2022年11月22日火曜日

イエス様と一緒に十字架にかけられた犯罪人の信仰 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年11月20聖霊降臨後最終主日)スオミ教会

 

エレミヤ書23章1-6節

コロサイの信徒への手紙1章11-20節

ルカによる福音書23章33-43節

 

説教題 「イエス様と一緒に十字架にかけられた犯罪人の信仰」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.メシアと神の国

 

 本日の福音書の個所はイエス様が十字架にかけられた場面です。イエス様の両側に犯罪人が二人、一人は右側に、もう一人は左側に十字架にかけられました。三人とも五寸釘を両手首と重ねた足首に打ち付けられています。イエス様は既に拷問を受けていて血みどろです。三人とも激痛の中を苦しみ悶えています。後は息を引き取るのを待つだけです。真に残酷な場面です。

 

 犯罪人の一人がイエス様を罵って言いました。お前はメシアなんだろう?だったら、自分と俺たちを救ってみろ!と。この男は、イエス様のことをメシアと言いましたが、メシアとは何でしょうか?普通は救世主を意味すると言われます。この男の人は救世主の意味で言ったのでしょうか?メシアはもともと聖別の油を頭に注がれた者を意味しました。ユダヤ民族の王様は代々、油を注がれる儀式を受けて王位につきました。イエス様の十字架の上には「この男はユダヤ人の王」という札が掲げられていました。メシアはユダヤ民族の王の意味があったのです。そのため彼の十字架刑は、当時ユダヤ民族を占領下に置いていたローマ帝国の官憲にとっていい見せしめになったでしょう。本当に王かどうかはどうでもいい、俺たちに盾突くとこうなるぞ、という具合に。

 

 このようにメシアにはユダヤ民族の王という意味があり、特にイエス様の時代には、将来ダビデ家系の王様が現れてユダヤ民族を外国支配から解放して王国を復興させてくれるという期待が抱かれていました。イエス様はそういう民族解放の英雄に見られていたのです。ところが当時、このような民族解放と王国復興の期待について少し異なる期待の仕方もありました。どんな期待の仕方かと言うと、復興される王国というのは、民族自決国家というようなこの世的な国を超越した国という期待です。それは、今の天と地に取って代わって新しい天と地が創造される時に現れる神の国のことでした。それをメシアが王として君臨するというのです。それは、この地上の有り様を飛び越え新しい有り様の世のことです。さて、地上の国か、超越した国か、旧約聖書にはどっちにも取れる箇所が沢山あります。それで、イエス様の時代のユダヤ民族にはこの世的でない超越的な王国とメシアに対する期待を抱く人たちもいたのです。その証拠に、聖書には収められていない数多くのユダヤ文書の中にはそのような期待が記されていました。イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事は実に、神の国が地上の国ではなく将来の新しい有り様の世であることをはっきりさせたのです。

 

 イエス様を罵った犯罪人は、イエス様のことを地上の王、民族解放の英雄の意味でメシアと言ったと思われます。民族の英雄と祀り上げられておきながら、なんだこのざまは、ということだったのでしょう。十字架の近くで見物していたユダヤ教社会の指導者たちも同じでした。ところが、もう一人の犯罪人はこう言ったのです。「イエスよ、あなたがあなたの御国に入られる時に私を思い出して下さい。」つまり彼は、もうすぐ息を引き取ってこの世から別れることになっても、イエス様の方は「あなたの御国」、つまりイエス様が王である国にイエス様が入ると信じたのです。メシアが君臨する国はこの地上の国ではない、今の世を超えたところにある国であり、イエス様はその王であると信じたのです。つまり犯罪人は超越的な国とメシアの存在を信じたのです。

 

 それに対してイエス様は「お前は今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えました。この答えはよく注意して見ないといけません。「今日一緒に楽園にいる」と言うと、今十字架にかけられて苦しみ悶えているのにそれがどうして楽園にいることになるのかという疑問が起きます。なんだか苦しみを和らげるための気休め言葉か、イエス様みたいに権威のある方が言えば、苦しみの中にあっても耐えられるありがたい励まし言葉ということなのか?そういうことではありません。ギリシャ語原文で「楽園にいる」と言っているのは未来形です。それなので今は苦しみ悶えているが、今日中の内に一緒に楽園にいることになる、と言っているのです。息を引き取ってこの世から別れたら一緒に楽園にいることになる、ということです。

 

 そう言うと今度は、あれ、キリスト信仰では復活というのがあって、神以外誰も知らない将来の時、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に再創造される、その時、イエス様の再臨と最後の審判が起こって、神に義と認められた者は神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠に神の御許に迎え入れられる、認められない者は永遠の炎に投げ込まれる、そういうことが起こるのではなかったのか?そういうプロセスを経て天の御国に入ることが出来るのではなかったのか?今日中に楽園にいることになると言ってしまったら、プロセスはなくなってしまうのではないか?

 

 この疑問は、ルターが復活について教えていることを思い出すと解決できます。ルターによれば、人間はこの世から別れた後はイエス様が再臨する日まで安らかな眠りにつく。たとえ眠った時間は地上にいる人間から見たらどんなに長くても、眠っている本人にしたら、目を閉じた瞬間に目を覚ませられるようなもので、その間の眠りの時間は瞬きの一瞬にしか感じられないと。それなので、イエス様が今日中に楽園にいることになると言っても、最後の審判や復活の日までの期間は全部入っているので間違いではありません。

 

2.犯罪人の罪の告白と赦しの宣言

 

 イエス様に「私のことを思い出して下さい」という犯罪人の言葉ですが、これはよく目を見開いて何度も読んでみると、これはキリスト信仰者が行っている罪の自覚と告白それに信仰者が受け取る罪の赦しが全部出そろっていることがわかります。

 

 最初の犯罪人がイエス様を罵った時、彼は諫めて言いました。「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。」この訳は不十分です。ギリシャ語原文を忠実に見るとこうなります。お前がこの方と同じ罰を受けているからという理由で、この方をお前と同等に扱うようなことを言うなんて、お前はなんと大それたことを言うのか、お前は神を恐れないのか、という意味です。ユダヤ教社会の指導者たちもローマ帝国の兵士たちも、イエス様に対して「お前がユダヤ人の王なら自分を救ってみろ」と繰り返し言っていました。この犯罪人はイエス様に対して「自分を救ってみろ」だけではなく、「自分と俺たちを救ってみろ」と、自分たちのことも入れたのです。

 

 これに対してもう一人は、それは間違っている、神を冒涜することになると否定したのです。なぜなら、自分たちは犯罪を犯して刑罰を受けて当然の報いを受けている、しかし、イエス様の場合は何も悪いことをしていないのに自分たちと同じ刑罰を受けている、だから同等に扱うのは間違っているというのです。そして、その犯罪人は、イエス様がこの世の王国を超えた新しい世の王であると信じています。別の犯罪人と指導者たちは、メシアはこの世の王国の王のことで、イエスはそれになるのに失敗したという見方です。しかし、こっちの犯罪人は、イエス様は新しい世の王でもうすぐそこに入ることになると信じています。イエス様は何も失敗していない、今、人間的な目では全てが失敗で恥と痛みと苦しみしかないが、実は紙一重で全然違うことが待っている。イエス様には何か人間の理解を超えた大きなことが起こる。今、神の計り知れない計画が行われている。イエス様のことを自分たちのように本当に犯罪を犯して罰を受けている者と同等に扱うのは神を冒涜することになる、と。

 

 この犯罪人にはイエス様が王として新しい世の国に入ることが見えていました。しかし、自分は犯罪を犯して刑罰を受けてしまった。イエス様に、私も一緒に御国に入らせて下さいなどと言える資格はないことは百も承知です。それで、御国に入られる時に私を思い出して下さい、というのが精一杯でした。これは、自分が罪びとであると告白していることになります。自分は落第だと認めているからです。しかし同時に、御国に入ることは許されなくても、心の片隅でもいいですから私のことを覚えておいて下さい、と最小限の憐れみを乞うているのです。罪の赦しをお願いしているのです。これに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?イエス様はなんと、大丈夫、一緒に御国に入れるよ、とおっしゃったのです!最小限の憐れみどころが、最大限のお恵みを与えたのです。罪の赦しのお恵みです。神の御国に入れるというのは罪が赦されたということです!死を間近に控えた絶体絶命の時にこのような言葉をかけて下さる方がおられるというのは何と勇気づけられることでしょうか!

 

 この犯罪人の罪の告白と彼が受けた罪の赦しは、キリスト信仰者が行う罪の告白と受ける罪の赦しそのものです。方や犯罪人、方やキリスト信仰者、果たして同じと言えるのか?疑問を抱く方がおられるかもしれません。同じだとわかるために、ここで少し罪と罰の問題を考えてみます。キリスト教は罪を赦すと言っているから、犯罪を犯しても罰を与えないということなのか?それでは犯しても構わないということにならないか?などと聞く人がいます。そういうことではありません。神は十戒で殺すな、盗むな、等々と命じています。それらは神の意志なのでやってはいけないこと、許されないことなのです。やったら神の意志に反したので罰せられることなのです。

 

 社会の法律が罪や罰について規定する時、それは人間が人間に対して行った罪についてです。人を傷つけたら、それは人間に対して罪を犯したことになり、法律が想定している社会の安定を損ねたことになります。それに対して賠償なり刑罰が課せられます。課せられる賠償や刑罰の大きさは社会によって異なり、何が妥当かについて議論は絶えず起こります。キリスト信仰の場合、罪は人間に対して犯したというだけでなく、人間に対して犯したことを通して神に対して犯したということが出てきます。神に対する罪の罰は神罰です。神罰とは、人間が造り主である神と切り離された状態でこの世を生きなければならないということです。そして、この世から別れた後は切り離された状態が永遠のものになってしまうということです。

 

 社会の罪と罰とキリスト信仰の罪と罰の違いについて、神に対する罪ということの他にもう一つ重要なことがあります。それは、殺すな、姦淫するな、盗むな、等々の神の掟は、行動だけでなく心の中でも破ったら、同様に神に対して罪を犯したことになり神罰の対象になるということです。法律の規定だけでしたら、人間に対する罪は行動や言葉で現れるものが罰の対象になります。キリスト信仰の場合は心の中で神の意志に反するものを抱いたら、それでもう神罰の対象になるのです。人間は心の中まで見通せないので法律をもってしても心の中にあるものを罰することはできません。キリスト信仰では神は人間を造られた方なので心の中も全てお見通しです。神の意志に反することが心の中にあれば、それも罪になり神罰の対象になるのです。

 

 しかし、人間が神罰を受けることは神の御心ではありませんでした。神は人間が自分との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげたい、この世から別れる時も自分との結びつきを持ったまま別れられるようにしてあげたい、別れた後は復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに迎え入れてあげたいと思いました。それを可能にするためにひとり子のイエス様をこの世に贈られたのです。神はイエス様に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上にまで運ばせて、そこで神罰を下して彼を死なせました。神のひとり子が人間の全ての罪を償うことで、その犠牲の死に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。そればかりではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、人間のために永遠の命に至る道を開かれたのです。

 

 そこで人間が、これらのことは本当に起こったことだ、それでイエス様は自分の救い主なのだ、と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、その人は神から罪を赦された者として扱われるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ってこの世を生きていくことになります。復活の日に神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を与えられる地点に向かう道を進んでいくことになります。この神との結びつきは逆境の時でも順境の時となんら変わらずにあります。それでいつも状況に応じた守りと導きを得られます。この世から別れた後も結びつきはそのままなので、復活の日が来たら目覚めさせられて神のみもとに永遠に迎え入れられます。

 

 ところで、神から罪を赦された者として扱ってもらえるとは言っても、信仰者から罪が全く消え去ったわけではありません。心の中に神の意志に反するものがいつも渦巻いています。それに気づいた時、キリスト信仰者は失望したり不安に陥った時には絶望しそうになります。しかし、信仰者にはいつも引き上げてくれるものがあります。ゴルゴタの十字架です。あそこに自分の罪の罰を代わりに受けて下さった方がおられる。神の壮大な計画によってあの十字架が歴史上に打ち立てられた以上は、あの方は自分の救い主であり続け、神は私のことを罪を赦された者として扱って下さるとわかります。もう失望や不安や絶望に浸る必要はないのです。そのようにしてキリスト信仰者は罪の自覚を持ち、それを告白するたびに神から罪の赦しを受ける、これを繰り返しながらこの世の道を進んでいきます。繰り返しがあるのは、自分にはまだ罪が残っていることを意味しています。しかし、繰り返しをするのは、自分は罪と敵対している、神の罪の赦しのお恵みの力で罪と戦っていることを意味します。この繰り返しは、復活の日、神の御国に迎え入れられる日に完全に終結します。

 

3.神の祈りの学校

 

 本日の福音書の個所は、犯罪人が息を引き取る寸前に罪を告白して赦しを受けたという出来事です。それに関連して、ある方が言われたことを思い出しました。その方はキリスト信仰者ではないのですが、ミッション系の学校に通ったことがあり、聖書のこともよくご存じの方でした。ある日、その方に洗礼を受ける考えがあるか尋ねたところ、自分は死ぬ寸前にイエス様助けてと言うからそれで十分、今は縛られないで生きていたいということでした。確かに、本日の福音書の個所の犯罪人の例があるので、最後の瞬間の前にイエス様を救い主と告白すれば天の御国に迎え入れられる可能性も否定できません。しかし、ここには考えなければならないことが二つあります。

 

 まず、洗礼を受けると聖霊が授けられるということがあります。少し別の言い方をすると、洗礼によって聖霊が常駐するようになるということです。人間は聖霊の力が働かないとイエス様を自分の救い主と信じることはできない、理性だけではできない、というのがキリスト信仰の立場です。理性だけですと、イエス・キリストは過去の歴史上の人物に留まります。イエス様には現代を生きる人にとって何か感銘を与える思想と行動があるので、それで興味と共感を覚える人もいます。しかし、それはまだ理性止まりです。それだけですと、イエス様のことを、自分がこの世と次に到来する世の双方の世を生きられるようにしてくれる救い主とは考えません。イエス様をそのような救い主であると分かりだすのは聖霊が働いているからだというのがキリスト信仰の立場です。洗礼を受けるとこの働きをする聖霊が腰を据えて留まることになります。洗礼を受けないでいると、一時イエス様と大いなる人生についての真理を垣間見ることがあっても、すぐ見えなくなります。この世にはいろんな霊が跋扈しているからです。本日の犯罪者の場合は、他の霊が入り込む隙がない位の最後の瞬間でした。このように最後の瞬間の告白で十分だとする考え方の問題点は聖霊を持てないということです。

 

 もう一つ問題点があります。それは、「神の祈りの学校」の生徒としての研修期間がなくなってしまうということです。「祈りの学校」はフィンランドのキリスト信仰者の間で口にされる言葉の一つです。どんな学校かと言うと、キリスト信仰者は学校の生徒のようなもので、いろんなことを通して神から教えられる、例えば、祈っても願い通りにならずに失望や挫折もあるかもしれない、しかし、そういうことを通しても神は人間の願いよりも大きなことを教え、そういうやり方で人間を成長させ鍛えて下さる、信仰生活とはそんな実践的な学びの場であるということです。実践的な学びを通して神がどんな方であるかを知ることができます。研修期間が長くて神のことを知れば知るほど、神は本当に信頼に値する方であり、この方が共にいて下されば本当に何も恐れることはないということがわかります。そういうわけで、神の祈りの学校の在学期間が長ければ長い程、この世から別れる時、これから自分の全てを委ねる方はどんな方なのかがよくわかっています。とても身近な存在になっています。在学しないで私は最後の時に委ねるからいいです、と言うのは、神がどんな方かまだよくわからず、まだ身近な存在になっていないで委ねることになります。その時、安心して自信を持って委ねることができるでしょうか?委ねる方がどんな方か自分でよくわかっていて身近な存在になっている場合の方が安心して自信を持って委ねることができるのではないでしょうか?

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

2022年11月14日月曜日

我らの救いは、神が我らを受け入れるイニシアチブを我らが受け入れることにあり (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年10月30日(聖霊降臨後第21主日)スオミ教会

 

イザヤ書1章10-18節

テサロニケの信徒への第二の手紙1章1-4、11-12節

ルカによる福音書19章1-10節

 

説教題 「我らの救いは、神が我らを受け入れるイニシアチブを我らが受け入れることにあり」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課は徴税人ザアカイについての話です。徴税人についての話は先週もありました。エルサレムの神殿で徴税人が神に罪を告白する祈りをしたという話です。ただそれは、イエス様のたとえの教えだったので架空の人物でした。今日の話は、イエス様がエルサレムに向かう途上で通りかかったエリコという町で実際に起こった出来事です。架空の話と実際に起こった話といういう違いはありますが、本日の話は先週の話と繋がっています。

 

 どう繋がっているかと言うと、イエス様は先週のたとえで、神に義とされる者、つまり神に相応しいとされる者は、自分が罪深い人間であることを認めて神に憐れみと赦しを心から祈れる者であると教えました。そこでイエス様は、神の掟をちゃんと守って神に相応しい者になれるというやり方を否定したのです。果たして、人間は神に自分の罪を告白して赦しを乞う祈りで神に相応しいとされるのか?その通りであることを私たちにわからせるためにイエス様は十字架と復活の業を成し遂げられたのです。それで、十字架と復活の出来事の後は、人間は十字架にかけられたイエス様を心の目で見ることができれば罪が赦されて神に相応しいと認めてもらえるようになったのです。そうなるために私たちは神のみ前で自分が罪ある者であると認めて赦しを祈らなければならないのです。それなので、神に相応しいと認めてもらう際には掟を守ることには意味がないのです。意味があるのはイエス様の十字架と復活の業とそれを人間が受け入れることなのです。そういうわけで先週のイエス様の教えは、十字架と復活の出来事の後の正しい祈り方を前もって教えるものだったのです。

 

 本日の個所は、イエス様のおかげで神に相応しいと認められたら、続いて何が起きるかということを示しています。何が起きるかと言うと、神の意志に沿うように生きようという心が生まれるということです。今日はこのことを見ていきます。最初に注意すべきことを述べておきます。イエス様が「今日、救いがこの家を訪れた」と言っているところです。二つのことに注意します。一つは「救い」とは何かということです。普通、病気とか何か困難や苦難が解決したり解消したりすると「救われた」と言います。ところがキリスト信仰では、「救い」はこの世の人生を天地創造の神と結びつきを持って生きられることです。また、この世の人生を終えた後は復活の日に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて神の御許に迎え入れられることでもあります。それで今はそこに至る道を神との結びつきを持って歩めることが「救われている」ことになるのです。道の歩みの上で病気になったりいろんな困難や苦難に遭遇します。しかし、なかなか解決が得られなくても、神との結びつきを持てて復活を目指して歩んでいる限りはキリスト信仰者は「救い」がなくなったなどと考えません。「たとえ死の陰の谷を往くとも、我、禍をおそれじ、なんじ、我と共に在せばなり」という詩篇23篇の心意気でいるのがキリスト信仰者です。

 

 もう一つの注意事項は、イエス様が「今日、救いがこの家を訪れた」と言ったのは一見すると、ザアカイが財産を貧しい人に施します、だましとったお金は4倍にして返しますなどと改心したことに対するご褒美として言ったように聞こえます。それで、救いは善行の見返りとして与えられるという見方が生まれると思います。ところが、全然そうではないのです。先週も見たように、イエス様は掟を守ったり何か良いことをして神に相応しいと認めてもらうやり方を否定しました。今日の出来事もその延長線上にあります。このことがわかるためには、この個所を先週の個所とあわせて何度も何度も読み返さないとわかりません。一回読んでわかったような気分でいると、イエス様が本当に教えようとしていることと反対の理解になってしまいます。

 

2.葛藤する徴税人たち

 

 神に相応しいと認められたら、今度は神の意志に沿うように生きようとする心が生まれるということを、これから本日の個所をもとに見ていきます。その前に、徴税人について先週お話ししたことを少し復習しておきます。徴税人とは、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人たちです。彼らは決められた徴収額以上に取り立てて私腹を肥やすような人たちでした。それなので、占領国の権力をかさに不正を働いていた徴税人は同胞の裏切り者とみなされて憎まれていました。

 

 そうした一方で、福音書に登場する徴税人たちは貪欲で悪質なタイプとは少し様子が違うことにも気づかされます。ルカ3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが神の裁きの日が近いことを人々に告げ知らせています。ヨハネの宣べ伝えを信じた大勢の人たちが、自分たちの神への立ち返りを確かなものにしてもらおうと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループがいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねます。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは神の裁きを恐れ、神に背を向けて生きていたことを認めて、それをやめて神のもとに立ち返らなければならないと思ったのです。それで、そのために何をすべきかと聞いたのです。先週の徴税人の場合は、何をすべきかと聞くどころか、ただ「赦して下さい」と神に憐れみを乞うだけです。どちらも、それまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。この他にも、マルコ2章にレビという名の徴税人が登場しますが、イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てたということです。

 

 以上のように福音書の記述から当時、徴税人の間では、どれくらいの割合かはわかりませんが、神に背を向けていた生き方をやめなければ、神のもとに立ち返らなければといういう気運があったことが読み取れます。本日のザアカイも、イエス様に並々ならぬ関心があったことからすると、洗礼者ヨハネの宣べ伝えが影響を及ぼしていたと考えられます。ヨハネは、もうすぐ神の裁きの日が来る、誰も逃れられない、だから神に背を向けて生きる生き方をやめて神に立ち返る生き方をしなさいと宣べ伝えました。同時に、自分の後に偉大な方が来られるとも宣べました。それがイエス様でした。イエス様は奇跡の業をもって来るべき神の国の実在を示し、自分が罪の赦しの権限を持つことを示されました。その時はまだ十字架と復活の出来事が起きる前でしたが、神の裁きを心配した人たちにとってイエス様は救いの道を示して下さる希望の光に映ったでしょう。

 

3.ザアカイ、イエス様を受け入れる

 

 イエス様が弟子たちと大勢の支持者たちを従えてエリコの町に入ってきました。ザアカイはイエス様を一目見たいと思いましたが、背が低かった上に群衆に遮られて見ることができません。それで先回りして木に登り、上から見ることにしました。そこをイエス様一行が通りかかります。イエス様はザアカイに気づいて彼を名前で呼びます。さすが神のひとり子です、まだ会ったことのない人の名前をご存じでした。ということは、ザアカイがどんな素性の者かもご存じだったでしょう。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」当時は一緒に食事するというのはとても強いきずながあることを意味しました。それで、「なんであんな罪びとの家に?」と言う周囲の不満や失望は理解できます。

 

 ここから先ですが、一回読むと、ザアカイが財産を分け与えますとか言うところは、まだいちじく桑の木の下でのやり取りのように見えます。しかし、よく目を凝らして何度も読むと、木から降りたザアカイは喜んでイエス様を迎えたので実際は家に連れて行ったのです。ギリシャ語原文を見ても、群衆はイエス様の滞在中ずっとぶつぶつ言っていたという書き方です。それなので8節の「ザアカイは立ち上がって」というのは、イエス様が家から出発する場面と考えられます。「立ち上がって」とありますが、ザアカイが座った状態から立ち上がったみたいですが、そうではありません。ギリシャ語の言葉は立っている状態でも使われる言葉なので「立ち上がる」と訳すのは誤りです。どんな日本語に直せるのかは少し難しいですが、感じとしては、これから喋る人にスポットライトを当てるような感じです。ここは「イエス様と向かい合って」という意味でしょう。

 

 以上から、ザアカイは、イエス様の呼びかけを聞いて木から降りて、イエス様を家に迎え入れて一緒に過ごす時を持ちました。そこでイエス様の人となりを見、その言葉を聞いたでしょう。どんな言葉であったかはルカ福音書には記されてはいないのでわかりません。しかし、大事なのはイエス様を受け入れて一緒の時を持った後で、財産の半分を貧しい人々に分け与える、だましとったものを4倍にして返すという決心をしたということです。その後でイエス様は、「今日、救いがこの家を訪れた」と言いました。ザアカイの決心の背景には、イエス様を自分のもとに受け入れたことがあります。このことに気づくと、ザアカイはイエス様から救いを保証してもらうために決心したのではないことがわかります。それで今度は、ザアカイがイエス様を受け入れたことを少し詳しく見てみます。

 

4.神とイエス様の側の受け入れ

 

 ザアカイがイエス様を受け入れて家に招く前に、イエス様がザアカイを受け入れて家に招くようにと命じていました。つまり、イエス様が最初ザアカイを受け入れザアカイはそれに応じたのです。イエス様の受け入れを受け入れたのです。イエス様がザアカイを受け入れる前、ザアカイの方では特にイエス様に受け入れられるというつもりはなく、ただイエス様を一目見たいというだけでした。その時のザアカイは金には全く不自由しないという羽振りの良さでしたが、民族の裏切り者、罪びとの最たる者というレッテルをはられていました。金さえあれば、そんな不名誉は痛くもかゆくもないという態度だったと思います。そこに洗礼者ヨハネが現れて神の裁きと神への立ち返りということが公けに言われるようになりました。神の裁きが起これば、いくら金を積んでも何の役にも立たないこと位はザアカイにもわかったでしょう。実際、大勢の徴税人たちがヨハネのもとに行って洗礼を受け、徴税人を辞める者さえ出ていたのです。さあ、自分はどうしたら良いか?

 

 その時、このエリコの町にあのイエスがやって来ると聞きつけます。あの、洗礼者ヨハネが自分の後に来る偉大な方と言っておられた方、数多くの奇跡の業を行い、いつの日か到来する神の国について教え、また罪の赦しの権限を持つと自ら言われる方、その方が今来られるのだ。ザアカイが関心を抱くのは当然でしょう。ただ木の上から見ることができたらその後のことは何も考えていなかったでしょう。ところが、そのお方が彼に目を留め、名前で呼び彼の家に立ち寄りたいなどと言ったのです!イエス様は、心に葛藤を抱えていたザアカイを見つけて彼を呼びました。イエス様は心に葛藤を抱えていた彼、まだ善い行いをするに至っていない彼をそのまま受け入れたのです。ザアカイはその受け入れに応じたのです。その後でイエス様と共に過ごす時を持ち、その後で財産を捨てる決心をしたのです。全てはイエス様が悩む彼を受け入れたことから始まったのです。

 

 イエス様が悩む者を受け入れるとその人に新しい心が生まれるというのはキリスト信仰にそのまま当てはまります。もっと正確に言うと、イエス様が受け入れてくれたことに応じる、つまりイエス様の受け入れを受け入れることで新しい心が生まれるのです。まさにザアカイがその模範例となりました。先週もお教えしましたようにキリスト信仰では、神の掟を守ったり善い業を行ってそれで神に認められる、神に相応しいとされるという考え方をしません。人間には神の意志に反しようとする性向、罪があるので神の意思に完全に沿うことが出来ないのです。

 

 ではどうしたらよいのか?そのままでは人間は救われない状態に留まってしまいます。それを分かっていた神は、それでひとり子のイエス様をこの世に贈られたのです。イエス様は人間の全ての罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けられました。罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったのです。神はこのイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。私たちの造り主である神のもとに戻れる道が開かれたのです。人間は、これらのことは全て神が自分のためになして下さったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪が償われたから神から罪を赦された者と見なしてもらえます。

 

 こうして人間は、イエス様が果たして下さったことと彼を救い主と信じる信仰のおかげで神に相応しいとされ、神との結びつきを持ってこの世を歩み始めます。歩む先は、復活の体と永遠の命が待っている神の御国です。キリスト信仰者はそこに至る道に置かれて、その道を歩んでいくのです。神との結びつきがあるので逆境の時も順境の時と変わらない助けと良い導きを神から得られます。また、この世を去った後は、復活の日までのひと眠りの後で目覚めさせられて神の御許に迎え入れられます。このようなこの世と次に到来する世にまたがるような大きな救いを、ひとり子を犠牲にしてまで与えて下さった神に私たちはただただひれ伏して感謝し、これからは神の意思に沿うように生きようと志向し出します。その時、神の掟を守り善い業を行うことが当然のことになります。そこでは、掟を守ることや善い業を行うことは神に認めてもらうための手段ではなくなっています。こっちは何もしていないのに神に先回りされて先に認められてしまったので、その結果そうするのが当然という心になってするのです。

 

 このイエス様の十字架と復活の業が実は神が人間を受け入れる業だったのです。もし神が罪を持つ人間など絶対受け入れないという態度だったら、ひとり子を贈って十字架と復活の業を成し遂げさせることなどはしなかったでしょう。人間を受け入れるから贈ったのです。そしてその次に大事なのは人間がその神の受け入れに応じるかどうかです。神の受け入れを人間が受け入れるかどうかです。人間が神の受け入れに応じて受け入れるというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということです。神の受け入れを受け入れた者は、神との結びつきを持って復活の日に至る道を歩み始めます。初めにも申しましたように、本当に「死の陰の谷を往くとも、我、禍をおそれじ、なんじ、我とともに在せばなり」になるので、もう安心と信頼しかないという感じになります。それで神の意志に沿うように生きるのが当然という心になります。

 

 ただし、キリスト信仰者といえども、この世で肉の体を纏って生きている以上は神の意志に反する罪をまだ持ち続けます。しかし、信仰者は神の受け入れを受け入れたので神から相応しい者とされます。ひとり子のイエス様のおかげでそのように見てもらえると思うと、畏れ多い気持ちと感謝の気持ちで一杯になり、神の意思に沿うようにしなければと襟を正します。そうなるとかえって神の意思に敏感になりますが、まさにそのために「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という先週の徴税人の祈りがあるのです。そして祈りは必ず聞き遂げられるということは、心の目をゴルゴタの十字架に向けられる時にわかります。あそこに首をうな垂れたあの方がおられる。その肩の上に私たちの罪が重くのしかかっている。このことを確認できれば、私たちは大丈夫であることが厳粛にわかります。

 

 ザアカイの場合は、もちろん、十字架と復活の前の出来事なので、イエス様のことを復活の救い主と信じる信仰も洗礼もまだありません。しかし、ザアカイが辿ったプロセスにはキリスト信仰の原型があります。まず神は、葛藤を持つ私たちを受け入れて下さる。イエス様はザアカイを名前で呼んで受け入れました。神はイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせることで私たちを受け入れてくれました。イエス様に受け入れられたザアカイは、その受け入れに応じてイエス様を自分の家に迎え入れました。私たちは、神の受け入れを信仰と洗礼をもって受け入れて神と御子を心の中に迎え入れます。ザアカイはイエス様の受け入れを受け入れて、彼の人となりを見、その御言葉を聞いて、神の意志に沿うように生きようとする心を持ちました。私たちも、神の受け入れを受け入れて聖書の御言葉を通してイエス様の人となりを知り御言葉を聞くことで神の意志に沿うように生きよう、神を全身全霊で愛そう、隣人を自分を愛するがごとく愛そうという心を持つようになります。

 

 このようにイエス様がまずザアカイを受け入れて、ザアカイもイエス様の受け入れを受け入れて、その結果、神の意志に沿うように生きようという心になった、イエス様はこのプロセス全部を指して「救いが訪れた」と言われたのです。私たちの場合も同じです。神がイエス様の十字架と復活の業を通して私たちを受け入れて下さった、この神の受け入れを私たちが信仰と洗礼で受け入れる、その結果、神の意志に沿うように生きようという心になる、このプロセスにあれば私たちに「救いが訪れた」ことになるのです。

            

             我らの救いは、神が我らを受け入れるイニシアチブを我らが受け入れることにある。

             救いは我々が何かを成し遂げた褒美として与えられるものではない。

             我々は善い業を神のイニシアチブを受け入れた後でするようになるのである。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2022年11月11日金曜日

最後の審判をクリアーできる祈り (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)


主日礼拝説教 2022年10月23日(聖霊降臨後第20主日)スオミ教会

 

エレミヤ書14章7-10、19-22節

テモテへの第二の手紙4章6-8、16-18節

ルカによる福音書18章9-14節

 

説教題 最後の審判をクリアーできる祈り

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに - 神のもとに立ち返る徴税人たち

 

福音書には、徴税人と呼ばれる人たちがよく登場します。どんな人たちかと言うと、名前の通り、税金を取り立てる人たちです。福音書に出てくる徴税人は、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人です。占領された国民の中に占領国に仕える人たちがいたということです。どうして仕えたかというと、徴税の仕事は金持ちになれる近道だったからです。福音書をよく読んでみると、徴税人たちが決められた徴収額以上に取り立てていたことがわかります。ルカ福音書3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱責する場面があります。そこでヨハネは彼らに次のように言いました。「規定以上のものは取り立てるな」(13節)。ルカ19章では、ザアカイという名の徴税人がイエス様に次のような改心の言葉を述べます。「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)。そういうわけで、占領国の権力をかさに不正を働いていた徴税人が同胞の裏切り者とみなされて憎まれていたことは驚きに値しません。

 

ところが、こうした背景知識をもって福音書を読んでみると、驚くべきことに気づかされます。それは、福音書に登場する徴税人たちは、以上みてきたような実際の徴税人とは少し様子が違うのです。もう一度ルカ福音書の3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが、神の裁きが来ることを人々に告げ知らせています。ヨハネの宣べ伝えを信じた大勢の人たちが、自分たちの神への立ち返りを確実なものにしてもらおうと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループがいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねます。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは神の裁きを恐れ、神に背を向けて生きていたことを認めて、それをやめて神のもとに立ち返らなければならないと思ったのです。それで、そのために何をすべきかと聞いたのです。本日の福音書の箇所の徴税人の場合は、何をすべきかと聞くどころか、ただ「赦して下さい」と神に憐れみを乞うだけです。どちらにしても、それまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。

 

もちろん本日の箇所の徴税人は、たとえの教えの架空の人物です。しかし、徴税人のグループが洗礼を受けにヨハネのもとに行ったという歴史的事実からすると、今日のように改心した徴税人が実際にいたことは否定できないのです。ルカ19章のザアカイですが、イエス様が彼の家を訪問すると決めるや否や、これまで不正を働いて貯めた富を捨てるという大きな決断をします。マルコ福音書2章にレビという名の徴税人が登場しますが、イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てたということです。

 

以上のように福音書の記述から当時、徴税人の間では、どれくらいの割合かはわかりませんが、神に背を向けていた生き方をやめなければ、神のもとに立ち返らなければ、そういう気運があったことが読み取れます。

 

2.二つの対照的な祈り

 

本日の福音書の箇所でイエス様は祈りについて教えています。二つの全く対照的な祈り方が出ています。一つは宗教エリートのファリサイ派の人の祈りで、自分は神が定めた規定をちゃんと守っていますと神に報告します。私は周りにうようよいる罪びとたちと全然違うことを感謝します、などと醜いエリート意識そのものです。子供が先生に「先生、ボクは~君みたいに悪い子じゃないよ、いい子だよ」というのを大人にしたらこうなるのでしょう。もう一つは徴税人の祈りです。自分が罪びとであることを認めて神に憐れみを乞うだけです。それが祈りの全てです。なので、胸を打つというのは、悲しみや悔恨を表わす行為です。悔恨や憐れみを乞うのが本当に心の底からの叫びだったことが窺われます。ファリサイ派の人の祈りは神に対して自分を高く見せる祈り、徴税人の祈りは低く見せる祈りと言って良いでしょう。

 

先週の福音書の箇所は「やもめと裁判官」のたとえでした。それも祈りについて教えるところで、神に対して祈り願い求めることを絶やしてはならないという教えでした。神に対して祈りを絶やさないというのは、十戒の第一の掟「私以外に神があってはならない」を守ることです。ルターも教えたように、祈ること願いごと、喜びや感謝、悲しみなど全てのことを創造主の神に祈り打ち明けるべきである、他のものにそうしてはならないというのが第一の掟のポイントです。神を全身全霊で愛するというのも同じです。「愛する」などと聞くと恋愛を連想してしまい、神を愛するなんてどうしたらいいかよくわからないと言う人もいます。要は神以外に祈らない打ち明けない、それだけ神を信頼してやまないということです。だから、祈りを絶やしてはいけないのです。

 

そこで、先週と本日の祈りの教えには興味深い関連性があることに気づきましょう。「やもめと裁判官」のたとえは弟子たちに対して述べられました。本日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえは誰に対して述べられたでしょうか?「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(18章9節)です。ここで「正しい」という言葉に注意します。ギリシャ語ではディカイオス(δικαιος)で「義」を意味する言葉です。「義」とは、「神の目に適う、神に相応しい」ということです。どういうふうに「目に適う」「相応しい」かと言うと、最後の審判の時に神のみ前に立たされても全然問題ない、地獄の炎に投げ込まれる心配はないという位に神に相応しいということです。14節を見ると「義とされて」と言われています。ディカイオオ―という動詞が使われていて、これはさっきのディカイオスを動詞にしたものです。これを「義とされて」と訳したのだから、ディカイオスも「正しい」ではなく「義なる」と訳すべきだったと思います。「正しい」と言ってしまうと、少し人間的すぎてこの世止まりではないかと思います。「義」とは、この世とこの次に到来する世の双方にまたがる、神的な「正しさ」です。人間的な「正しさ」とはスケールが違いすぎます。イエス様がこのたとえを話した人たちは、自分たちはそういう義の者である、他の者はそうではないと見下している人たちでした。この人たちは誰なのでしょうか?ファリサイ派でしょうか?実はそうではないのです。

 

「やもめと裁判官」の最後のところでイエス様は尋ねました。自分が地上に再臨する日、最後の審判の日、果たして、やもめのように祈りを絶やさない信仰はこの世に残っているだろうか?この質問は、たとえを聞いていた弟子たちにされました。この質問のすぐ後で今日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえを話します。ここでは、自分は神に相応しいと自信満々な者たちが相手です。つまり、このたとえが向けられた相手は、弟子たちの中で自分は大丈夫だ、死ぬまで神を信頼して祈りを絶やさずに生き抜くことが出来ると自信満々な人たちだったのです。果たして私が再臨する日に祈りを絶やさない信仰を見いだすことができるであろうか?というイエス様の問いに対して、「はい、わたしはそのような信仰を持っています」と自信を持って答えられる人たちに向けて話されたのです。

 

そういうわけで、本日の福音書の箇所は、神を信頼して祈りを絶やしてはならないという先週の教えを、さらに一歩踏み込んだものになっています。たとえ最後までひるまずに祈り続けたとしても、もしファリサイ派の人のように祈ってしまったら、せっかくの絶えざる祈りが何の意味もないものになってしまうのです。

 

洗礼者ヨハネのもとに集まった徴税人たちは神の罰を受けないために洗礼の他に何をしなければならないかと尋ねました。そして、本日の徴税人の場合は「何をしなければならないか」という問いはなく、ただただ「神さま、罪びとの私を罰しないで下さい」と神に憐れみを乞うだけでした。神から罰を受けるとはどういうことか?それは、この世の人生を終えた後で復活の日に復活に与れず、復活の体も永遠の命も与えらえず、神の御許に迎え入れられなくなってしまうということです。しかも、問題はこの世の次の段階に限りません。この世で歩んでいる道が神のもとに向かう道でなければ、どんな道を歩んでも神から守りと導きは得られません。たとえ罰は将来のものであっても、既にこの世の段階で序章のように始まっているのです。歩む道を変えなければならないのです。

 

「私は罪びとです、神に背を向けて生きてきました」と認めて、「神さま、どうか罰しないで下さい」と憐れみを乞うた徴税人。その彼が神に相応しい者、神の前に立たされても大丈夫な者つまり義なる者とされた、というのがイエス様の教えです。これとは反対にファリサイ派の人は、宗教的な規定をしっかり守っているので何も心配することはなく、神に憐れみを乞う必要もありません。自分では神に背を向けた生き方をしているなどとは思いもよりません。しかし、百点満点のはずの彼が神のみ前に立たされても大丈夫な者にならなかったのです。これは一体どういうことでしょうか?本日の個所の終わりでイエス様は、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされる、と言われます。これだけ見ると、人間は神の前で偉そうにしてはいけない、謙虚でなければならない、と言っているように聞こえます。それでは、ありきたりの道徳論です。ここは道徳教育みたいなことを言っているのではありません。ここは人間のあり方、でき方を根本から問い直さなければならない大きな問題があることを言っているのです。これがわからないと、この個所はわからないのです。

 

3.原罪を直視することから始まる救い

 

私たちは徴税人が「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」と、神に憐れみを乞う祈りをするのを聞いて、彼がそう祈るのはもっともなことだと思うでしょう。私たちの場合は、同胞を裏切ってまで私腹を肥やすようなことは縁遠いことなので自分には関係のない祈りに聞こえるでしょう。加えて、神の意思を表している十戒に照らしても、自分は盗みも偽証もしないし、ましてや不倫や殺人など思いもよらないことだ、というのが大方の思いでしょう。つまり、自分は聖書の神の意思を結構守れているのではないか?ところが、イエス様は何と教えていましたか?たとえ殺人を犯していなくても、心の中で兄弟を罵ったら第五の掟を破ったのも同然、異性を淫らな目で見たら第六の掟を破ったのも同然と、十戒の掟は心の有り様にまで関わっていると教えました。

 

以前にもお教えしましたが、フィンランドやスウェーデンには「罪」を言い表す時に、「行為として現れる罪」と「受け継がれる罪」に分けて言い表す言葉があります([ス]gärningsynd、arvsynd、[フィ]tekosynti、perisynti)。前者は行い、思い、言葉の形を取る具体的な罪、後者は具体的な形を取らずとも人間が最初の人間から遺伝して受け継いでいる罪です。この受け継いでいる罪があるから行為に現れる罪も起こるという、言わば罪の罪、まさに原罪です。人間なら誰でも「生まれながらにして」持っている罪です。具体的な形の罪を犯さない人でも、置かれた環境や境遇が違っていたら具体的に犯していたかもしれないのです。

 

マルコ福音書7章を見るとイエス様とファリサイ派の人たちの有名な論争があります。それは、何が人間を汚れたものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうのかという問題でした。イエス様の論点は、人間を汚して神から切り離された状態にしているのは、人間の内部に宿る無数の悪い思いである、従って、宗教的な儀式や規定を守っても内部の汚れは除去できないので意味がない、というものでした。だから、本日の個所のファリサイ派の人が自分は週に二回断食してる、購入物の10分の1を神殿に捧げている、などと祈っても、それをすることで汚れは除去できておらず、神の目に罪のない相応しい者にもなっていないのです。本人はその気でいるので気の毒なのですが。それでは、人間は一体どうしたら神から切り離された状態に終止符を打てて、神に相応しい者となれるのでしょうか?

 

これを人間の力ではできないとわかっていた神は、それを神の方でしてあげようと、ひとり子イエス様をこの世に贈られました。イエス様は人間の全ての罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げ、そこで神罰を人間に代わって受けられました。罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったのです。神はイエス様のこの身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間のために開かれました。神のもとに至る道が開かれたのです。人間は、これらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪が償われたから神から罪を赦された者と見なしてもらえます。こうして人間は、イエス様がして下さったこととその彼を救い主と信じる信仰のおかげで神に相応しい者とされ、神との結びつきを持って歩み始めます。歩む先は、復活の体と永遠の命が待っている神の御国です。キリスト信仰者はそこに至る道に置かれて、その道を歩んでいくのです。神との結びつきがあるので、順境の時でも逆境の時でも変わらない助けと良い導きを神から得られます。この世を去った後は、復活の日までのひと眠りの後で目覚めさせられて神の御許に迎え入れられます。

 

ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、キリスト信仰者といえども、この世で肉を纏って生きている以上は罪や汚れた悪い思いを持っているということです。この点は、信仰者も信仰者でない者も同じです。ところが、キリスト信仰者の場合は、神がイエス様を用いて成し遂げて下さった罪の赦しを受け取ったので、神からそういう者として見てもらえます。キリスト信仰者は、そのように見ててもらえることを畏れ多く感謝し、これからは神の意思に沿うようにしなければと襟を正します。そうすると神の意思に一層敏感になります。まさにそのために「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という徴税人の祈りはキリスト信仰者こそ祈らなければならないものになります。しかし、何も心配はありません。私たちは自分の内にある神の意志に反するものに気がつく度に、心の目をゴルゴタの十字架に向けます。あそこに首をうな垂れたあの方がおられす。その肩の上に私たちの罪が重くのしかかっている。このことを確認できれば、私たちは大丈夫になっていることがわかります。父なるみ神は私たちを本当に憐れんだので、ひとり子を犠牲にするのを厭わなかったのです。神は罰しないで本当に赦して下さることを、私たちがわかるようにイエス様をこの世に贈られて十字架の死に引き渡したのです。

 

 ところで、徴税人の祈りにはイエス様の十字架の言及はありません。まだ十字架の出来事が起きる前なので、それは無理もありません。しかし、イエス様はもうすぐしたら十字架と復活の出来事が起こると知っています。その時が来たら、徴税人の祈りを祈る者は心の目をゴルゴタの十字架に向けることができ、神から罪を赦されていることがわかります。この意味で徴税人の祈りは、神から罪の赦しを得られて神に相応しい者とされる祈りなのです。これぞまさしく、最後の審判をクリアーできる祈りなのです。

 

そういうわけで、キリスト信仰者にとって「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という祈りは、イエス様の十字架と復活の業があるおかげで、なくてはならない祈りです。イエス様を救い主と信じてこれを祈る限り、イエス様の犠牲に免じて神から罪を赦されるのです。イエス様を信じない人は、誰かの何に免じて罪が赦されるということがありません。それで、全て自分の力で罪の償いを神に対して果たさなければならなくなります。しかし、それは不可能です。このことを、本日の個所のファリサイ派の人の祈りが明らかにしています。自分を高くする者は低くされるというのは、罪の問題が途轍もなく大きなものであることがわからず、人間の知見と努力で解決できたと思った瞬間、お前には本当の罪の償いはないと言われて蹴散らされてしまうことです。自分を低くする者は高くされるというのは、罪の問題が途轍もなく大きなものであることを知って茫然として足がすくんでしまった瞬間、イエス様のおかげで神の御手が自分を離さずしっかり支えてくれていることです。

 

4.イエス様の再臨は怖くない

 

キリスト信仰者が復活の日の神の御許に迎え入れられる地点に向かって歩む道にはいつも罪の自覚と赦しの繰り返しがあります。しかし、最後の審判の時、神はこの繰り返しのことを、それはお前が神に相応しい者、義なる者として相応しく生きた証しと認めてくれます。その時、繰り返しは終わります。

 

本日の使徒書、第二テモテ4章6-8節のパウロの言葉は、この世を去る時が近づいたことを自覚した彼が、そのような生き方を総括する言葉になっています。それをもう一度お読みして本説教の結びとしたく思います。

 

「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」

 

兄弟姉妹の皆さん、パウロの言葉の次の部分が私たちにとって重要です。

 

「しかし、わたしだけではなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます。」

 

イエス様の再臨というのは、最後の審判があったりするので怖いものに感じられます。しかし、その日は、お前は神に相応しい者、義なる者として相応しく生きてきたと認められる日です。また、罪の自覚と赦しの繰り返しが終わる日です。義の栄冠はその象徴です。だからキリスト信仰者にとっては主の再臨は怖い日ではありません。待望の日です。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2022年11月9日水曜日

キリスト信仰のかたち (吉村博明)

  

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年10月9日(聖霊降臨後第18主日)むさしの教会

 

列王記下5章1~3、7~15節

テモテへの第二の手紙2章1~15節

ルカによる福音書17章11~19節

 

説教題 キリスト信仰のかたち


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1. はじめに

 

 説教題「キリスト信仰のかたち」とはわかりそうでわかりにくい題と思います。「かたち」とは何ぞや?一昔前、日本のことを論じる本だったか記事だったか、「この国のかたち」なんていうものがありました。「かたち」という言葉でこの説教者は何を意味しようとしているのか?日本語で自分が何を言おうとしているのか、はっきりさせる際に自分が知っている外国語で言い換えたらどうなるか考えるのはいい訓練になると思います。英語のformではありえない。頭に浮かぶのはessenceです。「本質」とか「真髄」です。フィンランド語やスウェーデン語なら「核心」を意味するydinやkärnaが浮かびます。ところが、もし説教題を「キリスト信仰の本質」にしたらどうなるか?神学校の教授や牧師がそういう題で説教したら、信徒の皆さんは、ふんふん、なるほど、と聞き入るでしょう。私のような一信徒が同じ題を使ったら、何を大それたことを!と思われてしまうでしょう。それで「かたち」などという怪しげな言葉を引っ張り出した次第です。

 

 それでも、この説教の原稿が出来上がってみると、やっぱりキリスト信仰にとって本質的なことについて語っているじゃないかと思いました。それで題を「キリスト信仰にとって本質的なこと」にすれば「キリスト信仰の本質」よりも低姿勢かなと思ったのですが、この日本福音ルーテルむさしの教会は説教題を前々週に知らせなければならないのでもう手遅れでした。そういうわけで、本日の福音書の個所はキリスト信仰にとって本質的なことを明らかにしているので、それを皆さんにお教えしたく思います。

 

 イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して進んでいきます。本日の箇所は、エルサレムのあるユダヤ地方の北、ガレリア地方とサマリア地方の間を通過している時の出来事です。サマリア地方というのは、もともとはユダヤ民族が住んでいたところですが、紀元前8世紀以後の歴史の変転の中で異民族と混じりあうようになって、ユダヤ民族の伝統的な信仰とは異なる信仰を持つようになっていました。旧約聖書の一部は用いていましたが、エルサレムの神殿の礼拝には参加せず、独自に神殿をもってそこで礼拝を守っていました。

 

 さて、一行がある村に近づいた時、10人のらい病患者がイエス様を待っていました。まだお互いの距離が離れている時に彼らは「イエス様、先生、どうか私たちを憐れんでください!」と大声で癒しをお願いしました。これに対してイエス様はどうしたかと言うと、その場で癒すことはせず、エルサレムの神殿の祭司たちのところに体を見せに行きなさい、とだけ言います。これは、レビ記13章にある「重い皮膚病」にかかった時にどうするかという規定の通りです。つまり、かかった時は祭司が診て診断しなければならない。イエス様はモーセの律法にある既定に沿って指示を下したのでした。10人の男たちは、イエス様が命じられたのだから、と言う通りにただちにエルサレムに向かいました。

 

 すると出発後ほどなくして、10人はみな病気が治ってしまいました。みんな歓喜の極みだったでしょう。10人のうち9人はそのままエルサレムの祭司たちの所へ向かいました。レビ記14章をみると、祭司は「重い皮膚病」にかかったかどうかを診断するだけでなく、治ったかどうかも診断しなければなりませんでした。このように男たちのエルサレム訪問の目的は、発病の診断から治癒の診断に変わってしまいました。それでも、祭司のところに行くのは律法の規定です。ところが1人だけ、律法に規定された治癒の診断に行かずにイエス様のところに戻ってきました。先ほども触れたサマリア地方のサマリア人でした。彼は、このような奇跡を行った方とその方をこの世に贈って下さった神を賛美し感謝します。この時のイエス様の言葉「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人の他に神を賛美するために戻って来た者はいないのか」、これを聞くと、律法に規定された祭司の治癒診断よりも、彼のところに戻ってきて神を賛美することの方が大事だと言っているのが明らかです。

 

 本日の個所がキリスト信仰にとって本質的なことを明らかにしていると言う時、その本質的なこととは何かと言うと、2つのことがあります。まず、律法の規定を行って神から義とされ救われるというのではない、イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされ救われるということ。それと、キリスト信仰者は神から義とされ救われたことで感謝に満たされて神の意志に沿うように生きようとすること。この2つがサマリア人の行動から見て取れます。ところで、イエス様の十字架と復活の出来事はまだ起きていません。なので、キリスト信仰のかたちがもう表れているというのは気が早いと言われるかもしれません。しかし、先取りしているのです。イエス様はこの出来事を通して、将来の信仰はこういうものになると前もって教えているのです。

 

2.「あなたの信仰があなたを救ったのだ」の本当の意味

 

 この先取りがわかるために、まず、イエス様の謎めいた言葉「あなたの信仰があなたを救った」を見てみましょう。一見するとこの言葉は、信仰があるから病気が治ったというふうに聞こえます。しかしそれでは、病気が治る人は信仰がある人で、治らないのは信仰がないからだ、ということになってしまいます。それだったら、戻ってこなかった9人も治ったのだから、イエス様は、お前たちの信仰がお前たち全員を救ったのだ、と言うべきです。しかし、そう言わないで、このサマリア人だけに当てはまることとして言ったのです。これに気づくと、この言葉は信じたら治るというような短絡的なものではないとわかってきます。それで、この言葉の本当の意味がわかるために、イエス様が別の箇所でも同じ言葉を述べていますので、それを見てみることにしましょう。

 

 マタイ9章22節、マルコ10章52節、ルカ18章42節に同じ言葉「お前の信仰がお前を救ったのだ」があります。そこでイエス様はこの言葉を人の病気が治る前に、つまり人がまだ病気の状態にいる時に述べています。本日の個所は治った後で言うので逆です。そこに注意します。マタイ9章では、12年間出血が止まらない女性がイエス様の服に触れば治ると思って触る、それに気づいたイエス様が「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを救った(後注)」と言います。この言葉をかけられてから女性は健康になります。マルコ10章52節とルカ18章42節は同じ出来事です。目の見えない人がイエス様に見えるようにしてほしいと一生懸命に嘆願するところです。イエス様は彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。その直後に男の人は目が見えるようになりました。

 

 本日の個所のように病気が治った後で「あなたの信仰があなたを救った」と言えば、ああ、信仰のおかげで治ったのだな、と普通は理解します。しかし、病気が治る前、まだ病気の状態でいる時にそう言うのはどういうことでしょうか?そこで、この「あなたの信仰があなたを救った」の「救った」に注意します。これはギリシャ語の現在完了です(σεσωκεν)。ギリシャ語の現在完了形は英語のより少し意味が狭く、「過去の時点で始まった状態が現在までずっとある」という継続の意味が主です。それで「あなたの信仰があなたを救った」というのは、「イエス様を救い主と信じる信仰に入ってから、今日この時までずっと救われた状態にあった」という意味です。

 

 これは驚くべきことです。12年間出血が治らなかった女性も目の見えなかった男の人も、この言葉をかけられる時までずっと救われた状態にあったと言うのです。まだ病気を背負っている時に、既に救われた状態にあったと言うのです。どうして、そんなことが可能なのでしょうか?普通は、癒された時に救われたと考えます。ところが、そうではないのです。イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、この人たちは、確かに見た目では病気を背負っている状態にはあったが、神の目から見れば、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神との結びつきの中で生きられるようになったということです。これが救いの本当の意味です。キリスト信仰では救いというのは、人間的な目から見て境遇が良好であるということと同義ではないのです。境遇が良好かそうではないかにかかわらず、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになる、それが「救い」なのです。誤解を恐れずに言えば、出血の女性や目の見えない男の人が癒されたのは、そのような本当の救いに対する付け足しのようなものだったのです。

 

 そういうわけで、キリスト信仰者が不治の病にかかったとしても、それはその人の救いが無効になったということでは全くありません。そうではなく、その人がイエス様を救い主と信じる信仰にしっかりとどまる限り、その人は病気になる前と同じくらいに救われた状態にいるのです。このような不動の救いは、イエス様が十字架と復活の業を成し遂げることで全ての人に提供されました。この本当の救いは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。

 

 さて、今日のサマリア人の場合はどうなるでしょうか?同じ癒しを受けたにもかかわらず、この言葉は9人には言われませんでした。感謝に満たされて神を賛美しながら戻ってきたサマリア人に言われました。ここでも、他の事例と同様に癒しと救いが別々になっていることは明らかです。サマリア人が「救われた」というのは、癒されたことではなくて戻ってきたことに関係するのです。「救われる」と言うのは、先ほども申しましたように、癒しではなく、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになることです。それでは、サマリア人が戻ってきたことが、どうして彼の救いになるのか?それを次に見ていきます。

 

3.サマリア人の行動に見るキリスト信仰のかたちと私たち

 

 先ほども申しましたが、レビ記14章には、重い皮膚病が治ったかどうかの診断は祭司が行うという規定があります。その3節をみると、祭司が治ったと診断した場合、祭司は次に「清め」の儀式を行わなければなりませんでした。儀式の詳細な内容には立ち入りませんが、いろいろな動物や鳥を生け贄として捧げることが、神との和解を回復する手立てとしてあります。これを行った後で治った人は「清い状態になる」(14章20節)。つまり、「清い」とは皮膚が健康になったことではなく、神との和解が成ったということなのです。

 

 ここで注意しなければならないことは、生け贄を捧げる「清め」の儀式は、病気を治すために行う祈願の儀式ではなく、病気が治った後でする儀式ということです。治ったんだったら、もう何も儀式はいらないんじゃないか、と思われるでしょう。しかし、「重い皮膚病」というのは、単なる肉体的な病気にとどまらないと考えられたのです。それは、人間が神の意志に反する性向、罪を持っているために神との結びつきが失われてしまった状態にあること、それが病気という目に見える形で現われたものと考えられたのです。それで、肉体的な病気は治っても、神との和解を回復するための儀式が必要だったのです。

 

 ここでもう一つ注意しなければならないことがあります。それは、全ての人間はたとえ「重い皮膚病」にはかからなくても、神の意志に反しようとする罪をみんなが持っているということです。病気のような目に見える状態はなくても、みんなが罪の状態にあるのです。それが「重い皮膚病」という目に見える形で出てくるのは、かかった人が何か罪を犯して、かからなかった人は罪を犯さなかったからというのではありません。全ての人間は罪の状態にあるので、病気が目に見える形で現れる可能性は、本当は誰にでもあるのです。ただ、私たちが知りえない理由で、ある人たちがそれを背負うことになってしまったということです。全ての人間が罪の状態にあるということは、最初の人間が罪を持つようになって以来、人間はずっと死ぬ存在であり続けたということから明らかです。使徒パウロは罪の報酬として死がある(ローマ6章23節)と教えています。人間が死ぬということが、人間が罪を持っていることの表れなのです。

 

 さて、イエス様は、癒されたサマリア人がエルサレムの神殿で「清め」の儀式をしないで戻ってきてイエス様と神を賛美したことを褒めます。そうすると、神との和解の儀式はもう必要ない、その人はもう神と和解ができている、ということになります。イエス様は自分がこの世に贈られたのはそのような儀式不要の和解を打ち立てるためだということを前もって教えているのです。どういうことかと言うと、イエス様の十字架と復活の出来事の後は、もう人間は神との和解のためには何の犠牲も生け贄も捧げる必要はなくなったということです。人間はただ、イエス様を自分の救い主と信じる信仰と洗礼によって神との和解を得ることができるようになったからです。先ほど見たように、モーセ律法には「重い皮膚病」が治った後で神との和解のためにする「清めの儀式」がありました。実はそれだけでなく、律法には人間の罪を償って神との和解が得られるために様々な儀式とそこで捧げられる生け贄の規定が数多くありました。特に「贖罪日」と呼ばれる日は年に一度、大量の生け贄を捧げて、罪の償いの儀式を大々的に行っていました(レビ記16章、23章27-32節)。

 

 しかしながら、こうした儀式や生け贄は何度も何度も繰り返して行わなければならないものでした。そこで明らかになったことは、それらは人間を罪の支配から完全に解放できない、それでもたらされる神との和解は一過性のものにしかすぎないということでした。このことを「ヘブライ人への手紙」10章は次のように述べています。「律法は年ごとに絶えず捧げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを捧げることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです」(10章1-4節)。

 

 そこで天地創造の神は、人間がこのような中途半端な状態から抜け出せて、罪と死の支配から解放されて、神との結びつきを持ってこの世を生きていけるようにしてあげようと、それでひとり子イエス様をこの世に贈られたのです。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせてそこで人間に代わって神罰を受けさせました。このようにイエス様に人間の罪の償いをさせて、人間を罪と死の支配から贖い出して下さったのです。それだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を想像を絶する力で復活させて、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に開いて下さいました。そこで人間が、これらのことは本当に起こった事だと、それでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、神がイエス様を用いて実現した償いと贖いを受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。その人は罪を償ってもらったので、神との結びつきが回復しています。永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと守りを受けられて歩むことが出来ます。この世を去らねばならない時が来ても、復活の日までひと眠りした後で目覚ましてもらって、神の栄光に輝く復活の体を着せられて造り主である神のもとに永遠に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちとの再会の場所でもあります。

 

 こんなに大きなことを実現して下さった神はなんと素晴らしい方であることか!キリスト信仰者はこの神に心から感謝するようになり、これからは神の意志に沿うように生きようと心に決めます。神の意志は十戒に集約されています。イエス様はそれをさらに二つの掟に集約しました。神を全身全霊で愛することと、その愛に立って隣人を自分を愛するがごとく愛することです。キリスト信仰の中で律法の作用の仕方が大きく転換しました。かつて神の意志というのは、それをすることで神から義とされ救われるというものでした。ところが、神のひとり子が自分自身を唯一神聖な捧げものとして捧げて、未来永劫にわたって人間の罪を償い、人間を罪と死の支配から贖いだして、一足先にさっさと神との和解をもたらして下さったのです。人間は先を越されてしまったのです。そうなったらあとは、この受け取ったものを手放さないようにしっかり携えていくしかありません。

 

 ところが、現実に生きていると、自分にはいろいろ神の意志に反する罪があることに気づかされることが起きてきます。神の意志に沿おうと志向しているので、かえって信仰者の方が神の意志に敏感になり、自分の内にある罪が気づきやすくなります。その時キリスト信仰者は、神との結びつきは弱まってしまったか、あるいは失われてしまうかと心配します。もし神がせっかくひとり子の犠牲に免じて罪を赦してくれたのに、こんなことでは復活と永遠の命に向かう道から外されて自分は行き先を失ってしまうのではと不安に陥ります。

 

 まさにそのような時、神に赦しを祈ると、神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前の罪の赦しはあそこに打ち立てられて今も微動だにせずにそのままである。お前がイエスを救い主と信じているのはわかっている。我が子イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦される。お前の信仰がお前を救ったのだ。これからは罪を犯さないように。」この時キリスト信仰者の心には信仰に入った時と洗礼の時の感謝が蘇り、これからは神の意志に沿うようにしなければと再出発します。この罪の自覚と赦しをキリスト信仰者はこの世の人生の間ずっと繰り返します。やがてそれが終わる日が来ます。復活の日です。ルターも言うように、キリスト信仰者が完全な信仰者になるのは、この世から別れて復活の栄光の体を着せられた時です。

 

 このように、律法の規定を行って救われるということではなくて、イエス様を救い主と信じる信仰によって救われるということ、それと、先に救われてしまったことで全身全霊が感謝で一杯になるということ、これらキリスト信仰を形作る2つのことは本日のサマリア人の行動から見て取れます。キリスト信仰の本質が見事に先取りされているのです。イエス様は十字架と復活の後で、キリスト信仰者はどう立ち振る舞うかを本日のサマリア人の出来事を例にして前もって教えているのです。

 

            救われたら律法に戻らない

            救われたら大きな感謝が生まれて、救ってくれた主のもとに戻る

            感謝は神の意志に沿うように生きようとする心を燃え立たせる

 

 皆さんの心がいつも神への感謝で満たされますように。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

後注 θαρσειは「元気を出しなさい/気をしっかり持ちなさい」がいいでしょう。新共同訳のように「元気になりなさい」だと健康になりなさい、とこれから癒してあげるという意味になってしまいます。それは正しくありません。