2020年1月13日月曜日

永遠を思う心を持って行こう (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)­

礼拝説教 20201月1日新年の礼拝 スオミ教会

コヘレトの言葉3章1-11
エフェソの信徒への手紙4章17-24節
ルカによる福音書12章22-34節

説教題 「永遠を思う心を持って行こう」

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

西暦2020年の幕が開けました。キリスト教会のカレンダーの新年は、昨年の121日に待降節に入った時に始まっています。世俗のカレンダーでは今日が新しい年の第一日目です。この日は、教会のカレンダーではイエス様の誕生から8日目ということで、ルカ福音書221節に記されているように、イエス様がユダヤ教の戒律に従って割礼を受けて、その名が公けにされた日でもあります。

日本では新年は一年の中で最も大きなお祝いの期間です。以前の説教で、日本の新年の過ごし方とフィンランドのクリスマスの過ごし方に似ているところがあるとお話ししたことがあります。フィンランドでは1224日クリスマス・イブの日の正午から職場もお店もみな閉まり(後で言うように、最近は開いている店が増えてきました)、公共の交通機関も本数が激減します。この状態がクリスマスの日1225日丸一日あって、26日も休日ですが、一部の店は開きだして交通機関も平常ダイヤに戻ります。

この間フィンランド人は何をしているかと言うと、大方はクリスマス・イブまでに実家か親元のところに帰って、クリスマスの期間をそこで過ごします。それなのでクリスマスの前までに大掃除、クリスマスの飾りつけ、クリスマス・カードやプレゼントやクリスマス料理の準備をします。とにかくクリスマス直前までの忙しさ慌ただしさと言ったらなく、日本の年末のようです。実家や親元で過ごすというのも日本の新年の過ごし方と似ています。クリスマスの期間、何日間同じ料理を食べるというのも日本のおせち料理と同じです。ただし、これらはクリスマスの期間だけで、新年は日本と違って特に大きな休みとは考えられていません。学校は大体16日の「主の顕現日」くらいまでは休みで、日本の冬休みと同じですが、働く人はクリスマス後の1227日は仕事で、11日は休みですが、2日からまた平常です(もちろん休みを取る人も多いですが)。そういうわけでフィンランドに滞在していた最初の頃は、クリスマスというのは日本の正月を1週間早めたようなものなんだな、と思ったものです。

ところが、年を重ねるごとに大きな違いも見えてきました。まず、フィンランドは先ほども申しましたように、クリスマス期間は国中が静まりかえる。とにかく電車もバスも止まってしまい、多くの店も閉まってしまうのですから。日本だったら、初詣に行けなくなってしまい、人も神社もお寺も困ってしまうでしょう。教会に行くのはどうするのかと言うと、地元の近くの教会に行きます。実家に帰った人は実家の、帰らなかったり実家がなければ住んでいるところの教会です。より多く御利益を得ようと教会をはしごすることはありません。ひとつだけです。日本のように物凄い人だかりになることはなく、クリスマス・イブの日の夕刻の礼拝は一杯になるところが多いですが、クリスマスの日の早朝礼拝、翌日の通常の礼拝になるに従い出席者は減ります。

国中が静まり返って、人々は何をするのかと言うと、外出は教会に行く位で(近年は家でテレビ中継を見るだけの人も多い)、あとはずっと家にいます。食卓を華やかに飾ってクリスマス料理を家族と一緒に食べて、イブの日にはサンタクロースに来てもらって、親が前もって用意したプレゼントを子供たちに渡してもらい、あとは日常のサイクルから解放された状態にいる(annetaan olla)ことに徹します。近年は減ってきていますが、キリスト教が根付いている人にとって、クリスマスとは、救世主の誕生という大きな出来事に身も心も向けて、生活のために日々行っていることから一時離れて、救世主誕生のお祝いに徹する期間です。安息日の精神に通じるものがあります。もちろん現代のフィンランドでは、クリスマスの意味をそこまで自覚して祝う人はもはや少数でしょう。それでも、自分を超えた何か大きなことのために一時、自分を日常のサイクルから切り離して、その大きなこととの結びつきのなかに自分を置く、という姿勢は残っているのではないかと思います。

日本の正月では大勢の人たちが神社仏閣に行きますが、そこに自分を超えた大きなことのために自分を日常から切り離して、その大きなこととの結びつきの中に自分を置くということはあるでしょうか?お店やデパートなどをみると、1日は休みでも2日から開くのが多く、店によっては1日もやっています。それで日本の正月は日常からの解放どころか、日常の肥大化があるような感じがします。私が子供の頃は正月三が日と言ったら、どこもお店は閉まっていて繁華街も静かだったのですが。もっとも近年は働き方改革が言われるので変わるかもしれません。しかし、それも「自分を超えた大きなことのために自分を日常から切り離す」ためのお祝いというよりは、健康のため、より良い仕事効率のためということでしょう。もちろん、それも大切なことではあります。

フィンランド、フィンランドと同国が模範みたいな偉そうなことを言いましたが、実は5年ほど前に法改正があって店の開店時間が教会の伝統にとらわれずに自由に出来るようになりました。クリスマス期間中でもやる店が増えてきているので、今度はそっちが日本化してしまうのではないかと心配もしています。

2.

 救世主の誕生をお祝いするという大きなことのために自分を日常から切り離して、そのことの中に自分を置く、というのは限りあるこの世の日常から離れた「永遠」というものを身近に感じさせることにもなります。先ほど読みました旧約聖書「コヘレトの言葉」311節で言われるように、天と地と人間を創造された神は人間に永遠を思う心を与えました。神は私たちに見るための目、聞くための耳だけではなく永遠を思う心も与えて下さったのです。せっかく神にそのような心を与えられたにもかかわらず、日常にどっぷりつかっているだけだと、日常の思い煩いに取り囲まれて、それしか見えなくなってしまいます。

それでは、永遠とは何か?簡単に言えば時間を超えた世界です。それでは時間を超えた世界とは何かというと、その説明は簡単ではありません。聖書の出だしの御言葉、創世記11節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。つまり、森羅万象が存在し始める前には、創造主の神しか存在しなかったのです。神だけが存在していて、その神が万物を創造した。神が創造を行って時間の流れも始まりました。その神がいつの日か今ある天と地を終わらせて新しい天と地にとってかえると言われます(イザヤ書6517節、6622節、黙示録211節、他に第二ペトロ37節、313節、ヘブライ122629節、詩篇1022628節、イザヤ516節、ルカ2133節、マタイ2435節等も参照のこと)。そこは「神の国」という永遠の世界があるところです。今ある天と地が造られてからそれが終わりを告げる日までは、今ある天と地は時間が進む世界ということになります。神はこの天と地が出来る前からおられ、天と地がある今の時はその外側ないし上側におられ、この天と地が終わった後もおられます。まさに永遠の方です。

神のひとり子イエス様が父なるみ神のもとからこの世に贈られてきた。それは、永遠の世界におられる神が限られたことだけのこの世界に生きる私たち人間を、永遠の神に守られて生きられるようにしてあげよう、そのために贈られてきたのです。そして私たちがこの世の人生を終えたら永遠の神のもとに戻れるようにしてあげよう、そのために贈られてきたのです。人間が永遠の世界にいる神に守られて今を生きられるように、またこの世の人生を終えたらその神のもとに戻れるようにするためには、どうしたらよいか?そのためには、人間を神聖な神から切り離している、染みついた罪を取り除かなければなりませんでした。イエス様はその人間の罪を自ら請け負って十字架の上まで運び上げて、人間にかわって神罰を受けて、神に対して私たちの罪を償って下さいました。そこで人間が、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを純白の衣のように頭から被せられて、神から罪を赦された者に見てもらえるようになったのです。そうなると人間としては、これからは神の御心に沿うように生きよう、罪に手を染めないように生きようと注意するようになります。もし、悪い思いにとらわれても、心の目をゴルゴタの十字架に向ければ、罪の赦しは微動だにせずあるということがわかります。それで心に平安を得、神に感謝し襟を正します。いつの日か神の御前に立たされるとき、純白の衣をしっかり手放さず生きていたことを認めてもらい、永遠の神の御国に迎え入れられます。

先ほど読んだ「コレヘトの言葉」3章の初めの部分で、「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と、生まれる時も死ぬ時も定められたものだと言われています。定められた時の例がいっぱい挙げられていて、中には「殺す時」、「泣く時」、「憎む時」というものもあり、少し考えさせられます。不幸な出来事というのは、自分の愚かさが原因で招いてしまうものもありますが、全く自分が与り知らず、ある日青天の霹靂のように起こるものもあります。そのようなものも「定められたもの」と言われると、この世で真面目に生きていても意味がないという気がして、あきらめムードになってしまうかもしれません。

また、「神はすべてを時宜に適うように造り」という下りですが、ヘブライ語の原文に即してみると、「神は起きた出来事の全てについて、それが起きた時にふさわしいものになるようにする」という意味です。これは、言葉的にも人生の実際に照らし合わせても難しいところです。これを、起きたことは起きたこととして受け入れるしかない、そこから出発しなければならない、ということを意味していると理解できるとします。それでは、そこから出発してどこへ向かって行くのか?

ここで「永遠」を思い出します。もし「永遠」がなく、全てのことは今ある天と地の中だけのことと考えれば、そこで起きる出来事は全てこの天と地の中だけにとどまります。この世は不正義が蔓延るところですから、真面目に生きていても意味がないというあきらめムードになります。しかし「永遠」があると、この世の出来事には全て続きが確実にあり、最後の審判で不正義は全て清算されて正義が隅々まで行き渡っている神の国が待っていることになります。それがわかると、目指して向かうべきものが見えてきて、不正義は被っても真面目に生きることに意味がある、不正義には手を染めない、という姿勢になるはずです。イエス様はマタイ5章の有名な「山の上の説教」の初めで、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と、今この世の目から見て不幸な状態にいる人たちの立場が逆転するということを繰り返して述べています。「慰められる」とか「満たされる」とか、ギリシャ語では全て未来形ですので、将来必ず逆転するということです。もちろん、この世の段階で逆転することもあるかもしれないが、それが永続する保証はありません。たとえ逆転を果たせなくても、イエス様を救い主と信じる者たちには最終的には「最後の審判の日」と「復活の日」に逆転が実現します。

3.

イエス様の罪の償いを衣のように纏っているキリスト信仰者ではありますが、それでもその内にはまだ罪が残っています。自分では神の御心に適うように生きようと志しても、それが叶わない、至らない自分にいつも気づかされます。本日の福音書の個所はイエス様が最後の審判について教えているところです。困窮した人たち苦難や困難にある人たちを助けてあげなかった者は炎の地獄に落とされてしまうことが言われます。そんなこと言ったら、自分は一貫の終わりだと思う人が大半でしょう。一人や二人くらいは助けてあげたと言っても、世界中に困っている人たちが無数にいることを考えたら、何の役に立つでしょうか?これだけ助けたら十分と見てもらえるような合否ラインがあるのでしょうか?

本日の福音書の個所をよく見てみましょう。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ2540節)」。これは、ギリシャ語原文を直訳するとこうなります。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にした度合いの分を(εφ’ οσον)あなたたちは私にしたのである。」全然なっていない日本語ですが、わかりやすく言うと、イエス様の兄弟の一人に多くをしてあげたら、イエス様に対しても多くをしたことになり、少なくしたら少なくしたことになる。それでもイエス様にしたことには変わりないので、神の御国に迎え入れられるということです。多くをしたということは、しなかったことは小さかったということです。少なくしたら、しなかったことは多かったということです。でも、イエス様は多くても小さくてもいい、自分にしてくれたことであると認めてくれるとおっしゃっているのです。しなかったことはあるにしても、それは問わないとおっしゃっているのです。

キリスト信仰というのは、イエス様が打ち立てた罪の赦しの上に立つ限りは、至らなかったところ足りないところは神は追及しないから心配しなくてもいい、出来たところを見て下さるから安心していいという信仰です。それなので、遠い国に赴いて困窮した人たちを大勢助けることも、身近なところで少人数助けることも、同じように認めて下さるのです。それから、助け人を支える人も認めてもらえるでしょう。自分の力が足りなくて助けてあげられないことばかりかもしれませんが、それでもその人たちのために神に祈りましょう。たとえ大勢の人を助けてあげられても満足せずに、世界中にはまだまだ大勢いるのだから、その人たちのために祈らなければなりません。祈るだなんて、そんなのは助けないことをカモフラージュして自己満足することだ、と言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰では最後の審判は切実な問題なので、祈りが自己満足の手段になることはあり得ません。

兄弟姉妹の皆さん、今世界は皆が皆自分に都合のいいこと自分の感情にぴったりなことが真実だとして掲げて、それがSNSを通して拡散されて何が真実かわからなくなっていく状況があります。うまく言いくるめる能力がある人たち、感情に訴える力のある者たちが我が物顔です。最近よく言われるように、分断とポピュリズムとポスト真実の状況です。まさにこういう時こそ、神が永遠を思う心を与えて下さったことを思い出しましょう。そうすれば、いろんなものがごった煮になった今の世界はいつか火で精錬されて不純物は蹴散らされ、混じりけのない完璧な純度を誇る正義が全てを覆う日が待っていることが見えてきます。それが見えれば、真実は自分に都合のいいこと感情にぴったりなことと別のところにあることもわかります。そのような目と心を持って、今年も時代の荒波の中を進んでいきましょう。イエス様はいつも私たちと一緒におられます。あの嵐の日に弟子たちと一緒に舟に乗っていたようにです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン