2025年5月13日火曜日

小羊の血で衣を白くされた者として (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2025年5月11日 復活後第四主日

 

使徒言行録9章36節-43節

ヨハネの黙示録7章9節-17節

ヨハネによる福音書10章22-30節

 

説教題 「小羊の血で衣を白くされた者として」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の箇所でイエス様は自分の羊について述べます。「わたしの羊は私の声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(10章27-28節、後注1)。イエス様の羊は、彼の声を聞き分けて従い、永遠の命を与えられて、この世においても次に到来する世においても滅ぼそうとする者から完全に守られている。そのような羊とは誰のことか?それは言うまでもなく、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて神との結びつきを持って生きるキリスト信仰者のことです。

 

 イエス様の「声を聞き分ける」とはどういうことか?死から復活して天に上げられたイエス様の肉声を私たちは直に聞くことはできません。しかし、イエス様が肉声で語った言葉は、弟子たちの目撃録・証言録となって福音書の中に収められています。もしイエス様を自分の救い主と信じないで、ただ単に歴史上の人物に留めて福音書を読むと、それはただの古代中近東の空想的歴史的な物語、または一種の道徳説話集にしかすぎなくなります。しかし、イエス様を自分の救い主と信じて読むと、それはこの自分を形作って命と人生を与えてくれた創造主の神が語りかける言葉になり、その神と自分との結びつきを取り戻してくれた救い主メシアの言葉になります。まさに彼が私たちに語りかける言葉になるのです。聖書の福音書以外の書物についても、使徒たちの手紙は復活の主が彼らに託したご自分の意思の集大成です。旧約聖書も、神のひとり子の受難と復活を通して人間に救いをもたらした神がどのような方であるかを前もって明らかにした書物群です。総じて聖書はイエス・キリストが至るところにいる書物です。聖書を繙くと、私たちはイエス様から直接言葉を聞くのと同じくらいに彼のことを知ることができるのです。

 

 イエス様はまた、彼の羊つまりキリスト信仰者をみな知っていると言われます。10章3節で、羊飼いのイエス様は「自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言っています。このようにイエス様は、私たち一人ひとりを名前で呼ぶくらいに私たちのことを個人的に知っているのです。ということは、私たちが日々何を考え、何をし、どんな状況に置かれて何を必要としているか全てご存知です。そして、何ものも彼の手から羊を奪い取ることはできないと言われる通り、信仰者を守る決意でいます。人生歩んでいろんな苦難や困難に遭遇するとキリスト信仰者と言えども、自分は本当に守られているのだろうかと疑いを持つことがあります。しかし、永遠の命を与えてくれた以上、その命が本当のことになるまで守り導くと言うのです。羊の方は彼の声を聞き分ける、つまり聖書の御言葉を心に留めてイエス様に従っていけば、永遠の命が本当のことになる地点までちゃんと送り届けてあげると約束しているのです。

 

 本日のもう一つの聖書の日課、黙示録の7章では小羊の血で衣を白くされた大勢の群衆が登場します。天使はヨハネにこの光景を見せることで、イエス様がキリスト信仰者を日々守り導き目的地まで送り届けてくれることは間違いないと示しているのです。今日は、黙示録のこの個所を通してヨハネ福音書にあるイエス様の約束が本当であることを見ていこうと思います。

 

2.小羊の血で衣を白くされて

 

 黙示録は、今ある天と地が消え去って新しい天と地が創造される時、その前後を通して何が起きるかについて記した預言書です。本日の箇所は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に」立つという場面です。玉座というのは、天地創造の神が座しているところ、小羊というのは神のひとり子、復活の主イエス・キリストのことです。場所は明らかに天の御国です。時は、今ある天と地がまだある時でしょうか?それとも新しい天と地が創造された時でしょうか?黙示録という書物は時間の流れが複雑です。出来事の順序が前後しているようなことが沢山あります。異なる時間に起こることが同時に起こっているようなこともあります。なので、この群衆が出てくる場面は新しい天と地が創造される前のことか後のことかについてはここでは考えないことにします。

 

 神の座する玉座と小羊の前に白い衣を身に着けた大群衆が集います。いろんな国民や民族の中から集まった、今風に言えばグローバルな集団です。彼らは何者か?天の長老がヨハネに教えます。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。

 

 「小羊の血」とは、言うまでもなくイエス様がゴルゴタの丘の十字架の上で流された血のことです。イエス様が流された血で衣が洗われて白くされた、というのはどういうことか?衣服を血なんかで洗ったら白くなるどころか赤くなってしまうではないか?

 

 イエス様が流された血で衣が白くされるとは次のことです。イエス様は、人間が神から罪の罰を受けないで済むようにと身代わりの犠牲の生け贄になって血を流して死なれました。つまり、イエス様は私たちの罪をご自分の血を代償にして償って下さったのです。だから私たちは、彼こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、彼の果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることができます。そうすると罪を償ってもらったことになるので、神からは罪を赦された者とみなされてそれで神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。イエス様が復活を遂げて切り開いてくれた永遠の命への道を私たちは神との結びつきを持って歩むことができるようになったのです。

 

 私たちに償ってもらわないといけない罪があるなんて、身に覚えはないと言う人もいるかもしれません。しかし、私たちは神に造られた最初の人間の堕罪の出来事以来、神の意思に反しようとする性向を受け継ぐようになってしまったというのが聖書の観点です。神の意思を凝縮したものに十戒があります。人を傷つけるな、妬むな憎むな、真実を曲げるな、夫婦関係を守れ等々いろいろあります。私たちは、行為で反することはしなくても、心の中で反したり言葉やその他の表現の仕方でこれらに反することをしてしまいます。それで私たちは皆、神のみ前に立たされたら罪を持つ者なのです。

 

 聖書はそのような罪は洗い落とさねばならない汚れであると言います。例えばゼカリヤ3章に汚れた衣が人間の罪を表わすという比喩があります。天使が大祭司ヨシュアから汚れた衣を脱がせ、天使はそれでヨシュアから罪を取り去ったと言います(イザヤ1章18節も参照のこと)。生け贄の血が清めの役割を果たすことについては、モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出してシナイ半島の荒れ野にて神と契約を結ぶ時、神聖な神の面前に出ても大丈夫なように雄牛の血を民に振りかけたという出来事があります(出エジプト24章8節)。エルサレムに神殿が建設されてから後は、民が個人的な罪や国民的な罪の償いのために動物の生け贄の血を捧げるということが普通に行われるようになりました(レビ記17章11節)。

 

 しかしながら、動物の生け贄の血で本当に罪が償われるのか、本当に神の御前に立たされてやましいところがない、潔癖だと言える者になれるのかどうかについて意外な事実が隠されていました。生け贄の血にせよ、その他の罪の償いや清めの定めにせよ、それらは実は真の罪の償い、清めの予行演習のようなものにすぎなかったのです。まだ本番ではなかったのです。「ヘブライ人への手紙」9章で、エルサレムの神殿やそこでの礼拝儀式は「まことのものの写しにすぎない」(23節)と言われています。「まことのもの」が来たら無用になると言うのです。神殿では罪の償いのために生け贄の捧げを繰り返し繰り返し行っていました。ところが、一回限りの犠牲で全ての人間の罪を未来永劫にわたって償うという、とてつもない生け贄が捧げられたのです。それが、神の神聖なひとり子、イエス様の十字架の死だったのです。

 

 こうしてイエス様の犠牲のおかげで神から罪を赦されたと見てもらえるようになった人は、かの日に神のみ前に立つことになっても、私はイエス様を救い主と信じて生きてきました、神聖なあなたの前で私がすがれるのはイエス様しかいません、と言えば、神は、わかっている、心配はいらない、とおっしゃって下さるのです。このように人間が神聖な神のみ前に立たされても大丈夫でいられるのは、神の目に相応しい者になれているからです。ただし、それは私たちが自分の力で相応しい者になれたということではありません。イエス様が果たしてくれた償いと、それをその通りですと受け入れる信仰のおかげでなれたのです。ヘブライ9章で、動物の生け贄の血では人間の良心までは清められない、せいぜいみかけの清めにすぎない、イエス様の血こそ人間の良心を死んだ業から清めると言われます(9~10、14節)。ガラテア3章27節では、洗礼を受けてキリストに結ばれた者は皆、キリストを着ていると言われます。ローマ13章14節では、洗礼の後でも残存する罪と戦うためにキリストをしっかり身に纏うことが大事だと言われます。

 

 このようにキリスト信仰者とは、イエス様の血によって罪の汚れを洗い落とされて、イエス様という神聖な衣を頭から被せられて、それで神の目に相応しいとされている者です。

 

 白い衣を着た群衆というのは、イエス様の血で衣を白くされることを自分の事にしたキリスト信仰者のことです。彼らは「大きな苦難を通って来た者」です(14節)。「大きな苦難」とは、黙示録が書かれた背景を考えると迫害を指すと考えられます。しかし、迫害以外にも「大きな苦難」はあります。ここで注意しなければならないことは、迫害による殉教にしろ、何か別の苦難のために命を落としたにしろ、神の御許に迎え入れられるのは、信仰者自身が流した血のご褒美・見返りではないということです。彼らの衣が白いのはイエス様の流した血のおかげです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は誰でも同じように白い衣を纏えるので、自分からそれを手放さない限りみな同じように神の御許に迎え入れられるのです。

 

3.衣を手放さないように神が支えてくれる

 

 この衣を白く保ち、手放さずにしっかり纏い続けるにはどうしたらよいかということについて考えてみたく思います。

 

 何が白い衣を汚し、それを手放させようとするのか、二つのことが考えられます。一つは、罪が頭をもたげてしまうということがあります。もう一つは、自分の罪が原因ではないのに苦難や困難に陥ってしまうということがあります。

 

 まず、白い衣を汚そうとしたり手放させようと力はまさに罪の力です。私たちは、イエス様の果たされた私たちの罪の償いと彼を救い主と信じる信仰によって、罪を洗い落され罪の支配から解放されました。にもかかわらず、神の意思に反するような思いや考えを持ってしまうことがあります。言葉に出してしまうこともあります。最悪の場合は行いに出してしまうこともあります。これは、イエス様の白い衣を頭から被せられても、内側にはまだ罪が残っていることによります。罪は十字架の上でイエス様と一緒に断罪されたのだから、本当は人間と神との結びつきを失わせる力がなくなっています。それでもまだ力があるかのように思わせようと信仰者を惑わします。どうしたら惑わされないですむか、それはもう、罪が頭をもたげたら、それを罪として認め、本気で跳ねのけるしかありません。心の目をゴルゴタの十字架に向けて、罪はあそこで断罪されたことを思い出します。それを思い出されてしまった罪は地面にたたきつけられます。その瞬間、衣を手放させようとした強風はやみます。神は私たちがこのように衣をしっかり纏っていることを見て、よしとされるのです。その時、私たちは汚れがついてしまったのではと心配した衣は以前と変わらぬ白さを持って輝いていることに気づきます。

 

 そもそも、イエス様の白い衣は汚れなど付着することは不可能で、罪が私たちの目を惑わして汚れが付着しているように見せかけて、纏っていても意味がないと私たちをあきらめムードにして手放させようとしているのです。イエス様が果たした償いの業と彼が纏わさせてくれた白い衣は、私たちに罪が頭をもたげようがもたげまいが全く無関係に同じ力強さ同じ輝きを誇っているのです。

 

 もう一つ、白い衣を手放させようとするものに、私たちが自分自身の罪が原因ではないのに苦難や逆境に陥ることがあります。難しいことですが、一つ忘れてならないことは、イエス様が果たした償いの業と彼が私たちに纏ってくれた衣に力がなくて、私たちが苦難と困難に陥るのを阻止できないということではありません。

 

 「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」ではじまる詩篇23篇の4節に「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あながた共にいてくださる」と謳われます。主がいつも共にいてくださるような人でも、死の陰の谷のような暗い時期を通り抜けねばならないことがある、災いが降りかかる時があると言うのです。主がともにいれば苦難も困難もないとは言っていません。そうではなくて、苦難や困難が来ても、主は見放さずに、しっかり共にいて共に苦難の時期を一緒に最後まで通り抜けて下さる、だから私は恐れない、と言うのです。実に、洗礼の時に築かれた神との結びつきは、私たちが罪の赦しの恵みに留まり、聖書の御言葉から絶えずイエス様の声を聞き、聖餐に与ることをしていれば、何があっても失われず保たれているのです。

 

4.勧めと励まし

 

 天の長老は「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と言いました。新共同訳では「彼らは大きな苦難を通って来た者」、「通って来た」と過去の形になっています。ギリシャ語の原文をみるとなぜか「苦難の中から来る者」、「来る」と現在形になっています(後注2)。はて、群衆は一通り苦難を通って来た後で天の神のみ前にいるのだから「通って来た者」と言った方が正確ではないか?(後注2)なぜ「苦難を通って来た者」ではなくて、「現在、苦難の中から来る者」なのか?

 

 これは、天の長老とヨハネの視点が将来のところから今のこの世に戻って、今この世で苦難を通っている人たちを念頭に置いているからです。ヨハネが目の前で見せられている終末の出来事は遠い将来のことで、そこから過去を振り返って見れば「苦難を通って来た者」になります。ところが現在形で「今、苦難の中から来ている者」と言うと、ヨハネの同時代のこの世で苦難を通っている人を指すことになります。加えて、ヨハネの後の時代に黙示録を手にする人みんなにとって自分の同時代の苦難を通っている人を指すことになります。このように、この箇所を読んだり聞いたりする人は、自分が今通過している苦難の現実のすぐ反対側には神のみ前に群衆が集まっている現実があって、二つの現実が紙一重のようになっていることに気づくのです。衣を白くしてくれた小羊は私たちを命の水の源に連れて行ってくれる、そこは太陽の灼熱のような苦難や困難はなく、神が全ての涙を拭って下さるところである、そのような場所が今の現実のすぐ反対側にもうあるのです。復活の主が必ずそこへ連れて行って下さるのです。まさに、ヨハネ福音書の日課の個所のイエス様の言葉、私たちに永遠の命を与え、私たちは彼の手のうちに守られ何ものも私たちを彼の手から奪い取ることはできないというのは真にその通りなのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

(後注1)ヨハネ10章29章はとても厄介な個所なので今回は扱いませんでした。

 新共同訳では「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり」となっていて、偉大なものは父なる神がイエス様に与えたものです。

 フィンランド語訳では「羊たちを私に与えてくれた父は他の何よりも偉大であり」となっていて、偉大なものは父なる神です。

 さあ、偉大なものは神なのか?神が与えたものなのか?英語訳(NIV)とドイツ語訳(ルター訳)はフィンランド語訳と同じです。スウェーデン語訳は新共同訳と同じです。この違いの原因は、ギリシャ語の原文がどっちにも取られるものだからです。私としては、「全てのものより偉大なもの」と言ったらやはり神が来るのが自然ではないかと思います。少し時代が下ったギリシャ語の写本もそのように修正(?)を施しています。

(後注2)13節の長老の質問では、これらの者は「どこから来たのか?」と過去の形になっていることに注意。ギリシャ語原文もそうです。それなので、答え方も分詞の現在形ερχομενοιでなく、アオリストのελθοντες(現在完了形ελελυθοτες?)の方が普通だったら筋が通るのではないかと思いました。だからここは普通ではないことがあるのです。

2025年5月5日月曜日

現代日本における神の愛と栄光の表し方に関する一考察(吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士) 


スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2025年5月4日 復活節第三主日

 

使徒言行録9章1節-20節

黙示録5章11節-14節

ヨハネ21章1-19節

 

説教題 「現代日本における神の愛と栄光の表し方に関する一考察」

 


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

(なんだか説教題は文系の学生の卒論のテーマみたいになってしまいましたが、内容的にはまさしくそれなのでこの説教題でいきます。)

 

 本日の福音書の日課は復活されたイエス様がガリラヤ湖にて弟子たちの前に現れた出来事です。ペトロと他の6人の弟子たちがガリラヤ湖で夜通し漁をしましたが、何も獲れませんでした。体も疲れ、お腹も空いて、がっかりぐったりの状態だったでしょう。そうしているうちに夜が明け始めました。その時、イエス様が湖岸に現れました。弟子たちのいる舟と湖岸の間は200ペキス、今の距離にして86メートル程です。弟子たちは現れた男に気づきますが、初めはイエス様だとはわかりません。それが、イエス様とのやり取りを通してわかるようになります。

 

 まず、イエス様は弟子たちに「子たちよ、何か食べ物があるか」と聞きます。「子たちよ」というのはギリシャ語原文で大人の男たちに呼びかける言い方です。それで、新共同訳のように直訳せずに「君たち!」とか「お前たち!」というのが正確でしょう。「何か食べ物があるか」というのも、実はギリシャ語原文では、「ありません」という否定の答えを期待する疑問文です(μηで始まる)。なので、「君たちには何も食べる物がないんだろ?」と訳さなければなりません。「ないんだろ?」と聞かれて弟子たちは「そうだよ。ないんだよ」と答えたのでした。答えを受けてイエス様は「それじゃ、舟の右側に網を打ってみなさい。そうすれば見つかるから」とアドバイスします。

 

 このやりとりから推測するに、弟子たちは、かつて主が群衆を従えていた時と違って、今は処刑された男の仲間だと知られたくない状況になってしまった。以前のように気前よく食事の提供も受けられなくなってしまい、自分たちで食べ物を探すしかない状況になってしまった。彼らは空腹だったでしょう。イエス様は、舟の右側に網を打てば食べる物が見つかると助言しました。そして、見つかるどころか、溢れかえるくらいでてきたのです。

 

 まさにこの時、弟子たちは、かつてガリラヤ湖岸の町ゲネサレトで起きた出来事が脳裏に蘇ったでしょう。ルカ5章1-11節に記述されている出来事です。夜通し漁をしたにもかかわらず何も獲れなかったと言うペトロにイエス様は沖に漕いで網を下ろしてみなさいと命じました。そうしたら舟が沈まんばかりの魚がかかったという出来事です。福音書の記者ヨハネが、あれは主だと叫びました。それを聞くや否やペトロは一足先に復活の主に会おうと湖に飛び込もうとします。が、自分が裸同然であることに気づきます。これでは失礼にあたると思ったのか、慌てて服を着てそれで飛び込んでしまいました。ずぶ濡れになってしまうのに。ペトロらしい行動様式ではないでしょうか?

 

 こうして弟子たち全員が岸にあがると、イエス様は炭火をおこしてすでに魚を焼き始めていました。パンもありました。イエス様は、「さあ、来て、朝食をとりなさい」とねぎらいます。復活の主に再び会えただけでなく、その主から今まさに必要としているものを準備してもらって、弟子たちの喜びはいかほどのものであったでしょう。このように、肉体的、精神的または霊的に疲労困窮した者をねぎらい励まし力づけることはイエス様の御心です。マタイ11章28節で、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われる通りです。

 

2.神の人間に対する愛 アガペーの愛

 

 食べ終わった後でイエス様がペトロに「他の誰よりも私を愛しているか?」と聞きます。ペトロは「愛しています」と答えますが、三度同じことを聞かれたので、信じてもらえないと思って悲しくなります。イエス様が三度聞いたのは、彼が裁判にかけられた時ペトロが群衆の前でイエス様のことなど知らないと三度言ってしまったことに対応すると言われます。「あなたを愛しています」と三回言わせることで、三度拒否したことを赦す意味があると言われます。それは表面的な意味です。本当はもっと深い意味があります。

 

 イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞と、ペトロが「愛しています」と答える時の動詞が違っています。イエス様が聞く時の動詞はアガパオーαγαπαωですが、ペトロが答える時の動詞はフィレオ―φιλεωです。新共同訳では両方とも「愛する」と訳しているのでこの区別が見えません。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。ところが三回目になると、イエス様は突然動詞を変えてペトロと同じフィレオ―で聞きます。そしてペトロはフィレオ―で答えます。このことを少し見ていきましょう(後注)。

 

 「愛」とか「愛する」という言葉はいろんな意味が含まれるので厄介です。古代ギリシャ語は、異なる愛の形を異なる言葉で言い表していました。男女間の性愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものはフィラデルフィアφιλαδελφια、愛する対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時はフィラントローピアφιλανθρωπιαという言葉がありました。ペトロの「愛しています」フィレオーという動詞は、このフィラデルフィア、フィラントローピア兄弟愛、同志愛、人間愛に関係する愛です。

 

 それでは、イエス様が「愛しているか」と聞いた時のアガパオーはどんな愛でしょうか?ヨハネ15章13節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーと同じ愛の形です。アガパオー、アガペーの愛は、自分の命を犠牲にすることも厭わない愛ということになります。

 

 そう言うと、兄弟愛、同志愛、人間愛にも大切な人のために自分を犠牲にすることがあるのではないか、と言われるかもしれません。ここは、日本語の言葉に囚われず、もう一度ギリシャ語の言葉を見てみます。兄弟愛、同志愛のフィラデルフィアと人間愛のフィラントローピアは、新約聖書の中での使われ方を見ると、親切とか思いやりとか友好的とか敬意を払うとか、そういう人間同士が平和な関係でいられる態度ないし行動様式の意味で使われています(ローマ12章10節、使徒言行録28章2節、形容詞として第一ペトロ3章8節、副詞として使徒言行録27章3節、ただしテトス3章4節は神のものとして)。それなので、それらには自己犠牲を厭わない位の強い愛はないと思います。

 

 それで、親が子供の命を守るために自分を犠牲にするということが起これば、それはアガペーの愛になります。聖書は、天地創造の神の人間に対する愛はまさにそういう愛だと教えます。神の愛が自己犠牲をも厭わない愛ならば、神は人間を何の危険から守るためにどんな自己犠牲を払ったのでしょうか?「ヨハネの第一の手紙」4章10節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言われる「愛」、「愛する」はまさにアガペー、アガパオーです。その愛は、人間が神との結びつきを持てないようにしていたもの、人間がこの世を去った後で神の御許に迎え入れられないようにしていたもの、そうした妨げを神がひとり子を犠牲にして全て取っ払って下さったということです。その犠牲がゴルゴタの十字架で起こったのでした。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いが私たちの償いになり、私たちは神から罪を赦された者と見なされ、こうして神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この世を去る時も神との結びつきを持ったまま去り、復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられるようになるのです。

 

 イエス様とペトロの対話に戻ります。イエス様はペトロに「愛しているか」と聞いた時、神が人間に示したような深い愛で愛しているかと聞いたのです。それに対してペトロは兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛で愛していますと答えたのです。ペトロは、他の弟子が見捨てても私はあなたを見捨てません!などと威勢の良いことを言っておきながらいざとなると見捨ててしまいました。自己犠牲からほど遠い自分を露呈してしまった手前、あまり偉そうなことは言えません。そんなジレンマが神的な愛を避けて人間的な愛で答えたことに窺われます。イエス様はペトロに「お前は神的な愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「人間的な愛で愛しています」と答えたのです。イエス様はもう一度同じ質問をし、ペトロは同じ答えをします。そして三度目の質問。今度はイエス様は神的な愛アガパオーで聞かず、ペトロと同じ人間的な愛フィレオーで聞きます。「じゃ、お前は人間的な愛だったら私を愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペトロの反応は、イエス様!私がフィレオーで愛することも疑うのですか?あんまりです!という様子が窺われます。

 

 ここでイエス様がなぜ三回聞いたのかを考えてみましょう。ペトロは三回知らないと言ったので、一回の答えでは信用できなかったというのは本当でしょうか?実はイエス様は既に一回目の答えでペトロを信用していたのです。どうしてかというと、ペトロの答えの後で「わたしの小羊を飼いなさい」と言ったからです。イエス様の小羊、つまりイエス様を救い主と信じる者たちが神との結びつきに留まって復活の日を目指してこの世を進んでいけるように彼らを守り導きなさい、ということです。つまり牧会をしなさいということです。「わたしの小羊」と言うように、牧会者は信徒をイエス様から預かって牧会するのですから、その責任はとても大きいです。ペトロにそのような責任を委ねたのです。もし、信用していなかったら、こんな大きな責任は委ねなかったでしょう。三回繰り返すことで、イエス様を愛することは牧会の基礎であるということを心に刻みつけたのです。

 

3.私たちのイエス様に対する自己犠牲の愛

 

 それでは、私たちがイエス様を愛する愛とはどんな愛でしょうか?イエス様は人間のために自己犠牲の重荷を背負われました。私たちがイエス様のために自己犠牲することがあるのでしょうか?ここでヨハネ14章21節と23節でイエス様が、彼を愛する人は彼の掟、彼の教えたことを守る人であると言っていることに注目します。イエス様の掟、イエス様が守るようにと教えたことは何か?ヨハネ13章34節と15章12節のイエス様の言葉に凝縮されています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。イエス様には自分を犠牲にしてまで神と人間の結びつきを回復してあげようと駆り立てた愛がありました。その愛で互いに愛し合いなさいと言うのです。お互いをそういうふうに愛することができれば、イエス様を愛することになると言うのです。

 

 それではイエス様を自己犠牲に駆り立てた愛で互いに愛するとはどういうことでしょうか?それは、イエス様のおかげで神との結びつきを持てて生きられるようになったのだから今度は、隣人も同じように神との結びつきを持ててこの世を生きられるように、そしてこの世を去ったら今度は復活させられて神の御許に迎え入れられるようにすることです。

 

 そこで、もし隣人がキリスト信仰者ならば、その人が既に持つ神との結びつきを失わないように支え助けてあげることです。キリスト信仰者が苦難や困難に陥ることはしょっちゅうです。それで信仰者を苦難や困難から助ける時は、神との結びつきがしっかり保たれるようにするということが視野に入ります。

 

 イエス様が互いに愛し合いなさいと言ったのは弟子たちだったので、隣人がキリスト信仰者でない場合は関係ないような感じがしてしまいますが、よく考えるとそうではありません。天の父なるみ神は、イエス様の弟子たちだけではなくて、全ての人間が神との結びつきを回復できるようにとイエス様をこの世に贈られて十字架の死に引き渡したのです。それなので、隣人が信仰者でない場合でも苦難や困難から助ける時は、神との結びつきを持てるようにすることが視野に入ります。信仰者の場合は結びつきを「保てるようにする」ですが、信仰者でない場合は「持てるようにする」のです。いずれの場合も助ける時は自分の持てる力や時間や財産を使わなければならないことは覚悟に入れる必要があるでしょう。宗教改革のルターは、財産や命を失う可能性すらあると言っているほどです。これが、イエス様に対する自己犠牲の愛ということです。

 

4.神の栄光を現わすということ

 

 ペトロの三回目の答えの後でイエス様は謎めいたことを言います。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」それについてこの福音書を書いたヨハネは少し不気味な解説を付け加えます。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」このイエス様の言葉を見てみましょう。

 

 キリスト教会の古い言い伝えによれば、ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで殉教の死を遂げました。ちょうどキリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられる時、私は主と同じ死に方をする値打ちはないと兵隊たちに言ったところ、じゃ、これで満足だろう、と頭を下にして逆さまに十字架にかけられたということです。イエス様が「お前は年を取った時、両手を広げ、別の者がお前を縛って行きたくないところに連れて行く」と言ったのは、後世の人から見たらペトロが殉教の死を遂げたことを意味すると事後的にわかります。まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、なんのことかわからなかったでしょう。ヨハネは福音書を書いていた時に既にペトロの処刑を目撃していたか、またはその知らせを耳にしたのでしょう。それで、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活の主がペトロに言ったことはその通りになったのだと事後的にわかって、それで解説をしたのです。

 

 ペトロの殉教は神の栄光を現すものであるとヨハネは解説しました。これは私たちを重苦しい気持ちにさせます。神の栄光を現すというのはこれくらいのことをすることなのかと。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのかと。ここで注意しなければならないのは、天の父なるみ神の栄光や栄誉というものは、被造物である私たちの業績や達成に左右されないということです。私たちの業績が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然として既に栄光と栄誉に満ちています。それならば、私たちが神の栄光を現すというのはどういうことでしょうか?

 

 それは、私たちが自分の言葉や行いや生き方をもって、神の動かすことのできない真理を人前で証しすることです。つまり、あなたは何者かと聞かれたら、私は次の三つの者であると答えることです。まず第一に、私は天と地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者であると答えることです。第二に、私はその神のみ前に立たされることになっても、神のひとり子イエス・キリストの犠牲のおかげで罪を赦されて大丈夫でいられるようになった者であると答えることです。そして第三には、私はこの世の人生の向こうで復活の日に神の御許に永遠に迎え入れられるところに向かう道を今歩んでいる者であると答えることです。以上の三つを胸をはって答えることです。何も聞かれなければ、そのような者として胸をはって生きるだけです。

 

このような神の真理を胸張って証しするように生きようとすると、いろんな反対に遭遇します。というのは、この世というのは本質的に造り主を忘れさせる自分中心主義と、この世を超えた永遠を忘れさせるこの世中心主義に染まっているからです。翻って、福音というものは、まさにこの世を超える永遠と万物の造り主に目を向けさせるものです。従って、この世が福音と福音に生きる者に敵対するのは避けられません。それで、もし神の真理など取り下げないと命はないぞという迫害の時代だったらそれこそ殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?自分は造り主が送られたひとり子の犠牲によって罪が償われて新しくされたということをどうして取り下げられましょうか?自分は神に見守られてこの世を生き御許に迎え入れられる道を今歩んでいるということをどうして取り下げられましょうか?ペトロは、「取り下げない」という生き方をしたら一巻の終わりという時代状況にあって、それを貫いてこの世の人生を終えたのです。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのです。

 

 私たちの生きている時代状況はどうでしょうか?神の真理に従って生きようとしたら、どんなことに遭遇するでしょうか?良心や信条の自由が保障されている現代社会ならば何も問題なく平穏無事でしょうか?人間はどこから来てどこに行くのかという根源的な問いについて、キリスト信仰と違う見解が社会の多数派を占めていれば、いろいろな軋轢が出て来るでしょう。多数派にいれば考えなくて済むようなことを信仰者は沢山考えなければならなくなるでしょう。でも、そういう余計なことを抱え込むことが現代社会では神の栄光を現わすことになると思います。信仰者が沈黙していたら多数派は何も気づかず、みんな同じ考えだと勘違いしてしまいます。それなので言葉や行いや生き方を持って証しをすることは良心・信条の自由が存続するためにも大事です。

 

5.勧めと励まし

 

 最後に、本日の使徒言行録の日課の個所で復活の主がパウロに述べた言葉の中に信仰者にとって励みになるものがあるのでそれを述べておきます。パウロが声の主が誰であるかを尋ねた時、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(9章5節)と答えました。イエス様を救い主と信じる者が苦難や困難に陥った時、イエス様はそれを自分のことのように受け止めるということです。聖書を信仰をもって読んだり聞いたりする時、また聖餐を受ける時、目には見えなくともイエス様は臨在します。臨在するというのは、ただボーっと突っ立っていることではありません。私たちの境遇や状況を自分事として受け止めて事を動かそうと影響力を及ぼすことです。このことが分かれば、私たちの祈りは必ず聞き遂げられて、必ず脱出口や解決に導いて下さると確信できます。

 

 今日の福音書の個所でも、イエス様は弟子たちに食べる物がないことを知っていました(「君たちには何も食べる物がないんだろ?」)。まさにその時に現れました。そしてアドバイスし、労って力づけて下さいました。このように主は、必ず助けに来て下さり、私たちが力を取り戻して新しいスタートを切れるよう力づけて下さるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

(後注)イエス様とペトロのやりとりはアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃した使徒ヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものです。イエス様とペトロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、目撃者、証言者として働くべくイエス様ご自身が選んだ者たちです。それゆえ、そうした使徒たちを信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト信仰の基本です。

 

 

2025年4月22日火曜日

過越祭から復活祭へ (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2025年4月20日 復活祭

 

イザヤ書65章17~25節

コリントの信徒への第一の手紙15章19~26節

ルカによる福音書24章1~12節

 

説教題 「過越祭から復活祭へ」

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の想像を絶する力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。フィンランド語ではパーシアイネンと言って、その意味は「過越し」です。あのモーセ率いるイスラエルの民がエジプトを脱出した時の出来事であり、それを記念する祝祭です。つまり、フィンランド語では旧約聖書の「過越祭」とキリスト教の「復活祭」を同じ言葉で言い表すのです。英語や日本語では別々の言い方をしているのに、どうして一緒なのかと言うと、イエス様の十字架と復活の出来事が過越祭の期間に起こったからでした。なので、フィンランド人はキリスト教会がパーシアイネンをお祝いしているのを見たら、これは「復活祭」、ユダヤ教の人たちがパーシアイネンをお祝いしているのを見たら、それは「過越祭」という具合に頭の中で切り替えしているのです。(因みに、スウェーデンでも「過越祭」と「復活祭」は同じ言葉で言い表します。ポスクと言います。)

 

 さて、イエス様が十字架に架けられて死んで葬られた次の週の最初の日の朝、付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目撃しました。まさにここから世界の歴史が大きく動き出すことになる出来事が起きたのでした。遺体がなくて途方にくれていた女性たちに天使が言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにおられない。復活されたのだ。」「死者の中に」と言うのは、ギリシャ語原文では複数形なので、正確には「なぜ、死んだ者たちの中から生きておられる方を捜すのか」になります。古今東西この世から亡くなった人は無数にいたわけですが、十字架刑に処せられて死んでしまったイエス様もその中に加えられてしまった、ところが、突然そこから飛び出すように出て行ってしまったということです。つまり、復活というのは、イエス様が死と縁を切った、無関係になったということです。

 

 それと、大勢の死んだ者たちの中から真っ先に飛び出したということは、今日の使徒書の日課、第一コリント15章20節で言われていること、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられたことです。つまり、イエス様が死を踏み越える復活を遂げたのは初穂で、私たちも後に続く、言わば、先陣を切ったということです。そういうわけで、今日の説教では、復活とは死と無関係になるということと、私たちもイエス様に続いて復活を遂げられるようになったことについて見ていこうと思います。

 

2.復活とは何か

 

 その前に、そもそも復活とは何かということについて述べておきます。これは毎年復活祭の礼拝説教で述べていることですが、大事なことなのでおさらいしておきます。

 

 よく混同されますが、復活はただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。聖書で復活というのは、肉体が消滅しても将来の「復活の日」に全く新しい「復活の体」を着せられて復活することです。これは、超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることを手掛かりにするしかありません。

 

 「復活の体」については、使徒パウロが第一コリント15章の今日の日課の後で詳しく教えています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42-43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52-54節)。イエス様も、「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言っていました(マルコ12章25節)。

 

 このように復活の体は朽ちない体であり、神の栄光を輝かせる体です。この世で私たちが纏っている肉の体とは全くの別物です。復活されたイエス様はすぐ天に上げられず40日間地上に留まり人々の前で復活した自分を目撃させました。彼の体は地上に留まっていましたが、それでも私たちのとは異なる体だったことは福音書のいろんな箇所からうかがい知ることができます。ルカ24章やヨハネ20章で、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは、亡霊だ!とパニックに陥りますが、イエス様は手足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。食事もしました。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。他にもいろいろあります。エマオに向かう道で二人の弟子に起きた出来事、墓の前でのマグダラのマリアとのやり取りなど。それらについては、当該箇所が日課になった時に改めてお話しします。

 

3.イエス様の十字架の死で罪は打撃を被り、彼の復活で死は足蹴にされた

 

 復活によりイエス様が死と無関係になったことは、ローマ6章の中でパウロが教えています。「キリストが死から復活したということは、もう死なないということであり、死は彼を支配下に置けなくなったということである。それなので、キリストが死んだというのは、一度にして罪に打撃を与える死だったのである。そして、キリストが生きるというのは、神に結びついて生きるということである。」新共同訳では「ただ一度罪に対して死なれた」となっていますが、これはギリシャ語の用法で「罪が不利益を被るように死んだ」という意味なので、キリストの「罪に対する死」は「罪に打撃を与える死」と理解します(後注)。イエス様が十字架で死なれたことで罪は打撃を被り、復活することで死を足蹴にしたということです。ここで、罪と死が結びつけられて言われています。キリスト信仰の人間観がここに凝縮されています。

 

 キリスト信仰で罪というのは、単なる犯罪行為ではなく、もちろん、それも含みますが、もっと広く、神聖な神の意思に反しようとする性向のようなものです。人間誰しもが持ってしまっているというのが聖書の観点です。神の意思は十戒の中に凝縮されています。他人を傷つけるな、夫婦間の貞潔を守れ、真実を曲げるな、他人に対して妬みや憎しみを抱くな等々、私たちの行動様式や思考様式の現実を映し出す鏡のようなものです。たとえ行いや言葉に出さなくても、私たちの造り主の神は心の中はどうかと見ておられます。今でこそ言葉や行いに出さなくても、境遇や環境が変われば出してしまうかもしれないので、人間は誰でも潜在的に持ってしまっているというのです。今の世界で起きていること、世の中の周りで起きていることを見れば誰もが持っていると認めざるを得ないでしょう。このような罪は、神が最初の人間アダムを造った後で人間の中に入り込んでしまったことが創世記の中に記されています。それがもとで人間は死ぬ存在になってしまったことも。パウロがローマ6章23節で罪の報酬は死であると言っているのはこのためです。人間は代々死んできたことから明らかなように、罪も代々受け継いでしまったのです。それで、今日の使徒書の日課、第一コリント15章22節で、アダムを通して全ての人間が死ぬと言うのです。

 

 ところが、同じ個所には続きがあります。「アダムを通して全ての人間が死ぬように、キリストを通して全ての人間が生きられるようになる。」つまり、最初の人間アダムが罪を人間の中に内在化してしまったためにその後の人間の運命を死に定めてしまった。しかし、キリストがそれを逆転して人間の運命を死から死を超えた命に移し替える可能性を開いたということです。イエス様はどのようにして人間の運命を逆転させたのでしょうか?

 

 それは彼の十字架の死をもってなされたのでした。イエス様は人間皆が持っている罪を全部引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げて、そこで罪が必ず受けなければならない神の罰、神罰を人間に代わって受けられたのでした。人間が受けて神のみ前から滅び去ってしまうことがないようにと神のひとり子が身代わりになって受けられたのでした。さて、神罰は下されたので罪が償われた状況が生まれました。あとは人間がこの状況に入りさえすれば、人間は罪を償ってもらった者として生きることができます。その時、罪はもう神罰を人間に誘導する力を失っています。干からびた虫けらのようになったのです。このことがイエス様が神罰を受けて死なれたことで起こったのです。罪はイエス様と抱き合わせの形で断罪されたのです。

 

 このことからも、なぜ神のひとり子が人間として生まれて来なければならなかったかがわかります。もし神のひとり子が天の父なるみ神のもとで永遠に悠々自適の生活をしていたら、身代わりの断罪など永遠に起きません。乙女マリアから生まれ人間の肉体を持つことで、神のひとり子は死ぬことができるようになったのです。。神罰を受けるのにピッタリな存在になったのです。それだけではありません。ヘブライ4章で言われるように、神のひとり子として罪を持たない側面はそのままだったが、人間として生まれてきたことで、人間の苦しみや悲しみもその心と体でわかるようになったのです。天でふんぞり返っていたらわかりません。このようにひとり子をご自分のもとから私たち人間のもとに贈って下さった神の御名は永遠に讃えられますように。そして、私たちのもとに贈られて神の御心通りに務めを果たされた御子は永遠にほめたたえられますように。

 

4.罪が償われた者として、復活の日を目指す者として

 

 さて、イエス様の十字架の業のおかげで、罪が償われた状況が生まれました。あとは人間がこの中に入ることができさえすれば、罪を償われた者として神との結びつきを持てて生きることができるようになります。どうすれば入ることができるでしょうか?それは、神の計らいによって罪の償いは本当に起こった、それを実行したイエス様は本当に救い主です、と信じて洗礼を受けることで入れます。その時、罪はもう神罰を人間に誘導する力を失っています。しかし、それでも人間はこの世から死にます。しかも、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになっても自分の内にはまだ神の意思に反するものがあることに気づきます。イエス様がもらした逆転はどこに行ってしまったのか?まだ自分はアダムの末裔のままなのか?

 

 いいえ、そういうことではありません。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたものはイエス様のもたらした逆転の中にちゃんといます。そのことは、パウロがローマ6章で明らかにしています。洗礼を通して人間はイエス様の十字架の死に結びつけられる、そうするとイエス様が罪に大打撃をくらわしたことがその人にもその通りになります。信仰者が罪に対して、お前は打撃を受けているのだ、わからないのか、と言えば、罪はおずおずと引き下がります。洗礼を通して人間が結びつけられているのはイエス様の死だけではありません。イエス様の復活にも結びつけられます。ここが微妙なところです。復活されたイエス様は確かに肉の体ではない復活の体を持っていて、いつでも天の父なるみ神のもとに戻れる状態にありました。しかし、私たちは洗礼を受けても肉の体はそのままです。復活の体ではありません。

 

 それは、洗礼を通してイエス様の復活に結びつけられたというのは、将来の復活の日に向かう道に置かれて今そこを歩んでいるということなのです。将来の復活の日とは、今日の日課の第一コリント15章23節にあるように、イエス様が再臨する日のことです。その日に向かって延びる道を私たちは神との結びつきを持って進んで行きます。なので、神がイエス様を通して与えて下さった罪の赦しの恵みの中に留まっている限り、私たちは道を踏み外すことはないのです。それで私たちにとって復活は、ルターが言うように、もう半分は起こったことなのです。残り半分は約束されたものとして今はまだ秘められているのです。

 

5.勧めと励まし

 

 説教の初めに、フィンランドやスウェーデンでは過越祭と復活祭は同じ言葉で言い表すと申しました。二つの全く異なる祝祭には驚くほど共通点があります。モーゼの過越しの時は小羊の血を家の入口に塗ることで、神はそれを見てその家に罰を下すことはしませんでした。イエス様が十字架に架けられて犠牲になって下さったおかげで、私たちは神から罰を受けないで済むようになりました。イエス様が贖罪の小羊にたとえられるゆえんです。マルコ10章でイエス様は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たと言われます。キリスト教会ではイエス様が十字架で流された血が人間を罪と死の支配下から救い出す代価になったと言います。

 

 モーゼ率いるイスラエルの民は奴隷の国エジプトを脱出して約束の地カナンを目指して40年間シナイの荒野を進みました。キリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって罪と死が支配する状況から脱出しました。そして復活の体を纏ってもらえる神のみ国を目指して今はこの世という荒野の中を進みます。ところで、イスラエルの民は移動中、神に何度も窮地を救ってもらいながら反抗して罰を受けました。私たちもこの世の荒野の中で試練を受け、神を疑うこともあります。しかし、私たちがどう思おうが、罪の赦しの恵みはそんなのおかまいなしに微動だにしません。なので、私たちがあらゆる疑いをかなぐり捨ててその恵みに留まりさえすれば、私たちと神との結びつきは同じように微動だにしないのです。イスラエルの民はなんとかカナンの地に到達しますが、それはまだハッピーエンドの最終目的地ではありませんでした。復活の日に現れる神のみ国こそが最終目的地です。このように復活祭は、過越祭を花のつぼみにたとえると見事に咲き開いた花と言えます。それはまた旧約聖書に対する新約聖書の姿形でもあります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

(後注)「罪に対して」の与格はdativus incommodiに解しました。そうすると「神に対して」の与格はdativus commodiになり、「神にとって益となるように」の意味になります。それをもっと具体的に言い表せないか、ということでローマ14章に「主のために」の与格が何度も出てくるところに注目しました。「主のために」とはどういうことか、それは8節で「主のもの」(属格)となると言っていることと同じです。なので、6章の「神に対して」/「神にとって益となるように」も同じように「神のものとなる、神と結びつく」というふうに理解しました。

2025年4月19日土曜日

イエス様の十字架 - 人間の出発点、いつでも立ち返れる原点 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2025年4月18日 聖金曜日

イザヤ書52章13節~53章12節

ヘブライの信徒への手紙10章16~25節

ヨハネによる福音書18章1節~19章42節

 

説教題「イエス様の十字架 - 人間の出発点、いつでも立ち返れる原点」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1. はじめに - イエス様の受けた十字架刑

 

 イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の前で晒すというものでした。イエス様は十字架に掛けられる前に既にローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の材木を自ら運ばされ、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで残酷な釘打ちが始ったのでした。

 

 イエス様の両側には二人の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない清い神聖な神のひとり子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています。こともあろうに彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、激痛と意識もうろうの中でイエス様が最後に目にした光景でした。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という言葉では言い尽くせない多くの苦しみや激痛で満ちています。

 

2.イエス様が十字架で受けた真の苦しみ - 神罰の苦しみ

 

 しかしながら、イエス様が受けた激痛は肉体的なものだけではありませんでした。魂の激痛もありました。魂の激痛とはどんな激痛でしょうか?

 イエス様の十字架の死は、表向きは次のように言うことが出来ます。ガリラヤ地方のナザレ出身のイエスは権威ある教えと奇跡の業をもって大勢の支持者を集めた、それが当時のユダヤ教社会の指導層にとって脅威となった、それで彼は支配国であるローマ帝国に反乱を企てる者として引き出されて死刑判決を受けた、そういう歴史上の権力闘争の一コマであると。

 

 しかし、イエス様の十字架の死は歴史の一コマに留まるものではありませんでした。それは、その後の世界の歴史の進路に大きな影響を与え、現代世界においても一人一人の人間の魂に影響を与えるものとなっています。どうしてそうなのか?それは、万物の創造主である神がイエス様の十字架の死をそのようなものに仕組んだからです。つまり、それは神の計画の実行だったのです。人間の権力闘争は見かけ上のことだったのです。

 

 イエス様の十字架の死が神の計画の実行だったことは、先ほど朗読したイザヤ書から明らかです。その個所は、イエス様の時代の何百年も前に書かれた預言です。そこで言われていることが実際に起こったのです。

 

 「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」とありました。「私たちの背き」、「私たちの咎」とは何のことでしょうか?それは、私たち人間が自分の内に持ってしまっている神の意思に反しようとする性向、罪のことです。神は人を傷つけたり欺くようなことは行ってはいけない、口にしてもいけない、心に思ってもいけない、嘘をついてはいけない、そう言っているのに、私たちはそうしてしまいます。それで神のみ前に立たされた時、私は潔白です、やましいところは何もありません、などと申し開きはできないのです。近年ではSNSを悪用して神の意思に反することをもっとするようになってしまいました。ますます申し開きできなくなりました。こういうふうに言うと、そんな自分に都合悪いことを言う神などいらない、と神はますます遠ざけられていきます。

 

 そんな罪の言いなりになって、知らず知らずのうちに罪の奴隷になっている憐れな人間を神は言いなりの状態、奴隷の状態から解放してあげようと手立てを考えたのでした。それで、本当なら人間が受けるべき罪の罰をご自分のひとり子に代わりに受けさせて、人間が受けないで済む状況を作り出したのです。人間はその状況に入れると罪の奴隷状態から解放され、その言いなりにならないで済むようになるのです。

 

 このような状況を作り出す前の段階でイエス様は、自分がこれから受ける苦しみは肉体的な苦しみを越えた魂の激痛であることをわかっていました。マタイ、マルコ、ルカ福音書にゲッセマネというところでのイエス様の祈りが記されています。最初、父なる神よ、出来ることならこれから起こることになる苦しみの杯を飲まないですむようにして下さい、と祈ります。神のひとり子ともあろうお方、死者を生き返らせたり、嵐を鎮めるような奇跡を行った力ある方が恐れるくらいの苦しみが待ち受けていたのです。何しろ全ての人間の全ての罪の神罰を受けるのだから当然です。しかし、イエス様は最後に、父なる神よ、自分の願いではなく、あなたの御心が行われますように、と祈ります。先ほど読みましたヨハネ福音書の個所でも、弟子たちがイエス様の逮捕を阻止しようとした時、イエス様は、父なる神が与えた杯だ、飲まないわけにはいかないのだと言ってやめさせます。

 

 こうしてイエス様は、イザヤ書の預言通りに、私たち人間のかわりに神罰を受けて苦しみ死んだのでした。それは、私たちが罪を持ってしまって神と切り離された状態にいて、迷える羊のように行き先もわからずこの世を生きていたからでした。それで、神との結びつきを持てて行き先がわかるようになってこの世を生きられるために神は人間の罪を全てひとり子のイエス様に償わせたのでした。そのことがゴルゴタの十字架で起こったのでした。十字架の出来事が歴史の一コマに留まらずに今日に至る世界の歴史の中の人々の魂に影響を与えたのは、創造主の神のひとり子が魂に激痛を受けたことと無縁ではありません。

 

 イエス・キリストの十字架の出来事は、先ほど見たイザヤ書の個所で詳細に預言されていますが、その他にも、イエス様が十字架の上で「渇く」と言われた時、近くにいた人たちが彼の口元に酸いぶどう酒を差し出したこと、これは詩篇69篇22節に預言されていたことが起こったのでした。十字架刑を監視していた兵隊たちがイエス様の服をくじ引きで分け合ったことも詩篇22篇19~22節に預言されていたことが起こったのでした。このように創造主の神は出来事が起こる何百年も前に計画がどのように実現するかお見通しだったのです。

 

3.イエス様の十字架 - 人間の出発点 キリスト信仰者の立ち返る原点

 

 神は、イエス様に神罰を受けさせることで人間が受けないで済む状況を作り出しました。どうしたら人間はその状況に入ることができるでしょうか?それは人間が、こうしたことは本当に起こったのだ、だからイエス様は私の救い主だ、と信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は神から罪を赦されたと見てもらえるようになります。それで神との結びつきを持てるようになって結びつきの中でこの世を生きられるようになります。罪の言いなりになって他人だけでなく自らも傷つき心が病んでしまった人の癒しがそこから始まります。まさに、神のひとり子の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」ると言われている通りです。

 

 神のひとり子に罪を償ってもらって神から罪を赦されたと見なされる者は果たして罪の言いなりにならないようになるのか、本当に罪の奴隷状態から解放されるのか、について先ほど朗読した「ヘブライ人への手紙」10章の16節と17節が明らかにしています。

 

 17節で神は「人間の罪や背きを思い出すことをしない」と言われます。これはエレミヤ31章34節にある神のみ言葉です。十字架の出来事の500年以上も前に述べられていました。神は、私たちの罪を償って下さったイエス様を救い主と信じる者に向かってこう言われるのです。「私の愛するひとり子の犠牲に免じて、お前の罪をもう思い返さないことにする、不問にする、だから、お前はこれからは罪を犯さないようにしなさい」と慰め励まして下さっているのです。これが神の罪の赦しです。この時、人間は、新しい自分というものが神のひとり子の犠牲の上に始まった、これからは気をつけて生きなければと襟を正します。その時神の意思に沿うように生きなければと透徹した謙虚さが生まれます。それが16節で言われる、神が掟を私たちの心や理解に書き記されるということです。イエス様の十字架の出来事の前は、神の掟は人間の外側にあって人間は頑張って実行しなければならないものでした。それが、私たちの身代わりとなって神罰を受けたイエス様を救い主と信じると、神の掟は内面化するのです。体の一部になるのです。だから、イエス様の十字架は新しい生き方の出発点なのです。

 

 イエス様の十字架を出発点にして新しく生きるようになっても、神の掟が内面化されると、今度は神の意思に対して以前にも増して敏感になります。自分には神の意思に沿わないことが沢山あると気づかされてしまいます。さすがに行為として出すことはなくなり、言葉遣いも慎重になるかもしれませんが、思いでは沿わないことを持ってしまいます。その時、自分はイエス様の犠牲を損なってしまったと気づき情けない思いになります。しかし、洗礼を受けた時に与えられた聖霊がキリスト信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてくれます。その時、かつて打ち立てられた罪の赦しの十字架は今も揺るがずに確固としてあることを見ることができます。あそこに架けられた主の両肩の上に自分の罪がのしかかっているのだとわかれば、再び厳粛な気持ちになってもう罪をおかさないようにしようという心になるでしょう。それで、イエス様の十字架はキリスト信仰者にとっていつも立ち返れる原点でもあるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン