2012年9月17日月曜日

イエス様の奇跡の業の目的 (吉村博明)



説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
 
主日礼拝説教 2012年9月16日(聖霊降臨後第十六主日)
日本福音ルーテル横須賀教会にて
 
イザヤ書35:4-10、
ヤコブの手紙1:19-27、
マルコによる福音書7:31-37
  
  
説教題 イエス様の奇跡の業の目的
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
1.
 
本日の福音書の箇所は、イエス様の行った数多くの奇跡の業の一つで、耳が聞こえず喋ることがほとんどできない人を治して、聞こえかつ話せるようにしたという話です。イエス様の言行録である4つの福音書を繙くと、実に数多くの奇跡について記録されています。マルコ福音書だけをみても、病気の癒しの事例は、全身麻痺の男(2章)、熱病にあったシモンのしゅうとめ(3章)、手が萎えた状態の男(3章)、らい病の男(6章)、盲目の男二人(8章と10章)、悪霊祓いの事例は、5章、7章、9章にあります。これらは癒しの出来事が個別に詳しく述べられている事例ですが、この他に1章、3章、6章で、大勢の人を相手に病気の癒しと悪霊祓いをしたと一括して記されています。これらに加えて、死んだ娘を生き返らせたこと(5章)、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたこと(5千人が6章、4千人が8章)、嵐に命令してこれを静めたこと(4章)、水の上を歩いたこと(6章)、高い山の上でこの世のものとは思えない光をもって輝いたこと(9章)、実をならさないいちじくの木に裁きの言葉をかけて枯らせたこと(11章)、さらに、自分の死と復活について預言したこと、ペテロが主を見捨ててしまうことを預言したこと、最後は死からの復活があります。
 
これらの奇跡が実際にあったのかどうか、ということになると、科学技術がとてつもなく発達した現代に生きる私たちには信じられないという思いが強くなるのではないかと思われます。特に歴史を学術的に記述することを仕事とする歴史学者・研究者は、人間を取り巻く条件は古代においても現代とかわらない、つまり、現代において人が水の上を歩くことはできないのは、古代も同じである、という立場に立って、収集した文献や資料を分析し歴史を再構築して記述します。そこでは、ナザレ出身のイエスの歴史的存在や十字架で処刑された事実は認めても、彼が天と地と人間を造った神のひとり子とか、処刑された後に生き返ったとか、そういうことは記述しません。
 
しかしながら、キリスト教信仰において、イエス様の奇跡の業は避けて通ることはできません。なぜなら、最初の目撃者である使徒たちが、自分たちの見たこと聞いたことの性質上(それがもとでイエス様を神の子、救い主と信じるようになったのですから)、それを人々に伝えないではいられないという動機を持ったからです。彼らは、イエスの名を広めたら命はないぞ、と脅されても屈せず、場合によっては命を落としてしまいますが、自分たちの見たこと聞いたこと、そしてそれらに基づいてイエス様は神の子で救い主であるという信仰を教え伝えました。逆に言えば、命を差し替えてもいいという位のものを目撃したということです。こうした使徒たちの証言が口伝えされパピルス紙に記述されてさらに伝えられていき、一~二世代の後に福音書という書物にまとめられました。使徒たちの命を賭けた教えを受けた人たちは、それが偽りでないと確信しイエス様を神の子、救い主と信じました。キリスト教信仰が使徒的信仰と言われるのは、直の目撃者である使徒たちが見聞きしたことに基づいてイエス様は神の子、救い主だったと信じるに至った信仰を出発点にし、それを受け継ぐ信仰だからであります。
 
そういうわけで、使徒的信仰の観点に立てば、イエス様の奇跡の業の記述は、私たちも、使徒たちが信じて教え伝えたようにそれを受け入れるのが順当ということになります。しかしながら、科学技術が発達した現代のような時代にいると、奇跡などというものは大昔の文明段階に相応した想像や空想の産物でしかないという向きが多くなります。キリスト信仰者の中にも、奇跡なんかなくてもいい、イエス様の立派な教えがあれば十分と言って、イエス様を仏陀やモハメッドのような影響力のある宗教創始者のように扱うことがあります。それだけにとどまらず、イエス様が他に比べていかに卓越した思想家だったかを示そうと、イエス様の教えに時代時代の要請に応じていろいろな意味を注入して膨らませることも見受けられます。しかし、奇跡を除外して、イエス様が救い主であるということは言えるでしょうか?ここで、イエス様は救い主である、と言う時、また、そう信じる時、一体何が人間にとって救われない状態なのか、そこからどういう状態になることが救われたことになるのか、それがわかっていなければなりません。わからないと、「イエス様は救い主」と言ってもピンとこなくなります。そのことをこれから見ていこうと思いますが、その前に、本日の箇所の奇跡についてもう少し見てみます。
 
 
2.

イエス様の奇跡の業の記述を読んでいくと、わかりにくいことに多く出くわします。本日の箇所のところでも、聴覚言語障害のある男を連れてきた人たちはイエス様に、手をおいて下さい、とお願いします。しかし、イエス様は男を人々から引き離して、誰にも見えないところで男を癒します。「誰にも見えないところ」というのは正確ではないでしょう。イエス様がどんな仕方で癒し、その時どんな言葉をかけたかがちゃんと記述されているので、誰かがその場に居合わすことを認められ、何が起きるか目撃したのは明らかです。誰が一緒にいることを認められたのでしょうか?本日の福音書の箇所にはそのような者は言及されていません。しかし、5章をみると、シナゴーグ会堂長ヤイロの娘を生き返らせたとき、イエス様は群衆について来ないように言って、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三弟子だけを家の中まで連れて行き、目撃させました。この同じ三弟子は、イエス様が高い山で姿が輝いてモーセとエリヤと話をした時にも連れて行きました(9章)。同じ三弟子かどうかは不明ですが、本日の箇所でも誰か直近の弟子を同行させていたことが十分考えられます(8章のベトサイダでの盲人を癒した時も同じだったと思われます)。「エッファタ」というのはイエス様の間違いない母語のアラム語です(正確にはאפּתח「イプタ」か「エプタ」か?意味は「わたしは開くようにしてやろう」か?)。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、イエス様の言葉や(「タリタ、クーム」[マルコ5章41節]、「エロイ、エロイ、レマー、サバクタニー」[同15章34節])、また彼を取り巻く人たちの叫び声(「ホサナ」[同11章9-10節]、「ラッブーニ」[ヨハネ20章16節]― 福音書記者はこれをヘブライ語と言っていますが)、さらに黎明期のキリスト信仰者の祈りなど(「マラナ、タ」[第一コリント16章22節])、ところどころ、もともとのアラム語の言葉がギリシャ語の言葉に翻訳されずに、そのまま(ギリシャ語文字で)記されています。これは、これらの言葉を最初に聞いた人がその時受けた強烈な印象をそのまま伝えようとし、それを受け取った人たちもその印象をそのまま残したかったからと考えられます。従って、私たちは、こうしたもともとの言葉を目にすることで、当時の生々しい現場の一端に触れることができるわけです。
 
それにしても、本日のイエス様の奇跡の業はわかりにくいことがいろいろあります。他の箇所では言葉をかけただけで癒しが実現したこともあるのに、なぜ耳に指を入れ、唾を相手の舌につけて触れるようなことをするのか。唾は、ベトサイダの盲人の癒しの時にも使います(マルコ8章、ヨハネ9章も)。しかし、エリコの盲人の癒しの時には言葉だけでした(マルコ10章)。さらに、ある奇跡の時は、本日の箇所のように人々から引き離して行い、別の箇所では群衆の目の前で行っている。本日の箇所では人々に対してこの癒しは触れ回るなと命じ、他の箇所ではそのようなことは命じません。奇跡の業の公開性・非公開性について首尾一貫性がないことについて、いろいろな学説がありますが、すっきり解明する学説はおそらくまだないのではないでしょうか?それでも、一つだけ確実に言えることがあります。それは、もしマルコ福音書が書いた人の創作物語にすぎないならば、これほど作者の創作能力の欠如を示す物語はないということです。つまり、本気で創作物語を書くのであれば、奇跡は全部人目を避けて行われたというように首尾一貫させるのではないか。または、群衆の面前と人目を避けたところの使い分けをするなら、どういう基準で使い分けするか自分でもはっきりわかっていなければならないのではないか。それが見られないというのは、結局、マルコ福音書は、書いた人が(何か神学的な方向性は持ちつつも)目撃者の生々しい証言や記憶を出来るだけ手を加えないようにして書き綴ったものという性格が浮かび上がります。
 
 
3.
 
それでは、イエス様は救い主である、と言う時、また、そう信じる時、一体何が人間にとって救われない状態なのか、そこからどういう状態になることが救われたことになるのか、ということを見てみましょう。
 
キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られた被造物であるということを大前提にしています。この前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまっている、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥り、罪を犯したため、人間は死する存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。このように人間が死ぬということが、人間の造り主である神との関係が壊れている、ということの現れなのであります。
 
このため神は、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に、造り主である自分のところに戻れるようにしようとします。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪と不従順を除去しなければならない。しかし、それは不可能なことであります。先々週の主日の福音書の箇所はマルコ7章の初めの部分でしたが、そこでの問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。
 
人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、人間を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の死の呪いをそのひとり子に負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は誰でも、ひとり子を犠牲に用いて行った神の解決がまさに自分のために行われたのだとわかって、そのひとり子イエスを自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この救いを受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪に満ちたままイエス様の神聖さを頭から被せられます。こうして人間は、幸福の時にも苦難の時にも常に造り主の神の御手に守られてこの世の人生を歩むようになり、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻ることができるようになります。
 
 
4.

イエス様は、このように神が計画された救いを実現するためにこの世に送られました。それでは、十字架と復活の前に、多くの奇跡の業を行ったのは、どういう目的だったのでしょうか?何のために病気を癒したり、悪霊祓いをしたり、大勢の人の空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたりしたのでしょうか?自分を拝めば御利益があると人々にアピールするためだったのでしょうか?そうやって従う者を集めて自分を教祖に新しい宗教団体を結成しようとしたのでしょうか?キリスト信仰者だったら、そうは考えないでしょう。イエス様は、弱い者困っている者を心から憐れみ本当に助けてあげたくて一切の私利私欲を捨てて救援活動にまい進した、というイメージが強くもたれているのではないかと思います。イエス様がそうであった以上は、キリスト者もそれに続かなければならない、と。私は、奇跡の業はイエス様の慈愛・憐れみの心のあらわれというのはその通りだと思いますが、このイメージにはまだ大事なものが欠けていると思います。それは何かと言うと「神の国」であります。
 
イエス様は「神の国は近づいた」と公に宣言することをもって活動を開始しました(マルコ1章14節)。その活動の内容は、奇跡の業と神の国についての教えを宣べることでした。つまり、彼の教えは、神の国がどういうものかをわからせる教えでした。それにあわせて、彼の無数の奇跡の業は、神の国というものがあらゆる悪から守られ神の意志と力に満ちたところであるということを具体的にわからせる手段だったのであります。奇跡の業と神の国が結びついていることは、イエス様が弟子たちを最初の宣教旅行に派遣する時にも現れています。マタイ10章で、イエス様は派遣する弟子たちに病気の癒しや悪霊祓いの力を授けますが、その際、神の国(「天の国」)が近づいた、と宣べ伝えよ、と命じています。
 
神の国とは、最終的には最後の審判の日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる時(イザヤ65章17節、66章22節、黙示録21章1節)、今目に見えるものすべてが崩れ去った時に顕現するものです(ヘブライ12章26-27節)。そこは、涙をことごとくぬぐわれ、悲しみも嘆きも苦しみも、そして死さえもないところです(黙示録21章4節)。イエス様の奇跡の業は、人間から悲しみ嘆き苦しみ不安を取り除くものでした。自然に対しては、自然の法則を超える力を示すものでした。そういうわけで、イエス様の奇跡の業は、いつの日か到来する神の国の前奏曲であったと言ってもよいでしょう。奇跡の業を受けた人たちは、その音色を聞かせてもらった、または神の国の味を少し味あわせてもらった、と言ってもよいでしょう。
 
 しかし、そうは言っても、人間はその時に神の国そのものに入れたわけではありませんでした。そのためには人間は罪と不従順の汚れを取り除き、神の神聖さにマッチする存在にならなければなりません。それを可能にしたのが、先ほども申し上げたイエス様の十字架の身代わりの死であり、死からの復活であります。人間はそれが自分のためになされたとわかってイエス様を救い主と信じ、洗礼を受けることで、神の国の一員となることができるのであります。
 
 
5.

最後に本日の旧約の箇所であるイザヤ書35章と本日の福音書の箇所の関係について触れておきます。
 
5節と6節で「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」とありますが、イエス様の癒しを受けた人たち、それを見た人たちは、ついにこの預言が成就する日が来たのだという思いに満たされたでしょう。8節で、荒野の中に聖なる道と呼ばれる大路が敷かれ、「主御自身がその民に先立って歩まれ」とあり、10節をみると行先はシオンとなっています。シオンは直接的にはエルサレムの神殿がある場所を指すので、イエス様を先頭にしてエルサレムに向かった群衆はまさに預言の実現を感じていたでしょう。しかし、10節をみると、この聖なる道を歩む者は、「主に贖われた人々」であります。「主に贖われた人々」とは、そもそもイエス様の十字架と復活の出来事の後、彼を救い主と信じる信仰を持った人たちです。従って、十字架と復活の出来事の前のイエス様の活動の時期はまだ預言の完全な実現ではなかったのです。10節に、主に贖われた人々が帰り着くシオンとは、「嘆きと悲しみが逃げ去った」場所と言われます。これも黙示録の21章4節に預言されている神の国、復活して永遠の命を得た者たちの国と同じです。そこには痛みも嘆きも苦しみもなく、涙は全て拭われ、死さえもがありません。かつてさまざまな病気や障害の人がイエス様から癒しを受けたのは、将来到来する神の国を少し味あわせるようなものであったと、先ほど申しました。神の国においては、すべての病気や障害が消滅するのであります。死さえも力を失うのであります。
 
そういうわけで、イザヤ書35章に言われる、聖なる道を進む主に贖われた者たちとは、実に神の国を目指してこの世の人生を歩む私たちキリスト信仰者なのであります。このことを頭に入れて、今一度、本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書35章4-10節を読んで本説教の締めとしたく思います。

心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。
敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。」
そのとき、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳が開く。
そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり
渇いた地は水の湧くところとなる。
山犬がうずくまるところは
葦やパピルスの茂るところとなる。
そこに大路が敷かれる。
その道は聖なる道と呼ばれ
汚れた者がその道を通ることはない。
主御自身がその民に先立って歩まれ
愚か者がそこに迷い入ることはない。
そこに、獅子はおらず
獣が上ってきて襲いかかることもない。
解き放たれた人々がそこを進み
主に贖われた人々は帰って来る。
とこしえの喜びを先頭に立てて
喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを迎え
嘆きと悲しみは逃げ去る。
  
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2012年9月10日月曜日

シリア・フェニキアの女の信仰 - 非ユダヤ人のキリスト教信仰の萌芽 (吉村博明)



説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
  
主日礼拝説教 2012年9月9日(聖霊降臨後第十五主日)
日本福音ルーテル日吉教会にて

「イザヤ書」35:1-3、
「ヤコブの手紙」1:2-18、
「マルコによる福音書」7:24-30

説教題 シリア・フェニキアの女の信仰 - 非ユダヤ人のキリスト教信仰の萌芽


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 
1.

 イエス様の言行録である4つの福音書を繙くと、彼の活動舞台の大部分は、ユダヤ人の居住地域であるガリラヤとユダヤの二つの地域であったことが明らかになります。イエス様は神から課せられた任務をまさにイスラエルの民の間で遂行していた、と言うことができます。ところが、本日の福音書の箇所では、イエス様は二つの地域の外側にある地中海沿岸のフェニキア地方の都市ティルスの近くまで行きます。お手元の聖書の後ろにある地図「新約時代のパレスチナ」をご覧になれば、どこにどの地域があるかわかると思います。今は先を急ぎますので、お家でご確認いただければと思います。ユダヤ人は、ガリラヤとユダヤの二地域以外の各地にも少数派として居住していたので、イエス様はティルス近郊でユダヤ人を相手に活動するつもりだったのでしょう。

 ところが、思いがけないことが起こりました。ユダヤ人でない婦人がイエス様のもとに来て、足元にまでひれ伏して助けを求めるのです。婦人の民族的所属は、新共同訳では「ギリシャ人で、シリア・フェニキアの生まれ」となっていますが、少し注釈します。当時地中海世界の東半分はギリシャ語が公用語になっていましたから、別にギリシャ本土でなくてもギリシャ語を操る人は広範囲に存在していました。そういうわけで、問題の婦人の民族的所属を正確に記すと、「ギリシャ語を主要言語とするシリア・フェニキア人」ということになります。ギリシャ本土出身のギリシャ人ということではありません。さて、その婦人が、「汚れた霊にとりつかれている娘を助けて下さい」と助けを求めました。それに対するイエス様の答えは、先ほど読んでいただいた通り、かなり冷淡なものでした。「子供たち」と「犬」のたとえを話しますが、「子供たち」がユダヤ人、「犬」が非ユダヤ人を指すのは一目瞭然です。しかし、真剣勝負とも言える対話の結果、婦人は願いをかなえてもらい、娘は悪霊から解放されます。

本日の福音書の箇所は、神やイエス様に対するへりくだりの大切さを教える一種の美談のようにしばしば言われます。神やイエス様は、へりくだった心を示す者を必ず顧みて下さることを教えているのだ、と。それはそれで正しいのですが、実は本日の箇所は、「へりくだりの大切さの教え」だけでは収まりきれない大きなことが含まれています。これからそれを見て行こうと思います。


2.

 4つの福音書を繙いて気づかされることの一つは、イエス様の活動の対象は実にユダヤ人中心だったということです。確かに、主は死から復活した後、弟子たちに「全世界の全民族に福音を宣べ伝えよ」と命じ、自分が救世主であることはユダヤ人を超えて全人類に関わっているのだと言います。ところが、十字架の出来事が起きるエルサレム入城以前のイエス様は、ほとんどガリラヤとユダヤの二地域でユダヤ人を相手に活動をしており、本日の福音書の箇所以外で、彼が明らかに非ユダヤ人と対話をするような接触があるのは、ルカ7章のローマ帝国軍百人隊長と、ヨハネ4章にあるサマリア人の女くらいです(マルコ5章に出てくるデカポリス地域の男がユダヤ人だったかどうかは不明)。

 十字架の出来事の前のイエス様が活動の対象をユダヤ人に限っていたことは、マタイ福音書によく表れています。例えば、10章で12弟子を最初の宣教旅行に送り出すとき、イエス様は、非ユダヤ人のところには行くな、「イスラエルの家の失われた羊たち」のところに行け、と命じます。15章には本日の箇所と同じシリア・フェニキア人の婦人の出来事が別のバージョンで記され、そこでイエス様は婦人に対して、自分は「イスラエルの家の失われた羊たち」のために遣わされたのであり、それ以外の者たちのためではない、とまで言い切ります。

こうした復活前のイエス様の非ユダヤ人に対する態度は、イザヤ書49章6節にある神の預言と相いれないように思えます。そこで神は、将来現れる救世主は、ユダヤ人以外にも救いをもたらすことを任務にすると、言っています。
「わたしはあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」
この日本語訳で「だがそれにもまして」というのは意味が弱すぎます。ポイントとなるヘブライ語の動詞(נקל)を忠実に訳すると、もっと迫力のある意味になります。
  「ヤコブの諸部族を興し、イスラエルの残余の者を帰還させる目的で、おまえをわたしの僕にするというのは、あまりにもスケールが小さすぎる。わたしの救いが地の果てにまで及ぶために、わたしはお前を諸国民の光にする。」

結果的には、復活後のイエス様はこの預言どおりに諸国民の光として立ち現われることとなりました。しかし、なぜ十字架と復活の出来事の前の彼は、人間の救いにかかわる任務をユダヤ人に限るようなことを言っていたのでしょうか?ユダヤ人以外の人間の救いは考えていなかったのでしょうか?この疑問に答えられるためには、イエス様が神から与えられた任務とは、そもそもなんだったのか、ということと、そのような任務を与えた神の目的はそもそもなんだったのか、ということがわからなければなりません。


3.

 神のそもそもの目的は、ユダヤ人非ユダヤ人にかかわらず人間を救うことでした。キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られた被造物であるということを大前提にしています。この前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまっている、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥り、罪を犯したため、人間は死する存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。このように人間が死ぬということが、人間の造り主である神との関係が壊れている、ということの現れなのであります。

このため神は、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に、造り主である自分のところに戻れるようにしようとします。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪と不従順を除去しなければならない。しかし、それは不可能なことであります。先週の主日の福音書の箇所はマルコ7章の初めの部分でしたが、そこでの問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。

人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、人間を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の死の呪いをそのひとり子に負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は、ユダヤ人非ユダヤ人に関係なく、ひとり子を犠牲に用いて行った神の解決がまさに自分のために行われたのだとわかって、そのひとり子イエスを自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この救いを受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪に満ちたままイエス様の神聖さを頭から被せられます。こうして人間は、幸福の時にも苦難の時にも常に造り主の神の御手に守られてこの世の人生を歩むようになり、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻ることができるようになります。
以上が、イエス様が神から与えられた任務と神がその任務を与えた目的であります。


4.

 それでは、神の目的やイエス様の任務がユダヤ人非ユダヤ人に関係なく人間すべてに向けられているのなら、なぜ十字架前のイエス様はユダヤ人を中心に活動していたのか、ということについてみてみましょう。

 重要なことは、イスラエルの民はもともと天と地と人間を造られた神に選ばれた民であった、ということです。この「神に選ばれた民」というのは、一般に思われがちですが、神に特別目をかけてもらっているので何をしても神のお墨付きだ、などという甘い独善主義とは全く無縁の厳しいものです。神はイスラエルの民に十戒を与えましたが、これは、造り主である神が造られた人間に要求していることはかくかくしかじかであると、神の人間に対する意志を明確に表示したもので、それを責任持って管理しろ、とイスラエルの民に付託したのです。諸民族を出し抜いて、天地創造の神の意志を授かったからといって、神に特別扱いされたなどといい気になるな、しっかり守らないとどうなるか、周りの諸民族はその目撃者になるだろう、というのです。

 事実、イスラエルの民の歴史は、この重い責任の歴史となりました。国民がこぞって神の意志に背く時はいつも国難がふりかかりました。アッシリア帝国やバビロニア帝国の侵略も、神が罰としてイスラエルの民に送った、ということが旧約聖書に何度となく言われます。国滅ぼされてバビロニアの地に捕囚となったイスラエルの民でしたが、今度はペルシャ帝国の王の計らいでユダヤへの帰還が認められます。しかし、これも本当は、神が民の罪の償いはもう十分と認めたので、ペルシャ帝国にバビロニア帝国を滅ぼさせてやった、ということになります。このように、旧約聖書では、諸々の民族の動向や興亡はみな、天地創造の神の意志に基づいていることが示されています。当該民族としては、自分たちはなぜイスラエルの民を攻撃するのか解放してやるのか、本当の理由はわかっていないでそうしていたのであります。

全ての人間の救いにかかわる以上は全ての人間に対して送られたはずの救世主がまさに神に選ばれた民の中から誕生した、ということは重要です。なぜなら、イスラエルの民は、十戒や旧約聖書に示された神の意志をしっかり管理する責任があり、それがイエス様の時代にもいろいろな問題があったからです。ファリサイ派もサドカイ派も律法学者たちも、自分たちの動機ではそれぞれの解釈に基づいて神の意志を実現していると思っていたのでしょう。しかし、本当は実現どころか反するようなこともしていたのです。先ほど触れました何が人間を内部から不浄にするかという問題もその一つでした。何か宗教的な儀式行為をすれば大丈夫という考えに対して、イエス様は、神が与えるものをしっかり受け取らなければ人間は神の意志を実現した状態にはなりえない、それくらい人間は汚れきっていると教えるのです。

このようにイエス様には、十戒をはじめとして旧約聖書に延々と記された神の意志というものを、もう一度整理する役目が与えられました。イエス様と当時の宗教指導者との論争が新約聖書に記録されたおかげで、神のみ子自身が父なる神の意志をどう教えたか、ということを私たちは知ることができます。イエス様がイスラエルの民の中から生まれ、その民を相手に活動したというのは、私たちが神の意志を正しく知ることができるために必要であったのです。


5.

 以上から、十字架前のイエス様がユダヤ人を主たる相手に活動しつつも、その任務は全ての人間の救いに関わるものであることをしっかりわきまえていたことが明らかになったと思います。シリア・フェニキア人の婦人との対話は、実にこのことを明らかにするものでした。ただし、任務は全ての人間の救いという普遍的なものではあるけれども、それはイスラエルの民を通して遂行できるという具体的な歴史の状況があるので、イスラエルのこうした特別な立場も対話の中にはっきりでてきます。それにもかかわらず、救いの任務は全ての人間に関わるということもはっきりでている。それが、本日の福音書の箇所の趣旨であります。

婦人は娘から悪霊を追い出して下さいと、イエス様に懇願します。ここで注意しなければならないことは、イエス様は何のために病気を癒したり、悪霊祓いをしたり、大勢の人の空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたりしたかということです。自分を拝めば御利益があると人々にアピールするためだったのでしょうか?いいえ、そうではありません。イエス様は「神の国は近づいた」と公に宣言することをもって活動を開始しました(マルコ1章14節)。つまり、彼の無数の奇跡の業は、神の国というものがあらゆる悪から守られ神の意志と力に満ちたところであるということを具体的にわからせる手段だったのであります。神の国は、最終的には最後の審判の日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる時(イザヤ65章17節、66章22節、黙示録21章1節)、今目に見えるものすべてが崩れ去った時に顕現するものです(ヘブライ12章26-27節)。そこは、涙をことごとくぬぐわれ、悲しみも嘆きも苦しみも、そして死さえもないところです(黙示録21章4節)。イエス様の奇跡の業は、いつの日か到来する神の国の前奏曲の音色であったと言ってもよいでしょう。

シリア・フェニキア人の婦人がイエス様に奇跡をお願いしたのは、彼にしてみれば、神の意志もまだ知らない非ユダヤ人に神の国の味を味あわせろということになります。イエス様の答え「最初に子供たちの空腹を満たせなさい」(27節)というのは、最初にユダヤ人に神の国の味を味あわせろ、という意味です。それに続く「子供たちのパンを取って、犬に投げやるのは正しくない」(27節)は、ユダヤ人に先駆けて最初に非ユダヤ人に味あわせるのは正しくない、という意味です。

これに対する婦人の答え「犬も食卓の下で、子供たちのところから落ちるパンのかけらは食べます」というのは、注目に値します。ここで婦人は、ユダヤ人に先駆けて非ユダヤ人を先にして下さいなどとは言っていません、ユダヤ人が先の順番なのはそれで構いません、ただ救いと神の国は非ユダヤ人にも与えられるというのが神の御心ならば、たとえユダヤ人と同じ席でなくても何らかの仕方で与えられるのが当然ではないですか、犬だって食卓から落ちるパンのかけらを食べてもいいのと同じくらい当然ではないですか、と言うのです。婦人の答えは、救いは全ての人間に及ぶという普遍的なものではあるけれども、それはイスラエルの民を通して行わなければならないという特殊な事情のもとで行うというイエス様の任務を全面的に受け入れたものとなりました。この答えの後、婦人の娘は癒され、神の国の前奏曲の音色はこの非ユダヤ人にも響き渡ったのであります。


6.

 おわりに、本日の福音書の箇所の教えに基づいて、キリスト教に対してありがちな誤解を正したく思います。それは、キリスト教や聖書は人間をキリスト教徒と非キリスト教徒にわけて、前者をよい者、後者を悪者扱いする独善的な宗教であるというような誤解です。本説教で見てきて明らかなように、旧約新約を含む聖書が人間を二分化する基準はキリスト教徒非キリスト教徒ではありません。イスラエルの民かその他諸々か、であります。つまり、ユダヤ人か非ユダヤ人かであります。イエス・キリストは実に両者を隔てる敵意の壁を取り壊し、彼を救い主と信じる信仰をもって両者を一つにしたのであります。このことは「エフェソの信徒への手紙」2章に詳しく述べられています。

 非ユダヤ人には、当たり前のことですが、アメリカ人もヨーロッパ人も日本人も含まれます。私事で恐縮なのですが、キリスト信仰に至る道に入りかけた頃、キリスト教徒になるというのは結局欧米人に頭を下げるようなものではないかとの思いがしてなかなか足を踏み出せませんでした。ところが、神の目からすれば、アメリカ人もヨーロッパ人も日本人も皆、テーブルの下でパンくずを待っている犬にすぎない、ということがわかった時、信仰に至る道にあった大きな障害物が粉砕した思いがしました。

それから、キリスト教は、キリスト教徒はよい者で非キリスト教徒は悪者とみる独善主義に満ちているというのも、キリスト信仰のなんたるやを知らないから出てくる誤解です。本説教でも明らかにしましたが、キリスト信仰者も性質上、神に対する不従順と罪に満ち満ちているという点では非信仰者と何の変わりもありません。ただ、キリスト信仰者の場合は、イエス・キリストの神聖な白い衣を頭から被せられているということが違います。しかし、これはこれでまた大変なことであります。というのは、神聖な白い衣を被せられているにもかかわらず、自分の内に宿る不従順と罪のために、それに相応しくないことを行ったり、言ったり、考えたりし、また逆に相応しいことは行わなかったり、言わなかったり、考えなかったりしてしまうからです。まさにこのために、キリスト信仰者にとって罪の赦しの祈りは生涯付きまとうのです。しかし、その祈りの度に神は、白い衣の方に目を留めて、それに免じて赦しを与えて下さるのです。そして、人がこの世の人生を終える時、神は白い衣を捨てずにしっかりまとい続けた者を御元に引き上げて下さり、こうして神に造られてこの世に生まれた人間は、造り主のもとに永遠に戻ることが出来るのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン