の発達やそれこそ奇跡が起きて病気が治ることもあります。しかし、たとえ治らなくても、病気の信仰者が受け取った救いは健康な信仰者が受け取った救いと何ら変わりはありません。もし重い病気が奇跡的に治ったら、その人は、神の栄誉を病気の時とは違った形で現すことになります。まさにそのために癒されたのだと気づかなければなりません。

 

 ところで、バルティマイが癒された時はまだ十字架と復活の出来事の前でした。それなので「あなたは私を救い主と信じる信仰によって既に救われた状態にある」などと言われても、直ぐにはピンとこないでしょう。なんだかただの口先言葉にしか聞こえないでしょう。その意味で、癒しの奇跡が起きたことはイエス様の言葉は口先だけではないということが明らかになったのです。同じことがマルコ3章の全身麻痺の人の癒しのところでも起きていました。イエス様はその人とその人を必死の思いで担いできた人たちの信仰を見て、「あなたの罪は赦される」と言いました。これに対して律法学者が、人間の罪を赦すことが出来るのは神しかいないのにこの男はなんと大それたことを言うのか、自分を神と同等扱いにして神を冒涜している、と批判します。これに対してイエス様は自分の口から出る言葉は単なる音声ではないことを示すために男の人に立ちあがって行きなさいと命じます。するとその人の麻痺状態はふっと消えて本当に歩いて行ってしまったのです。「罪は赦される」と言った言葉が口先だけでないことが示されたのです。

 

3.祈りの原理とテクニック

 

 バルティマイに起きた奇跡は、人間が健康であろうがなかろうがイエス様を救い主と信じる信仰で救われる、つまり神との結びつきを持って生きられる、このことを十字架と復活の出来事の前の段階で奇跡の業をもって実証した出来事でした。十字架と復活の出来事の後は、信仰で救われるというのは別に奇跡の業をしてもらわなくても十字架と復活の出来事があるのでその通りになりました。

 

 それでは奇跡はもう必要ないのでしょうか?神との結びつきを持って生きられることに関しては信仰と洗礼があるので奇跡が必要になることはありません。しかしながら、病気を治したい、痛みから解放されたい、苦しみや困難から脱したい、という願いに関してはどうでしょうか?神がキリスト信仰者に祈ることを命じているというのは、癒しや解決を祈り求めなければならないということです。

 

 それでは祈り求めよと言っている神は、言う通りにしたらちゃんと癒しや解決をしてくれるでしょうか?冒頭で申したように、祈ったことが起こらないということが往々にしてあります。起こったとしてもあまりにも時間がかかりすぎるとか、祈ったことと全然違うことが起こるとか、そういうことがよくあります。祈り求めよと言っているのに話が違うじゃないか、と文句の一つでも言いたくなります。これについて宗教改革のルターは、神に助けを祈り求める人は、いつ、どんな仕方で、誰を通して等々、神を縛りつけるような祈りはしてはいけないと教えます。そんな祈りをしたところで、いつ、どんな仕方で、誰を通して等々については神が自分の判断で決められる。そういうわけで祈り求めたことには必ず答えが返って来る。ただし、それが祈り求めた内容と一致しなくても、時間がかかったとしても、それは神が良かれと判断してそうしたことなのである。人間の救いのためにひとり子をこの世に贈り犠牲にすることも厭わなかった神の判断である。だから、自分が祈り求めた内容よりも、神が与えた答えの方がよいものとして受け取らなければならないということです。

 

 それじゃ、神が上に立って自分の切実な願いは下ということなのか、という不満が出てきますが、残念ながらそういうことなのです。このことに納得できる人はいいですが、出来ない人のために次のことを申し上げようと思います。納得できている人もどうして自分は納得しているか確認する意味で聞いてよいかと思います。神が人間に望んでいることは、人間が神との結びつきを持てて今のこの世と次に到来する世の双方を生きられるということでした。それで神がキリスト信仰者の祈りを聞いて願いを叶えるというのは、この神の願いに結びついているのです。神との結びつきを回復してもらったキリスト信仰者がせっかく復活の日を目指して人生の道を歩んでいるのに、痛みや苦しみや困難が起きてまた自分の悪い心があって歩みを難しくしてしまった時、信仰者が祈れば神は癒しや解決、正しい心を与えて下さるということです。なぜなら神の願いは人間が復活の日に自分の御許に永遠に迎え入れられるようになることだからです。祈り求めるというのは、私たちが本気で道を歩もうとしていることを神に知らせることになります。そうなれば神としても障害物を取り除かないわけにはいかなくなるのです。

 

 このように神がどう祈りに応えるかということには、キリスト信仰者が復活の日に向かって歩めるかどうかということが神の判断基準にあるのです。そのため場合によっては、神はこれは障害物にあたらないと判断するかもしれないということです。これは聞きようによっては残酷に聞こえるかもしれません。しかし、これは心に大きな平安を与えることでもあります。これがキリスト信仰の祈りの原理です。キリスト信仰者は復活の日に向かって歩む以上、祈るのは必然的なことなのです。キリスト信仰者が他者のために祈る時もこの原理に基づくのです。

 

 こういう祈りの原理に基づいて祈る時の祈りのテクニックにはいろいろあります。その一つを最後に紹介したく思います。それは、神に障害物を取り除いてもらいたいのなら、本気でそれをあたかも粗大ゴミのように神に投げ捨てるように祈るということです。そのことが「ペトロの第一の手紙」5章7節にあります。新共同訳では「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」ですが、この訳は少し弱いです。原文のギリシャ語はもっと強くて「思い煩いは、何もかも神に投げ捨ててしまいなさい。なぜなら神はあなたがたの面倒をみて下さる方だからです」となります。新共同訳の「神は心にかけてくれる」では弱すぎます。「神は面倒をみてくれる」のです。英語やドイツ語やスウェーデン語やフィンランド語の聖書の訳をみても、強い意味をとっています。フィンランドでは、キリスト信仰者は試練にある兄弟姉妹を励ます時によくこの聖句を贈り言葉に用います。日本の信仰者はどの聖句を贈り言葉にするでしょうか?この聖句をもとにルターが祈りのテクニックを教えているので最後にそれを引用して本説教の締めにしたいと思います。

 

「君たちは抱えている課題を自分の重荷に留めてしまってはいけない。なぜなら、君たちはそれを負い続けることは出来ないからだ。そんなことをしていたら、やがてそれに押し潰されてしまうであろう。そうではなくて、重荷をかなぐり捨てて、それを喜んで安心して神に投げ捨てて、神が処理してくれるのに任せるのだ。そして次のように祈るべきである。『父なるみ神よ、あなたは私が仕えるべき主であり、私の神です。あなたは、私がまだ存在しない時に私を造って下さり、それだけでなく、あなたのひとり子イエス様を通して私を罪と死の奴隷状態から自由の身にして下さいました。そのあなたが、成し遂げよ、と言ってこの課題を私に与えて下さいました。しかし、それは私が望む通りにはうまくいきませんでした。多くの事柄が私の心身を重苦しくして、心配事が次々に押し寄せてきます。もう自分自身で助けも助言も見つけられません。どうか、あなたが助けと助言をお与えください。どうか、これら全ての課題や困難や心配事の中であなたが全てを掌る全てになって下さい。』

 この祈りは真に神の御心に沿う祈りである。神が私たちにせよと言っておられるのは、与えられた課題に取り組むことだけである。それ以上のこと、例えば取り組みがどんな結果をもたらすかの心配は君たちのところではなく神のところにあればよいのだ。

 このように祈ることが出来るキリスト信仰者の課題や心配事への向き合い方は他の者たちよりも勝っている。キリスト信仰者は心配事の鎖から自由になる術を心得ている。他の者は自分で自分をいじめるような不幸を背負い、しまいには希望のない状態に陥ってしまう。それに対して、キリスト信仰者は次の聖句を手に握りしめている。『思い煩いは何もかも神に投げ捨てよ。なぜなら、神はあなたがたの面倒をみて下さる方だからだ。』そして、この御言葉は真にその通りであると信じて疑わないのである。」

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2021年10月18日月曜日

神の国の一員として ― 君はなぜイエス・キリストの言うことを聞くのか? (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021年10月17日 聖霊降臨後第21主日

 

イザヤ書53章4-12節

ヘブライの信徒への手紙5章1-10節

マルコによる福音書10章35-45節

 

説教題 「神の国の一員として ― 君はなぜイエス・キリストの言うことを聞くのか?」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の箇所は読み通すと一見わかったような気がします。ああ、イエス様の弟子のヤコブとヨハネがイエス様に、あなたが王座についたら私たちを右大臣、左大臣にして下さいとお願いした、この抜け駆けに他の弟子たちが憤慨し、それをイエス様が諫めて言う、大いなる者になりたい者は仕える者になれ、上に立ちたい者は全ての人の召使い(ギリシャ語のδουλοςは「奴隷」の意味もあります)になれ、と。これを読んで大抵の人は、ああ、イエスは人のために尽くす人こそ偉い人なんだと教えているんだな、地位の高い人はそれを振りかざしてはいけない、謙虚になれと教えているんだな、と思うでしょう。日本は今衆院選の真っ最中です。候補者は当選したら選挙運動中に見せた謙虚さを忘れないでほしいと思います。

 

 ところで、謙虚になれとか、人に仕えよということは別にキリスト信仰者でなくても美徳だとわかります。イエス・キリストが言ったから謙虚になる、人に仕える者になるという人はイエス様を尊敬し権威を感じるから従ってそうします。もし尊敬する人、権威を感じる人が別にある人はそれに従ってそうします。ひょっとしたら、自分は権威を感じる者などない、自分は自由意志でそうするのだという究極の美徳追及者もいるかもしれません。いずれにしても、誰かを尊敬して権威を感じるからその人の教えに従うというのは、キリスト教にも見られることです。しかし、大事なことは、なぜイエス様を尊敬し権威を感じるか、その答えをはっきり持っているかということです。それがはっきりしないまま尊敬したり権威を感じるというのはわけがわからないでそうすることになります。これは他の尊敬者、権威者の場合も同じです。

 

 イエス様がなぜ尊敬に値し権威を感じる方なのか、その答えは本日の三つの聖書の個所でも教えられています。要約して述べると、イエス様は私たち人間が今のこの世と次に到来する世の双方にまたがって生きられるようにして下さった方、それを自分の身を投げうってして下さった、だから尊敬に値し権威を感じる方なのです。今日はこのことを確認していきましょう。

 

2.現世的なメシアと王国、終末論的なメシアと王国

 

 まず、ヤコブとヨハネがイエス様に大臣にして下さいとお願いする直前に何があったか見てみます。イエス様はエルサレムで起こる自分の受難と死そして死からの復活について預言しました。これは本日の日課には含まれていませんが、この預言の直後に二人がお願いしたというタイミングが重要です。このタイミングが何を意味するかわかればイエス様がなぜ尊敬に値し権威を感じる方かわかる出発点に立てます。二人の弟子は、イエス様が死と復活を預言した時、いよいよイエス様を王に抱く神の国が実現すると直感したのでした。それで閣僚ポストを要求したのです。イエス様の死と復活が神の国の到来とどう関係するのか?ことは聖書の歴史に立ち入ることなので現代日本にいる私たちには縁遠く感じられるかもしれません。しかし、これを見ることでかえってイエス様の権威が身近に感じられるようになります。

 

 イエス様が地上におられた時代のユダヤ教社会では、民族の将来について次のような期待が抱かれていました。かつてのダビデ王のような王が登場して、ダビデ家系の王がみなそうだったように油を注がれて聖別された者になる、つまりこれがメシアと呼ばれる者ですが、その新しい王が民族を支配しているローマ帝国を打ち破って、かつてのような王国を再興してくれる、さらに彼は諸国に大号令をかけて従わせる、こうして世界に神の国イスラエルを中心とする平和を実現させる、そういう壮大な期待です。そのような期待が抱かれていたのは、旧約聖書にそのことを預言しているとみられる箇所がいろいろあるからです。例えばミカ書5章には、ベツレヘムからユダ族出身の支配者が現れて外国勢力を打ち破るという預言があります。イザヤ書11章には、ダビデ家系の子孫が現れて天地創造の神の意思に基づく秩序を世界に打ち立てるという預言があります。同じイザヤ書2章には、世界の諸国民が神を崇拝しにこぞってエルサレムにやってくるという預言があります。

 

 こうした預言をみれば、将来ダビデ家系から卓越した王が出て外国勢力を追い払って王国を復興し、世界に大号令をかけるという期待が生まれたとしても不思議ではありません。福音書の中に「熱心党」と呼ばれるグループが登場します。これは占領者ローマ帝国に対して反乱を起こして武力で独立を回復しようと目論んでいた人たちでした。イエス様の弟子たちの中に「熱心党のシモン」という人が出てきますが、きっとイエス様が武力で王国を再興させる指導者と思ったのでしょう。しかし、イエス様が十字架にかけられて処刑されてしまっては、期待外れ以外の何ものでもなかったでしょう。

 

 このような、ダビデ家系の王が現れて民族自決国家を実現するという考えは、この現世に実現するものです。現世的な王です。ところが、当時のユダヤ教社会には、メシアや王国についてもっと違った考えもあったのです。今存在するこの世はいつか終わりを告げる、その時、今ある天と地は創造主の神により新しい天と地に再創造される、その時、今存在するものは崩れ去り、ただ一つ崩れ去らないものとして神の国が現れる。まさにこの天地大変動の時に死者の復活が起こり、創造主の神に義とされた者は神の国に迎え入れられる、というこれまた壮大な考えです。この一連の大変動の時に神の手足となって指導的な役割を果たすのがメシアでした。終末論的なメシアと神の国の考えです。現世的なメシアと王国復興の考えと随分違います。このような考えを示す書物が、紀元前2,3世紀からイエス様の時代にかけてのユダヤ教社会に多数現れました(例として、エノク書、モーセの遺言、ソロモンの詩編があげられます。さらに死海文書の中にも同じような考え方が見られます)。

 

 どうしてこのような終末論的な考えがあったかというと、実はこれも旧約聖書にそういうことを預言している箇所があるからです。今ある天と地が新しい天と地にとってかわられるというのは、イザヤ書60章、65章にあります。死者の復活と神の国への迎え入れについてはダニエル書12章、今の世の終わりの時に指導的な役割を果たす者が現れるということはダニエル書7章にあります。この考えに立つと、これまで現世的な王の下で現世的な王国復興を実現すると言っているように見えた旧約聖書の預言は、実は次に到来する世の出来事を意味するものと理解が組み替えられていきます。終末論的なメシアや神の国の考えからすれば、現世的なメシアや王国復興の考えはまだ旧約聖書の預言をしっかり取り込めていないことになります。

 

 こうしてみるとヤコブとヨハネはイエス様の死と復活の預言を聞いて神の国の到来を直感したので、終末論的な神の国の考えを持っていたと言えます。しかしながら、彼らのメシアと神の国の理解はまだ正確ではありませんでした。神の国は死者の復活に関係があるとわかってはいても、その国は現世の国のように支配層と非支配層があると考えて、それで自分たちを大臣にして下さいとお願いしたのでした。イエス様は、神の国はそういうものではないと教えるのです。お前たちの間で大いなる者になりたい者は互いに仕える者になりなさい、お前たちの間で第一の者になりたい者は全ての者の僕になりなさい、人の子は仕えられるために来たのではない、仕えるために、そして自分の命を多くの人たちのための身代金として捧げるためにきたのである、と。つまり、神の国の一員になる者は誰かが他の人の上に立って支配するのでなく、お互いが仕え合っているというものである。王であるイエス様が自分の命を犠牲にしてまで仕える立場に徹した以上、その王に従う者はみなそれに倣うのが当然というのです。

 

 ヤコブとヨハネが示したような終末論的な神の国の考えは、確かに旧約聖書の預言に基づくものでした。現世的なメシアと王国復興の考えよりも旧約の預言を深く理解しているように見えます。しかし、それでもまだまだ大事なものが沢山抜け落ちていたのです。本日の旧約聖書の日課イザヤ書53章には、神の僕が人間の救いのために自分を犠牲にするという有名な預言があります。この預言はイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前はあまり有名ではなかったと思われます。というのは、神の国を興し栄光に輝く者が苦しみを受けて打ち捨てられるなど理解不能だからです。使徒言行録8章に出てくるエチオピアの高官はイザヤ書53章は一体誰のことを言っているのか途方に暮れていました。しかし、十字架と復活の後は不可解でもなんでもなくなりました。もちろん、イエス様は最初から全てをご存知でした。言うまでもなく、彼は創造主の神のひとり子なので神の意思をよく知り得る立場にあったからです。それで旧約聖書を正確に理解し人々に教えたのでした。さらに彼の場合は、神の意思について正しい理解を持っていただけではなく、神の意思、神が望んでいたことを実現することもやってのけたのです。

 

3.キリスト信仰者はイエス様の言われることが当然になる

 

 イエス様は神が望んでいたことをやってのけた、その神の望んでいたこととは何だったのでしょうか?人間は神の意思に反しようとする罪を持ってしまったために神との結びつきを失ってしまった状態にある、その状態を変えて人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしよう、ということでした。この結びつきは、逆境の中にいようが順境だろうが何ら変わらない結びつきなので、いつも神から守られ導いてもらえることになります。どこに導いてくれるのかというと、この世から別れた後、復活の日に目覚めさせられて復活の体、朽ちない神の栄光に輝く体を着せられて神の国に迎え入れられるところにです。そのような結びつきを持てるように、それを持てなくしてしまっている罪の問題を解決するために神はイエス様はこの世に贈られたのでした。人間の罪を全てこのひとり子に背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせ、そこで人間に代わって神罰を受けさせたのでした。

 

 そこで人間がこのイエス様の犠牲の死は自分のためになされたのだとわかってそれでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを受け取ることができます。罪を償ってもらったのだから神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。神からそう見てもらえるようになると神との結びつきを持てて生きられるようになります。まさに本日の旧約の日課イザヤ書53章で預言されていたこと、「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」、これがその通り起こったのです。与えられた平和とは、新約聖書では「神との平和」と言われます。まさに神との変わることのない結びつきです。新共同訳では「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とありますが、ヘブライ語の原文を直訳すると「彼と一緒になることで私たちは癒された」です。彼と一緒になるというのは、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられるということです。癒されたというのは、罪という霊的な病から癒され、神罰を受けないで済むようになったということです。

 

 イエス様は十字架で死なれてそれで終わったのではありませんでした。三日後に神の想像を絶する力で復活させられて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開かれたのです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、その道に置かれてそれを歩むようになったのです。その道は変わることのない神との結びつきを持てて歩む道です。

 

 イザヤ書53章10節「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの捧げ物とした。」原文を直訳すると「主は彼を打ち砕くことを良しとし、彼を病める者にした。」つまり罪のない神のひとり子に人間の罪を背負わせて、あたかも彼が罪の病に冒された者にしたということです。それで神罰を受けるに相応しい状態にしたのです。

 

 「彼は子孫が末永く続くのを見る。」原文を直訳すると「彼は後に続く者が長く生きるのを見る。」つまり、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者が神の国に迎え入れられて永遠の命を生きるということです。

 

 「主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。」原文を直訳すると「主の望まれることは彼を通して成功する」または「主の喜びは彼を通して強められる」とも訳せます。まさにイエス様の十字架と復活の業を通して神が望んでいたことが成功裏に実現したということです。その神が望んでいたこととは人間が神との結びつきを持てて今のこの世と次に到来する世の双方を生きられるようにすることです。それが実現したので神は大いに喜んだということです。

 

 キリスト信仰者がイエス様の言われることを聞いて従うのは、このように神に喜ばれる状態にして下さった方なので聞き従うのが当然という心になっているからです。もちろん、自分は神の目から見て至らないことだらけでとても喜ばれる状態になどない、と思ってしまうのですが、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼がある以上は、神との結びつきを持てて二つの世にまたがって生きるということはその通りです。神に喜ばれる状態にいることに変わりはありません。至らないことがあれば、罪の赦しに戻ってそこに留まればいいのです。

 

4.互いに仕え合い、重荷を背負い合うということ

 

 そこで仕える者になれというイエス様の命令について見てみます。神の国への迎え入れというのは復活の日まで待たなければなりません。しかし、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた段階で人はそこに至る道に置かれて今それを歩んでいます。その意味で神の国の一員としての人生が始まっています。今のこの世にあって見えない形での一員ですが、復活の日にそれが見える形になるのです。

 

 今この世にあって見えない形ではあるが既に神の国の一員であるならば、お互いが仕え合うようにしなければならない、とイエス様は教えられるのです。ルターは、神の国への迎え入れに至る道を歩むことを旅路に例えて、信仰者はみな旅路の途上にあると言っています。ある者は先にいて別の者は後ろにいる。歩みが早かろうが遅かろうが問題はない、ただ私たちが歩む意思を捨てずに進んでいれば神は満足される、そして復活の日に主が私たちの信仰と愛の欠けていたところを一気に満たして瞬く間に私たちを永遠の命を持って生きるものに変えて下さる、と教えています。

 

 この旅路において、ルターは、いつもお互いの重荷を背負いあわなければならないと教えます。それは、イエス様が私たちの罪の重荷を背負って下さったことから明らかなように、信仰者は誰一人として完全な者はいないのであり、それだからこそ背負い合わなければならないのだと。

 

 信仰者がお互いの重荷を背負い合うというのは、神の国への迎え入れに向かう道をしっかり歩めるように助け合い支えあうということです。物心両面でそうすることです。物質的な問題のために歩みが難しくなるのなら、それを支援する、心の面で難しくなるのなら、祈りをもって支援します。それともう一つ、お互いの弱点や欠点という重荷を背負い合うこともあります。あの人はなぜあんなことを言ったのか、人の気も知らないで!とならない、きっと不注意とか言葉足らずだったのだろう、人間的な弱さだろう、それはこの自分にもある、だから本気で私の全てをそう決めつけたのではないのだ、そのように考えてそれ以上には進まないことです。ルターは、不和や仲たがいの火花にペッと唾を吐きかけて消しなさいと教えます。さもないと大量の水をもってしても消せない大火になってしまうと。水ではなく唾を吐いて消せというのがいいです。それ位、イエス様に背負ってもらった者が他人の欠点や弱点に目を奪われることは軽蔑すべきことだということです。

 

 以上申し上げたことは、キリスト信仰者が神の国への迎え入れの道を歩めるようにお互いに仕え合い、重荷を背負い合うということでした。そのように言うと、じゃ、相手が信仰者でなかったら仕え合い背負い合いは関係ないのか、同じ道を歩いていないのだから、という疑問が起こるかもしれません。それについては、神の望まれることはなんであったかを思い起こせば答えは明らかになります。神は全ての人が神との結びつきを持てて神の国への迎え入れの道を歩めるように、とひとり子を贈られたのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン