説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)
スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2025年4月18日 聖金曜日
イザヤ書52章13節~53章12節
ヘブライの信徒への手紙10章16~25節
ヨハネによる福音書18章1節~19章42節
説教題「イエス様の十字架 - 人間の出発点、いつでも立ち返れる原点」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1. はじめに - イエス様の受けた十字架刑
イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の前で晒すというものでした。イエス様は十字架に掛けられる前に既にローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の材木を自ら運ばされ、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで残酷な釘打ちが始ったのでした。
イエス様の両側には二人の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない清い神聖な神のひとり子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています。こともあろうに彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、激痛と意識もうろうの中でイエス様が最後に目にした光景でした。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という言葉では言い尽くせない多くの苦しみや激痛で満ちています。
2.イエス様が十字架で受けた真の苦しみ - 神罰の苦しみ
しかしながら、イエス様が受けた激痛は肉体的なものだけではありませんでした。魂の激痛もありました。魂の激痛とはどんな激痛でしょうか?
イエス様の十字架の死は、表向きは次のように言うことが出来ます。ガリラヤ地方のナザレ出身のイエスは権威ある教えと奇跡の業をもって大勢の支持者を集めた、それが当時のユダヤ教社会の指導層にとって脅威となった、それで彼は支配国であるローマ帝国に反乱を企てる者として引き出されて死刑判決を受けた、そういう歴史上の権力闘争の一コマであると。
しかし、イエス様の十字架の死は歴史の一コマに留まるものではありませんでした。それは、その後の世界の歴史の進路に大きな影響を与え、現代世界においても一人一人の人間の魂に影響を与えるものとなっています。どうしてそうなのか?それは、万物の創造主である神がイエス様の十字架の死をそのようなものに仕組んだからです。つまり、それは神の計画の実行だったのです。人間の権力闘争は見かけ上のことだったのです。
イエス様の十字架の死が神の計画の実行だったことは、先ほど朗読したイザヤ書から明らかです。その個所は、イエス様の時代の何百年も前に書かれた預言です。そこで言われていることが実際に起こったのです。
「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」とありました。「私たちの背き」、「私たちの咎」とは何のことでしょうか?それは、私たち人間が自分の内に持ってしまっている神の意思に反しようとする性向、罪のことです。神は人を傷つけたり欺くようなことは行ってはいけない、口にしてもいけない、心に思ってもいけない、嘘をついてはいけない、そう言っているのに、私たちはそうしてしまいます。それで神のみ前に立たされた時、私は潔白です、やましいところは何もありません、などと申し開きはできないのです。近年ではSNSを悪用して神の意思に反することをもっとするようになってしまいました。ますます申し開きできなくなりました。こういうふうに言うと、そんな自分に都合悪いことを言う神などいらない、と神はますます遠ざけられていきます。
そんな罪の言いなりになって、知らず知らずのうちに罪の奴隷になっている憐れな人間を神は言いなりの状態、奴隷の状態から解放してあげようと手立てを考えたのでした。それで、本当なら人間が受けるべき罪の罰をご自分のひとり子に代わりに受けさせて、人間が受けないで済む状況を作り出したのです。人間はその状況に入れると罪の奴隷状態から解放され、その言いなりにならないで済むようになるのです。
このような状況を作り出す前の段階でイエス様は、自分がこれから受ける苦しみは肉体的な苦しみを越えた魂の激痛であることをわかっていました。マタイ、マルコ、ルカ福音書にゲッセマネというところでのイエス様の祈りが記されています。最初、父なる神よ、出来ることならこれから起こることになる苦しみの杯を飲まないですむようにして下さい、と祈ります。神のひとり子ともあろうお方、死者を生き返らせたり、嵐を鎮めるような奇跡を行った力ある方が恐れるくらいの苦しみが待ち受けていたのです。何しろ全ての人間の全ての罪の神罰を受けるのだから当然です。しかし、イエス様は最後に、父なる神よ、自分の願いではなく、あなたの御心が行われますように、と祈ります。先ほど読みましたヨハネ福音書の個所でも、弟子たちがイエス様の逮捕を阻止しようとした時、イエス様は、父なる神が与えた杯だ、飲まないわけにはいかないのだと言ってやめさせます。
こうしてイエス様は、イザヤ書の預言通りに、私たち人間のかわりに神罰を受けて苦しみ死んだのでした。それは、私たちが罪を持ってしまって神と切り離された状態にいて、迷える羊のように行き先もわからずこの世を生きていたからでした。それで、神との結びつきを持てて行き先がわかるようになってこの世を生きられるために神は人間の罪を全てひとり子のイエス様に償わせたのでした。そのことがゴルゴタの十字架で起こったのでした。十字架の出来事が歴史の一コマに留まらずに今日に至る世界の歴史の中の人々の魂に影響を与えたのは、創造主の神のひとり子が魂に激痛を受けたことと無縁ではありません。
イエス・キリストの十字架の出来事は、先ほど見たイザヤ書の個所で詳細に預言されていますが、その他にも、イエス様が十字架の上で「渇く」と言われた時、近くにいた人たちが彼の口元に酸いぶどう酒を差し出したこと、これは詩篇69篇22節に預言されていたことが起こったのでした。十字架刑を監視していた兵隊たちがイエス様の服をくじ引きで分け合ったことも詩篇22篇19~22節に預言されていたことが起こったのでした。このように創造主の神は出来事が起こる何百年も前に計画がどのように実現するかお見通しだったのです。
3.イエス様の十字架 - 人間の出発点 キリスト信仰者の立ち返る原点
神は、イエス様に神罰を受けさせることで人間が受けないで済む状況を作り出しました。どうしたら人間はその状況に入ることができるでしょうか?それは人間が、こうしたことは本当に起こったのだ、だからイエス様は私の救い主だ、と信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は神から罪を赦されたと見てもらえるようになります。それで神との結びつきを持てるようになって結びつきの中でこの世を生きられるようになります。罪の言いなりになって他人だけでなく自らも傷つき心が病んでしまった人の癒しがそこから始まります。まさに、神のひとり子の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」ると言われている通りです。
神のひとり子に罪を償ってもらって神から罪を赦されたと見なされる者は果たして罪の言いなりにならないようになるのか、本当に罪の奴隷状態から解放されるのか、について先ほど朗読した「ヘブライ人への手紙」10章の16節と17節が明らかにしています。
17節で神は「人間の罪や背きを思い出すことをしない」と言われます。これはエレミヤ31章34節にある神のみ言葉です。十字架の出来事の500年以上も前に述べられていました。神は、私たちの罪を償って下さったイエス様を救い主と信じる者に向かってこう言われるのです。「私の愛するひとり子の犠牲に免じて、お前の罪をもう思い返さないことにする、不問にする、だから、お前はこれからは罪を犯さないようにしなさい」と慰め励まして下さっているのです。これが神の罪の赦しです。この時、人間は、新しい自分というものが神のひとり子の犠牲の上に始まった、これからは気をつけて生きなければと襟を正します。その時神の意思に沿うように生きなければと透徹した謙虚さが生まれます。それが16節で言われる、神が掟を私たちの心や理解に書き記されるということです。イエス様の十字架の出来事の前は、神の掟は人間の外側にあって人間は頑張って実行しなければならないものでした。それが、私たちの身代わりとなって神罰を受けたイエス様を救い主と信じると、神の掟は内面化するのです。体の一部になるのです。だから、イエス様の十字架は新しい生き方の出発点なのです。
イエス様の十字架を出発点にして新しく生きるようになっても、神の掟が内面化されると、今度は神の意思に対して以前にも増して敏感になります。自分には神の意思に沿わないことが沢山あると気づかされてしまいます。さすがに行為として出すことはなくなり、言葉遣いも慎重になるかもしれませんが、思いでは沿わないことを持ってしまいます。その時、自分はイエス様の犠牲を損なってしまったと気づき情けない思いになります。しかし、洗礼を受けた時に与えられた聖霊がキリスト信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてくれます。その時、かつて打ち立てられた罪の赦しの十字架は今も揺るがずに確固としてあることを見ることができます。あそこに架けられた主の両肩の上に自分の罪がのしかかっているのだとわかれば、再び厳粛な気持ちになってもう罪をおかさないようにしようという心になるでしょう。それで、イエス様の十字架はキリスト信仰者にとっていつも立ち返れる原点でもあるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン