降誕祭前夜礼拝説教 2019年12月24日
スオミ・キリスト教会
ルカによる福音書2章1-20節
説教題 「クリスマスの見えない希望」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
1.
今朗読された「ルカによる福音書」の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。国を問わず世界中のキリスト教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読される個所です。
この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音(joulu‐evankeliumi)」とも呼ばれます。ちゃんと教会に通う家族だったら、クリスマス・イブの晩にクリスマスの御馳走が並ぶテーブルの席に家族全員がついて、この「クリスマス福音」が朗読されるのをみんなで聞いたものです。朗読の後で待ちに待った御馳走をいただきます。我が家もそうしていますが、近年教会離れが進むフィンランドで果たしてどのくらいの家庭がこの伝統を続けているでしょうか?
御馳走の前に聖書の個所を読み聞かせるのは、誰のおかげでこのようなお祝いが出来るのか、そもそもクリスマスは誰を称えるお祝いなのかをはっきりさせることになります。それは言うまでもなく、今から約2000年前に起きたイエス・キリストの誕生を記念するお祝いであり、そのイエス様を私たち人間に贈って下さった天地創造の神を称えるお祝いです。それでは、どうしてそんな昔の遥か遠い国で生まれた人物のことでお祝いをするのでしょうか?それは聖書によれば、彼が天地創造の神のひとり子であり、全ての人間の救い主となるべく天上の神のもとからこの地上に送られて、マリアを通して人間として生まれたからです。そのような方のために祝われるお祝いということを忘れないために、御馳走の前に聖書を朗読するわけです。そして、イエス様を贈って下さった天地創造の神に感謝して御馳走を頂きます。それなので、神がそんな贈り物をして下さったからには、私たちもそれにならって誰かに何か贈り物をする。また、神がひとり子を贈って下さったのは、人間一人ひとりのことを気に留めて下さっているからなので、それで私たちもハガキを出して「良いクリスマスと新年を迎えて下さいね」と書いて、あなたのこと忘れていませんよと伝える。そういうのが、本来の趣旨にそうクリスマスの祝い方です。もちろん、教会の礼拝に行って、讃美歌を歌い、聖書の朗読と説教者のメッセージに耳を傾け、神に祈りを捧げることも忘れてはいけません。ちょうど今しているようにです。
2.
「クリスマス福音」は聖書の1ページ程の長さですが、内容は深いです。それで、毎年クリスマス・イブの礼拝でこの聖句をもとに説教をする人は毎回新しい発見をします。出来事のあらましは以下の通りです。現在のイスラエルの国がある地域の北部にガリラヤ地方と呼ばれる地域があって、同地方のナザレという町にヨセフとマリアという婚約者がいました。ある日、マリアのもとに天使が現れて、マリアに神の力が働いて男の子を産むことになる、それは神聖な神の子である、と告げられます。案の定マリアは妊娠し、それに気づいたヨセフは婚約解消を考えますが、彼にも天使が現れて、マリアを妻に受け入れるようにと言います。生まれてくる子供は人間を罪の支配から救う救い主になる、だからマリアを受け入れなさい、と。ヨセフは言う通りにしました。ちょうどその時、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが勅令を出して、帝国内の住民は自分の出身地にて租税のための登録をせよという命令です。当時ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にあったので、皇帝の命令には従わなければなりません。それで、ヨセフとマリアはナザレからユダ地方の町ベツレヘムに旅に出ます。グーグルマップによると157,1㎞、徒歩で33時間とありましたが、身重のマリアにとっては辛い旅だったと思います。なぜベツレヘムかと言うと、ヨセフはかつてのダビデ王の末裔だったので、ダビデの家系の所縁の地ベツレヘムに向かったのです。ところが着いてみると、町は旅人でごった返ししていて宿屋は一杯。マリアは月が満ちて今にも子供が生まれそう。そこである宿屋に併設の馬小屋があってそこに案内され、そこで赤ちゃんを産みました。生まれた赤ちゃんは、馬の餌の飼い葉桶に寝かせられました。人間の救い主となる方はこのような誕生をされたのでした。
3.
以上がイエス様の誕生のあらましです。ルカ福音書2章ではこれに羊飼いの出来事が加わります。ベツレヘム郊外の野原で羊飼いたちが野宿をしながら夜通し羊の番をしていました。そこに天使が現れて、ベツレヘムで救い主が生まれたことを告げました。羊飼いたちは神の栄光に覆われました。神聖な神の栄光ですから、目も開けられない位に眩しかったでしょう。羊飼いたちが恐怖に慄いたのも無理はありません。天使は「恐れるな」と言って彼らを落ち着かせ、飼い葉桶に寝かせられている赤子がそれだ、と教えます。さらに、その天使に加えて大勢の天使が大軍のように現れて、神を賛美しました。羊飼いたちはあっけにとられてこの光景を見ていたでしょう。
天使が去ってしまうと、辺りはまた暗黒の闇と静寂に包まれました。一時前の光の世界と天使たちの賛美の大合唱がうそのようです。しかし、羊飼いたちの心は光と賛美に満たされていました。周りの闇はもう気にもなりません。先ほどの恐怖心は消え去っていました。光と賛美に心が満たされた羊飼いたちは互いに言い合いました。「さあ、ベツレヘムに行こう!主が知らせて下さったその出来事を見に行かなくては。」そして、彼らはベツレヘムに向かって出発し、そこで馬小屋に宿している親子を見つけました。赤ちゃんは飼い葉桶に寝かせられていました。まさにこの子が天使の告げた救い主となる方でした。
ここで一つ不思議に思うことがあります。それは、羊飼いたちはどうやってイエス様親子がいる馬小屋を見つけられたのかということです。羊飼いというのは、生活の大半を野原で過ごすので都会のことなんか何もわからないでしょう。ベツレヘムは小さな町と思いますが、それでも家々が並び、役所もあり、道路や路地も沢山あると思います。馬やロバが交通手段の時代ですから、馬小屋だって一つや二つではなかったでしょう。羊飼いたちは、町のどこに馬小屋があるかもわからず、真夜中の暗い街を手探りするように探さなければなりません。星や月が輝いていたとしても、街灯やイルミネーションの明るさには比べものになりません。
私が思うに、羊飼いたちがイエス様親子がいる馬小屋を見つけられたのは、探しながら大声を出していたからではないか?「天使のお告げがあった、今夜ベツレヘムで救い主がお生まれになった、その子は今どこかの馬小屋にいるということだ!」という具合に。羊の群れも野原に残しておけないから、一緒だったでしょう。大変なことになりました。一体何の騒ぎかと驚いた町の住民は家々から出て羊飼いたちに合流して、知っている馬小屋は片っ端から行ってみたのではないか?そして、一つの宿屋に併設する馬小屋がそれだったのです。
どうして町の人たちが合流したと言えるのかというと、17節に、羊飼いたちは天使が話したことを人々に知らせ、聞いた者たちは羊飼いたちの話を不思議に思った、と書いてあるからです。馬小屋に押しかけたのはもう羊飼いたちだけではなかったのです。
4.
町のことを知らない羊飼いたちが、町のどこかの馬小屋にいる赤子を見つけようとして街灯もイルミネーションもない暗い街に出かけて行ったというのは、少し無茶な話に聞こえます。しかし、見つからなかったらどうしようという心配や疑いは彼らにはありませんでした。彼らは、まだ目にしていなくとも必ず目にすることになるという希望に燃えていました。
使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」の8章24~25節で次のように教えています。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」羊飼いたちの心はこのような希望に満たされていました。赤子のイエス様をまだ目で見てはいなかったけれど、必ず見ることになると信じ、それで無茶さ加減に構わず探しに出かけたのです。
そう言うと次のような疑問が生じるかもしれません。羊飼いたちの場合は、天使の告げ知らせを聞き、神の栄光を目にし、天使たちの賛美の大合唱を聞いた。それくらいのことがあれば、神のひとり子が生まれたと言われても信じて、きっと見つかると信じて、探しに行くことも出来よう。そういう驚くべきことが起きないと、見えない希望を持ち続けるなんて無理な話だ、と。
しかし、聖書が伝えていることは、実は私たちには、羊飼いたちが見聞きしたことよりも、もっと驚くべきことが起きたということです。私たちにです。何が起きたのか?それは、イエス様の十字架の死と死からの復活という出来事です。
神のひとり子が私たち人間の全ての罪を神に対して償う犠牲となって十字架の上で死なれました。それは、私たちが神罰を受けないで済むようにするためでした。しかも、話はそれで終わりませんでした。神は一度死なれたイエス様を今度は復活させて、死を超える永遠の命への扉を私たち人間のために開かれたのです。
イエス様の十字架と復活の業は歴史上起こったことです。イエス様があなたの救い主になると、イエス様を死から復活させられた父なる神がいつどこででも、何が起きようとも、あなたのそばについていて守って下さっていることがわかります。まさに、目には見えないけれども、決して潰えることのない希望を持って生きることになるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン