2017年6月14日水曜日

三位一体の予感 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2017年6月11日(三位一体主日)スオミ教会

イザヤ書6章1-8節
コリントの信徒への第二の手紙13章11-13節
マタイによる福音書28章16-20節


説教題 三位一体の予感


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

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本日の福音書の箇所は「イエス様の宣教命令」と呼ばれるところです。ここにはキリスト信仰者にとって大事なことが二つあります。一つは前半の「~しなさい」というイエス様の命令です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」このイエス様の命令がもとで、キリスト信仰者が世界各地に出向いて福音を宣べ伝えて教会を建てる原動力となりました。フィンランドは人口550万程度の小さな国ですが、国教会系のミッション団体と非国教会系のものをあわせて600人近い宣教師を世界各地に派遣しています。近年では福音伝道ということよりも発展途上国に人道支援をするミッションも増えましたが、それでも重点は福音伝道、新たな教会の設立、既にある教会に対する支援ということに置かれていると思います。最近ではインターネットを使って母国にいながらいろんな国の言語を駆使して福音を発信する伝道も行われています。宣教師たちに、どうしてその仕事をするのか、と聞くと、おそらく100%の人がこのマタイ28章のイエス様の宣教命令をあげるでしょう。

本日の福音書の箇所のもう一つの大事なことは、終わりの部分の「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエス様の約束です。「いつも」というのは、ギリシャ語の原文では「全ての日々」で、つまりイエス様が毎日共にいてくださるということです。キリスト信仰者に、聖句の中でどの言葉から励ましを受けますか、と聞くと、おそらくこの言葉は筆頭に挙がるものの一つではないかと思います。イエス様とは、私たち人間が天地創造の神から罰を受けないで滅びてしまわないようにと、私たちの罪を全部背負って十字架の上まで運び上げて、そこで私たちにかわって罰を受けて死なれた方です。そして一度死なれて葬られたにもかかわらず、神の計り知れない力で復活させられて死を超えた永遠の命の扉を私たちのために開いて下さった方です。そのイエス様が世の終わりまで毎日私たちと共にいて下さる、とおっしゃられるのです。果たして私たちには、これ以上に勇気づけられる言葉はあるでしょうか?

 ここで一つ疑問が起きるかもしれません。あれ、イエス様って、確か復活された後、40日間地上にいて弟子たちに御自分を現して、その後で天の父なるみ神のもとに上げられたんではなかったっけ?そして、世の終わりの再臨される日までは父なるみ神の右に座しているんではなかったっけ?そうならば、どうやって毎日私たちと共にいることができるのだろうか?天と地上の間をひっきりなしに行ったり来たりするのだろうか?

実を言うと、キリスト信仰者はあまりそういう疑問を抱かないのではないかと思います。天の父なるみ神の右に座すイエス様と毎日私たちと共にいらっしゃるイエス様ということに矛盾を感じていないと思います。どうして矛盾を感じないですむかと言うと、それは聖霊というものがあるからです。イエス様は聖霊について次のように述べています。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ1416節)。「(しかし)弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(26節)。この、父なるみ神のもとから遣わされる聖霊がイエス様を救い主と信じる者たちと永遠に一緒にいる、そしてイエス様が教えたことを信仰者たちに思い起こさせてくれる、そういうわけで、一緒にいるのは聖霊なのですが、それはもう、イエス様が一緒にいるのと同じと言ってもいいくらいなのです。

イエス様は次のようにも述べています。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証をなさるはずである」(ヨハネ1526節)。聖霊がイエス様について証をするというのは、聖霊が信仰者に対してイエス様が救い主であることをいつもはっきりさせるということです。信仰者が苦難や困難に陥った時、イエス様は天の高い所で傍観しているのではなく本当に助けて導き出してくれる方だと思い出させてくれるということです。それでイエス様は近くにおられることになります。イエス様が父なるみ神のもとから聖霊を遣わされて、その聖霊が私たちと共にいるということが、実はイエス様が共にいるということになっているのです。

そうは言っても、それは、聖霊を介してイエス様が私たちと共にいて下さる、ということだから、やはり共にいるのは聖霊なのではないだろうか?マタイ28章の宣教命令も、イエス様ではなくて聖霊が共にいる、と言った方が正確ではないだろうか?と言われてしまうかもしれません。

2.

それでも、キリスト信仰者にしてみれば、共にいるのがイエス様であろうが、聖霊であろうが、それは同じことなのだ、ということになるのではないかと思います。どうしてそうなるかと言うと、キリスト信仰者は神を三位一体の神として崇拝しているからです。三位一体とは、一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているということです。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格の三つです。これらが同時に一つになっているのが私たちの神です。とてもわかりにくいことです。理解しようとすると頭がパンクしてしまいます。

しかしながら、神とはそもそも、イザヤ書4515節にあるように人間の目や考えから隔てられた「隠された」存在ですので、人間の理性や理解力で把握できたり説明できる筋合いのものではないのです。三位一体も同じで、理に適う説明をつくることは不可能です。聖書にそのように言われたら、そのように受け入れるしかありません。それは誇り高い人間にとって耐えがたいことかもしれません。しかし、信仰とはそもそも、人間には自分の能力の及ばない領域があるのだと観念させてしまうものです。そこから先は全知全能の神に任せよう、神が全部を知っているなら自分は知らなくてもいい、神が自分のかわりに知っていて下さればそれで十分、と神に任せてしまうものです。でも、そのように神に任せられるのは、神が信頼に値する方だとわからないとできません。どうして神がそこまで信頼できる方とわかるのか?それは、神が三位一体だからということが鍵になります。三つの人格とそれに応じた役割があってなお且つ一人の神でいられるというのは理解不可能なことですが、三つの人格と役割は何なのかということから見ていくと、神が信頼に値する方だとわかり、三位一体は受け入れられ易くなるのではないかと思います。

3.

最初に私たちが思い起こさなければならないことは、神と人間の間には途方もない溝ができてしまっているということです。この溝は、創世記に記されている堕罪の出来事の時にできてしまいました。「これを食べたら神のようになれる」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって最初の人間たちは神に禁じられた実を食べてしまい、善だけでなく悪をも知って行えるようになってしまう。そして死ぬ存在になってしまう。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」5章で明らかにしているように、死ぬということが人間は誰でも神への不従順と罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれになっています。人によっては、悪い考えは持つが行いに出さない強い人もいるし、また悪いことばかりするが時々良いこともするので憎めないという人もいます。しかし、何を言っても、全ての人間には、神への不従順と罪が脈々と受け継がれているのです。

このように人間を罪の存在とみなすと、神は全く正反対の神聖な存在です。神と人間、それは神聖と罪という全くかけ離れた二極の存在です。神の神聖さというのは、罪の存在である人間にとってどんなものであるか、それについて本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書6章はよく表しています。エルサレムの神殿で預言者イザヤは神を肉眼で見てしまう。その時の反応は次のようなものでした。「私は呪われよ、私は滅びてしまう。なぜなら私は汚れた唇を持つ者で、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が、王なる万軍の主を見てしまったからだ」。これが、神聖と対極にある罪の存在が神聖を目にした時の反応です。罪の汚れの存在が神聖な神を目の前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。イザヤと言えば、神から預言者として立てられて紀元前700年代の同時代の出来事だけでなく、将来の救世主イエス様のことや、さらなる将来の新しい天地創造のことまでも預言した大預言者です。そのイザヤにしてもこうなのですから、預言者でもない私たちにはなおさらのことです。

自分の罪と自分の属する民の罪を告白したイザヤに対して、神の御使いは燃え盛る炭火をその唇に押し当てます。イザヤは大やけどをして命を落とすことはありませんでした。焼き尽くされたのはイザヤの罪でした。イザヤは罪から清められたのでした。そして彼は神と面と向かって話ができるようになります。その話の内容は、本日の日課の後に続きます(イザヤ書6913節)。

 ところが神は、罪ある私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝をそのままに放置することはしませんでした。溝を超えて私たちに救いの手を差しのばして私たちを罪の支配から解放しようとされたのです。それを、ひとり子イエス様をこの世に送られることで実行されました。最初にも述べましたように、イエス様は私たち人間が神から罰を受けないで済むようにと、私たちの罪を全部背負って十字架の上まで運び上げて、そこで私たちにかわって罰を受けて私たちの罪の償いをして死なれました。それと同時に罪自体もイエス様と抱き合わせに罰を受けて滅ぼされて、人間を永遠の死に至らせる力を失いました。このイエス様の十字架の業によって、人間は罪の支配から解放されるチャンスを与えられたのです。さらに神はイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命があることを示されて、その扉を私たちのために開いて下さりました。

私たちがこのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、神が差し出す手と私たちの手がしっかり結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に導いて下さり、復活の日に私たちを御許に迎え入れて下さいます。このような計画を立てて実行された神は、私たち人間を愛するがゆえにそうされたのです。それ以外に何も理由はありません。神の私たちに対する愛は、三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりします。まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪と不従順を受け継ぐようになってしまったために、今度はひとり子を用いて罪と死の支配力を無力にして、私たちをそこから贖い出して下さいました。こうして私たちは神の与えた罪の赦しの中で生きられるようになりました。ところが、人生の歩みのなかで試練に遭遇すると罪の赦しの中で生きていることを見失ってしまうことが起きてきます。しかし、その時は聖霊から導きや指導を受けられます。

 聖霊の導きや指導は、聖書の御言葉や洗礼や聖餐式を介して現れます。イエス様を救い主と信じる信仰をもって聖書を繙き、御言葉に聞くと、イエス様が教えられたことは意外なことに福音書だけではなくて、旧約聖書からも使徒書からも伝わってきます。イエス様が自分の口で教えられたことは福音書に記録されていますが、彼の教えは聖書全体の中でよりはっきりするのです。まさに聖霊が聖書の御言葉を介して働かれるからです。

 洗礼では、イエス様の神聖さ、神の義つまり神の目に相応しい状態、これらが白い純白の衣のように私たちの上に被せられます。ルターの言葉を借りれば、私たちの弱さがイエス様の強さに飲み込まれる瞬間であり、死が命に飲み込まれる瞬間です。もちろん洗礼を受けても、私たちには罪が残存しています。しかし、私たちが白い衣をしっかり纏って離さない限り、神は私たちのことを白い衣を纏った者として見て下さるのです。そこで悪魔が来て、この者は本当はとんでもない罪びとだ、隠し通そうとしても無駄だ、などと告発しても、洗礼の時に注がれた聖霊が反論してくれます。いや、この人はイエス様を救い主と信じる信仰に生き、白い衣をしっかりまとっている。神の罪の赦しの中で生きている者に対してそうでないなどと偽証ははやめなさい、と証人になってくれて弁護してくれます。まさに聖霊が弁護者と言われる所以です。

 キリスト信仰者が聖餐式でイエス様の血と肉を受ける時にも、洗礼の時と同様に、弱さがイエス様の強さに飲み込まれ、死が命に飲み込まれます。聖餐を繰り返すごとに私たちの内にある、罪に結びつく古い人は日々干からびていきます。反対に聖霊に結びつく新しい人は日々強められていきます。このように聖霊は、御言葉と聖礼典を介して新しい人を強めて私たちを日々清めて、いつの日か私たちが神聖な神の前に立っても大丈夫なようにしてくれます。聖霊の役割は私たちを神聖なものにする、神聖化する、ということは真にその通りです。

 そういうわけで、三位一体の神のそれぞれの人格と役割が明らかになりました。私たちが永遠の命を持てるようにと願って私たちを造られた神、つまり造り主としての人格です。その私たちから永遠の命を捨てさせようとする悪い力から私たちを贖いだして下さった神、つまり贖い主としての人格です。そして私たちが贖われた状態にしっかりとどまれるようにといつも清めて下さる神、つまり神聖化の人格です。それらは別々のようなものでも全部繋がっていて、一つでも欠けたら全体が成り立たなくなるものです。この全体こそは大いなる愛そのものです。まことに「神は愛なり」(第一ヨハネ48節)という言葉に全てのことが集約されています。

4.

三位一体のそれぞれの人格と役割については以上述べた通りです。それでは、それらはどこでどう繋がって、どのようにして一つでいられるのか?最初にも申し上げましたように、そうした疑問は人知で解明できたり言葉で説明できるものではありません。それですので、三位一体ということから神は大いなる愛だということが見えてきた、それで十分ではないでしょうか?三つが一つになっているメカニズムを解明しようとするよりも、三位一体から顕わになる神の大いなる愛、その愛を受けた者として、自分はどのように生きていくべきか?そういうことに注意を向ける方が生産的ではないでしょうか?そうだ、私は着せてもらったイエス様の純白な衣を手放さないようにしよう、それをしっかり纏っていこう、そのようにこの世を生きていこう。そういうふうになることを神は望んでおられるのです。

三位一体のメカニズムは私たちが解明しなくても、いずれ私たちに明らかにされる日が来ます。パウロは第一コリント13章の中で次のように述べています。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(12節)と述べています。鏡に映るものがおぼろというのは、どういうことかと言うと、それは当時の鏡が今のようにガラス仕様ではなくて銅とか金属製のものなので輪郭がはっきりしないのです。それがはっきり見える時が来るというのです。「そのとき」というのは、世の終わりの日、イエス様が再臨して死者の復活が起きて、新しい天と地が創造される日のことです。その時復活させられた者は神を前にして「顔と顔とを合わせて見ることに」なります。今は一部しか知らなくとも、そのときにははっきり知ることになる。これはまさに三位一体について当てはまります。三つがどうやって一つでいられるのか、どうせ「そのとき」に全てのことはわかるのだから、今はおぼろげながらでもそれで十分ではないでしょうか?把握できていることはおぼろげだが、それは後で必ず的中する予感ということでいいのではないでしょうか?

ルターは、神から与えられた宝物がどんなに途轍もないものであるかを今この世にいる段階では見えなくてもいいのだ、と教えます。もし全部見えてしまったら、私たちはきっと耐えられないだろう、と。三位一体についても同じことが言えると思います。ルターの教えを要約すると次のようになります(ガラテア47節「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」のルターの解き明しから)

「イエス様を救い主と信じる者は、善い行いをする前に既に永遠の命に与っているのだ。神に受け入れられて神の子とされているのだ。だから神に認められようと、また受け入れられようとして善い行いをするのではなく、既に受け入れられて必要なものは全て与えられているので、あとは自由な気持ちで、見返りを期待しないで善い行いをするのだ。そうするのは、ただ神の栄光が増し加わるためにするのであり、隣人の役に立つためにするのである。罰を恐れることも、報いを求めることも一切ない。キリスト信仰者というのは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して全てのものを手にしている。全てのものが一度に与えられたのだ。しかしながら、その与えられたものを目で見ることはできない。この世が罪に満ちて惨めな状態にあるので、イエス様を救い主と信じる信仰にとどまることで手にすることができるというのが精一杯である。考えても見なさい。そのようなとてつもない宝物が目の前に現れたら、この世にいる私たちはきっと耐えられないだろう。」

 神から与えられる大いなる宝物も、三位一体も、私たち人間の側では予感するだけで十分です。詳細は私たちが死から復活させられる日に明らかにされるので、今は予感のする方に向かって進んで行きましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン