2016年11月28日月曜日

イエス様の大事業と私たち (吉村博明)

主日礼拝説教2016年11月27日 待降節第1主日
スオミ教会

イザヤ書2章1-5節
ローマの信徒への手紙13章11-14節
マタイによる福音書21章1-11節

説教題 「イエス様の大事業と私たち」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日は待降節第1主日です。教会の暦では今日この日、新しい一年が始ります。これからまた、クリスマス、顕現主日、イースター、聖霊降臨主日などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神がスオミ教会と教会に繋がる皆様を顧みて、皆様お一人お一人の日々の歩みの上に祝福を豊かに与えて下さいますように。また皆様が神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように。

 本日の福音書の箇所は、イエス様がロバに乗って、エルサレムに「入城」する場面です。昨年もお話ししたのですが、フィンランドやスウェーデンのルター派教会では待降節第1主日の礼拝の時、この出来事について書かれた福音書が読まれる際、群衆の歓呼のところまでくると一旦朗読を止めます。するとパイプオルガンが威勢よくなり始め、会衆みんな一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌います。普段は人気の少ない教会もこの日は人が多く集まり、国中の教会が新しい一年を元気よく始める雰囲気で満ち溢れます。夜のテレビのニュースでも毎年のように「今年も待降節に入りました。画像は何々教会の礼拝での『ホサナ』斉唱の場面です」と言って、歌が響き渡る様子が映し出されます。

2.

ところで、先ほど一緒に歌った「ダビデの子、ホサナ」ですが、フィンランド語とスウェーデン語では「ホサナ」ではなくて、「ホシアンナ」です。福音書の記述も、群衆がイエス様を迎える歓呼は日本語では「ホサナ」ですが、フィンランド語とスウェーデン語は「ホシアンナ」です。昨年もお話ししたのですが、この違いを考えることは聖書をより身近に感じられるきっかけになります。ただ、今回説教を準備している時にまた新しい発見をしましたので、昨年申し上げたことに補足をしなければなりません。このように聖書は読むたびに、それまで気づかなかったことに出くわすことがよくあるので、本当に飽きさせない書物です。

 このホサナ、ホシアンナというのは、もともとは詩篇11825節にある言葉から来たものです。「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」と神に助けを求める歌です。「わたしたちに救いを」をいうのは、原語のヘブライ語を忠実に訳すと「主よ、どうか救って下さい」になります。これが הושיעהנא ホーシィーアーンナァ、つまりホシアンナです。本日の福音書の箇所の群衆の歓呼がある910節はこの詩篇の箇所が土台にあります。そういうわけで、ホサナと言わずにホシアンナと言った方が、引用元の聖句の原語に忠実になります。ところで、ホシアンナという言葉は、古代イスラエルの伝統では、群衆が王を迎える時の歓呼の言葉として使われるようになりました。日本語的に言えば、「王様、万歳」になるでしょう。

では、どうして日本語の聖書ではホシアンナと言わずにホサナと言うのか?ホサナהישע־נא  というのは、実はヘブライ語のホシアンナをアラム語に訳したものです。正確にはホーシャーナァと発音します。ヘブライ語のホーシィーアーンナァと違います。アラム語という言語ですが、それはイエス様の時代のパレスチナの地域の主要言語でした。ヘブライ語は旧約聖書を初めとする書物の書き言葉として残ってはいましたが、人々が日常に話す言葉はアラム語でした。会堂シナゴーグで礼拝が行われる時も、ヘブライ語の旧約聖書の朗読の後にアラム語で解説的な通訳がつけられていました。それで、群衆が叫んだ言葉も、ヘブライ語のものよりはアラム語の可能性が高いと考えられるのです。

そこで、肝心のマタイ福音書の原語のギリシャ語のテクストではどうなっているかを見てみると、ホーシィーアーンナァでもホーシャーナァでもなく、ホーサンナωσανναです。英語訳の聖書は、綴りとしてはこのギリシャ語に倣っていて、ホサンナHosannaと書いています。しかし、そのホサンナを英語はホゥザナと発音します。英語は本当に一筋縄ではいかない厄介な言語だと思います。

さて、ヘブライ語のホーシィーアンナ(ホシアンナ)、アラム語のホーシャナ(ホサナ)、ギリシャ語のホーサンナ(ホサンナ/ホゥザナ)の3つが出そろいました。ここで興味深いのは、ギリシャ語は、ヘブライ語やアラム語の言葉を訳さないで、ただ発音をギリシャ文字に置き換えただけということです。皆様もご存知のように「メシア」はヘブライ語のムーシィーアハですが、それがギリシャ語に訳されてクリストス、「キリスト」になりました。ところがホシアンナ、ホサナの場合は、そのような訳がなされず、発音をそのままギリシャ文字に置き換えただけで、さながら日本語が外来語を訳さないでカタカナに置き換えるのと似ています。

 こうしたことをどのように考えたらよいかと言うと、まず、本日の福音書の箇所に出て来る人たちはアラム語を話す人たちなので、叫んだ言葉はアラム語でホサナと言った可能性が高い。しかし、シナゴーグの礼拝でヘブライ語の旧約聖書の朗読も聞いていたので、ひょっとしたらホシアンナを覚えていて、それで叫んだ可能性も否定できない。いずれにしても、この出来事も含めたイエス様の言行録は最初、口伝えで伝えられていき、次第に記録として書き記されるようになる。さらにキリスト教がアラム語圏を超えてギリシャ語圏に広まり始めると、アラム語で伝えられたものはどんどんギリシャ語に訳されていく。そこで、この出来事の記録を訳した人は、ホシアンナだったにせよホサナだったにせよ、このエグゾチックな言葉をみて、ギリシャ語の単語に訳さず、ただギリシャ文字を当てはめて書き記したのです。実は、このおかげで聖書を読む人は、この出来事が起きた時その場にいあわせた人々の生の肉声に触れることができるのです。ギリシャ文字を当てはめて書いた人は、その効果を狙ってそうしたのは間違いないでしょう。

 以上のことは、キリスト信仰の観点からみたら瑣末なことですが、知っていれば、聖書を読む時、当時その場にいあわせた人たちの音声の世界に引き戻されます。聖書に書いてある出来事は後に創作された話だ、などという淡い期待を打ち破り、本当にあったという臨場感を与えます。このホサナの他にも新約聖書には、イエス様自身や関係者が述べた言葉や文がギリシャ語に訳されずにアラム語の発音のまま記されて、日本語訳の聖書ではカタカナで表記されているものがいくつもあります。ギリシャ語に訳した人たちは、このようにしてまで現場の生の声をそのまま残そうとしたのです。

2.

先ほども述べましたように、ホサナないしホシアンナは、古代イスラエルの伝統では群衆が王を迎える時の歓呼の言葉として使われていました。従って、本日の福音書の箇所で群衆は、ロバに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたのです。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ロバに乗ってやってくるのです。これは一体何なのでしょうか?

 さらに、同じ出来事を記したマルコ福音書やルカ福音書では、イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じた時、まだ誰もまたがっていないものを持ってくるようにと言います(マルコ112節、ルカ1930節)。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味で、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、ロバに乗ってトコトコ、エルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

 実は、これは何かのパロディーでもなんでもありません。まことに真面目で、人類の運命に関わる重大かつ神聖な出来事だったのです。以下、そのことを明らかにしてまいりましょう。

 まず、イエス様のこの行為は、旧約聖書のゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味しました。ゼカリヤ書9910節には、来るべきメシア救世主の到来について次のような預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ロバの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者ということです。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した箇所から明らかなように、神の力を受けて世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者です。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういう途轍もないことをする者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と登場するのではなく、ロバに乗ってやってくるということです。イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。

 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が、全世界を神の意志に従わせる、そういう世界をもたらすという途轍もないことをするにもかかわらず、その実現の仕方は軍事力の行使とは全く正反対な仕方で行うということが、イザヤ書11110節に預言されています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとまる。/知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。/彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。/目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。/弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。/その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。/正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。/狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。/わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。/その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは栄光に輝く。」

このように危害とか害悪というものが全く存在せず、あらゆることにおいて神の守りが行き渡っている世界は、聖書の立場からすれば、今のこの世が終わった後に到来する新しい世を意味します。イザヤ書や黙示録に預言されていますが、神が今ある天と地にかえて新しい天と地を創造された時の世です。その新しい世に相応しい完全な正義を実現する「エッサイの根」。それは何者か?エッサイはダビデの父親の名前なので、ダビデ王の家系に属する者です。つまり、イエス様を指します。やがて今ある天と地とこの世とにかわって、神の神聖な意志に完全に従う新しい世が新しい天と地と共に到来する。その時に正義を完全かつ最終的に実現するのがイエス様ということです。

以上のように、今の世が新しい世にとってかわるという、預言書に預言された大事業は、イエス様が担っていくことになりました。ロバにまたがってエルサレムに入城するというのは、まさに預言書にのっとった手順だったのです。それでは、今の世が新しい世にとってかわるという、とてつもない大事業はイエス様によってどのように展開されていったのでしょうか?

3.

この大事業は、当時のイスラエルの人たちの目から見て、まったく思いもよらない予想外の方向に展開しました。というのは、彼らは、ダビデ王の末裔が来て新しい世を打ち立てるというのは、ローマ帝国の支配を打ち破ってイスラエル王国を再興することを意味すると理解していたからでした。人によっては、この来るべき王国のことを、天と地が新しくされて死者の復活が起きる時に(イザヤ6622節、ゼカリヤ147節、ヨエル34節、ダニエル1213節)現れると考えていた者もありました。ただ、その場合でも、ユダヤ民族の国が再興されるということが中心でした。先ほど読んで頂いたイザヤ書2章では、諸国の軍事力が無力化されて、諸国民は神の力を思い知り、神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言がありました。それだけを見れば、再興したユダヤ民族の国家が勝利者として全世界に号令をかけるという理解が生まれます。しかし、それはまだ一面的すぎる理解でありました。イエス様の大事業には、旧約聖書の預言のもっと別の面も含まれていたのです。どんな面か、以下にみてまいりましょう。

 エルサレムに入城したイエス様は、ユダヤ教社会の宗教指導層と激しく衝突します。まず、エルサレムの神殿から商人を追い出して、当時の神殿崇拝のあり方に真っ向から挑戦しました。それから、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者であるローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせてしまう、せっかく一応の安逸を得ているのにローマ帝国の軍事介入を招いてしまうということが危惧されました。三つ目として、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に預言されている終末の日に到来するメシア「人の子」であると公言していることも問題視されました。特に、自分を神に並ぶ者としていることや、さらにもっと直接的に自分を神の子と見なしていることも指導層にとって赦せないことでした。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けます。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。しかしこれは、旧約聖書の預言を一面的にしか捉えられていなかったことによる理解不足でした。そこで、イエス様が十字架にかけられた後、旧約の預言が全て理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。

 イエス様が死から復活されたことで、死を超えた永遠の命への扉が開かれたことが明らかになりました。最初の人間アダムとエヴァの堕罪以来、人間が死ぬ存在になってから閉ざされていた扉が開かれたのです。人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、死を超えた永遠の命につながることが出来るようになりました。人間が死を超えられなくなってしまったそもそもの原因は、人間が罪を持つようになって神の罰に服するようになってしまったからでした。それが、「お前の罪は赦された、だから神の罰は受けなくてもよくなった」ということが起きたのです。どこでどうやって罪が赦されたのでしょうか?それは、イエス様が十字架の上で人間の罪に対する神の罰を全部引き受けて下さったことによります。その時、イエス様の言葉「人の子は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」(マルコ1045節)の意味が明らかになりました。イエス様が自分の命を身代金として支払って、人間を罪の支配下から解放して下さったのです。これにあわせて旧約聖書の預言が次々に明らかになりました。例えば、イザヤ53章に預言されている神の僕とはまさにイエス様のことを指すものでした。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼がになったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(36節)

「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをなしたのはこの人であった。」(1112節) 

 イエス様の十字架の死と死からの復活というのは、ユダヤ人であるかないかにかかわらず、私たち人間すべての罪の償いを神に対して成し遂げたという、犠牲の業でした。加えて、罪の償いをしてもらった私たち人間が、この世のあらゆる悪と誘惑を踏み越えて常に神のもとに向かって進んでいけるようになれるための贖いの業だったのです。実にイエス様の神聖なエルサレム入城は、この犠牲と贖いの上に成り立つ人間の救いが真の目的だったのです。この世が終わって次に来る世の王国の出現はまだ先のことだったのです。まず、神がイエス様を用いて実現した救いに出来るだけ多くの人が与れるようにしなければならない。しかし、それはいろいろな反対者、時には迫害者をも生み出す。この軋轢と対立の中で人間の歴史は進み、最終的にはこの世の終わりが来て、天と地が新しくされるような大変動が生じて今見えるものは全て崩れ落ちて、唯一崩れ落ちないものとして神の国だけが見える形で現れて、新しい世が始まる(ヘブライ122629節)。このように神の国の構成員となるのは、もはやユダヤ民族というより、イエス様を救い主と信じた人たちということになります。イザヤ書2章にあるような、諸国民が天地創造の神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるというのは、もはや地理上のエルサレムをささず、黙示録21章にある天上のエルサレムを意味します。このように、旧約聖書の預言は、ユダヤ民族という一つの民族の思いを超えた、全人類にかかわるものだったのです。それが神の意図でした。これを明らかにしたのがイエス様でした。神のひとり子であるがゆえに、神の意図を明らかにすることができたのです。

4.

以上から、天地創造の神の意志と計画を実現する大事業の第一弾として、イエス様がロバにまたがってエルサレムに入城したことが明らかになりました。そしてその大事業は、当時のユダヤ人たちの一面的な旧約聖書の理解を超えた形で展開しました。しかし、旧約を全体的に理解すれば、イエス様の十字架と復活こそ、大事業が計画通りに進んでいることを示す出来事であったとわかるのです。

さて、今私たちが生きているこの時代、イエス様の最初の降臨と次の再臨の間の時代は、神がイエス様を用いて実現した罪の赦しの救いを、一方では受け入れて自分のものにした人たち、他方ではまだ受け取っていない人たちに二分する時代であります。しかし、罪の赦しの救いは全ての人間のために実現されたものである以上、全ての人がその所有者になってほしいというのが神の御心です。それゆえ、兄弟姉妹の皆さん、それを先に受け取った私たちキリスト信仰者は、まだ受け取ってない人たちが受け取ることが出来るよう、絶えず祈り、機会を見いだしては働きかけていかなければなりません。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン