説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2020年1月5日降誕後第二主日
スオミ・キリスト教会
エレミア書31章7-14節
エフェソの信徒への手紙1章3-14節
ヨハネによる福音書1章1-18節
説教題 「イエス様の途方もなさに与って生きる」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストのことを指すと知っているのではないでしょうか。ヨハネ福音書の1章1節から18節までは、イエス様とは本質的にどんな方であるのかを述べているところですが、特に冒頭の5節まではそれを詩的な口調で表現しています。詩的というのは、新約聖書が書かれている元の言語であるギリシャ語で読むと、エン(εν)、エーン(ην)の音が繰り返されていることに気づきます。偶然そうなったのか、著者のヨハネが意図してそうしたのかわかりませんが、韻を踏んでいるように聞こえます。それを一つお聞かせします(エンεν、エーンηνを少し強調して言います)。
Εν αρχη ην ο λογος,
και ο λογος ην προς τον θεον,
και θεος ην ο λογος.
ουτος ην εν αρχη προς τον θεον.
παντα δι’ αυτου εγενετο,
και κωρις αυτου εγενετο
ουδε εν ο γεγονεν
εν αυτω ζωη ην,
και η ζωη ην το φως των ανθρωπων
και το φως εν τη σκοτια φαινει,
και η σκοτια αυτο ου κατελαβεν.
皆様もご存知のようにマタイ福音書とルカ福音書では、イエス様が乙女マリアから生まれる出来事が最初にきます。父、御子、御霊の三位一体の神の御霊、つまり聖霊が力を及ぼして乙女が身ごもってイエス様を産む。その意味では、イエス様誕生の出来事の記述も、イエス様が本質的にどんな方であるかを示しています。ヨハネ福音書では、イエス様が本質的にどんな方であるかということについて、著者がイエス様と共にいた日々を振り返って自分の目で見、耳で聞いたことをもとに分析・総括した、その結果を冒頭に持ってきたわけです。それを、さらに詩的な口調で表現しているのです。
このようにしてヨハネ福音書1章1節から18節までは、イエス様についての真理が語られます。途中の6-7節と15節で洗礼者ヨハネのことが出て来るので、少し脇道にそれるようになりますが、それはイエス様の本質を一層明らかにするために入れられたものであることはすぐわかります。1~18節のうち特に最初の5節は真理が詩的な口調で語られていると言えます。それは、真理であるがゆえに、人間を大いなるものを前にして謙虚にする力があります。また詩的であるがゆえに、人間の心を広くして大いなるものを受けとめられるようにする力があります。そういうわけで本日の説教では、この聖句を通して、私たちを謙虚にし、かつ私たちの心を広くする力に触れられるようにしていけたらと思います。
2.天地創造の前からいた神のひとり子
「初めに言があった」。この「はじめ」とはいつのことを指すのでしょうか?多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記1章1節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。それで、神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると思われるのではないでしょうか?実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしにある「はじめ」というのは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです(後注)。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。時間をずっとずっと過去に遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いたら、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに「ことば」と称される神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。
この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」の名前で呼ばれるようになるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に送られてからのことでした。しかし、ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいたのです。そして、天地創造が成って時間が始まった後もまだしばらくは父のいる永遠の御国にいたのです。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にひとり子はこの世に送られました。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。
それでは、天地創造の前の永遠のところにいた神のひとり子とは一体どんな方だったのでしょうか?ヨハネ福音書の著者ヨハネは、ひとり子を「ことば」、ギリシャ語でロゴスと呼びました。ギリシャ語のロゴスという言葉はとても幅広い意味を含みます。もちろん、紙に書き記して文字になる「言葉」や(昨今では紙に書かないでキーボードをたたくのが主流ですが)、口で話して音になる「言葉」を意味するのは言うまでもありません。これは私たちが普段日本語で「言葉」と言っているものと同じです。他にも、何か内容を持つ「話」や「スピーチ」を意味したり、また「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」などなど、日本語だったら別々の言葉で言い表す事柄が全部ロゴス一語に収まります。さらに、古代のギリシャ語の文化圏では、哲学のある一派の考え方として、世界の事象の全て、森羅万象を何か背後で司っている力というか、頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた派もありました。日本語では「世界理性」とでも訳されるのでしょうか。
このような森羅万象を背後で司るロゴスというのは、古代ギリシャの哲学の話でして、もともとはユダヤ教キリスト教とは何のゆかりも縁もない、人間の頭で考えて生み出された概念でした。ところが、聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を伝えたり明らかにしたりして、人間はそれを受け取るという立場です。生み出す大元にあるのはあくまで神という立場です。哲学では、大元は人間の頭ということになります。
ヨハネ福音書の著者ヨハネは、神のひとり子のイエス様というのは、ある意味で森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたのでした。ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、旧約聖書の伝統とイエス様自身が教え行ったことに基づいて、イエス様を捉えた結果、このとてつもないお方を、自分が伝えようとしているギリシャ語世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで、旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。
では、旧約聖書のどんな伝統が、イエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたかというと、それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の8章22-31節をみると、この「知恵」は実に人格を持ったものとして登場します。まさに天地創造の前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の時にも父と同席していたことが言われています。しかし、ひとり子の役割は同席だけではありませんでした。ヨハネ福音書の1章3節をみると、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に創造の業を行ったのです。どうやってか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記1章3節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように、ひとり子は「神の言葉」という側面を持つとわかれば、彼も天地創造になくてはならないアクターだったことがわかります。先にも見たように、ロゴスは直接的には「言葉」という意味を持ちますから、ひとり子をロゴスと呼ぶことで彼が創造の役割を果たす「神の言葉」であることも示せます。
このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。実はイエス様はこの地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であるとおっしゃっていたのです。ルカ福音書11章49節、マタイ11章19節にあります。(もちろんイエス様が実際に口にした言葉は、ギリシャ語のソフィアσοφιαでなくて、ヘブライ語のחכמהか、アラム語のそれに近い語だったでしょう。)イエス様は本当に、天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられた方だったのです!ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう果てしないところから来られた方であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。
ところで、イエス様を箴言にある永遠の「神の知恵」とすると、一つやっかいなことが出て来ます。箴言8章をみると「神の知恵」は「生み出された」と言われています(24、25節、ヘブライ語חיל )。「生み出された」と言うと、ひとり子も私たちと同じように何か造られた感じがします。私たち人間も生まれるのだし、そもそも人間は神に造られたものですから。さらに箴言8章22節を見ると、「神の知恵」である「わたし」、つまりひとり子も父なるみ神に「造られた」と書いてあります。神のひとり子も被造物なのでしょうか?
これはよく注意してみなければなりません。まず、箴言8章22節の「造られた」のヘブライ語の元の動詞(קנה)は、創世記1章1節の「神は天地を創造された」の「創造された」(ברא)と異なる動詞を使っているので、造りは造りでも何か質的に違うものだということに気づかなければなりません。そこで、箴言8章をよく見ると、神の知恵が「造られた」のは、天地創造の前に起きたことが強調されています。つまり時間が始まる前の永遠のところでひとり子は「造られた」のです。人間をはじめとする被造物が時間が始まってから造られたのとは異なります。
さらに、「生み出される」についても同じです。確かに神に造られた被造物である私たち人間も「生まれる」のですが、「神の知恵」「神の言葉」であるひとり子が「生み出される」というのと全然事柄が違います。人間や動物の場合は、天地創造の時に造られて、被造物の生殖作用を通して被造物として「生まれ」ます。被造物としての地位はかわりません。この、天地創造の前のひとり子の「生み出され」は、これは、まだ天地創造がない、まだ時間がない、永遠のところのことです。天地創造の後の被造物の「生まれる」とは質的に異なります。それが具体的にどんな「生み出され」なのかはもう誰にもわかりません。聖書に、天地創造の前に私は生み出された、と言っているから、それはもうそうとしか言いようがないのです。全ては天地創造の前のことなので、私たち被造物が造られたように造られたのではないということをしっかりわきまえておくしかありません。それ以上のことはわかりません。時間の中に存在する私たちは、その外側の世界のことはわからないのです。ひとつだけ確実に言えることは、この「生み出される」ということがあるおかげで、生み出された方は生み出した方の「ひとり子」と言うことができ、また、生み出した方を「父」と呼ぶことができる、そういう関係ができたということです。
このようにロゴスと呼ばれる神のひとり子は、天地創造の前から父なる神と共にいて、創造の時には父と共に働かれました。それで、ヨハネ福音書1章1節で「ことばは神であった」と言われるように、ロゴスはもう神としか言いようがないのです。このヨハネの分析は、キリスト教会の伝統に受け継がれていきます。私たちの礼拝でも唱えられる信仰告白の一つである二ケア信条にひとり子のことを「父と同質であって」と言われていることがそれです。
3.永遠の命に導く光
4節と5節をみると、光と闇と命について述べられます。「命」というのは、ヨハネ福音書ではたいてい、私たちが今生きている限りある命を超えた「永遠の命」、まさに父なるみ神のもとにある「永遠の命」を指します。創世記の初めに明らかにされているように、人間は堕罪の時に神に対して不従順になって罪を持つようになってしまったがために、この「永遠の命」を失ってしまいました。しかし、父なるみ神は人間にそれを再び取り戻してあげて、人間がこの世を生きる命とその次の永遠の命の両方を合わせもった大きな命を生きられるようにしてあげようと、それでひとり子を御自分のもとからこの世に贈られたのです。
永遠の命が「人間を照らす光」であるというのは、一つには暗闇の中を照らす光として、人間に永遠の命への道を示す役割を果たすことがあります。しかし、それだけではなく、人間が闇の力に支配されないように、人間の内に灯して闇の力に対抗できる力として働くこともあります。闇の力とは、人間を神に対して不従順にして罪を植えつけて永遠の命を失わせてしまった悪魔の力です。罪はそのままにしておけば人間が永遠の命を持てなくしてしまうものなので、まさに呪いそのものです。
5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とありますが、これはいろんな意味を持つギリシャ語の動詞καταλαμβανωが元にあり、訳し方がわかれるところです。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書ですと、「暗闇は光を支配下に置けなかった」ですが、英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)だと、日本語と同じ「暗闇は光を理解しなかった」です。どっちが良いのでしょうか?もちろん、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。しかし、十字架にかけられて全ての人間の罪の罰を一身に請け負ったイエス様は、全ての人間の罪の償いを神に対して果たして下さいました。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、悪魔は私たちをもはや罪の罰に繋ぎとめることは出来なくなりました。十字架の出来事がなかったら人間はそれに繋ぎとめられるしかないのです。さらに、一度死なれたイエス様を父なるみ神が復活させたので、死を超える永遠の命の扉を開かれました。こうしてイエス様のおかげで罪の償いを受けて赦された者は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。
悪魔は罪を最大限活用して人間を永遠の命から切り離そうと企てるのですが、それはイエス様の十字架と復活の業で完全に破たんしてしまいました。そういうわけで、先ほどの訳の問題は、暗闇は光を支配下に置けなかったというのがピッタリな訳ではないかと思います。
4.ことばが肉となる
父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、人間を永遠の命から切り離す罪の呪いから人間を解放して再びその命を携えて生きられるようにするためにこの世に送られました。ただし、「あの方が本当に罪を全部請け負って償って下さったんですよ」と言えるためには、その方が本当に神罰を神罰として純粋に本気で受けられないといけません。受けた罰がみせかけのものではいけません。本当に罰の名に値する苦しい痛いものであるためには、受ける者はそれを身に沁みて受ける生身の人間でなければなりません。しかし、普通の人間が全ての人間の罪を背負って神罰を受けて全ての人間の罪を神に対して償うことなどは不可能です。そこで、人間を救うのに他に手立てがないと見た神は、それを全部自分のひとり子に請け負わせることにしたのです。これが、神のひとり子がこの世に送られるとき、人間の姿かたちを持って人間の母親を通して生まれてこなければならなかった理由です。まさに、ヨハネ福音書1章14節に言われるように「言ロゴスは肉となった」のです。この何気ない一言に神の人間に対する大いなる愛と恵みが凝縮されています。ここに神の大いなる真理があります。まさにキリスト信仰の核がここにあるのです。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)。
5.イエス様の途方もなさに与って生きる
父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、私たち人間が失っていた永遠の命を再び持てるようにと、永遠の御許からこの限りある世に来ることが出来るために肉となられました。それでイエス様は見かけは私たち人間と同じ姿形をして人々と共にありました。しかし、その姿形にはこのような途方もないことが凝縮されていたのです。一体誰がそのことをわかったでしょうか?わかるようになったのは、十字架と復活の出来事が起きてからでした。出来事の直接の目撃者である使徒たち、さらにイエス様から直接啓示を受けたパウロが中心となって、「罪の赦しの救い」の福音を宣べ伝え始めました。これを聞いてイエス様を救い主と信じるようになった人たちは皆、この途方もないことに与るようになりました。なにしろ、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、肉体的な誕生に加えて、霊的に誕生することになったからです。ヨハネ3章でイエス様が教えている通りです。この世を去る時には肉体的に誕生した命は終わりますが、霊的に誕生した命はそのまま続きます。この世にいながら、命を二つもっているようなものです。
兄弟姉妹の皆さん、私たちは聖書を通してこのような途方もない方と出会ったのであり、その方を受け入れてその途方もなさに与って今を生きているのです。このことが皆さんにとって勇気と力と元気のもととなって、この新しい年も歩むことができますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注)「あった」ηνが過去形なのに注意。もし「はじめ」が天地創造の時を指して、その時点で「ことば」が出てきたということならば、過去形のηνではなくて、アオリストのεγενομην/εγενηθηνにすべきでしょう。