2017年6月14日水曜日

三位一体の予感 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2017年6月11日(三位一体主日)スオミ教会

イザヤ書6章1-8節
コリントの信徒への第二の手紙13章11-13節
マタイによる福音書28章16-20節


説教題 三位一体の予感


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所は「イエス様の宣教命令」と呼ばれるところです。ここにはキリスト信仰者にとって大事なことが二つあります。一つは前半の「~しなさい」というイエス様の命令です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」このイエス様の命令がもとで、キリスト信仰者が世界各地に出向いて福音を宣べ伝えて教会を建てる原動力となりました。フィンランドは人口550万程度の小さな国ですが、国教会系のミッション団体と非国教会系のものをあわせて600人近い宣教師を世界各地に派遣しています。近年では福音伝道ということよりも発展途上国に人道支援をするミッションも増えましたが、それでも重点は福音伝道、新たな教会の設立、既にある教会に対する支援ということに置かれていると思います。最近ではインターネットを使って母国にいながらいろんな国の言語を駆使して福音を発信する伝道も行われています。宣教師たちに、どうしてその仕事をするのか、と聞くと、おそらく100%の人がこのマタイ28章のイエス様の宣教命令をあげるでしょう。

本日の福音書の箇所のもう一つの大事なことは、終わりの部分の「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエス様の約束です。「いつも」というのは、ギリシャ語の原文では「全ての日々」で、つまりイエス様が毎日共にいてくださるということです。キリスト信仰者に、聖句の中でどの言葉から励ましを受けますか、と聞くと、おそらくこの言葉は筆頭に挙がるものの一つではないかと思います。イエス様とは、私たち人間が天地創造の神から罰を受けないで滅びてしまわないようにと、私たちの罪を全部背負って十字架の上まで運び上げて、そこで私たちにかわって罰を受けて死なれた方です。そして一度死なれて葬られたにもかかわらず、神の計り知れない力で復活させられて死を超えた永遠の命の扉を私たちのために開いて下さった方です。そのイエス様が世の終わりまで毎日私たちと共にいて下さる、とおっしゃられるのです。果たして私たちには、これ以上に勇気づけられる言葉はあるでしょうか?

 ここで一つ疑問が起きるかもしれません。あれ、イエス様って、確か復活された後、40日間地上にいて弟子たちに御自分を現して、その後で天の父なるみ神のもとに上げられたんではなかったっけ?そして、世の終わりの再臨される日までは父なるみ神の右に座しているんではなかったっけ?そうならば、どうやって毎日私たちと共にいることができるのだろうか?天と地上の間をひっきりなしに行ったり来たりするのだろうか?

実を言うと、キリスト信仰者はあまりそういう疑問を抱かないのではないかと思います。天の父なるみ神の右に座すイエス様と毎日私たちと共にいらっしゃるイエス様ということに矛盾を感じていないと思います。どうして矛盾を感じないですむかと言うと、それは聖霊というものがあるからです。イエス様は聖霊について次のように述べています。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14章16節)。「(しかし)弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(26節)。この、父なるみ神のもとから遣わされる聖霊がイエス様を救い主と信じる者たちと永遠に一緒にいる、そしてイエス様が教えたことを信仰者たちに思い起こさせてくれる、そういうわけで、一緒にいるのは聖霊なのですが、それはもう、イエス様が一緒にいるのと同じと言ってもいいくらいなのです。

イエス様は次のようにも述べています。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証をなさるはずである」(ヨハネ15章26節)。聖霊がイエス様について証をするというのは、聖霊が信仰者に対してイエス様が救い主であることをいつもはっきりさせるということです。信仰者が苦難や困難に陥った時、イエス様は天の高い所で傍観しているのではなく本当に助けて導き出してくれる方だと思い出させてくれるということです。それでイエス様は近くにおられることになります。イエス様が父なるみ神のもとから聖霊を遣わされて、その聖霊が私たちと共にいるということが、実はイエス様が共にいるということになっているのです。

そうは言っても、それは、聖霊を介してイエス様が私たちと共にいて下さる、ということだから、やはり共にいるのは聖霊なのではないだろうか?マタイ28章の宣教命令も、イエス様ではなくて聖霊が共にいる、と言った方が正確ではないだろうか?と言われてしまうかもしれません。

2.

それでも、キリスト信仰者にしてみれば、共にいるのがイエス様であろうが、聖霊であろうが、それは同じことなのだ、ということになるのではないかと思います。どうしてそうなるかと言うと、キリスト信仰者は神を三位一体の神として崇拝しているからです。三位一体とは、一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているということです。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格の三つです。これらが同時に一つになっているのが私たちの神です。とてもわかりにくいことです。理解しようとすると頭がパンクしてしまいます。

しかしながら、神とはそもそも、イザヤ書45章15節にあるように人間の目や考えから隔てられた「隠された」存在ですので、人間の理性や理解力で把握できたり説明できる筋合いのものではないのです。三位一体も同じで、理に適う説明をつくることは不可能です。聖書にそのように言われたら、そのように受け入れるしかありません。それは誇り高い人間にとって耐えがたいことかもしれません。しかし、信仰とはそもそも、人間には自分の能力の及ばない領域があるのだと観念させてしまうものです。そこから先は全知全能の神に任せよう、神が全部を知っているなら自分は知らなくてもいい、神が自分のかわりに知っていて下さればそれで十分、と神に任せてしまうものです。でも、そのように神に任せられるのは、神が信頼に値する方だとわからないとできません。どうして神がそこまで信頼できる方とわかるのか?それは、神が三位一体だからということが鍵になります。三つの人格とそれに応じた役割があってなお且つ一人の神でいられるというのは理解不可能なことですが、三つの人格と役割は何なのかということから見ていくと、神が信頼に値する方だとわかり、三位一体は受け入れられ易くなるのではないかと思います。

3.

最初に私たちが思い起こさなければならないことは、神と人間の間には途方もない溝ができてしまっているということです。この溝は、創世記に記されている堕罪の出来事の時にできてしまいました。「これを食べたら神のようになれる」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって最初の人間たちは神に禁じられた実を食べてしまい、善だけでなく悪をも知って行えるようになってしまう。そして死ぬ存在になってしまう。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」5章で明らかにしているように、死ぬということが人間は誰でも神への不従順と罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれになっています。人によっては、悪い考えは持つが行いに出さない強い人もいるし、また悪いことばかりするが時々良いこともするので憎めないという人もいます。しかし、何を言っても、全ての人間には、神への不従順と罪が脈々と受け継がれているのです。

このように人間を罪の存在とみなすと、神は全く正反対の神聖な存在です。神と人間、それは神聖と罪という全くかけ離れた二極の存在です。神の神聖さというのは、罪の存在である人間にとってどんなものであるか、それについて本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書6章はよく表しています。エルサレムの神殿で預言者イザヤは神を肉眼で見てしまう。その時の反応は次のようなものでした。「私は呪われよ、私は滅びてしまう。なぜなら私は汚れた唇を持つ者で、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が、王なる万軍の主を見てしまったからだ」。これが、神聖と対極にある罪の存在が神聖を目にした時の反応です。罪の汚れの存在が神聖な神を目の前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。イザヤと言えば、神から預言者として立てられて紀元前700年代の同時代の出来事だけでなく、将来の救世主イエス様のことや、さらなる将来の新しい天地創造のことまでも預言した大預言者です。そのイザヤにしてもこうなのですから、預言者でもない私たちにはなおさらのことです。

自分の罪と自分の属する民の罪を告白したイザヤに対して、神の御使いは燃え盛る炭火をその唇に押し当てます。イザヤは大やけどをして命を落とすことはありませんでした。焼き尽くされたのはイザヤの罪でした。イザヤは罪から清められたのでした。そして彼は神と面と向かって話ができるようになります。その話の内容は、本日の日課の後に続きます(イザヤ書6章9~13節)。

 ところが神は、罪ある私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝をそのままに放置することはしませんでした。溝を超えて私たちに救いの手を差しのばして私たちを罪の支配から解放しようとされたのです。それを、ひとり子イエス様をこの世に送られることで実行されました。最初にも述べましたように、イエス様は私たち人間が神から罰を受けないで済むようにと、私たちの罪を全部背負って十字架の上まで運び上げて、そこで私たちにかわって罰を受けて私たちの罪の償いをして死なれました。それと同時に罪自体もイエス様と抱き合わせに罰を受けて滅ぼされて、人間を永遠の死に至らせる力を失いました。このイエス様の十字架の業によって、人間は罪の支配から解放されるチャンスを与えられたのです。さらに神はイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命があることを示されて、その扉を私たちのために開いて下さりました。

私たちがこのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、神が差し出す手と私たちの手がしっかり結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に導いて下さり、復活の日に私たちを御許に迎え入れて下さいます。このような計画を立てて実行された神は、私たち人間を愛するがゆえにそうされたのです。それ以外に何も理由はありません。神の私たちに対する愛は、三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりします。まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪と不従順を受け継ぐようになってしまったために、今度はひとり子を用いて罪と死の支配力を無力にして、私たちをそこから贖い出して下さいました。こうして私たちは神の与えた罪の赦しの中で生きられるようになりました。ところが、人生の歩みのなかで試練に遭遇すると罪の赦しの中で生きていることを見失ってしまうことが起きてきます。しかし、その時は聖霊から導きや指導を受けられます。

 聖霊の導きや指導は、聖書の御言葉や洗礼や聖餐式を介して現れます。イエス様を救い主と信じる信仰をもって聖書を繙き、御言葉に聞くと、イエス様が教えられたことは意外なことに福音書だけではなくて、旧約聖書からも使徒書からも伝わってきます。イエス様が自分の口で教えられたことは福音書に記録されていますが、彼の教えは聖書全体の中でよりはっきりするのです。まさに聖霊が聖書の御言葉を介して働かれるからです。

 洗礼では、イエス様の神聖さ、神の義つまり神の目に相応しい状態、これらが白い純白の衣のように私たちの上に被せられます。ルターの言葉を借りれば、私たちの弱さがイエス様の強さに飲み込まれる瞬間であり、死が命に飲み込まれる瞬間です。もちろん洗礼を受けても、私たちには罪が残存しています。しかし、私たちが白い衣をしっかり纏って離さない限り、神は私たちのことを白い衣を纏った者として見て下さるのです。そこで悪魔が来て、この者は本当はとんでもない罪びとだ、隠し通そうとしても無駄だ、などと告発しても、洗礼の時に注がれた聖霊が反論してくれます。いや、この人はイエス様を救い主と信じる信仰に生き、白い衣をしっかりまとっている。神の罪の赦しの中で生きている者に対してそうでないなどと偽証ははやめなさい、と証人になってくれて弁護してくれます。まさに聖霊が弁護者と言われる所以です。

 キリスト信仰者が聖餐式でイエス様の血と肉を受ける時にも、洗礼の時と同様に、弱さがイエス様の強さに飲み込まれ、死が命に飲み込まれます。聖餐を繰り返すごとに私たちの内にある、罪に結びつく古い人は日々干からびていきます。反対に聖霊に結びつく新しい人は日々強められていきます。このように聖霊は、御言葉と聖礼典を介して新しい人を強めて私たちを日々清めて、いつの日か私たちが神聖な神の前に立っても大丈夫なようにしてくれます。聖霊の役割は私たちを神聖なものにする、神聖化する、ということは真にその通りです。

 そういうわけで、三位一体の神のそれぞれの人格と役割が明らかになりました。私たちが永遠の命を持てるようにと願って私たちを造られた神、つまり造り主としての人格です。その私たちから永遠の命を捨てさせようとする悪い力から私たちを贖いだして下さった神、つまり贖い主としての人格です。そして私たちが贖われた状態にしっかりとどまれるようにといつも清めて下さる神、つまり神聖化の人格です。それらは別々のようなものでも全部繋がっていて、一つでも欠けたら全体が成り立たなくなるものです。この全体こそは大いなる愛そのものです。まことに「神は愛なり」(第一ヨハネ4章8節)という言葉に全てのことが集約されています。

4.

三位一体のそれぞれの人格と役割については以上述べた通りです。それでは、それらはどこでどう繋がって、どのようにして一つでいられるのか?最初にも申し上げましたように、そうした疑問は人知で解明できたり言葉で説明できるものではありません。それですので、三位一体ということから神は大いなる愛だということが見えてきた、それで十分ではないでしょうか?三つが一つになっているメカニズムを解明しようとするよりも、三位一体から顕わになる神の大いなる愛、その愛を受けた者として、自分はどのように生きていくべきか?そういうことに注意を向ける方が生産的ではないでしょうか?そうだ、私は着せてもらったイエス様の純白な衣を手放さないようにしよう、それをしっかり纏っていこう、そのようにこの世を生きていこう。そういうふうになることを神は望んでおられるのです。

三位一体のメカニズムは私たちが解明しなくても、いずれ私たちに明らかにされる日が来ます。パウロは第一コリント13章の中で次のように述べています。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(12節)と述べています。鏡に映るものがおぼろというのは、どういうことかと言うと、それは当時の鏡が今のようにガラス仕様ではなくて銅とか金属製のものなので輪郭がはっきりしないのです。それがはっきり見える時が来るというのです。「そのとき」というのは、世の終わりの日、イエス様が再臨して死者の復活が起きて、新しい天と地が創造される日のことです。その時復活させられた者は神を前にして「顔と顔とを合わせて見ることに」なります。今は一部しか知らなくとも、そのときにははっきり知ることになる。これはまさに三位一体について当てはまります。三つがどうやって一つでいられるのか、どうせ「そのとき」に全てのことはわかるのだから、今はおぼろげながらでもそれで十分ではないでしょうか?把握できていることはおぼろげだが、それは後で必ず的中する予感ということでいいのではないでしょうか?

ルターは、神から与えられた宝物がどんなに途轍もないものであるかを今この世にいる段階では見えなくてもいいのだ、と教えます。もし全部見えてしまったら、私たちはきっと耐えられないだろう、と。三位一体についても同じことが言えると思います。ルターの教えを要約すると次のようになります(ガラテア4章7節「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」のルターの解き明しから)

「イエス様を救い主と信じる者は、善い行いをする前に既に永遠の命に与っているのだ。神に受け入れられて神の子とされているのだ。だから神に認められようと、また受け入れられようとして善い行いをするのではなく、既に受け入れられて必要なものは全て与えられているので、あとは自由な気持ちで、見返りを期待しないで善い行いをするのだ。そうするのは、ただ神の栄光が増し加わるためにするのであり、隣人の役に立つためにするのである。罰を恐れることも、報いを求めることも一切ない。キリスト信仰者というのは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して全てのものを手にしている。全てのものが一度に与えられたのだ。しかしながら、その与えられたものを目で見ることはできない。この世が罪に満ちて惨めな状態にあるので、イエス様を救い主と信じる信仰にとどまることで手にすることができるというのが精一杯である。考えても見なさい。そのようなとてつもない宝物が目の前に現れたら、この世にいる私たちはきっと耐えられないだろう。」

 神から与えられる大いなる宝物も、三位一体も、私たち人間の側では予感するだけで十分です。詳細は私たちが死から復活させられる日に明らかにされるので、今は予感のする方に向かって進んで行きましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2017年5月22日月曜日

創造主に目を向けよ、主は約束を守られる方 (吉村博明)

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2017年5月21日 復活後第五主日

使徒言行録17章22-34節
ペトロの第一の手紙3章8-17節
ヨハネによる福音書14章15-21節

説教題 「創造主に目を向けよ、主は約束を守られる方」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の説教は、使徒言行録17章の出来事、使徒パウロがギリシャのアテナにてイエス・キリストの福音を居並ぶ哲学者たちの前で弁明したことをもとに解き明しをしようと思います。皆様もお気づきのように、説教題が予告していたものから変わりました。最初の考えでは、哲学者たちからみて福音は愚かな教え、何かずれている馬鹿馬鹿しいものにしか聞こえなかった、それがパウロの弁明を聞いて、ずれているのは福音ではなくて人間の知恵の方であったとわかった人たちも現れた、そのことを中心にお話ししようと思っていました。それで、「ちょっとずれてるキリスト教」という題にしたのですが、説教をまとめているうちに、それまで陰に潜んでいたものが急に明るみに出るようなことが次々とあって、解き明しする聖句は同じなのですが、結局は「創造主に目を向けよ、主は約束を果たされる方」という題に落ち着きました。キリスト教がずれている、などと言うのは説教題として相応しくない、と聖霊の戒めだったのでしょう。もちろん、私の本意は、実はずれていないのだ、ということを言いたかったのですが、それだったらなぜ、「ぜんぜんずれていないキリスト教」にしなかったのか、と言われてしまったでしょう。でも、それも当たり前すぎてあまりいい題に思えません。いずれにしても、「ずれてる」、「ずれていない」など、あまりいい言葉ではなかったと思います。反省しています。

それでは、本題に入ります。パウロは二回目の地中海伝道旅行でギリシャのアテネに到達します。そこに着くまでは行く先々で、イエス様をメシア救世主と受け入れないユダヤ人たちの妨害や迫害に遭い、アテネへは避難するように着いたのでした。そこはそれまでの町々と少し様子が違っていました。まずユダヤ人の妨害がありませんでした。そのかわり、町中に溢れていたのは、金や銀や石を用いて人間の頭で考え作った神々の像、すなわち偶像でした。いくら異なる宗教の人たちのこととは言え、パウロは偶像崇拝を禁じる旧約聖書の伝統にしっかり立つ人ですから、心穏やかでなかったことは言うまでもありません(16節)。

パウロはまず、いつものように現地のユダヤ人会堂でイエス・キリストの福音を宣べ伝えます(17節)。その内容は記されていませんが、イエス様は神が約束されたメシア救い主である、そのことは彼の十字架の死と死からの復活で明らかになった、そういう内容だったのは間違いないでしょう。宣べ伝えた相手は、ユダヤ人と「神をあがめる人々」です。「神をあがめる人々」というのは、使徒言行録に何度も出て来るギリシャ語の言葉セボメノスσεβομενοςで、意味は、ユダヤ人以外の人つまり異邦人でユダヤ教に改宗した者を意味します。さらに、まだ改宗はしていないが、旧約聖書の天地創造の神を信じ出し、メシア救世主の到来を信じるようになった異邦人も指します(使徒言行録13章43節、50節、16章14節、17章4節、17節、18章7節)。地中海世界のユダヤ教の会堂には生まれながらのユダヤ人の他にこうした異邦人のシンパもいたのです。パウロは伝道旅行をする時は大抵、まず初めに彼らのところに行って、ナザレのイエスが約束のメシア救世主である、と伝えたのです。ところが、イエス様をメシアと受け入れないユダヤ人たちが追いかけるようにやってきては妨害、迫害する。会堂の人たちの多くは背を向けてしまいますが、会堂の外の人たち、つまり完全な異邦人に宣べ伝えると、そちらの方が受けがいいということが起きてくる。パウロの伝道旅行は大体そういう構図でした。

アテナではユダヤ人からの妨害、迫害はなかったということは驚くべきことでしたが、もっと驚くべきことが待っていました。それは、パウロがまさに旧約聖書の伝統と何の関わりもない人たちとその精神世界とに文字通り火花を散らすようにぶつかり合ったということです。どういうことかと言うと、町にはエピキュロス派、ストア派という哲学の学派を信奉する人たちが大勢いました。二つとも古代ギリシャ世界を代表する哲学の学派です。エピキュロス派というのは簡単に言えば、人間にとって最高の善は幸福である、それはこの世で獲得されなければならない、なぜなら、人間は死ねば魂は分解して原子になってしまうから、そういう唯物的な考え方をしていました。言葉は悪いですが、死んでしまえば元も子もない、だからこの世の中ではとことん幸福を追求しよう、ということでしょう。ストア派というのは、森羅万象を支配するものを「神」とするが、それは人格がなく心のない法則のようなものである。人間はその法則に従って生きることで道徳的になれる。ただ森羅万象には周期があって大きな火で焼かれては繰り返される。魂は死んだ後も残るが、それは人格のない神のところに行って時期が来たら森羅万象と一緒に焼かれてしまう。なんだか想像を絶する話ですが、これだけ大いなるものに支配されていると観念できれば、本能や欲望を抑えてひんやりと平静に生きていけるかもしれません。

 さて、パウロはユダヤ人会堂だけでなく、町の広場でもイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。そこで前述したような哲学者たちと議論することになりました。その結果、アレオパゴスというところに連れて行かれ、そこで宣べ伝えていることを弁明することになりました。アレオパゴスとは、もともとは裁判所の機能を果たす市民の代表の集会場でした。その頃は、いろいろな教えを監視する役割も果たしていました。

パウロはアレオパゴスの真ん中に立って、居並ぶ議員、哲学者の前で話し始めます。これは実は、世界史上、とても大きな意味を持つ出来事なのです。というのは、まさにこの時、二つの異なる文明が武力的にではなく知性的な衝突をしたからです。一方は、人間の理性の力を信じて万物を理性をもって推し測ったり説明しようとする哲学的なギリシャ・ヘレニズム文明、もう一つは、天地創造の神という万物を司る方自身が人間に対して自分のことや自分の意思・計画を啓示するという信仰のヘブライズム文明です。簡単に言うと、一方は人間の内部に備わる理性に重きを置く文明、もう一つは人間の外部から来る神の啓示に重きを置く文明、この二つがぶつかったのです。この二つは、水と油の関係と言っていいくらい、お互いに相いれないものです。ところが、こうした人間内部の理性を重んじる流れと、人間外部から来る神の啓示を重んじる流れの二つは本質的には対立するものであるはずなのだが、いつしか西洋文明の二大底流となって、それを複雑に形作っていくことになります。

 ところで、ギリシャ文明が理性を重んじる哲学的な文明で、パウロが持ち込んできたのは神の啓示を重んじる信仰の文明と申し上げました。そうすると、ギリシャ文明には沢山の神々がいたではないか、ゼウスを頂点に、美と愛の女神アフロディテだの、豊穣の神ディオニュソスだの、海の神ポセイドンだの、死者を陰府に導くヘルメス等々、沢山いたではないか?多神教のギリシャ文明も信仰の文明ではないか?それがどうやって理性を重んじる哲学的な文明と一緒になれるのか?詳しいことは専門家に聞かなければなりませんが、一つはっきりしていることは、これらの神々は、人間の思いや願いや恐れが結晶して出来たシンボルのようなものです。その意味で人間内部から生み出されたものです。それが人間の外部にあるように置かれて神として崇拝されるのです。そういうわけで、パウロがアテナで遭遇したものは人間知性の最先端を行く哲学と多神教の神々ではありましたが、実はそれらは皆、人間内部から生み出されたものなので、同じ範疇に入れても良いでしょう。

 ところで、私たちの聖書の神ですが、これは人間の思いや願いや感情の結晶、シンボルではありません。神は、完全に人間の外部にあって人間を含む万物を造った方で、人間の理性などで把握できる方ではない、というのが聖書の立場です。
 
2.

さあ、パウロは人間の理性に重きを置く人たちに、どう神の啓示を伝えたでしょうか?まず、アテネの皆さん、あなた方が信仰あつい方であることをわたしは認めます、と言って敬意を表します。お前たちは偶像崇拝ばかりして、どうしようもないやつらだ!というような高飛車な態度ではありません。彼は、ある祭壇に「知られざる神に」という文句が書かれていたことを取り上げ、それを取っ掛かりにして、自分はその神を知っているのでお教えしましょう、と言って話を始めます。「知られざる神」というのは、ギリシャ人の多神教信仰ではもちろん、前述したような名前と役割の神々がいろいろいるのですが、ひょっとしたらまだ見つかっていない神が他にもいるのではないか(正確に言えば、まだ作りだしていない神がいるのではないか、ということですが)、そういう不確かさがあるために、崇拝し忘れた神がないようにと念のためにそう書いたのです。そういう測り知れない神がいるという認識がギリシャ人にあることが、パウロにとってちょうどよい取っ掛かりとなったのです。

その測り知れない神とは、世界とその中の万物、私たち人間も含めた万物を造られた方である、まさに万物の創造主であり天地の主であるから、人間の手で造った建物なんかに住まないし、また何か足りない物があるかのように人間にいろいろ世話してもらう必要もない。逆に神こそが人間に必要なもの、命、息吹その他全てのものを与えて下さるのである。ここで、神は人間に大事にされるお人形さんみたいではなくなって、私たち人間の方が神に大事にされる、というふうに視点が逆転します。

次にパウロは、神が一人の人間から始めて諸民族を作りだした目的について話します。神はそれぞれの民族に歴史と居住する地域を決めた。新共同訳では、神は「季節を決め」たとありますが、少し怪しい訳です。原文の正確な意味は「前もって定められた歴史上の出来事を与えた」ということで、それぞれの民族の歴史の出来事は前もって定められているということです(英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書も大体そのような訳です。ルター訳は、ずばり諸民族の存続期間が定められると言っています。)

神は何のために諸民族に歴史と場所を与えたのかと言うと、それは、彼らに神を探させるためであった、とパウロは言います。果たしてそれはうまく行ったのか?ギリシャの人たちは神を探しているようで、実は偶像ばっかり作ってしまって全然見つけられていないではないか。新共同訳では、「彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」となっていますが、探し求めても実際は見いだすことはできていないのです。そういうわけで、原文は新共同訳のような楽観的な意味はないと思います(動詞のアオリスト・オパティブの意味をよく考えなければなりません)。「もし、手探りをしてでも、見つけることができるのならば」という、見つけるのはちょっと厳しいんじゃないかな、という意味だと思います。(ドイツ語もそういう訳です。英語、スウェーデン語、フィンランド語は「多分、見つけることができるかもしれない」と見つけられる可能性に踏み込んでいます。)

ところが、神は私たちから遠く離れた方ではない、本当は近くにおられてちゃんと見つけることが出来きる方である、見つけられれば、もう偶像など作る必要もなくなるのだ。神が私たちから遠く離れていないというのは、あなたたちの先人の詩人(紀元前300年代の詩人アラトス)の詩にも歌われているではないか?そのように言うことでパウロは、ギリシャの同胞にも同じことを考えた人がいました、と指摘して、人々の目を天地創造の神に向けさせようとします。問題の詩で言われていることは、「我々は神の中に生き、動き、存在する。我らもその子孫である」ということですが、これがギリシャ人も神が近くにおられると考えられる根拠として言われています。ところが、パウロが神は近くにあると言う意味とギリシャの詩人がそう言うのでは意味内容は全く異なっています。ギリシャの詩人が言っていることは、神は人間界にも自然界にもどこにでも浸透しているように存在するという汎神論の考えを表わしています。

パウロが神は近くにおられるというのは、神は人間一人一人に対して、途絶えてしまっていた結びつきを回復してあげようと働きかけて下さっている、そういうふうに、人間界、自然界という大きなことはひとまず脇において、一人一人の小さな人間に神が自分から働きかけている、そういう視点で神は近くにおられると言っているのです。神と人間の途絶えてしまった結びつきを回復させるための神の働きかけとは何か?それは、神のひとり子イエス様がこの結びつきを壊す原因となった人間の罪を全部背負って十字架の上に運び上げ、そこで人間にかわって神の罰を受けられたということ、これが神の働きかけです。イエス様が身代わりになって罰を受けたので、人間はそれに免じて罪を赦してもらえ、罪の赦しの中で生きられる可能性が開かれました。そこで、こうしたことをされたイエス様は真に救い主であると信じて洗礼を受ければ、その人は罪の赦しの中で生きられるようになり、罪の赦しを受けたので神との結びつきが回復して、その結びつきの中でこの世を生きられるようになります。神との結びつきがあれば、順境の時も逆境の時も神から絶えず守りと良い導きが得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手をもって御許に引き上げてもらえ、永遠に自分の造り主の許にもどることができるようになります。このように、神はひとり子イエス様を用いて実現した罪の赦しの救いを全ての人間に向けてどうぞ受け取って下さいと提供している、それで近くにおられるのです。そしてそれを受け取った人は、近くにいるどころが、まさに「その中に生き、動き、存在する」ようになるのです。ギリシャの詩人の詩の中で歌われる神の近さは、このような神からの人間に対する働きかけとそれを受け取ることから生じる近さではありません。近い、近い、と言っても何を根拠に言っているのかわかりません。

このようにパウロと詩人の考えは根本的に違っているのですが、パウロは見かけ上の共通点を切り口にして教え続けます。神の「子孫」と言っているギリシャの言葉ゲノスγενοςは少しわかりにくい言葉で、英語は日本語訳と同じ「子孫」、フィンランド語は「親族」、ドイツ語、スウェーデン語は「我々は神を起源とする」とまちまちです。要は、人間は神の血筋を引いていると言っておきながら、金や銀や石を使って人間の頭で考えて作った像を神にしてしまったら、じゃ人間はこんなものの子孫なのか、こんなものに起源を持つのか、つじつまが合わないではないか!君たちは自分で何をしているのかわかっていないのだ、なんと無知なことか!

ここでパウロはたたみかけます。「神はこのような無知な時代を、大目に見て下さいましたが」、大目に見ることは終わってしまったのである。それを知らせる出来事が起きたのである。何かと言うと、死者の復活という、天地創造の神の力が働かなければ起きないようなことが起きたのである。神は全ての人が「悔い改めるように、と命じておられます」とありますが、この「悔い改める」というのはギリシャ語のメタノエオーですが、これの正確な意味は「これまで神に背を向けていた生き方を改めて方向転換して神に立ち返る生き方をする」ということです。なぜ、神に立ち返る生き方をしなければならないか、と言うと、ここから先は旧約聖書の預言の世界に入っていきます。今あるこの世は初めがあったように終わりもある。今ある天と地はかつて神に創造されたものであるが、今の世が終わりを告げる時に神は新しい天と地に創造し直される。その時に死者の復活が起こり、新しい天と地の国に誰が迎え入れられて誰が入れられないかの審判が行われる。まさにそのために方向転換をして神に立ち返る生き方をしなければならない。もちろん、パウロはここまで立ち入っていませんが、神がこの世を裁く日を決めたということの詳細は実に旧約聖書の預言に基づいています。預言されたことが本当に起きるということが、一人の者の死からの復活が起きたことで確証が与えられた。そして、その者は最後の審判の日に裁きを司られる方である。

ここまで耳を傾けてきたアレオパゴスの議員たち、哲学者たちは、どう受け取ったでしょうか?彼らは、旧約聖書の伝統のない人たちです。天と地と人間その他全てを創造した神は、全ての民族の歴史と居住場所を定め、全人類の歴史の流れと常に共にある神である。全人類の歴史とその舞台であるこの世はいつかは終わりを告げ、新しい天と地に取って替わられる。これらのことは考えも想像もつかないことでしょう。これらは全て天地創造の神からの啓示として与えられたものでした。人間の理性で推し測って組み立てた宇宙像とはあまりにも異なっていました。もちろんパウロもそのことを知っています。それで、旧約聖書の伝統のない彼らにいきなり、ナザレのイエスはメシア救世主だったと言って始めなかったのでしょう。それにしても、死者の復活ということが彼らにとって一番の躓きの石になったようです。先にも述べたように、エピキュロス派にすれば人間は死ねば魂は原子に分解してしまうのだし、ストア派にしても魂はいつかは燃やされてしまう。加えて、神が人間を罪の支配から救い出そうという意思を持って計画を立ててひとり子をこの世に送ってそれを実行するというのは、人格を持たない法則のような神からあまりにもかけ離れています。

つまりは、理性の知性を磨きあげた人たちからみて、パウロの教えはあまりにもかけ離れすぎていてまともに受け入れられないものでした。ある者たちが嘲笑ったのも無理はありません。別の者は、いずれまた聞かせてもらうことにしよう、と言いますが、哲学者というのは疑問や関心があれば日が暮れるまでとことん議論し合う人たちです。そうしないでこう言ったのは、もうこれで十分、お引き取り下さい、ということを丁寧に述べたのではないかと思われます。人々は席を立ちました。パウロも恐らく、今日のところはこれ以上何を言っても無駄と思ったかもしれません。

3.

ところが、そうではなかったのです。何人かの人がパウロの後について行きました。ついて行った人たちの中で信仰に入った者が出たのです。信仰に入るというのは、イエス様を救い主と信じることですから、アレオパゴスを出て行った後で、パウロからさらに教えを聞いて、イエス様のことを聞いたのです。彼らがアレオパゴスでのパウロの話を聞いて、どのようにして、もっと聞いてみようと思うようになったのか、それについては何も記されていません。ただ、背景全体から考えると、次のようなことではないかと思います。

これまでずっと何かおかしいと思いつつも、何がどうおかしいのか、はっきりさせようにも、伝統の重みとか、知識人の言葉の重みとかに遮られて明確にできないでいた。例えば、自分たちが神に起源を持つと言いながら偶像を造って崇拝することの矛盾。そして、死んだら全て消滅してしまうとか、冷徹な法則の一部分のようにしか生きられないのなら、この世で生きる意味と目的は本当にあるのか?それが、パウロの教えから「知られざる神」が天と地と人間を創造した神で、人間に自分を見いだしなさいと働きかける神であるということ、この世を去っても消滅しない命があり、その命を生きられる世が来ること、それが本当に起こることの確証として一人の者が死から復活させられたということを聞かせられる。では、その者とは誰なのか?ここまで来たら、あとはイエス様がメシア救い主であるという福音を聞くことだけです。この福音を聞いた時、天地創造の神は約束されたことを守り、それを必ず実現される方であるとわかったでしょう。不確かさと変転極まりないこの世にあって、信頼して絶対に大丈夫な方がおられるというのは、何と励まされ勇気づけられることでしょうか?

兄弟姉妹の皆さん、私たちも同じ信頼を持つことができ、同じ励ましと勇気が与えられます。そのことを忘れないようにしましょう!

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン