2021年2月1日月曜日

神は人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つように教育する (吉村博明)

  

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2021年1月31日 顕現節第四主日 スオミ教会

 

申命記18章15-20節

コリントの信徒への第一の手紙8章1-13節

マルコによる福音書1章21-28節

 

説教題 神は人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つように教育する

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の聖書日課の使徒書第一コリント8章と福音書マルコ1章の箇所は3年前の礼拝説教で説き明かしをしました。その時、これは頭の痛い厄介な個所だと申しました。というのは、マルコの方はイエス様が悪霊を追い出す奇跡を行うところで、悪霊追い出しなどというものは今どき真面目に取り上げるべきものではないと言われてしまうからです。しかし、聖書に書かれていることを単に大昔の人間の作り話なんかではないという立場で見ていきますと、やはりイエス様の悪霊追い出しは避けて通れないテーマです。

 

もう一つ厄介なのは、コリント8章の偶像に備えられた肉をキリスト信仰者は食べていいのかという問題です。キリスト信仰者が社会の少数派であるところでは似たような問題が起きてきます。この日本でもそうです。コリントの偶像に備えられた肉というのはどういうものか少し振り返ってみます。

 

コリントは現在のギリシャにある町で、そこにある教会に使徒パウロが手紙を送ったのでした。当時キリスト教は始まったばかりで、どこでも少数派でした。キリスト教が広まる地域は大体、ギリシャ神話の伝統が根強い地域で神話の神々の神殿があちこちにあり、人々はそこにお参りに行きます。当時の肉の食べ方ですが、まず家畜を神殿で生け贄に供えるものとしてそこで屠ります。それを祭事の時にみんなで食べるか、またはマーケットに出して売ります。そういうわけで肉料理と言ったら、宗教儀式を経た肉が使われたということなのです。さあ、キリスト教徒は違う宗教の儀式を経て供えられた食べ物を食してもよいのでしょうか?

 

第一コリント8章でパウロは、「偶像など存在しない、神々などというものはあっても、神は本当はただ一人のみ、その方が万物を造られたのだ」と言って、万物の造り主としての唯一の神を打ち出します。そういうことを言うと、多神教と言うのか多霊教と言うのか、そういう立場の人は、またキリスト教の独りよがりが始まったと嫌な顔をするかもしれません。

 

本日の説教は、3年前にお教えしたことを一歩先に進めるような説き明かしになると思います。3年前ははっきり出なかった視点がはっきりします。どんな視点かと言うと、神という方は私たち人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つように教育する方だということです。

 

2.偶像と異教の神々

 

初めに、偶像に供えられた肉をキリスト信仰者が食べることについてのパウロの教えを見ます。ここでまず、そもそも偶像とは何かということを考えてみましょう。パウロは4節で「世の中に偶像の神などはない」と言っています。しかし、そうは言っても世界には、これは何々神の像である、というような像は無数にあります。その意味で偶像の神はあります。パウロだってギリシャ神話の神々の像があちこちにあることは知っているはずです。なのにどうして、そんなものはない、などと言うのでしょうか?

 

これは、聖書の神が「生きる」神であることをわかるとパウロの真意が理解できます。旧約聖書のヘブライ語の言い方で、「~をした神は確実に生きておられる」とか「神が確実に生きておられるのと同じ確実さで~が起きる」というものがあります(חי יהוה אשר ~)。神が確実に生きておられることの証明として「神は~をしたのだ」と言うのです。その神がした「~」には、例えば「イスラエルの民をエジプトの地から導いた」とか「民をバビロン捕囚から解放して祖国に帰還させた」とか、そういう歴史的に大きな事件が言われます(例としてエレミア16章14、15節)。こうした出来事は神が力を行使して起こったのだ、まさに神が生きていることの証しだというのです。 

 

そこで聖書の中で偶像崇拝を批判する箇所を見ると、偶像は単なる像にしかすぎない、歴史的大事件を起こせるどころか、口があっても話せない、目があっても見えない、耳があっても聞こえない、足があっても歩けない、などと手厳しいです(例として詩篇115篇4-8節)。つまり、生きている神から見たら偶像は死んでいるのです。それで、偶像は沢山存在するのにパウロが存在しないと言っているのは、「生きている」偶像は存在しないという意味なのです。

 

ただ、人によっては、何々神の像は見えないということはない、聞こえないということもない、ちゃんと見ておられる聞いておられる、聖書は失礼なことを言うな、と怒るかもしれません。つまり、そうした像が魂を持っていると思って畏敬の念を覚えるのです。像が魂を持っていると思えたら、像は見えている、聞こえている、ということになります。ところが像自体は何を見ているのか聞いているのか、像を作った人間のことをどう考えているのか教えてはくれません。人はどうやって像が見ていること考えていることを知ることが出来るでしょうか?多分、像はこういうことを見ている考えていると自分で思い描いてそれを潜在意識にインプットすれば、夢にでも出て来て教えてくれるかもしれません。

 

聖書の神が人のことをどう見て考えておられるかということはわかります。まず聖書に記されている神の意思というものを知って、それに自分を照らし合わせて見ると、神の目から見た自分の姿を知ることができます。また神は、私たちの祈りをいつも聞いていて下さり、祈り求めたことの答えや解決を御自分が良かれと思う仕方で良かれと思う時に必ず与えて下さいます。このように人間が自分の姿を知るにしても、祈り求めたことの答えを得るにしても、それはいつも神の視点で起こります。もちろん人間も自分の視点を持ちますが、それはいつも神の視点によって軌道修正させられます。聖書の神は、人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つようにと絶えず教育する方なのです。

 

第一コリント8章に戻りますと、パウロは5節で「天や地に神々と呼ばれるものがいる」と言います。生きた偶像は存在しないが、天や地に霊的なものが沢山あって、それらはみな「神」と呼ばれている、そういう霊的なものは存在することは認めています。これは旧約、新約聖書に共通する見方です。ところが6節をみると、これらの霊的なものは全て天地創造の神に造られた被造物にしかすぎないということが言われます。これも聖書の立場です。他の宗教が聞いたら、自分たちの神が低くランク付けされているようで、あまりいい気持ちはしないでしょう。しかし、聖書は出だしから万物の造り主の神が登場するので、立場上はそうならざるを得ないのです。

 

3.偶像に供えられた肉を食べないことが愛を示すことになる

 

偶像や神々というものと聖書の神の違いについて見ました。ここで、キリスト信仰者は違う宗教の儀式を経由してきた肉を食べてもいいのかという問題に入ります。このコリント8章はロジックが分かりにくいと思います。というのは、パウロは一見すると、強い信仰者は食べるが、弱い信仰者は食べない、と言っているようにみえるからです。

 

人によってはこれは逆なのではないかと思うでしょう。つまり、異教の神々に捧げられた肉なんか死んでも食わないぞ!と頑張るのが強い信仰者で、逆に食べないと周囲からつまはじきされてしまう、だから仕方なくおどおどして食べてしまうのは弱い信仰者ではないかと思われるからです。私が初めてこれを読んだ30年以上も前の時、その頃私に聖書を教えてくれたフィンランドの神学部の学生は言ったものでした。そうじゃないよ、逆だよ、偶像なんか存在しない!異教の神々なんか天地創造の神の前では何者でもない!そういうふうに信じる者は偶像に供えられた肉を物ともせずに食べられる、ところが、食べたら偶像や異教の神々の影響が入り込んでしまうと恐れて食べられないのは、まだそういうものがあると信じているので弱い信仰者なんだよ、と教えてくれたものでした。それを聞いた私は、そういうことならキリスト信仰者は皆、強い信仰者を目指して別の宗教の儀式に関わるものを受け入れて、さらには8章10節に言われているように、その儀式に結びつく宴にも参加できるくらいになれないといけないのか、などと驚いたものでした。

 

ところが、この説明に私自身しっくりいかないものがあって、なかなか食べられる強い信仰者になろうという気持ちは起こりませんでした。やはり自分は弱い信仰者止まりか、でも弱い信仰者で何が悪い、という気持ちになりました。その後もずっとこの箇所を読むたびに同じ気持ちでした。だって、パウロは弱い信仰者に強くなれとは言っておらず、弱いままでいい、自分も同じように食べないから心配するな、と言っているではありませんか!パウロは、偶像や異教の神々をものともせずに供えの肉を食べられる信仰をいいとか目指すべきとは言っていません。正確を期して言えば、パウロは他宗教の儀式を経た肉を食べる人のことを「強い」とは言っておらず、ただ「知識」を持つ者と言っているだけです。パウロが食べることを推奨する意図がないことは、テキストをよく見ればわかります。

 

「知識」ということについて、パウロは8章1節で「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と述べます。ここで言う「知識」は、先ほども述べた生きた偶像など存在しない、神々などあってもそれは全て被造物であるということを知ることです。その知識を持つことが肉を食べる前提になっています。「愛が造り上げる」というのは、キリスト信仰者というのは各自が一つの体の中の一つ一つの部分であって、それぞれがお互いを支え合いかばい合いながら一つの体として成長することを意味します(第一コリント12章12~31節、エフェソ4章16節参照)。パウロは、知識を持つだけでは肉は食べられるが高ぶってしまうと言うのです。それだけでは、お互いを支え合いかばい合う成長は起こらないと言うのです。

 

続く2節を見ると、「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は知らねばならないことをまだ知らない」、ギリシャ語原文を直訳すると、その人は知らなければならないようには知っていない(知らなければならない仕方では知っていない)、つまり、自分は知識があると言っている人の知識は神から見たらズレていると言うのです。この1節と2節から、知識を持つ者への厳しい見方が明らかです。知識を持つ者が異教の神に捧げられた肉を食べます。彼らは、生きた偶像など存在しない、神々などはあってもそれは単なる被造物で恐れるに値しない、だから食べても痛くもかゆくもない、と言って食べるのです。

 

ところが、食べられない信仰者もいる。なぜかと言うと、イエス様を救い主と信じて受け入れる前は、ギリシャの神々の神殿で礼拝していたので、その礼拝がどんなものかわかっています。それなので神殿の儀式を経由した肉を食べたら、その儀式の内容を一緒に摂取した感じになってあまりいい感じはしません。しかし、あの知識を持つ信仰者たちは平気で食べている、ましてや儀式が行われた神殿の宴で神殿礼拝者と一緒に食事までしている、自分も食べないと馬鹿にされてしまう、それじゃ自分も、とそれくらいの、明確な知識に基づかず風に吹かれるように食べてしまうと、はやり後で落ち着かなくなります。そのことについてパウロは10節で、「その人は弱いのに、その良心は強められて、偶像に供えられたものを食べるようになってしまわないだろうか?」と言っています。「良心は強められて」というのは、ギリシャ語原文では「良心は造り上げられて」です。さっきの1節の「愛は造り上げる」と同じ動詞(οικοδομεω)です。つまりここでは「良心は変なふうに造り上げられて」という意味で、同じ動詞を使うことでパウロは痛烈に皮肉っているのです。

 

パウロの結論は、自分はそうした肉は絶対食べないということでした。理由は、「弱い信仰者」が信仰にとどまれるようにするためでした。実を言うと、食べないのが正しいということはエルサレムの教会の方針でした。使徒言行録15章を見ると、パウロとバルナバがアンティオキアに派遣される時、先方の教会に対する指示が託されました。その一つがまさに偶像に捧げられた肉を食べてはいけないというものでした(29節)。

 

それなら、パウロはなぜコリントの知識を持つ信仰者にはっきりとダメと言わなかったのでしょうか?これはまたいろいろ調べなければ確実なことは言えませんが、今の段階で言えることは、コリントの教会は知識を持つ人や霊的に自信満々の人が多くいて、かなり好き勝手にやっていた教会であったことがパウロの手紙から窺われます。そういうところで指示通りのことを正面から言ったらどうなったでしょう?パウロは情けない奴だ、神は万物の創造者と本気で信じているのか?そう信じれば、異教の儀式で一緒にやったって痛くもかゆくもないのに。そんなふうに凝り固まっている人たちに、正攻法でいってもうまく行かないでしょう。パウロがとった論法は、コリントの知識ある信仰者たちよ、君たちは知識はあるが、それは造り上げてはいない、高ぶるのと造り上げるのとどっちが大事なのか?造り上げるのが大事だと思うのなら、私に倣いなさい。そういう論法だと思います。私に倣いなさい、というのは、食べるのをやめなさい、ということです。

 

4.悪霊の追い出しと神の視点教育について

 

次にイエス様の悪霊追い出しを見ていきます。イエス様が追い出しの奇跡をする悪霊は、本日の箇所にあるように「汚れた霊」(ακαθαρτον πνευμα)と言われるものと、ずばり「悪霊」と訳される(δαιμονιον)の二つがあります。両者は同じものです。悪霊追い出しのことが多く出てくるマタイ、マルコ、ルカの三福音書の関連箇所を見渡すと、悪霊は何か具体的な病気または病的な状態をもたらすことをしでかします。イエス様の悪霊追い出しは、それ自体が目的で行う時もあれば、何か病気を癒す奇跡を行う時に行うこともあります。いずれにしても追い出しをすると、悪霊がもたらしていた病的な状態もなくなってみんな健康な状態になります。追い出しの時に悪霊が口を聞いてくる時もあります。本日の箇所もそうです。悪霊はイエス様が神聖な神の神聖なひとり子であるとわかっていて、その力もわかっているので恐れをなしてしまいます。出て行けと言われれば、そのまま出て行くしかありません。

 

3年前の説教の時、私は、イエス様が行った奇跡には病気の癒しと悪霊追い出しがあることから次のように述べました。人間の病気には病気自体によるものと悪霊のような病気を超えた要因で起きるものがある、病気自体による病気を悪霊によるものと考えて医学以外のものに頼ろうとするのはよくないということです。加えて、キリスト信仰者に関して言えば、悪霊や悪魔の企ては破綻しているので、病気や苦難の時はそれらにやられていると考えないで対処すべきとも申しました。ただ、このように言うと、病気の時はただ単に医学だけを頼りにすればいいと誤解されるのではと思い当たりました。医学を用いて癒しを目指す時にも、もちろん、ベストな治療を受けられますようにとか受けた治療が良い結果をもたらしますようにと父なるみ神に祈ることは必要です。どんなに医学が発達しても神の導きや祝福がなかったら望ましい結果に至らないからです。

 

今私は、キリスト信仰者においては悪霊と悪魔の企ては破綻していると申しました。これはどういうことか振り返っておきます。「悪魔」というのは新約聖書ではサタナー(σατανα)とかディアボロス(διαβολος)と言われます。サタナーとはサタンのことです。ディアボロスというのは引き裂く者、バラバラにする者という意味があります。旧約聖書ではサーターン(שטן)で、非難する者、告発する者という意味があります。「神様、この者は罪深い者で神罰に値しますよ」などと神に告発する者です。神と人間の間を引き裂き、人間が救われないようにと、将来神の裁きを受けて永遠の滅びに道連れにしようとする者、それが悪魔です。悪魔は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後で荒れ野で40日間誘惑の試練を与え、イエス様がこれから神の人間救済計画を実行するのを妨げようとしました。しかし、イエス様は悪魔の誘惑を全て跳ね除けたので神の計画をそのまま実行に移すことが出来、十字架の死と死からの復活を遂げたのでした。

 

悪魔と悪霊の区別については3年前にもお教えしました。サタン・悪魔は悪霊の頭、悪霊はサタン・悪魔の手下です(マルコ3章等にあるベルゼブル論争を参照)。悪魔は人間を神から引き離して神の罰を受けるように陥れようとします。悪霊は人間に苦しみを与えて救いなどない、神などいないという気持ちに持って行こうとします。両者とも人間がイエス様の成し遂げたことを知らないように、知っても忘れるようにしようとするのです。

 

イエス様が成し遂げたこととは何だったでしょうか?それは、彼が神のひとり子でありながら、人間が持っている神の意思に反しようとする罪を全部引き受けてその神罰を代わりに受けてゴルゴタの丘の十字架で死なれたことでした。私たちの罪の償いを私たちに代わって神に対して果たして下さったのです。さらに、父なるみ神の計り知れない力で死から復活され、死を超えた永遠の命に至る扉を人間のために開いて下さったことでした。人間は、これらのことがまさに自分のために起こったとわかってそれでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになります。罪を償われたからには神から罪を赦された者と見なされ、永遠の命が待つ神の国に向かう道に置かれてその道を進むことになります。順境の時も逆境の時もいつも神の守りと導きを得てその道を進み、この世を去ることになっても復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられるようになりました。

 

以上のことが、イエス様の十字架と復活の業のおかげで悪魔と悪霊の企ては破たんしたということです。イエス様を救い主と信じる者に関してはそれらの企ての破綻はその通りになっているのです。

 

 そこで一つ大きな問題になってくるのは、やはり、病気の癒しや苦難の打開を祈っても期待した結果にならない場合はどうなのかということでしょう。先ほど、どんなに医学が発達しても父なるみ神の導きや祝福がなかったら望ましい結果に至らないと申しました。それならば、祈っても望ましい結果にならなかったら神の導きや祝福がなかったということになってしまうのでしょうか?これはとても難しい問題です。例えば、何千人に一人の割合で健康上困難がある子供が生まれるという時、他のキリスト信仰者の子供はそうではないのになぜウチの子供はそうだったのか?とても不公平な感じがします。自分たちの信仰に何か問題があったのかと責めることも起きるかもしれません。さらには、イエス様を信じていなくても健康な子供が授かっているのに、信じている自分たちにはそうならなかったとなれば、信じることに何の意味があったのかという思いになるでしょう。

 

とても難しい問題です。ただ一つはっきりしていることは、このような不運がきっかけでイエス様を救い主と信じなくなって神に背を向けてしまったら、それは神の国に向かう道から降りてしまうことになり、悪魔や悪霊の思うつぼです。不運があっても、イエス様を信じて神の方を向いて進んでいれば、復活の日の再会があります。その時の私たちの有様はパウロが教えるように、この世の朽ち果てる体ではなく神の栄光で輝く体であり、イエス様が言われたように、みな天使のようになるのです。不運がもとで神に怒ることはあっても、神の国に至る道に留まって進むことは出来ると思います。それはきっと自分の視点を捨てて神の視点を持つようになるためのとても重いプロセスになるでしょう。それを思うと、不運を持たなかった人たちはどれだけ自分の視点を捨てて神の視点を持てるようになるか心配になってくるくらいです。

 

今の私にはこれ以上のことは言えません。神がこの問題を見極められる知恵を私にも皆様にも与えて下さいますように。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

2021年1月29日金曜日

福音、神の国、悔い改めについて (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2021年1月24日 顕現後第三主日 スオミ教会

 

ヨナ書3章1‐5、10節

コリントの信徒への第一の手紙7章29-31節

マルコによる福音書1章14-20節

 

説教題 福音、神の国、悔い改めについて

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。その後でイエス様は40日間荒野で悪魔から試練を受け、これに打ち克ちました。そして、いよいよ本格的に活動に乗り出そうとしたまさにその時、ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕えられたとの報が伝わりました。イエス様は大胆にもガリラヤに乗り込んで人々に教え始めました。本日の福音書の日課はその時のことについて述べています。「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」とあります。本日の説教では、「福音」、「神の国」、「悔い改め」という三つの大事な事柄についてお教えしようと思います。

 

2.福音 ― 特段の良い知らせ

 

ここで「神の福音」と「福音を信じなさい」と、「福音」という言葉が2回出て来ます。「福音」という言葉は原語のギリシャ語でエヴァンゲリオンευαγγελιονと言います。もともとは「良い知らせ」という意味です。「良い知らせ」の中でも特段に良い知らせが「福音」です。それでは、「福音」とはどんな特段の良い知らせなのでしょうか?

 

 「福音」がどんな内容の知らせかと言うと、大体以下のことです。イエス様がゴルゴタの十字架の上で人間の罪の神罰を人間に代わって受けて死なれた。この彼の犠牲のおかげで人間が神から罰を受けないで済む道が開かれた。さらに神は、十字架で一度死なれたイエス様を計り知れない力で復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉を私たち人間のために開いて下さった。以上が「福音」の内容です。つまり、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事にかかわる良い知らせが「福音」と呼ばれるようになったのです。

 

ところが、本日の日課ではイエス様はまだ活動を開始したばかりです。十字架も復活もまだ先のことです。それなのにエヴァンゲリオンを「神の福音」や「福音を信じなさい」と訳すのは、少し気が早いのではと思われます。エヴァンゲリオンは「福音」だけでなく「良い知らせ」の意味もあるのだから、ここは「良い知らせ」と訳した方がいいのではないか?(参考までに各国の聖書の訳を見てみると、英語訳の聖書NIVは「神の良い知らせ」、「良い知らせを信じなさい」good newsと訳して「福音」gospelではありません。スウェーデン語の訳も「神の知らせ」、「知らせを信じなさい」(budskap)です。福音(evangelium)ではありません。フィンランド語の訳は「神の福音」(evankeliumi)、「良い知らせを信じなさい」(hyvä sanoma)と使い分けています。ドイツ語の訳は意外にも日本語訳と同じで両方とも「福音」と訳していました。)

 

十字架と復活の出来事が起きる前だから、エヴァンゲリオンを「福音」ではなくて「良い知らせ」と訳した方がいいのではないかと言うと、じゃ、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とはどんな知らせなのかという疑問が起きます。(もちろんイエス様はギリシャ語ではなくアラム語で話したので、発音した言葉はエヴァンゲリオンではなかったのですが、書かれた記録はギリシャ語のものしか残っていないので、それに基づくしかありません。)

 

イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」の内容は、旧約聖書イザヤ書52章7節から53章12節を見ればわかります。それを見ていくことにします。まず最初の52章7節に次のように言われています。

 

「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足(רגלי מבשר)は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え(טוב מבשר ) 救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」

 

伝えるべき「良い知らせ」の内容は、「平和」、「救い」、「神が王になる」ことの3つです。「平和」ヘブライ語のシャロームשלוםは意味がとても広く、「救い」も含みます。それで、ここの「良い知らせ」の内容は、「救い」と「神を王に戴く国」の二点に絞ってよいと思います。イザヤ書の続きを見ていくと、この「救い」の内容と、そして、それが「神を王に戴く国」と関係することがわかります。

 

続きのイザヤ52章8-12節を見ると、神がイスラエルの民に向かって、捕囚の地バビロンから祖国に帰還せよ、と呼びかけます。神は民の祖国帰還を実現させ、自分の力を諸国民に示します。つまり、良い知らせに言う「救い」とは、イスラエルの民が神の力でバビロン捕囚から解放されて祖国帰還を果たし、そこで神を王として戴く神の国が実現するということです。

 

ところが、これに続く52章13節から53章12節までを見ると、「救い」の内容が少し違ってきます。そこには有名な「主の僕」が登場します。その者は目を背けたくなるほど惨めな姿をしている。しかし、それは私たちの痛みと病をかわりに背負ったためにそうなったのであり、私たちの罪の神罰を代わりに受けたためにそうなったのであった。そのおかげで私たちは神と平和な関係を持てるのであり、まさに彼が受けた傷によって私たちは癒しを受けたのであると。53章11節で神は次のように述べられます。「私の義なる僕は、多くの者が義なる者になれるようにした。彼らの罪を自ら背負うことによってそうした。」「義なる者」とは、神の目に相応しい者、神の前に立たされても大丈夫な者という意味です。主の僕が人間の罪を自ら背負うことで、人間は神の目に相応しい者になれたというのです。そうすると、ここでの「救い」は先ほどみたような、イスラエルの民がバビロン捕囚から祖国復帰して神を王として戴く神の国が到来するという意味ではなくなっています。むしろ、神の僕の犠牲によって罪が赦され神罰が免れるということが「救い」の内容になって、神の国というのもそういう罪の赦しが支配しているところになります。

 

このイザヤ書52章7節から53章12節までの箇所で言われる「救い」ですが、バビロン捕囚がもうすぐ終わりそうという紀元前500年代の終わりの人々にとっては、イスラエルの民の捕囚からの解放と祖国帰還がそれを意味すると考えられました。解放と帰還が実現すれば、それはただちに神が王として君臨する神の国の実現だったのです。その場合、身代わりの犠牲で人々を神罰から救う「主の僕」とは誰のことかというと、異国の地に連行された捕囚の民を指すと考えられました。イスラエルの民が長い歴史の間に重ねた罪の結果、罰としてバビロン捕囚が起きたのであり、民が異国の地で辛酸を舐めるという罰を受けることで罪の償いが果たされてまた元に戻れるようになったと考えられたのです。

 

ところが、祖国に帰還しても神の国は実現しませんでした。ということは「救い」も実現しませんでした。確かにエルサレムの神殿と町は再建されました。しかし、ユダヤ民族はペルシャ帝国、アレキサンダー帝国という大国の支配下に置かれ続け、一時独立を取り戻した時はあったものの、ほどなくしてローマ帝国の支配下に入ってしまいました。このように実態は諸国民も恐れおののく神の国からは程遠いものでした。加えて、神殿で行う礼拝も果たして救いの実現なのかと疑問視する声も民の間から出るようになりました。このことは、マラキ書やイザヤ書の終わり56-65章に垣間見ることが出来ます。そうしているうちに神の国とは実は今の世の天と地が新しい天と地に創造し直される日に現れるという預言もでてきました。イザヤ書の終わりやダニエル書にそれらが窺えます。

 

そういうわけで、イザヤ書52章7節から53章12節までの預言は未完だったと理解されるようになったのです。それでは、いつこれらの預言が実現することになるのか?神の国を待ち望む人たちがそう問うていた、まさにその時にイエス様が歴史の舞台に登場したのです。イエス様が「信じなさい」と言う「良い知らせ」とは、神が旧約聖書の中で約束した救いと神の国の到来についての知らせでした。神の約束を信じなさいとイエス様は言われたのです。なぜなら、これからイエス様本人が「主の僕」としてその約束を果たすことになるからです。神の約束についての「良い知らせ」はまさにイエス様の十字架と復活の業の後で「福音」として結晶したのです。。

 

3.神の国はイエス様とセットで来た!

 

 イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた」と言われました。それについてみてみましょう。「時は満ちた」の「時」とは、ギリシャ語でカイロスκαιροςという言葉です。これは何か特別な事が起きる時、定められた時を意味し、時間の流れを意味するクロノスχρονοςと区別されます。「時は満ちた」というのは、起きるべきことが起きる時がついに来た、機は熟した、ということです。洗礼者ヨハネが投獄された時がその「時」になりました。ヨハネがもはや人々に「罪の赦しに導く悔い改めの洗礼」をすることができなくなった、それでイエス様にバトンタッチして「罪の赦し」そのものを確立してもらう段階に入ったということです。ヨハネは悲劇的な運命を辿りますが、主の道を整える役割は果たしました。

 

 「神の国は近づいた」というのは、どういうことでしょうか?「神の国」とは「天の国」とか「天国」とも言い換えられます。言葉だけでみると、空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」とは、今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。そうすると「神の国」は、私たちの世界からすれば見えない裏側の世界みたいです。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られたというのが聖書の立場です。それなので神から見たらこちらの方が裏側でしょう。万物の造り主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはしませんでした。そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大なものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間の救いを実現したことでしょう。

 

そこで、イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26-29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を創造して、そこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。そう言いますと、「神の国」は天国ですから、天国はこの世の終わりに現れてくるということになり、あれっ、キリスト教って、死んだらすぐ天国に行けるんじゃなかったの?という疑問が起きます。ところがキリスト教には「復活」の信仰があるので、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。このことは、普通のキリスト教会で毎週日曜日の礼拝で唱えられる使徒信条や二ケア信条でもちゃんと言われています(教会讃美歌366番「愛の泉」でも明確に歌われています)。

 

そうなると、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも宗教改革のルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということです。そうすると今度は、亡くなった人が安らかに眠っているんだったら、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるの?という疑問が日本人だったら起こってくると思います。でも、それもキリスト信仰では私たちの造り主である父なるみ神が私たちを見守ってくれるので心配無用です。

 

 話が脇道に逸れましたが、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、それはこの世の終わりが近づいたことを意味したのでしょうか?しかし、イエス様の時代はおろか、あれから2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様の言ったことは当たっていなかったということでしょうか?ところがそういうことではないのです。

 

 どういうことかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを意味していたのです。皆さんもご存じのように、イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり、悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まって困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。

 

 実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せ味あわせたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神に労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、そこに迎え入れられた人の目から神が全ての涙を拭い取るところです。つまり、この世の人生で被った不正義や損失が最終的に神によって償われ、不正義や損失をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえうまく行かなくとも無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。

 

 このように神の国とは、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死さえもなく、永遠の平和と安心があるところです。さて、イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。

 

 ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反する罪を持つようになってしまいました。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしたり宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできず、自ら神聖なものに変身して神と対等になることなどできません。

 

 この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。それは、最初に述べたように、旧約聖書に約束された良い知らせが実現して福音として結晶した出来事でした。私たち人間は、イエス様の十字架と復活が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いが自分のものとなるのです。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦してもらったから神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。神との結びつきが確立されているので、たとえこの世を去っても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるようになります。こうしたこと全ては、神が自分のひとり子も惜しまないくらいに私たちのことを思って下さってたがゆえになされたことです。多くの人がこのことに気づきますように。

 

4.方向転換の悔い改め

 

イエス様は、「良い知らせ」を信じなさいと勧める時、「悔い改めなさい」とも勧めました。「悔い改める」はギリシャ語でメタノエオ―ですが、基本的な意味は「考えを改める」とか「方向転換する」という意味です。信仰の言葉で言えば、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになることを意味します。それなので「悔い改め」は、何か一人で閉じ籠って反省しまくっていることではなく、あくまで神に向き合うという勇気ある振る舞いです。

 

「悔い改め」についてルターが的確に教えていますので、それを引用します。

「イエス様は自分を信じる全ての者に、方向転換の悔い改めをしなさい、と言われる。その意味は、信仰者の生涯は休むことのない方向転換の悔い改めであるということである。そうなるのは、我々が生きる限り神の意思に反しようとする罪が我々の肉の内に留まるからであり、また洗礼の時に注がれた聖霊に攻撃を仕掛けてくるからである。聖霊もまた罪に対して攻撃をする。イエス様を救い主と信じることで神から義なる者と認められた人は、その行いの全てが方向転換の悔い改めに関係したものになる。なぜなら、罪に反抗する善い意志が備わったからだ。

方向転換の悔い改めが止まるということはありえない。それは、律法がこれは罪だと明らかにするものを我々は絶えず取り除こうとするからだ。罪はイエス様の十字架の業のおかげで赦されたものになっていて、本当は我々を支配する力を失っている。イスラエルの民はカナンの地に入った後でもその地の敵対者たちを追い払わなければならなかった。それらを追い払うことの方が、その地に入ることよりも難しかったのである。

それと同じように、絶え間ない方向転換の悔い改めによって内に残る罪を取り除くことの方が、キリスト信仰者になって罪に宣戦布告することよりも難しいのである。このために、聖なる者たちでさえ、罪が内に残っていることを自覚して悲しんだのであり、神が律法を通して彼らの良心を苦しめた時、彼らは罪を嘆いたのである。」

 

兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しの恵みを受けると、良心はこのように罪に対して敏感になります。しかし、敏感な良心はゴルゴタの十字架を目にするたびにヘリ下った心になり深い安堵を覚えます。これが方向転換の悔い改めです。敏感な良心を持ってこの世で生きる限り、罪の自覚は繰り返し起こります。だから方向転換の悔い改めも絶えず続くのです。しかし、これは堂々巡りではありません。ずっと一つの方向に向かって進んでいます。向かう先は復活の日の永遠の命です。良心がゴルゴタの十字架に続いてあの空っぽの墓を目にすると私たちの進む道は真っ直ぐに伸びていることがわかります。その最終目的地に着くともはや方向転換の悔い改めはなっています。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

2021年1月27日水曜日

イチジクの木の下に (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021年1月17日 顕現節第二主日

 

サムエル記上3章1節-10節

コリントの信徒への第一の手紙6章12-20節

ヨハネによる福音書1章43-51節

 

説教題 「イチジクの木の下に」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

今日の福音書の個所はフィリポとナタナエルがイエス様に出会った出来事についてです。イエス様はまずフィリポに付き従うようにと声をかけます。フィリポとイエス様の間に何かやり取りがあったのでしょう。その後でフィリポは自分と同じガリラヤ地方出身のナタナエルにイエス様について次のように話します。自分はモーセ律法と預言書に書かれている方を見た、ナザレ出身のヨセフの息子イエスがその方だ、と。それに対してナタナエルは、一体ナザレから何か良いものが現れるだろうか、などと疑いをはさみます。フィリポは、一緒に来て自分の目で見てみろ、とナタナエルを連れていきます。ナタナエルのこのナザレに対する疑いは何なのだろうと考えさせられます。後にイエス様が自分の故郷の町であるナザレに行って宣べ伝えを行った時、人々は受け入れなかったばかりか、ある教えに躓いて怒り狂った群衆が雪崩を打ってイエス様を崖から突き落とそうとさえしました。なんだかある国の国会議事堂に暴徒がなだれ込んだことを思い起こさせますが、そんないきり立つ気質が支配する町だったのかもしれません。

 

さて、ナタナエルはフィリポに言われたとおりにイエス様のところに行きました。彼が近づいてきた時にイエス様は言われました。ギリシャ語原文のニュアンスを出すとこうです。見よ、彼こそ本当にイスラエル人と呼ぶのに相応しい(後注1)。それは偽りがないからだ。イスラエル人つまり神の民の一員に相応しい。その理由として偽りがない、欺きがない、つまり神に対して自分を包み隠すことなく正直であろうとしているということです。ナタナエルは、どうしてイエス様は自分をそのような者であるとわかったのかと聞き返します。イエス様の答えは次のようなものでした。フィリポがお前に呼びかける前に私はお前がイチジクの木の下にいるのを見た、と。これがナタナエルの問いの答えになっているのかわかりにくいですが、ナタナエルは、あなたは神の子です、イスラエルの王です、と告白してしまいます。これは一体どういうことでしょうか?会う前に自分がどこにいたかを言い当てられて驚いたということでしょうか?それに対してイエス様は、お前がイチジクの木の下にいたのを見たと言ったからそう信じるのか?お前はもっと大きなことを目にすることになる。天が開き神の天使たちが人の子の上に降ったり天に上ったりするのをだ、などと言います。

 

 このやり取りは一見すると、ナタナエルはイエス様の千里眼に驚いたので、彼のことを神の子、イスラエルの王と信じたというふうに理解できます。でも、これではイエス様はよくありがちな宗教団体の教祖とあまりかわりありません。イエス様は病気を癒す奇跡も行ったので、教祖になるのにはうってつけです。しかし、こういうイエス理解は正しい理解でしょうか?実は、イエス様とナタナエルのやり取りには、単に千里眼を見せつけられて信じるようになったということをはるかに超えた大きくかつ深いことがあります。本日の説教ではそのことを明らかにしていきたいと思います。

 

2.ガリラヤの男たちは既にユダヤでイエス様と出会っていた!

 

 イエス様とナタナエルのやり取りが大きくて深いことがわかるためには、イエス様が弟子たちをどう呼び集めたかについて少し詳しく見る必要があります。本日の個所のすぐ前ではイエス様がアンデレとペトロの兄弟と出会った出来事が記されています。聖書をよく読んでおられる方はちょっと首をかしげるところではないでしょうか?あれ、アンデレとペトロがイエス様と出会うのはガリラヤ湖の岸辺ではなかったっけ?漁を終えた二人にイエス様が付き従うようにと声をかけ、二人は網を置いて従って行ったのではなかったか?そうマルコ福音書とマタイ福音書には記されていたではないか?(ルカ福音書はもう少し違っていて、アンデレとペトロは漁を終えていたが、イエス様の勧めでもう一度舟を出します。それでも出来事はガリラヤ湖の岸辺です。)

 

 ところがヨハネ福音書では出会いの場所はガリラヤ湖ではありません。どこだったでしょうか?アンデレは洗礼者ヨハネの弟子になっています。洗礼者ヨハネはユダヤ地方のヨルダン川のほとりにいます。ガリラヤ地方から少なくとも50キロくらいは離れています。洗礼者ヨハネの弟子になったということは、ヨハネから洗礼を受けたということです。アンデレとペトロそれにフィリピの3人は本日の個所で言われるように皆ガリラヤ地方のベトサイダの出身です。ナタナエルもガリラヤ地方出身で町はカナです。ヨハネ21章2節にそう言われています。カナは、あのイエス様が結婚式の祝宴で水をぶどう酒に変えた奇跡を行った町です。

 

 そうすると4人の男たちは皆ガリラヤ地方の出身者ということになります。なぜガリラヤの男たちがこの時そろってユダヤ地方にいたのでしょうか?特にアンデレとペトロは漁師です。漁をほったらかしにして何をしていたのでしょうか?アンデレが洗礼者ヨハネの弟子になったことから考えたら、4人はヨハネから洗礼を受けるためにユダヤ地方に出向いたことが見えてきます。そうすると彼らは既にそこでイエス様と出会っていたことになります。アンデレとペトロがガリラヤ湖の岸辺でイエス様に付き従うように言われて従って行ったというのは初めて会ったことではなく、既にユダヤ地方で会っていて、その時はまだ付き従いは起こらなかったが、ガリラヤ地方に戻ってきた後でイエス様の口から直接召命の声を聞いて、それでいよいよこの方と行動を共にする時が来たと覚悟を決めて付き従ったという構図が見えてきます。

 

 弟子たちがイエス様と既にユダヤ地方で会っていたというのは、信じられない感じがするかもしれません。しかし、使徒言行録1章を見るとこんな出来事があります。12弟子の一人イスカリオテのユダが欠けたので誰かを選んで補充しようということになった。その時、選ばれる条件になったのは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時から一緒だったということでした。「一緒だった」というのは、アンデレやペトロのように後日改めて付き従うことになった例もあるので、イエス様の洗礼の時からコンタクトがあった人ということでしょう。そういうわけで12弟子というのは皆、イエス様がガリラヤ地方に乗り込む以前にユダヤ地方でイエス様とコンタクトがあった人ということになります。それで、彼らはなぜその時ユダヤ地方にいたのかと言えば、それはもうヨハネから洗礼を受けるためだったとしか考えられません。

 

 洗礼者ヨハネの洗礼については先週の説教でもお教えしました。それは、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」です。その意味は、将来本当に罪の赦しが得られるために、神に背を向けて生きてきた生き方を方向転換して神の方を向いて生きる、その方向転換の印としての洗礼でした。罪の赦しそのものが得られる洗礼はまだです。それはイエス様が死から復活した後で命じた洗礼です。ところで洗礼者ヨハネの宣べ伝えを聞いた人たちは、いよいよ天地創造の神の怒りが爆発する日が来たと恐れおののきました。自分たちが持ってしまっている、神の意思に反しようとする罪を告白してそれから清められようと洗礼を受けたのです。ヨハネはこうした神の怒りを恐れて罪を自覚した人たちの悔恨を受け止めました。彼らが絶望に陥らないように、すぐ後に救い主が来るということに心を向けさせました。そのようにヨハネの洗礼はまさに来たるべき救い主をお迎えする準備をさせるものでした。そういうわけで12弟子というのは、洗礼者ヨハネの洗礼を受けて救い主を迎える準備をした者たちの中でもイエス様がさらに特別な任務を与えるべく呼び出した者たちだったのです。

 

3.希望している状態で救われたことになる

 

さあ、これで本日の個所のフィリポとナタナエルというのは、罪を告白して洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、罪の赦しを与えて下さる救い主を迎える準備ができた者たちだったということがわかりました。この背景を念頭に置いて、本日のナタナエルとイエス様のやり取りを見ていくと深いことが見えてきます。やり取りの中で、イチジクの木の下にいたということがありました。ナタナエルがまだイエス様に会っていない段階で彼がそこにいたことを見抜いたということですが、ここはそういう千里眼の能力の他に何か意味が見出せるでしょうか?それが見出せるのです。

 

まず、「イチジクの木の下に」ということに何か特別な意味があるのではないかと推測して、それを見つけてみることにします。聖書辞典で「イチジク」の項目を見てます。聖書辞典はいろんなものがありますが、私はフィンランドのアーペリ・サーリサロという古代オリエントの歴史言語学者のものがあるのでそれを見てみました。「イチジク」に関連する聖書の個所が沢山でてきます。その中で旧約聖書の中に「イチジクの木の下に」という表現はあるのかどうか、ひとつひとつ見ていきます。ここで旧約聖書のヘブライ語の原文の出番となります。どうして原文でないとダメなのかは後で述べます。

 

「イチジクの木の下に」は旧約聖書に5つありました。その中で本日のイエス様とナタナエルのやり取りに直接関係すると思われるものは3つあります(後注2)。列王記上5章5節、ミカ書4章4節、ザカリア書3章10節で、3つともヘブライ語は「ブドウの木とイチジクの木の下に」と言っています。ただし、新共同訳ではザカリア書3章10節のところを「木の下に」と言わずに「木陰に」と訳しています。しかし、ヘブライ語の句は直訳すると「木の下に」です。「木の下に」でも「木陰に」でも意味は同じじゃないかと言われるかもしれませんが、イエス様の言い方は「木の下に」です。そういうわけで、ヘブライ語の原文を見ると、イエス様と同じ言い回しをしている個所が旧約聖書に2ヵ所ではなく3ヵ所あるとわかります。一致する個所が多ければ多いほど蓋然性が高まります。

 

それでは、「イチジクの木の下に」にいることには何か特別な意味があるのでしょうか?列王記上5章5節では、ソロモン王の時代にユダヤ民族の王国が平和と繁栄を謳歌したことを象徴する言い方として用いられています。イチジクは葉が大きく太陽の光を遮ってくれる安らぎを与える木です。さらに栄養価の高い果物を実らせるので「イチジクの木の下に」いるというのは祝福された状態を意味するのです。ところがミカ書とザカリア書では、祝福が現状を意味するものではなくなって、未来の状態を意味するものになります。それは、ダビデ王・ソロモン王の祝福に満ちた王国が滅亡した後、王国が将来復興してイスラエルの民が再び「イチジクの木の下に」いられる状態になることを預言するものです。このように「イチジクの木の下に」は、実際にあった祝福された状態から、現在は荒廃してしまったが将来祝福された状態になるという希望を表わします。

 

そこで、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた人たちというのはどういう人たちかと言うと、自分自身も世界も神の意思に反する罪のために荒廃した状態にあると認め、将来罪が赦されるという恩寵が神から与えられて荒廃した状態から脱して祝福された状態に入れる、そういう希望を抱いていた人たちです。ナタナエルは神に対して自分を包み隠さず正直であろうとした人なので、その希望は人一倍強かったでしょう。まさにそのような時、そのような希望を抱いていた時に目の前に現れた方が突然、お前がイチジクの木の下にいるのを見た、などと言ったのです。イエス様がこの言葉を他でもないナタナエルに言ったというのは、ナタナエルが「イチジクの木の下に」ということを身近なものにしていたからでしょう。イエス様はそれを見抜いてナタナエルの心に訴える言葉をかけたのです。

 

つまり、ナタナエルは本当はイチジクの木の下にはいなかったが、ああ、いつ預言書に言われるような祝福された状態に入れるのだろうか、とため息をついていたことをイエス様に見抜かれたということです。もちろん、実際にイチジクの木の下にいて、木を見上げてそういう思いを抱いていた可能性も否定できません。いずれにしても大事なことは、人間が罪を赦されて神から祝福された状態に入るという純粋な願いをナタナエルが持っていたことをイエス様が見抜いたということです。もし場所を言い当てたという千里眼だけなら、別に何の木でもよかったでしょう。イチジクの木でなければならないという旧約聖書の事情があったのです。

 

さて、ナタナエルは洗礼者ヨハネに罪を告白して方向転換の印としての洗礼を受けました。あとは罪の赦しを受けて祝福された状態になるのを待つだけです。その待っている状態にある、つまりイチジクの木の下に入れる日を待っている時にイエス様は、お前がイチジクの木の下にいるのを見た、などと言うのです。本当はまだな筈なのに。これは一体どういうことでしょうか?

 

これは、使徒パウロがローマ8章24節で言っていること、キリスト信仰者は希望している状態でもう救われたのだと言っていることと同じです。どういうことかと言うと、まず、キリスト信仰者が希望することと言ったら、復活の日に目覚めさせられて天地創造の神からは何のお咎めもなく復活の体を着せられて神の御国に永遠に迎え入れられることです。これがキリスト信仰で言う救いです。このことを希望している状態でもう救われたと言うのはなんと気の早いことかと呆れかえられるかもしれません。希望しているんだったら救いはまだ先のことではないか、それなのに希望している状態で救われたなどと言うのはおかしいではないかと。

 

しかしながら、キリスト信仰では希望している状態で救われたというのは真理なのです。というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたら最後、その人は復活に至る道に置かれて、自分から振り払ってしまわない限り、その道を神に守られ導かれながら進むことになるからです。無敵の神に守られ導かれるのですから、目的地への到達は確実です。だから、希望している状態でもう救われたということになるのです。ここで、希望している状態が救われた状態に転化できたのは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼のおかげということを忘れないようにしましょう。

 

ナタナエルに話を戻します。彼は罪を告白して罪の赦しを与えて下さる方を待ち望んでいます。その意味でまだ祝福された状態にいません。イチジクの木の下にいません。それを希望している状態にいます。まさにその時、お前はもうイチジクの木の下にいる、祝福された状態にあると言われる方が現れたのです。希望している状態でもう救われたのだと言うのです。ナタナエルとしては、それが本当のことであることを体得しなければならなくなりました。でもどうやって出来るでしょうか?それはもう、そのように言ってくれた方がカギを握っていると信じてその方に付き従って何をなさるかを見届けなければならないということになったのです。そして彼が見届けたのは、神のひとり子が人間の罪を全部引き取って神罰をゴルゴタの十字架の上で人間に代わって受けたということ、そしてその三日後に神の力で死から復活させられて復活に至る道を人間に開いて下さったということでした。

 

このようにナタナエルがイエス様を信じたのは千里眼的な能力に恐れ入ったからではありませんでした。旧約聖書にある神の人間に対する約束が実現するカギをイエス様が握っていると信じたからでした。

 

4.神は決して見捨てない

 

希望している状態で救われたということが言えるのは、天地創造の神の守りと導きがあるので復活という目的地への到達が確実になっているからでした。でも、到達を確実にする神の守りと導きは本当にあるのでしょうか?それが本当にあるということをイエス様はナタナエルとのやり取りの終わりで述べるのです。やり取りの終わりを見ると、天が開けて天使が降ってきたり昇って行ったりするということが言われていて、神の守りや導きことは何も言われていないと言われてしまうでしょう。しかし、イエス様はここで神の守りと導きは絶対にあると言われているのです。どうしてそんなことが言えるのか?それは、この天使の昇り降りというのは、創世記28章にあるヤコブが荒野で夢を見た時の出来事であることを思い出すとわかります。ここまで言えば、聖書を読んでいる人たちは閃くのではないでしょうか?

 

夢を見たヤコブに神は次のように言いました。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」神がこれを言った時のヤコブはどんな状況だったでしょうか?父イサクを通して受けられる祝福を兄エサウから取ってしまったことでエサウの怒りを買い命を狙われるまでになってしまい、ヤコブは命からがらの逃避行の最中でした。とても神に守られているなどと思えない状況でした。しかし、神はそうではないのだと励ましたのです。長い年月の後でヤコブは逃避先の異国の地で築いた財産と家族を引き連れて故郷に戻ります。そしてエサウと劇的な和解を果たします。神は本当に約束を果たしたのです。

 

そういうわけで、天使が降り昇りをするというのは神は決して見捨てないということを象徴しているのです。ヤコブの時はイエス様の十字架も復活もまだありませんでした。それでも神は見捨てず守り導きました。私たちの場合はそれらがあります。イエス様は天使の降り昇りは自分に向かって起きると言っていました。それは、神が私たちを見捨てずに守り導いて下さることにおいて、イエス様はなくてはならないということです。

 

兄弟姉妹の皆さん、私たちはイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼のおかげで神の子とされました。私たちは子なのですから、父なる神は子を見捨てず守り導いて下さるということはもっと自信をもってよいのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注1)αληθωςは形容詞(まことの)ではなく副詞(まことに)であることに注意。

(後注2)すみません、「イチジクの木の下に」は5カ所ではなく、ここにあげている3ヵ所だけでした。直接関係ないと言った2ヵ所は私が勘違いしてメモしてしまったものでした。お詫びして訂正いたします。

3ヵ所については間違いありません。

・列王記上5章5節 ותחת תאנתו →「イチジクの木の下に」

・ミカ4章4節   同上

・ザカリア3章10節 ואל-תחת תאנה    →「イチジクの木の下に」(前置詞が二重になっていますが同じ意味です。)