2024年1月23日火曜日

福音、神の国、悔い改めについて (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、牧師)

 

主日礼拝説教 2024年1月21日 顕現後第三主日 スオミ教会

 

ヨナ書3章1‐5、10節

コリントの信徒への第一の手紙7章29-31節

マルコによる福音書1章14-20節

 

説教題 福音、神の国、悔い改めについて


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。その後でイエス様は40日間荒野で悪魔から試練を受け、これに打ち克ちました。そして、いよいよ本格的に活動に乗り出そうとしたまさにその時、ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕えられたとの報が伝わりました。イエス様は大胆にもガリラヤに乗り込んで人々に教え始めました。本日の福音書の日課はその時のことについて述べています。「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」とあります。本日の説教では、「福音」、「神の国」、「悔い改め」という三つの大事な事柄についてお話しします。

 

2.福音 

 

 ここで「神の福音」と「福音を信じなさい」と、「福音」という言葉が2回出て来ます。「福音」という言葉は新約聖書の原語のギリシャ語でエヴァンゲリオンευαγγελιονと言います。もともとは「良い知らせ」という意味です。それでは、「福音」とはどんな良い知らせなのでしょうか?

 

 それは次のような内容です。イエス様がゴルゴタの十字架の上で人間の罪の神罰を人間に代わって受けて死なれた。彼の犠牲のおかげで人間が神から罰を受けないで済む道が開かれた。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命に至る道を私たち人間のために開いて下さった。以上が「福音」の内容です。つまり、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事がもたらしたことについての知らせが「福音」と呼ばれるようになったのです。この良い知らせ、福音を聞いて、イエス様を救い主と信じることと洗礼を受けることによって神から罪の赦しを頂くこと、これがキリスト信仰の奥義です。こうして、イエス様のおかげで罪を赦された者として永遠の命に至る道を神の助けと導きを得ながら歩むこと、これがキリスト信仰者の人生です。

 

ところが、本日の日課ではイエス様はまだ活動を開始したばかりです。十字架も復活もまだ先のことです。それなのにエヴァンゲリオン「福音」と言うのは少し気が早いのではないか?そこで、他の国の言葉ではどういう言い方をしているか見てみました。英語訳の聖書NIVはエヴァンゲリオンを「神の良い知らせ」、「良い知らせを信じなさい」good newsと訳して「福音」gospelではありません。スウェーデン語の訳も「神の知らせ」、「知らせを信じなさい」(budskap)です。福音(evangelium)ではありません。フィンランド語の訳は一方では「神の福音」(evankeliumi)と言い、他方で「良い知らせを信じなさい」(hyvä sanoma)と使い分けています。ドイツ語の訳は意外にも日本語訳と同じで両方とも「福音」と訳していました。

 

十字架と復活の出来事が起きる前だから、エヴァンゲリオンを「福音」ではなくて「良い知らせ」と訳した方がいいのではないかと思われるかもしれません。そうすると今度は、じゃ、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とはどんな知らせなのか、さっき言ったキリスト教の「福音」とどう違うのかという疑問が起きます。(※)それについて見ていきましょう。

 

イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」の内容は、旧約聖書イザヤ書52章7節から53章12節を見ればわかります。それを見ていくことにします。まず最初の52章7節に次のように言われています。

 

「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足(רגלי מבשר)は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え(טוב מבשר ) 救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」

 

伝えるべき「良い知らせ」の内容は、「平和」、「救い」、「神が王になる」ことの3つです。そこで、イザヤ書の続きを見ていくと、この「平和」と「救い」の意味がわかってきます。それがわかると「神を王に戴く国」もわかります。

 

イザヤ書の続き52章8-12節を見ると、神がイスラエルの民に向かって、捕囚の地バビロンから祖国に帰還せよ、と呼びかけます。神は民の祖国帰還を実現させ、周辺諸国民に自分の力を示します。それで、良い知らせに言う「救い」とは、イスラエルの民が神の力で祖国帰還を果たし、そこで神を王として戴く神の国が実現するというふうに理解できます。

 

ところが、これに続く52章13節から53章12節までを見ると、「救い」の内容が少し違ってきます。そこには有名な「主の僕」が登場します。その者は目を背けたくなるほど惨めな姿をしている。しかし、それは人間の痛みと病をかわりに背負ったためにそうなったのであり、私たちの罪の神罰を代わりに受けたためにそうなったのであった。そのおかげで私たちは神と平和な関係を持てるようになり、まさに彼が罰を受けた傷によって人間は癒しを受けるのであると。53章11節で神は次のように言われます。「私の義なる僕は、多くの者が義なる者になれるようにした。彼らの罪を自ら背負うことによってそうした。」「義なる者」とは、神の目に相応しい者、神聖な神の前に立たされても大丈夫でいられる者という意味です。主の僕が人間の罪を自ら引き受けることで、人間は神の目に相応しい者になれて神との平和な関係を築けるようになるというのです。そうすると、「救い」は先ほどみたような、イスラエルの民がバビロン捕囚から祖国復帰して神を王として戴く神の国が実現するという意味ではなくなります。むしろ、神の僕の犠牲によって罪が赦され神との平和な関係を築けて神罰が免れるということが「救い」の内容になります。神の国もそういう罪の赦しが打ち立てられたところになります。

 

しかしながら、バビロン捕囚がもうすぐ終わりそうという紀元前500年代の人々からすれば、イザヤ書の箇所で言われる「救い」とは、捕囚からの解放と祖国帰還を意味しました。解放と帰還が実現すれば、それはただちに神が王として君臨する神の国の実現だったのです。

 

ところが、祖国に帰還しても神の国は実現しませんでした。確かに歴史的にはエルサレムの神殿と町は再建されました。しかし、ユダヤ民族はペルシャ帝国、アレキサンダー帝国という大国の支配下に置かれ続け、一時独立を取り戻した時はあったものの、ほどなくしてローマ帝国の支配下に入ってしまいました。このように実態は、諸国民がひれ伏すような神の国からは程遠いものでした。加えて、神殿で行う礼拝も果たして救いの実現なのかと疑問視する声も民の間から出るようになりました。このことは、マラキ書やイザヤ書の終わり56-65章に垣間見ることが出来ます。そうしているうちに神の国とは実は今ある天と地が新しい天と地に創造し直される日に現れるという預言もでてきました。イザヤ書の終わりやダニエル書にそれらが窺えます。

 

そういうわけで、イザヤ書52章7節から53章12節までの預言は未完だったと理解されるようになったのです。それでは、いつ預言が実現することになるのか?神の国を待ち望む人たちがそう問うていた時でした。まさにその時、イエス様が歴史の舞台に登場したのです。イエス様が「信じなさい」と言う「良い知らせ」とは、神が旧約聖書の中で約束した救いと神の国の到来についての知らせでした。神の約束を信じなさいとイエス様は言われたのです。なぜなら、これからイエス様本人が「主の僕」としてその約束を果たすことになるからです。このように、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とは、神の約束が今実現することになるという知らせだったのです。その「良い知らせ」はまさにイエス様の十字架と復活の業の後で「福音」として結晶したのです。

 

3.神の国はイエス様とセットで来た!

 

 イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた」と言われました。それについてみてみましょう。「時は満ちた」の「時」とは、ギリシャ語でカイロスκαιροςという言葉です。これは何か特別な事が起きる時、定められた時を意味します。「時は満ちた」というのは、起きるべきことが起きる時がついに来た、機は熟した、ということです。洗礼者ヨハネが投獄された時がその「時」になりました。ヨハネがもはや人々に「罪の赦しに導く悔い改めの洗礼」をすることができなくなった、それでイエス様にバトンタッチして「罪の赦し」そのものを確立してもらう段階に入ったということです。ヨハネは悲劇的な運命を辿りますが、主の道を整える役割は果たしたのです。

 

 「神の国は近づいた」というのは、どういうことでしょうか?「神の国」とは「天の国」とか「天国」とも言い換えられます。それで、空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」とは、今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。そうすると「神の国」は、私たちの世界からすれば見えない裏側の世界みたいです。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られました。それなので神から見たらこちらの方が裏側でしょう。万物の造り主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはしませんでした。そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大のものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を通して人間の救いを実現したことでしょう。

 

イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26-29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を再創造する、そしてそこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。「神の国」は天国ですから、天国はこの世の終わりに現れてくるということになります。そうすると、あれっ、キリスト教って、死んだらすぐ天国に行くんじゃなかったの?と言う人も出てくると思います。ところがキリスト教には「復活」の信仰があるので、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。このことは、普通のキリスト教会で毎週日曜日の礼拝で唱えられる使徒信条や二ケア信条でもちゃんと言われています。

 

そうなると、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも宗教改革のルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということです。そうすると今度は、亡くなった人が眠っているんだったら、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるの?という疑問が日本人なら出てくると思います。でも、それもキリスト信仰では私たちの造り主である父なるみ神が私たちを見守ってくれるので心配無用です。

 

 それでは、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、それは今の天と地が新しい天と地に取って代わるという、この世の終わりを意味したのでしょうか?しかし、イエス様の時代はおろか、あれから2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様の言ったことは当たっていなかったのでしょうか?ところがそうではないのです。

 

 どうしてかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを意味していたのです。皆さんもご存じのように、イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり、悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満たしてあげたり、沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っている人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まってもっと多くの困っている人たちを助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。

 

 実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せ味わせてあげたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神に労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、そこに迎え入れられた人の目から神が全ての涙を拭い取るところです。つまり、この世の人生で被った不正義や損失が最終的に神によって償われ、不正義や損失をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、不正に手を染めることなく、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえ期待通りにならなかったとしても無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。

 

 このように神の国は、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死さえもない、永遠の平和と安心があるところです。イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然の法則や社会の法則をはるかに超えた力が働く神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。

 

 ここで一つ注意しなければならないことがあります。神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反する罪を持つようになってしまいました。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできないのです。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしたり宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできず、自分の力で神聖なものに変身して神と対等になることなどできません。

 

 この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様の十字架と復活の業でした。それは、最初に述べたように、旧約聖書に約束された良い知らせが実現して「福音」に結晶した出来事でした。私たち人間はイエス様の十字架と復活の業が自分のためになされたのだとわかって、それで洗礼と一緒にイエス様を自分の救い主と信じれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いが自分のものになります。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦してもらったから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。神との結びつきがあるので、たとえこの世を去っても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるようになります。これらのこと全ては、神が自分のひとり子も惜しまないくらいに私たちのことを思って下さったがゆえになされたことです。多くの人がこのことに気づきますように。

 

4.方向転換の悔い改め

 

 イエス様は、「良い知らせ」を信じなさいと勧める時、「悔い改めなさい」とも勧めました。「悔い改める」はギリシャ語でメタノエオ―「考えを改める」とか「方向転換する」という意味です。神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになることを意味します。なので「悔い改め」は、何か一人で閉じ籠って反省しまくっている根暗なことではなく、実は神に向き合うという勇気ある振る舞いです。

 

「悔い改め」についてルターが的確に教えていますので、それを引用します。

「イエス様は彼を信じる者全てに、方向転換の悔い改めをしなさいと言われる。その意味は、信仰者の生涯は休むことのない方向転換の悔い改めであるということである。そうなのは、我々が生きる限り神の意思に反しようとする罪が我々の肉の内に留まるからであり、また洗礼の時に注がれた聖霊に攻撃を仕掛けてくるからである。聖霊も罪に対して反撃する。イエス様を救い主と信じることで神から義と認められた人は、その行いの全てが方向転換の悔い改めと密接に結びつく。なぜなら、罪に反抗する善い意志が備わったからだ。

 

方向転換の悔い改めが休止することはありえない。なぜなら、律法がこれは罪だと示すものを我々は絶えず遠ざけなければならないからだ。もちろん、罪はイエス様の十字架の業のおかげで赦されているので、我々を永遠の死に追いやる力を失っている。

 

かつてイスラエルの民はカナンの地に入った後もその地の敵対者たちを追い払わなければならなかった。それらを追い払うことの方が、その地に入ることよりも難しかったのである。それと同じように、キリスト信仰者になって罪に対して宣戦布告することよりも、絶え間ない方向転換の悔い改めによって内に残る罪を追い払うことの方が難しいのである。それは、聖なる者たちでさえ、罪が内に残っていることを自覚して悲しんだことからもわかる。神が律法を通して彼らの良心を苦しめた時、彼らは罪を嘆いたのである。」

 

兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しのお恵みを受けると、良心はこのように罪に対して敏感になります。しかし、不安になった良心はゴルゴタの十字架を覚えるたびに落ち着きを取り戻して平安に満たされます。これが方向転換の悔い改めです。敏感な良心を持ってこの世で生きる限り、罪の自覚は繰り返し起こります。だから方向転換の悔い改めも絶えず続くのです。しかし、これは堂々巡りではありません。ずっと一つの方向に向かって進んでいます。この繰り返しを通して私たちの神への信頼が一層強いものになっていきます。神への強い信頼があることは、私たちがこの世から別れる時、自分の全てを神の御手に委ねることができるために必要です。神への信頼が築けている人は、復活の日に目覚めさせてくれる方を知っているので自分の全てを神の御手に委ねられます。信頼が築けていない人は何に委ねていいのかわかりません。そういうわけでキリスト信仰者の人生とは、その日に備えて神への信頼を日々育て強めていく人生と言ってもよいでしょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

※  もちろんイエス様はギリシャ語ではなくアラム語で話したので、発声した言葉はエヴァンゲリオンではなかったのですが、書かれた記録はギリシャ語のものしか残っていないので、それに基づくしかありません。

 

 

2024年1月5日金曜日

私たちの真実を明らかにし道しるべとなるイエス様の光 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

 

主日礼拝説教 2023年12月31日降誕後主日 スオミ教会

 

イザヤ書61章10節-62章3節

ガラテアの信徒への手紙4章4節-7節

ルカによる福音書2章22-40節

 

説教題 「私たちの真実を明らかにし道しるべとなるイエス様の光」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.イエス様誕生後の謎に迫る - 保守主義者の立場から

 

 本日の福音書の箇所にシメオンのキリスト賛美がありました。私たちはこの賛美をいつも礼拝の中のヌンク・ディミティスのところで唱えています。「今私は主の救いを見ました。主よ、あなたは御言葉の通り僕を安らかに去らせて下さいます。この救いは諸々の民のためにお供えになられたもの。異邦人の心を照らす光、御民イスラエルの栄光です」といつも唱えます。「ヌンク・ディミティス」というのは、「今あなたは去らせて下さいます」のラテン語です。

 

このキリスト賛美は、老人シメオンがエルサレムの神殿でマリアとヨセフに連れられた赤ちゃんイエスを見て唱えました。ここで、イエス様がベツレヘムの馬小屋で誕生した後の出来事の流れを少し振り返ってみましょう。

 

本日の福音書の個所の前のルカ2章21節をみると、イエス様が誕生8日後にユダヤ教の律法に従って割礼を受けたことが記されています。(レビ記12章3節、創世記17章10~14節)。その次に本日の個所が来て、場面が一変します。律法によれば子供の割礼後、母親は99日間清めの期間というのがあります。その間は神殿に入れず、それが過ぎた後で神殿に行って子羊ないし山鳩の生け贄を捧げて清めが完了したことになります(レビ記12章4~8節)。ヨセフとマリアとイエス様が神殿に行ったのはこの規定のためでした。そうすると、割礼の後三人はどこにいたのでしょうか?ここでマタイ福音書2章を見ると、生まれたばかりのイエス様と両親はヘロデ王の迫害から逃れるためにエジプトに避難したことになっています。親子三人は王が死ぬまでエジプトに滞在したことになっています。先ほどの清めの期間の約3か月間は神殿には行けないので、それがエジプト避難の期間にうまく当てはまります。

 

ところが、時間的につじつまがあわないことが出てきます。三人がエジプトからイスラエルに帰還するのはヘロデ王が死んだ後です。王の死は紀元前4年とされています。そうするとイエス様の誕生は紀元前4年か5年になる。ところが、ローマ帝国が行った租税のための住民登録の実施年は紀元前7年が有望とされていて、紀元前4年ないし5年に住民登録があったという記録は見つかっていない。さらに、星の異常な輝きが見られたということに関して、紀元前6年に木星と土星の異常接近があったことが天文学的に計算されています。そうなると、イエス様の誕生年は紀元前6、7年となり、親子三人のエジプト滞在は2~3年の長期になってしまいます。シメオンが抱きあげたイエス様も赤ちゃんと言うよりは2、3歳くらいの幼児になってしまいます。以前の説教でその可能性を言ったことがありますが、今回は、マタイ2章でヘロデ王が殺せと命じたのは2歳までの男の子だったことに思い当たりました。生後一か月とかではなく2歳まで対象を拡大したというのは、王が東方の博士たちの戻って来るのを暫く待っていたことを伺わせます。どれ位待ったかわかりませんが、もし3ヶ月以上だったら、親子三人はベツレヘムからエルサレムの神殿に行くことができます。

 

ここから次のように考えることができます。住民登録は紀元前7年のものが有望とは言っても有望と言うだけで、他に記録が失われたものがあるかもしれない。ないしは、皇帝の命令が全領土に一斉に同時執行されなくて、地域差があったかもしれない。星の輝きも、天文学的に突き止められるのが紀元前6年にあったと言うだけで、土星と木星の異常接近以外にも、彗星か何か、まだ突き止められていない星の動きがあったことも否定できません。それで、イエス様の誕生がヘロデ王死去の年に近づけば近づくほど、シメオンが抱き上げた子供は幼児ではなく赤ちゃんになっていきます。

 

なぜ、こんなふうに、一見かみ合わないマタイとルカの記述をあわせようとするかと言うと、説教者や神学者によっては、マタイとルカの記述は全く別の出所から来ているのであわせようとしても無駄だと考える人がいるからです。全く別の出所から来ていると考えると、どっちか一方は歴史的に本当かもしれないが、他方は本当でない作り話になってしまいます。または、両方とも作り話と見てしまう人もいます。そういう人たちが説教をすると、一種の小説評論のようになります。

 

私が、マタイとルカの両方をあわせようとするのは、両方とも歴史的に本当であることを前提にしてその可能性を追求しようということです。マタイとルカが一見かみ合わない記述になってしまったのは致し方のないことです。と言うのは、イエス様の大人の時と違って子供の時は目撃者に限りがあります。ヨセフが生前に周囲に語ったことと、長く生きたマリアが弟子たちに語ったことが中心にならざるを得なかったでしょう。それぞれの観点でそれぞれの印象と記憶に基づいて語られたので、いろいろ一致しないことが出てくるのは止むを得ないのです。そういうものだと観念して、歴史的に本当だという立場に立つ者を私は保守主義と呼びます。聖書に書かれたことを大事に保全する(conserve、conservative、conservatism)からです。逆に、聖書のここは本当、ここは本当じゃない、と自由自在に切り刻んでいく立場を自由主義リベラリズムと呼びます。

 

2.シメオンのキリスト賛美 - 自己民族の観点?普遍的な観点?

 

イエス様とマリアとヨセフの三人がエルサレムの神殿に来て清めの儀式をした時、老人シメオンが近寄ってきて、イエス様を腕にとって神を賛美しました。この子が神の約束されたメシア救世主である、と。シメオンは、イエス様のことを「異邦人を照らす啓示の光」と呼びます。どんな光かと言うと、ギリシャ語原文をよく見ると、今まで現れていなかった光が現れてそれを異邦人が目にするという光です。簡単に言えば、「異邦人に現れる光」です。「異邦人」というのは、ユダヤ民族以外の全ての民族です。アメリカ人もヨーロッパ人も日本人もアフリカ人も、ユダヤ教に改宗していなければ、みんな異邦人です。その異邦人に現れる光とはどんな光なのでしょうか?それは、神の意志を人間に明らかにする光です。天地創造の神の意志は、それまでは旧約聖書を通して主にユダヤ民族に知らされていました。それが、神のひとり子イエス様がこの世に贈られて以後は異邦人にも知らされることになるというのです。そのような方が旧約聖書の預言通りにユダヤ民族の中から輩出した、それでシメオンはイエス様のことを「神の民イスラエルの栄光」と賛美したのです。

 

 シメオンは「イスラエルの慰め」を待っていて、メシア救世主を見るまでは死ぬことはないと聖霊に告げられていました。そして、メシアはこの子だと聖霊によって示されて賛美を始めました。

 

ところが、待望のメシア救世主の将来はいいことづくめではありません。シメオンはイエス様について預言を始めます。この子は将来、イスラエルの多くの人たちにとって「倒したり立ち上がらせる」者になる。つまり、イエス様は多くの人たちを躓かせることになるが、また多くの人たちを立ち上がらせることにもなる、と。果たして、本当にその通りになりました。律法学者やファリサイ派のような宗教エリートたちが、自分たちこそは旧約聖書を正しく理解して天地創造の神の意思を正確に理解していると思っていたのに、本当はそうではないとイエス様から突き付けられてしまいます。それで彼に躓いてしまいました。イエス様は文字通り「反対を受けるしるし」になってしまい、それがもとで十字架刑に処せられてしまいます。十字架の上で苦しみながら死んでいくイエス様をマリアは自分の目で見なければならなくなります。文字通り「剣で心を刺し貫かれた」のでした。

 

しかしながら、イエス様はただ単に反対され躓きになっただけではありませんでした。多くの人たちを立ち上がらせることにもなったのです。イエス様の十字架の死は、ただ単に彼に躓いた者たちから迫害を受けて殺されてしまったということではありませんでした。神の大いなる計画がそのような形をとって実現したということだったのです。それでは、神の大いなる計画とは何か?それは、人間の罪に対する神罰を人間に受けさせるのではなく、代わりに自分のひとり子に全部受けさせるということです。つまり、イエス様の十字架の死というのは、人間に罪の赦しのチャンスを与えるために神がひとり子を犠牲にして罪の償いを人間に代わってさせたというのが真相だったのです。

 

神がイエス様を用いて行ったことは罪の償いだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、そこに至る道を人間に切り開いて下さいました。人間は、これらのこと全ては神が自分のためにしてくれたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪を償われたからその人は神から罪を赦された者と見なされ、神との結びつきを持ててこの世を生きるようになります。永遠の命に至る道に置かれて、その道を進んでいきます。たとえこの世から離れることになっても、復活の日に目覚めさせられて永遠の命が待つ神の国に迎え入れられます。このようにして、イエス様のおかげで「立ち上がる」者も出たのです。

 

そこで、使徒たちがこの「罪の赦しの救い」という福音を宣べ伝え始めると、それを受け入れて「立ち上がる」者が次々と出ました。他方では、受け入れないで反対する者も出ました。まさにシメオンが預言した通りになったのです。さすがに聖霊を受けただけあって完璧な預言でした。

 

 ところで、シメオンがイエス様を抱き上げて賛美と預言をしていた時に、ハンナというやもめの老婆がやってきました。自分の人生を神に捧げることに徹し、神殿にとどまって断食したり祈りを捧げて昼夜を問わず神に仕えてきました。聖書に「預言者」と言われるからには聖霊の力を受けていたわけですが、やはりイエス様のことがわかりました。それで、周りにいた「エルサレムの救い(贖いλυτρωσις Ιεροθσαλημ)を待ち望んでいる人たち」に、この幼子がその救いの実現であると語り始めたのです。

 

ここで、シメオンとハンナの賛美や預言をみて一つ気になることがあります。それは、二人ともイエス様が全人類の救世主であるとわかっていたのに、彼らの言葉づかいや、この出来事を記したルカの書き方を見ると、「イスラエルの慰め」とか「エルサレムの救い(贖い)」とか、どうもユダヤ民族という特定民族の救い主であるような言い方、書き方をしています。「イスラエルの慰め」というのは、イザヤ書40章1節や49章13節にある預言、「エルサレムの救い」というのは52章9節にある預言がもとにあります。イエス様の誕生はこれらの預言の実現と理解されたのです。

 

イザヤ書の40章から55章までのいわゆる「第二イザヤ」の部分は一見すると、ユダヤ民族がバビロン捕囚から解放されて祖国に帰還できることを預言しているように見える個所です。実際にこの帰還は歴史的に起こりまして、エルサレムの町と神殿は再建されました。ところが、帰還と再建の後もユダヤ民族の状況はかつてのダビデ・ソロモン王の時のような勢いはなく、ほとんどの期間は異民族に支配され続けました。神殿を中心とする礼拝も本当に神の御心に適うものになっているかどうか疑う向きも多くありました。それで、イザヤ書40章から55章までの預言は実は祖国帰還後もまだ実現していない、未完の預言だと理解されるようになりました。そうした理解はユダヤ民族の祖国帰還から500年以上たったイエス様の時代でも持たれていたことが、シメオンが「イスラエルの慰め」を、また人々が「エルサレムの救い」を待ち望んでいたことからうかがえます。

 

 このようにユダヤ民族中心のように見える預言の言葉ですが、シメオンの賛美をよく見ると、メシア救世主がユダヤ民族の解放者ではなく、全人類にかかわる救世主であることをちゃんと言っているのがわかります(2章31節と32節)。特に32節の言葉「異邦人を照らす啓示の光」ないし「異邦人に現れる光」は、イザヤ書49章6節の預言が実現したことを意味します。「わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」ユダヤ民族の祖国帰還と復興だけでは不十分だ、足りない、スケールが小さすぎるという内容です。救世主のなすべきことはユダヤ民族のことだけにとどまらず、全世界の諸国民の光となって神の救いを全世界にもたらすことだ、と言うのです。

 

 そういうわけで、ルカや他の福音書の中にユダヤ民族の救いや解放を言うような言葉遣いや表現があっても、それは旧約聖書の預言の言葉遣いや表現法に基づくものであり、それらの預言の内容自体は全人類に及ぶ救いを意味していることを忘れてはなりません。ユダヤ人であるかその他の異邦人であるかに関係なく、救いを受け取る者が真のイスラエルなのであり、永遠の命に与る者が迎え入れられる神の御国が「天上のエルサレム」と呼ばれるのです。

 

3.私たちの真実を明らかにし道しるべとなるイエス様の光

 

イエス様が私たちに現れる光であるというのは、どんな光なのでしょうか?イエス様は光であると聞くと、大方は暗闇のような世の中で私たちが道を誤らないように導いてくれる道しるべのようなイメージがわくでしょう。それはその通りなのですが、イエス様が道しるべの光であるというのはどういうことか正確に理解しないといけません。それは、私たちがイエス様の光に照らされると、私たちの罪が明るみに出されたかのように自分で気づくことになってしまうということです。シメオンが預言したように、光になるイエス様が反対を受けるしるしになるというのは、「多くの人の心にある思いがあらわにされるため」ということがあったからでした。ヨハネ3章でイエス様自身、こう述べています。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」と(19節)。

 

自分の心の中に神の意志に反する事柄が無数にある、例えば妬み、憎しみ、不倫、他人を見下すこと、誰かを悪者に仕立てること、嘘や誇張、偽証や改ざん、そして分け隔てない思いやりが不足していること、さらにはそうした悪いものに縛られていてもそこから脱せられるように神に助けを求めないこと等々、こうしたことが聖書の御言葉を聞く人、読む人は思い知らされます。それは御言葉を通して神の霊、聖霊が働くからです。また御言葉を読んだり聞いたりしていない時に思い知らされることもあります。それは、神が直接働きかて私たちを聖書の御言葉に結び付けようとしているからです。

 

しかしながら、自分には神の意思に反するものがあると示されたら、どんなな思いになるでしょうか?キリスト信仰者でない人には目障りなことに感じられるでしょう。自分は自分の考えで決める、自分が感じること欲することが自分の進む方向を決める、神の意思などにいちいち照らし合わせるなんてしたら自分の好きなことができなくなってしまう、と言うでしょう。

 

キリスト信仰者の場合は、神の意思に反するものを示されたら、ああ、自分は神の御前に立たされたら失格者だと心配になるでしょう。人によっては、何としてでも十戒の掟を守り抜かねばと必死になり神経質になり、結局、心の中までは守り切れていないとわかってとってもがっかりしてしまうでしょう。しかし、ここがまさにイエス様はどんな光かがわかる地点なのです。

 

洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、使徒パウロが何度も教えるように、イエス様を神聖な衣のように頭から被せられているのです。それで、神の目から見たら合格者なのです。もちろん、衣の下の肉体の中にはまだ神の意思に反する罪があります。しかし、それにもかかわらず神はイエス様の犠牲の死で罪の償いは完了した、それを受け取った者は償いを完了した者と見なして下さるのです。信仰者の側では償いのために何もしていないのに(そもそもそんなことは不可能です)、イエス様が果たしたことと、それを受け取ったことで神は義として下さるのです。つまり、私たちは神に先を越されてしまったのです。それなので、あと私たちがすることと言えば、神にしてもらった自分に自分を従わせていくだけなのです。

 

そうすると、必ずギャップに気づく時が来ます。というのは、外側は神の義を着せてもらっているけど、その下にはまだ罪が残っているからです。ギャップが明らかになる度に、罪の告白をして赦しの宣言をしてもらいます。その時、ゴルゴタの十字架で打ち立てられた罪の赦しは微動だにせずあることを確信して安心します。この安心と確信をもって、また神にしてもらって自分に自分を従わせる道に戻ります。キリスト信仰者はこれを繰り返していきます。繰り返せば繰り返すほど、内にある罪は圧し潰されて行きます。この繰り返しの先にあるのが、復活の日の目覚めと神の国への迎え入れです。イエス様が道しるべの光というのは、まさにそこに向かって進めるようにする光ということです。このことをイエス様自身がヨハネ8章12節で言っています。「私は世の光である。私に従う者は暗闇を歩くことはない。その者は永遠の命に導く光を持つことになる。」(少し解説的に訳しました。)

 

このようにイエス様という光は私たちの真実を明らかにするという機能と明らかにされた私たちがどこに進むべきかを示す道しるべになるという機能の二つの機能を同時に兼ね備えた光です。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちは洗礼を受けることでこの光を得ました。そして、イエス様を救い主と信じる信仰に生きることでこの光を携えて進んで行くのです。今年は今日で終わりますが、新しい年もイエス様の光を携えて進んで行きましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

2023年12月28日木曜日

クリスマスの祝い方 (吉村博明)

  

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

降誕祭前夜礼拝説教 2023年12月24日

スオミ・キリスト教会

 

ルカによる福音書2章1-20節

 

説教題 「クリスマスの祝い方」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

1.

 

 今年もクリスマス・イブの日となりました。クリスマスはお祝いのシーズンということで、毎年あちこちにクリスマスツリーが飾られ、イルミネーションが輝き、デパートやお店ではクリスマスプレゼント用の品物が山のように並び、レストランではクリスマスディナーが振る舞われ、あちこちにクリスマスソングが響きます。

 

 そうしたお祭り、お祝いの雰囲気に今年は違和感を覚える人もいます。というのは、ウクライナの戦争が続いている上に、今年は10月からのイスラエルとガザの戦争が連日ニュースで伝えられ毎日のように悲劇的な映像を目にします。さらに、こうした大きなニュースになる国々の陰で世界のあちこちで紛争や内乱があります。世界中で戦火に巻き込まれて苦しんでいる人が大勢いるのに、お祝いする気になんかなれないというのは、もっともなことと思います。

 

 そもそもクリスマスは何をお祝いする日なのか?イエス・キリストというキリスト教の大元になる人の誕生日ということは多くの人が知っています。ただ、自分はキリスト教徒じゃないから、イエス・キリストの誕生日は関係ないというのが大半かと思います。しかし、だからと言ってお祝いをしないかと言うと、意外とそうではありません。きっと多くの人たちは新年の前に過ぎ去る一年を労うようなお祝いみたいのがあってもいいじゃないかということではないかと思います。それでか、クリスマスというキリストに関係する言葉を避けて、この季節をホリデ―シーズンと言ったり、挨拶も季節の挨拶シーズンズ・グリーティングスなどと言い換えたりします。それで、華やかに豪華に年末のお祝いをするのですが、今のように世界の悲惨な状況がすぐ目の前に飛び込んでくるようになると、お祭り気分になれないという気持ちになると思います。

 

 キリスト信仰者は、もちろんイエス・キリストを前面に出してクリスマスをお祝いするのですが、信仰者でない人たちから見たら、今のような世界情勢の中でどうしてお祝いする気分になれるのかと驚かれるかもしれません。特に、先ほど読んだ聖書の個所の次の2つのことがこの疑問を強くします。それは、天使が羊飼いたちに言った言葉、「救い主がお生まれになった」と、もう一つ、大勢の天使たちが賛美して言った「地には平和、御心に適う人にあれ」という言葉です。「地には平和、御心に適う人にあれ」というのは、ギリシャ語の原文が詩的な文章なので正確な意味がつかめにくいです。一つには、「地上では神の御心に適う人に平和がありますように」という希望を表明していると捉えられます。もう一つは、、「地上では神の御心に適う人に平和があるんだ」と、そういう人たちに平和があるという常態を述べているとも捉えられます。

 

 しかしながら、希望にしても常態にしても、今の世界情勢の現実を見ると、そんなのは常態からほど遠いし、そんな希望も打ち砕かれてしまう状況があるではないかと反論されると思います。それに、「神の御心に適う人たちに平和がある」などと言ったら、戦争のさなかにいる人たちは神の御心に適わないのか、逆に戦争のないところにいる人たちは神の御心に適うのか、となってしまいます。また、「救い主」が生まれたと言っても、悲惨な状況から救われない人たちが沢山いるではないか、救いなど全然ないではないかと反発を受けたりします。

 

 そのような反発は、「救い主」や「平和」をただ言葉のイメージだけで考えると出てきやすいと思います。そこで、今少し立ち止まって、聖書が伝える「救い主」とは何か、「平和」とは何かを見てみようと思います。それがわかると、今のこの混乱と悲惨に満ちた時代の中にいても、イエス・キリストの誕生を素直にお祝いできるようになります。これからそのことを見ていきます。

 

2.

 

 「神の御心に適う人に平和がある」の「平和」とは何か?戦争がない平和でしょうか?もちろん、それも含まれますが、キリスト信仰で一番大事な「平和」は神と人間の間に平和な関係があるということです。神と人間が対立関係にないということです。神と平和な関係があれば、たとえ自分の周りは平和が失われた状況でも、自分と神との平和な関係は失われていない、周りが平和か混乱かに関係なく自分には失われない平和がある、そういう内なる平和です。使徒パウロは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者にはこの平和があると教えます(ローマ5章)。そして、神と平和な関係にある信仰者は周囲の人たちと平和な関係を築くのが当然になると教えました(12章)。周囲の人たちと平和な関係を築けるかどうかがキリスト信仰者のあなたの肩にかかっているのであれば、迷わずにそうしなさいと。相手が応じればそれでよし。相手が応じない場合でも、相手みたいに非友好的な態度はとらないということです。神との平和な関係が築けたら、そうするのが当然だと言うのです。

 

 次に「救い主」についてみてみましょう。普通、「救い」とか「救われる」と言う時、それは何からの「救い」、「救われ」でしょうか?普通、病気が治った時とか、何か危険な状態から脱することが出来た時、救われたと言います。もちろん、そういうことも含みますが、キリスト信仰の「救い」、「救われる」で一番大事なことは次のことです。つまり、神との平和な関係を壊していた原因が除去されて、神との平和な関係を築けることが「救い」です。それでは、神との平和な関係を壊していたものは何か?それは、人間誰しもが神の意思に反することが備わっているということです。その神の意思に反することを聖書は罪と言います。罪という言葉を聞くと、普通は法律で罰せられるような犯罪行為を考えます。もちろん、それも含みますが、キリスト信仰で「罪」と言ったら、もっと広く、行為には出なくても心の中で持ってしまっても罪になります。それで法律で罰せられないものも神の目から見たら罪になります。まさにこのために神と人間の平和な関係が失われていたのでした。これを放置しておくと、人間はこの世を生きる時、神に背を向けたまま、神との結び付きを持たないで生きることになってしまいます。そして、この世を去る時も、神と結び付きがないまま、全くの一人で未知の世界に飛び立たなければならなくなってしまいます。

 

 創造主の神は、この罪の問題を解決して人間が自分と平和な関係を築けるようにしようと、それでひとり子のイエス様をこの世に贈ったのでした。この神のひとり子は、人間のすべての罪を全部自分で引き受けて、ゴルゴタの十字架の上に運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けて死なれました。神聖な神のひとり子が人間の罪を人間に代わって神に対して償って下さったのです。さらに神はイエス様を想像を絶する力で死から復活させて、死を超える命があることをこの世に知らしめ、人間も将来の復活の日に復活に与れる可能性を開いて下さいました。あとは人間の方が、これらのことは本当に起こった、それでイエス様は救い主であると信じて洗礼を受けると、ひとり子が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は罪を償われたので神から罪を赦された者と見なされ、神との間に平和な関係が打ち立てられます。神と平和な関係があれば、この世の人生で逆境だろうが、順境だろうが、何も変わらない神との結び付きを持てて生きることになります。そして、この世を去る時、神との結び付きを持って去り、復活の日に眠りから目覚めさせられて、朽ち果てた体に換わる朽ちない復活の体を着せられて神の御許に永遠に迎え入れられます。このような、今のこの世と次に来る世にまたがって神との結び付きを持って生きられることが、キリスト信仰の救いです。

 

3.

 

 このようにキリスト信仰で「平和」と言ったら、一番大事なものは「神との平和」であり、「救い」と言ったら、一番大事なものは「罪の赦しの救い」です。これらは全部、父なるみ神が御子イエス様を通して私たち人間に準備して下さいました。神は、それを受け取りなさいと言って、私たちに差し出して下さっているのです。これを受け取らないという手はありません。ただ単に受け取るだけで、神との平和と罪の赦しのお恵みを自分のものにすることが出来るのです。どうやって受け取るかと言うと、洗礼を受けることで受け取れます。そして、イエス様を救い主と信じる信仰に留まることで、受け取ったものを携えて歩むことができます。

 

 なので、クリスマスでイエス・キリストの誕生を神に感謝してお祝いするというのは、単に一人の赤ちゃんが不運な境遇の中で無事に生まれて、ああ、良かった、おめでとう、というお祝いではないのです。このひとり子のおかげで、私たちがこの混乱と悲惨が渦巻く世の中にあっても、神との結び付きを持って歩めるようになった、それで、そのひとり子を贈って下さった神に感謝してお祝いをするのです。だからキリスト信仰者は、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけの中で眠っている赤ちゃんを心の目で見る時、同時にその先にあるイエス様の十字架の死と死からの復活をも心の目で見るのです。

 

 それは、あたかも、長くて暗いトンネルの向こうに光があるのを見るのと同じです。真っ暗闇の中にいる人は、自分がどこにいるのか、どこに向かっていいのかわかりません。キリスト信仰者には、自分はどこにいて、どこに向かっていいのかがわかる光があるのです。罪の赦しの救いと神との平和の関係をもたらしてくれたイエス様がその光です。イザヤ書9章1節のみ言葉の通りです。「闇の中を歩む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」 ベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけの中で安らかに眠る赤ちゃんにこの光を見ることが、キリスト信仰者にとってクリスマスのお祝いの一番なくてはならないものです。それがなかったら何もお祝い出来ないというくらい大事なものです。そのお祝いでは、この光を与えて下さった神に感謝します。

 

 キリスト信仰者が光を見、神に感謝するのは、周囲が平和な時か平和でない時かは関係ありません。平和で品物に不自由しない時、お祝いの雰囲気を高めようと品物や食べ物を用いますが、それは光に置き換えることは出来ないと信仰者はわかっています。逆に平和がなくて品物や食べ物がない時でも、光はそれと無関係に輝いていることをキリスト信仰者は心の目で見ています。それはさながら、暗闇の方が光がよく見えることと同じです。逆に周りが明るいと光は見えなくなってしまいます。それは、平和の時に品物や食べ物に囲まれてしまってイエス様の光が見えなくなってしまうことと同じです。それだからこそ、この日、あのベツレヘムの夜、電気も街頭もイルミネーションもない、ただ夜空の星と月だけの天然の照明の夜、馬小屋の中は油か蝋燭の光が頼りだったあの夜、ヨセフとマリアと羊飼いと集まってきた人たちに囲まれて安らかに眠る赤ちゃんを心の目で見ることは本当の光をみることになるのです。

 

 ヨハネ福音書1章14節のみ言葉は、神の言葉ロゴスであるひとり子が人間として生まれて神の栄光を現していたことを述べています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2023年12月18日月曜日

イエス・キリストという光を持つ者は闇の世の中で輝く (吉村博明)

 説教者 吉村博明牧師(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 

 

2023年12月17日(待降節第三主日)スオミ教会

 

イザヤ書61章1-4、8-11節

テサロニケの信徒への第一の手紙5章16-24節

ヨハネによる福音書1章6-8、19-28節

 

説教題 「イエス・キリストという光を持つ者は闇の世の中で輝く」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.  洗礼者ヨハネとその洗礼について

 

本日の福音書の日課は先週に続いて洗礼者ヨハネに焦点が当てられています。ヨハネは来るべきメシア救世主を人々がお迎えするように準備をした人です。少し歴史的背景を述べますと、彼はエルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、ルカ1章によればイエス様より半年位早くこの世に誕生しました。神の霊によって強められて成長し、ある時からユダヤの荒れ野に身を移して神が定めた日までそこにとどまっていました。らくだの毛の衣を着て腰には皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。神の定めた日がきて神の言葉がヨハネに降り、荒れ野からヨルダン川沿いの地方に出て行って「悔い改めよ、神の国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の群衆がユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネに罪を告白し洗礼を受けました。これがいつ頃のことかと言うと、ローマ帝国の皇帝ティベリウスの治世15年の時でした。ティベリウスはイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で西暦14年に即位しました。治世15年というのは即位の年を含めて数えるのかどうか不明なのですが、どっちにしても洗礼者ヨハネの活動開始は西暦28年か29年ということになります。

 

 ヨハネは活動開始してからまもなく、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの不倫問題を諫めたことが原因で投獄され、無残な殺され方をします。

 

 さて、ヨハネのもとに大勢の群衆がやって来て罪を告白して洗礼を受けました。当時の人々は旧約聖書に預言されている「主の日」と呼ばれる日がついに来たと考えたのでした。「主の日」とは旧約聖書の預言書によく出てくるテーマで、神がこの世に対して怒りを示す日、想像を絶する災いや天変地異が起こって神の意思に反する者たちが滅ぼされる日です。しかし、その後に全てが一新されて天と地も新しく創造されるので、「主の日」は今の世が新しい世に変わる通過点とも言えます。洗礼者ヨハネの宣べ伝えを聞いた人々はいよいよその日が来たと思い、神の怒りや天変地異から助かるために、罪から清められようと罪を告白して洗礼を受けたのでした。

 

 当時の人たちがそういう終末論的な恐れを抱いていたことは、本日の福音書の個所からも窺えます。当時のユダヤ教社会の宗教指導者たちがヨハネに、あなたは預言者エリアかと尋ねます。これは、旧約聖書のマラキ書3章の預言に関係します。エリアはイエス様の時代からさらに800年位前に活動した預言者で、列王記下2章に記されているように、生きたまま天に上げられました。マラキ書の預言に基づき神は来るべき日にエリアを御自分のもとから地上に送られると信じられていました。しかし、洗礼者ヨハネは、自分はエリアではない、ましてはメシア救世主でもない、自分はイザヤ書40章に預言されている、「主の道を整えよ」と叫ぶ荒れ野の声である、と自分について証します。つまり、神の裁きの日やこの世の終わりの日は実はまだ先のことで、その前に、メシア救世主が来なければならない。自分はその方のために道を整えるために来た。そうヨハネは自分の役割について証しました。

 

 さて、ヨハネはヨルダン川の水で洗礼を授けました。それは清めのジェスチャーのようなもので、罪の赦しそのものが起こる洗礼ではありませんでした。先週のマルコ1章の中でヨハネ自身認めたように、罪の赦しが起こるためには聖霊が伴わなければならなかったのです。聖霊を伴う洗礼を授けるのは自分の後に来るメシア救い主なのだと。ヨハネは人々に罪の自覚を呼び覚ましてそれを告白させ、すぐ後に来るメシアの罪の赦しの洗礼に備えさせたのです。その意味でヨハネの洗礼は、人々を罪の自覚の状態にとどめて後に来る罪の赦しに誘導するものであったと言えます。罪を告白して水をかけられてこれで清められたぞ!というのではなかったのです。罪を告白したお前は罪の自覚がある、その自覚を聖霊が伴う洗礼の日までしっかり持ちなさい。その日にお前は本当に罪を赦され、「主の日」に何も心配することはなくなるのだ。このようにヨハネの洗礼は罪を洗い清める洗礼ではなく、人々を罪の自覚に留めて聖霊を伴うメシアの洗礼を今か今かと待つ心にするものでした。これが、ヨハネが人々に主の道を整えさせたということです。それで、聖霊を伴う洗礼を授けるメシア救世主の前では自分は靴紐を解く値打ちもないとへりくだったのでした。

 

2.聖霊を伴うイエス様の洗礼

 

 それでは、人々はどのようにして聖霊を伴うメシアの洗礼を受けるようになったのでしょうか?それは、次のようなことが起こって始まりました。イエス様がゴルゴタの丘で十字架にかけられて死なれ、その3日後に神の力で復活させられるという出来事が起きました。イエス様の復活を目撃した弟子たちは、なぜメシアが十字架で死ななければならなかったのかがわかりました。それは、神のひとり子が人間の罪の償いを人間に代わって果たして下さったということでした。実はそのことは既に旧約聖書に預言されていたのですが、少し抽象的な言い方をされていました。それが、イエス様の十字架と復活という歴史的な出来事として起こったのでした。

 

 神がひとり子を用いて十字架の死と死からの復活の出来事を起こしたのは、人間が堕罪の時以来失ってしまっていた神との結びつきを取り戻せるようにするためでした。人間が、これらの出来事は自分のために神がなさせたものだったのだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。これがメシア救い主イエス様の洗礼です。それを受けた人は罪を償われたので、神から罪を赦されたと見てもらえるようになります。神から罪を赦されたので神との結びつきを持って世を生きていくことになります。目指すところはただ一つ、永遠の命と復活の体が待っている天の御国です。キリスト信仰者はそこに至る道に置かれてそこに向かって歩み出します。順境の時にも逆境の時にも変わらずにある神との結びつきを持ってただひたすら進んでいきます。

 

 ところが、罪を赦されたと見てもらえるとは言っても、信仰者から罪の自覚はなくなりません。逆に、神がそれだけ身近な存在になれば、神の意思もそれだけ身近になって、自分には神の意思の沿わないことが沢山ある、罪があるということに一層気づくようになります。もちろん、行為として盗みも殺人も不倫も偽証や改ざんをしていなくても、心の中でそのようなことを思い描いたりします。その時、神は失望して見捨ててしまうかと言うと、そうならないのです。どうしてならないかと言うと、洗礼の時に注がれた聖霊が信仰者の心の目をいつもゴルゴタの十字架に向けさせて、罪の赦しが揺るがずにあることを示してくれるからです。神のひとり子のとても重い犠牲の上に今の自分があるとわかると、もう軽々しいことはできないという気持ちになります。また今自分が生きている新しい命は揺るがない十字架を土台にしているので、自分の過去の嫌なことが浮上して新しい命を台無しにしようとしても傷一つつけられません。傷は全部イエス様が代わりに負って下さったのです。それがわかると心は安心し平安が得られます。

 

 罪の自覚の呼び覚ましとそれに続く罪の赦しが一体になっているというのは、聖霊が働いていることの現われです。もし聖霊の働きがなければ罪の自覚は生まれません。罪の自覚がないところには罪の赦しもありません。また罪の自覚が生まれても、赦しがなかったら絶望しかありません。そこには聖霊がおられません。罪の自覚と赦しが一体になっているのが聖霊の働きだからです。なぜ聖霊はそのような働きをするのかというと、これを繰り返すことで信仰者と神の結びつきが一層強まっていくからです。人間が神と結びつきを持てて、それを強めるようにすることこそ聖霊が目的とすることだからです。聖霊は、まさにイエス様が設定した洗礼を通して与えられます。

 

 自分を聖霊の働きに委ねていれば、神との結びつきは一層強まり、私たちの内に宿る罪は行き場を失い圧し潰されていきます。罪の本質は、人間と神の間の結びつきを失わせて、人間を永遠の滅びに陥れることにあります。それで悪魔は罪を用います。それは、悪魔の目的が、人間と神の間の結びつきをなくして人間を永遠の滅びに陥れることにあるからです。しかし、キリスト信仰者は、罪にはもうこの結びつきを失わせる力がないとわかっています。なぜなら神のひとり子が死なねばならないくらいに神罰を私たちのために十字架で受けて下さったからです。十分過ぎるほどの償いがなされたのです。しかも、イエス様は死から復活したので死を足蹴にしています。それでイエス様に罪を償ってもらった人を罪は支配下に置けないのです。それがわかったキリスト信仰者は罪に向かって、こう言ってやればいいのです。「罪よ、お前は死んだも同然さ」と。

 

 人間と神との結びつきを弱めるものとして、罪の他に、私たちが遭遇する苦難や困難があります。そのような時、人は、神に見捨てられた、とか、神は怒っている、などと思いがちです。それでイエス様の贖いの業を忘れて、自分の力で神のご愛顧を引き出そうと何か無関係なことをやってしまったり、あるいは、見捨てられたからもう神と関りは持たないという考えになります。しかし、神のひとり子が死なねばならないくらいに本当は私たちが受ける神罰を代わりに受けたという、それくらい神が私たちのためを思って下さったのなら、見捨てたとか怒っているなどと考えるのは間違いです。じゃ、だったら、なぜ苦難や困難があるのか?どうして神は苦難や困難が起きないようにして下さらなかったのか?難しい問いです。しかし、苦難や困難がもとで私たちが神から離れてしまったら、それは悪魔や罪が手を叩いて喜びます。それなので、今こそ苦難や困難を、神との結びつきを失わせるものではなくて、結びつきを強めるものに変えないといけません。でも、どうやって苦難や困難を神との結びつきを強めるものに変えることができるでしょうか?これも難しい問題です。ただ、一つはっきりしていることがあります。それは、神との結びつきがあれば人生は順風満帆だという考えは捨てることです。なぜなら、神との結びつきは順境の時も逆境の時も同じくらいにある、外的な状況や状態に全然左右されないである、というのがキリスト信仰の真理だからです。ゴルゴタの十字架と空っぽの墓に心の目を向ければ、本当にその通りだとわかります。

 

3.イエス・キリストの光を持つ者は闇の世の中で輝く

 

 このように、キリスト信仰者の生き方は罪の自覚と赦しの繰り返しをして神との結びつきを強めていく生き方です。しかしながら、この世には神との結びつきを弱めたり失わせることが沢山あります。それなので、神との結びつきを失わせようとする力が働くこの世は闇と言うのは間違いではありません。そうすると、神との結びつきを持たせよう強めようとする力は光となります。この闇と光について、本日の日課の前半部分の6~8節が述べています。そこで、福音書の記者は洗礼者ヨハネのことを、光を証しするために遣わされたと述べます。人々はヨハネ自身が光ではないかと思ったが、そうではなくヨハネは人々の前で、もうすぐその光が現れると表明したのでした。

 

 洗礼者ヨハネが証した光とは何か?それは、まさにイエス様のことでした。イエス様が光であることが1~5節の中で述べられています。イエス様が光であるとは、それはどんな光なのでしょうか?

 

 まず、イエス様が乙女マリアから生まれて人間の体を持って誕生する前のことが述べられます。この世に誕生する前の神のひとり子には人間の名前はありません。「イエス」という名は誕生した後でつけられた名前です。この世に誕生する前の神のひとり子のことを福音書の記者のヨハネはギリシャ語で「言葉」を意味するロゴスと呼びました。神のひとり子が神の言葉として天地創造の場に居合わせて創造の働きを担ったことが述べられます(2~3節)。その後で、この神の言葉なる者には命があると言います(4節)。ヨハネ福音書で「命」と言ったら、死で終わってしまう限りある命ではなく死を超える永遠の命を意味します。神の言葉なる者には永遠の命が宿っているということです。そして、永遠の命は「人間たちの光」であると言います(4節)。新共同訳では「人間を照らす光」と訳していますが、ギリシャ語原文を素直に訳すと「人間たちの光」です。その「人間たちの光」が闇の中で輝いていると言います(5節)。闇とは先ほども申しましたように、神と人間の結びつきを失わせようとする力が働くこの世です。その中で輝く光とは、その結びつきを人間に持たせて強めようとする力のことです。まさにイエス様のことです。それで「人間たちの光」とは、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにする光、この世を去った後は永遠の命が待っている神の国に迎え入れられるようにする光、まさに「人間のための光」でイエス様そのものです。

 

 5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とあります。実はこれは解釈が分かれるところです。というのは、原文のギリシャ語の動詞カタランバノーがいろんな意味を持つからです。日本語(新共同訳)と英語(NIV)の訳は「暗闇は光を理解しなかった」ですが、フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語の訳では「暗闇は光を支配下に置けなかった」です。さて、どっちを取りましょうか?悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持っているか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解して、日本語や英語のように訳してもいいかもしれません。しかし、悪魔は罪を最大限活用して人間から神との結びつきを失わせようとするが、それはイエス様の十字架と復活によって完全に破綻してしまった、なので、やはり暗闇は光を支配下に置けなかったと理解するのがいいのではないかと思います。

 

 キリスト信仰者とは、まさにイエス・キリストという光を持つ者です。なぜなら、神との結びつきを失わせようとする力が働く闇の世の中で、洗礼を受けて神との結びつきを持つようになったからです。キリスト信仰者はまた、闇の世の中で、イエス様を救い主と信じる信仰を携えて、たえず十字架のもとに立ち返って神との結びつきを強めていきます。イエス・キリストの光を持つ者はどのように輝くか、そのことが本日の旧約の日課イザヤ書の個所の中にも言われています。

 

 3節で、悲しみにくれる人たちに慰めが与えられ手が差し伸べられると言われ、また嘆きの時に頭からかける灰に替えて頭飾りが被せられる、嘆きに替えて喜びの香油が注がれる、恐れの霊に替えて栄誉の外套を着せられると言われます。闇の世の中で灰を被った状態、嘆きと恐れの状態にあったのが、神から頭飾りを被せられ香油を注がれ栄誉の外套を着せられるのです。そのようにイエス様の光を持つ者は、闇の世にあって義の木、神の植木と呼ばれ、神の栄光を現す者になると言われます。さらに4節では、光を持つ者たちが廃墟を再建することが言われます。闇の世の中で神との結びつきを失った人たちが結びつきを持てるようにと働く姿があります。

 

 10節から後は、イエス・キリストの光を持つ者の喜びが述べられます。ここで注意しなければならないことがあります。それは、日本語訳の10節で「恵みの晴れ着」と言っているところと、11節で「恵みと栄誉」と言っているところです。ヘブライ語原文ではツェダーカーなので、「恵み」ではなく「義」です。信仰義認の「義」、神から義と認められる、神の目に適う、神に相応しい状態であることを意味する言葉です。「恵み」は正しい訳ではありません。フィンランド語の聖書も「義」と訳しています。「義の晴れ着」、「義と栄誉」にします。そうすると、イザヤ書のこの個所と新約聖書の繋がりが見えてきます。

 

 10節で言われます。父なるみ神は私に「救いの衣服」を着せて下さったと、「義の礼服」で覆って下さったと。それは、あたかも、花婿が頭飾りをつけて儀式に臨むようであると、また花嫁が装飾品で飾られるようであると。また、大地が木々を生えさせるように、また園が種に芽を出させるように、父なるみ神は、その義と栄光を諸国民の前に生え出でさせると言われます。どれを見ても、義は人間が自分の力で獲得するものではなく、神から授与されるもの、神の力で現れるものです。まさにイエス様の十字架の業と復活の業です。使徒パウロは、キリスト信仰者は洗礼を受けた時に神の義そのものであるイエス様を衣のように頭から被せられたのだと言います(ローマ13章14節、ガラテア3章27節)。このことをイザヤ書はイエス様の時代の何百年も前に先取りしたのでした。さすが預言書です。一人一人の洗礼と信仰は、大きな世界と大勢の人々の中では小さな粒のような出来事かもしれませんが、神の目から見たら、闇の世に大打撃を与え、それを覆すような大きな出来事なのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン