説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2016年11月15日 日本福音ルーテル神学校
詩篇42篇2節
説教題 「AD FONTES ‐ 源へ」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
日本福音ルーテル神学校の神学生及びルーテル学院大学の学生の皆様
1.
詩篇42篇2節の日本語訳は「涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める」です。ヘブライ語の原文でאפיקというのは、辞書(HolladyのConcise使用)によると、「谷の底をかろうじて流れる水路のような小川」です。英語やスウェーデン語やフィンランド語の聖書ですと、「谷底」がなくて単なる「小川」とか「水流」です。日本語訳の方が、本当に周囲が死に枯れたような乾燥地帯で鹿が水を求めて必死に谷を下りて行く情景が目に浮かびます。
この詩篇の箇所は、ギリシャ語訳のセプトゥアギンタやラテン語訳のブルガータを見ると、ちょっと違っていて、鹿が求めるのは「谷底の水流」ではなくて、「水の源」すなわち「水源」です(ギリシャ語τας
πηγας των υδατων、ラテン語ad fontes
aquarum)。喉が渇いた鹿は、ただ水が飲めればいいわけですので川岸に着けば事足ります。なにも川岸を辿ってわざわざ水源まで行く必要はありません。それなのに、ギリシャ語に訳した人たちは、「水源」を選んで、ラテン語に訳した人もそれに倣ったのです。単に肉体的な渇きを癒すことが目的ではなくなりました。同じ節の後半で、私の魂は神を求める、とあるので、それで霊的な渇きを癒すためには、水そのものでは不十分で源にまで行かなければならない、と考えられたのは明らかです。
ところで、マゾレットのヘブライ語の言葉がもともとあった意味だったのか?それともセプトゥアギンタの言葉がもともとの意味だったのか?どっちが先か?これは皆さんもご存知のように、いわゆる「本文研究」の領域です。旧約聖書のそれは死海文書の扱いも入って来るので、新約聖書よりもとてもやっかいな問題をはらんでいます。加えて、マゾレットのテキストがもともとの旧約聖書の形なのか、とか、今手にすることができるセプトァギンタのテキストがもともとの形を反映しているのか、という問題もあります。考えるだけで気が遠くなりそうなことです。本説教ではそういったことには全く立ち入らずに、頭からマゾレットがもともとの意味で、セプトゥアギンタは後でそれを解釈して今あるような訳をして、それをブルガータが受け継いだ、ということを前提にして話しを進めてまいります。
2.
旧約聖書がどのように成立したかを見ると、当時のユダヤ人というのは、実に「源にもどる」という姿勢が強かったと言えます。第二神殿期のユダヤ教社会では、天地創造の神の信仰を表す書物が無数に現れました。その中で、ある書物については、その権威は疑いようがないと見なされて、選別されて旧約聖書に収まって行きました。セプトゥアギンタには、マゾレットのテキストにない書物も含まれていますが、それらの、いわゆる外典アポクリュファに属する書物もユダヤ教社会のある時代のある部分では権威的な書物とみなされたわけです。
それでは、何の書物が聖書に入れてもいいくらいに権威がある書物で、ある書物はそうみなされなかったのか?みなされなかった書物には、モーセやエノクのような名を冠した書物や旧約の人物が登場する書物が多数あります。本説教の関連で言いますと、こういうことです。ある書物が別の書物を引用していると、引用された方がもとにあるので権威があるとみなされるということがありました。もちろん、旧約聖書の書物同士の間でも互いに引用し合っていることが多くあります。それでも、創世記5章に登場するエノクの名を冠している書物が、例えばイザヤ書とかダニエル書を引用していれば、ああ、これはエノクの時代に出来た書物ではない、と誰でもわかるのであります。
このように、書物が書かれた時代ということに矛盾がなく、後の時代に引用される頻度が高いと権威ある書物とみなされるのです。そのように、権威ある書物を確定する姿勢は、極めて「源に遡る」ものであったと言えます。
新約聖書でも同じことが言えます。ここでは、パウロも含めた使徒の信仰の伝統が権威になります。使徒教父たちの文書は、福音書や使徒書簡を豊富に引用しています。それらの文書は新約聖書に入れる必要はなかったのです。ところで、新約聖書に収められている書物の他に、トマスやペテロやマリアの名を冠した福音書があります。数年前にはユダの名を冠する福音書が発見されて、話題になりました。しかし、それらは使徒の信仰の伝統から外れる思想を代表していると見なされたので、聖書に入れなかったのでした。それらは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書同様、イエス様の言行録を含んではいますが、4つを材料にしつつ、使徒の信仰とは別種の信仰でイエス様の言行録を塗り替えたものだったのです。
このように、新約聖書の成立に携わった人たちの姿勢は、使徒の信仰の伝統を権威の源にして、無数の書物やいろんな思潮が溢れるジャングルの中を源に向かって遡って行ったのでした。こうして見ると、世界のいろんな宗教は逆の流れを行っているように思えます。例えば、イスラム教は旧約聖書と新約聖書に依拠していると言われますが、イエス様の役割は全く別のものに変えられています。イスラム教に限らず一般には、古いものを新しいものに塗り替えた方が、古いものよりも進歩して優れた感じを持たれるのではないかと思います。でも、それは源に遡るということでなく、源からどんどん離れて行くことで、それは旧約聖書や新約聖書の根本にある姿勢とは相いれないのです。
3.
実はルターの宗教改革にも「源に遡る」という側面があることに注意しなければなりません。「宗教改革」は英語、ドイツ語、スカンジナヴィアの言語ではみな同じ言い方をします。Reformationです。フィンランド語では一風変わっていてuskonpuhdistus「信仰浄化」という言い方がされます。Reformationという言葉をみてみますと、formation「形作ること、形成すること」に「し直す」の意味を持つreがつきます。「形作り直すこと、形成し直すこと」です。
それではキリスト教の何をどう形作り直す、形成し直すのかというと、以下のようなことです。カトリック教会はもともとは使徒の信仰の伝統を守り受け継ぐ教会として出発しました。ところが時代の変遷と共に聖書に基づくとは言えない制度や慣行も生み出されて、それが権威ある伝統と化していき、贖宥状はその最たるものでした。ルターが行おうとした改革運動は、そういう聖書に基づかずに人間が編み出したものを捨てて、ただ神の御言葉である聖書のみに権威を認めて、その下に教会を成り立たせようとするものでした。これがキリスト教とその教会を形作り直す、形成し直す、ということです。フィンランド語で宗教改革を「信仰浄化」というのは、まさに神の御言葉にのみ権威を認めて、聖書に基づかずに人間が編み出したものを捨てていくという面を前面に出していると言えます。
一般には「改革」という言葉は、過去の古いものをやめて新しいものにとって替えて時代の要請に応えられるようにするという理解がされると思います。日本語で行政「改革」とか教育制度「改革」という時、それを英語に直すとreformを使います。そういう政治的社会的な「改革」は、reformationを使わずにreformを使うのです。ところが宗教「改革」はreformではなく、reformationです。注意が必要です。(徳善先生のルターの本では、reformとreformationの違いを説明するとき、建物や家の改築を引き合いにだしていますが、昔社会科学を学んだ私としては、政治的社会的な改革との比較で見た方がしっくりします。)そういうわけで、日本語で同じ「改革」という言葉を使うからと言って、政治的社会的な改革と宗教改革を同じように考えてはいけないと思います。ルターの行った宗教改革とは、ただ単に過去の古いものをやめて新しくして時代の要請に応えたというような改革ではなかったのです。
前述しましたように、ルターの場合は、まず聖書という過去に成立した根源的な権威に立ち返り、聖書に基づかないで人間が編み出したものを捨てていく、そのようにして聖書の権威に立ち返ろうとする時にそれを邪魔するものを打ち破っていく、その結果として時代の行き詰まり状況を打ち破って新しい地平線が開けた、これがルターの改革の本質ではないかと思います。このように宗教改革は「改革」とは言いつつも、根源的な権威に立ち返るという方向性があります。ルターは聖書を研究する際には新約聖書はギリシャ語、旧約聖書はヘブライ語の旧約聖書を用いましたが、根源的な権威に立ち返ろうとすれば原語にあたろうとするのは当然のことでしょう。
そういうわけで、もしキリスト教会が人間の編み出したものに縛られ出した時には、使徒の信仰の伝統を守りギリシャ語とヘブライ語の聖書に依拠する者は宗教改革を起こせる可能性を持っていると言うことができます。ただ原語が堪能なだけでも不十分です。エラスムスもギリシャ語がよくできました。原語の能力に加えて、使徒の信仰の伝統を受け継ぐという姿勢がなければなりません。加えて、過去の権威に遡るというのは、単純に2000年前の言い回しをすればすむということでもありません。2000年の間に人類が蓄積してきた有形無形のものに立ち向かい、相手が何者であるか知りながら、行く手を阻むものを一つ一つ打ち倒して源に向かって進まなければなりません。ルターだって、単純に一足飛びに使徒の時代に戻ったのではありません。1500年の間の蓄積に立ち向かい、実在論と唯名論の問題を自覚し、エラスムスの人文主義と対決し、キリスト教神学からアリストテレス哲学の縛りを解き放つことをしながら、使徒の信仰の伝統を彼の時代に蘇らせたのです。
最後に、Ecclesia semper reformanda estというスローガンがあります。K.バルトの言葉らしいのですが、教会は絶えず改革されるべきものである、という意味です。その「改革」が意味するものは、以上申し上げたことを念頭に置いて、ルター派としては、政治的社会的な改革と一線を画することをわきまえなければなりません。従って、ルター派としてはこのスローガンは、「教会は絶えず宗教改革的に改革されるべきものである」と銘記すべきです。これからのルター派教会を担う皆さんが、このような仕方で宗教改革を担えるよう願ってやみません。皆さんの学びと研鑽と日々の信仰生活の上に父なるみ神から豊かな祝福と良い導きがありますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン